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やっちん先生 14
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今日は終業式で明日から夏休みだ。三年生にとってこの休みは非常に貴重な時間となり、人生の進行方向に影響を与える。性の儀式をこの夏に体験する子も珍しくない、男子も女子も、それを自慢されると出遅れたと思い込み、焦りを感じて無茶なアタックを試みるが、二学期が始り、焼け付く太陽に惑わされた開放感も秋には冷めて焦りは空振りとなる。そして翌年の夏までお預けとなって悶々とした一年を過ごすのである。俺も徹平に焦りを感じた憶えがあるが思い起こせば生涯地元から離れられない環境にある俺にとっては結果オーライだったような気もする。
クラブ活動で残る一部の子供達以外はすべて下校した。にょっきり手足の一年坊主もケツのポケットに櫛を差し込んで、垂れた前髪をかぶりを振って整えるという見ていて鳥肌が立つような小技を身につけたガキもいる。つい最近まで永遠の親友を誓っていたどろんこ遊びの仲間はもう周りにはいない。しかし校門を出て坂を下る生徒達全員が楽しそうにはしゃいでいる。やはり勉強するより遊んでいた方が大人も子供も楽しいに決まっている。
「やっちん先生、すいませんけどお先に失礼します」」
「吉川先生夏休みのご予定は?」
ノースリーブからはみ出した腕は白く透き通っていて、上等なハムに見えてしまい齧り付きたくなるほど美味そうだ。
「特にありませんけど避暑地に行って読書でもしたいわ、誰か誘ってくれないかな、やっちん先生は?」
「俺っすか?俺はうちでごろごろしてるでしょうねえ、秋に台湾へ行きますから金残しておかないと、ビールでもかっ喰らって北京語の通信教育でもやってますよ。予定ができたら遠慮なく言ってください。俺代わりますから」
「ありがとうございます。でも予定表通りに出勤しますからやっちん先生も安心してお休みください。では」
吉川先生の釣鐘スカートとフリルのついた日傘はどちらもコスモス柄だ。横に広がって歩く学生達の隙間を縫うように巨体を進めていく。笑顔の行列が坂ノ下から校門まで続いている。こんな楽しい終業式に地獄の苦しみを課せられた少女がいる。その少女は今日も欠席している。雄二から相談を受けた翌日からもう五日間無断欠席をしている。担任の田中先生が何度も自宅に電話しているようだが本人は出ず、母親がたどたどしい日本語で「スイマセン、アシタマッテ」と繰り返したそうだ。明日というのは今日で、今晩彼女宅で、処刑判決を十五歳の少女に言い渡すのだ。
田中先生が夏休み中も連絡を取り続け、納得のいく応答がなければ担任の責任として、家庭訪問せざるを得ないだろうと言っていた。エバがさらし者になる前に終わらせなければならない。歪んでいるかもしれないが俺が判断した正義だ。グラウンドでは野球部とサッカー部がうまく使い分けして練習している。どちらも秋の大会に向けて炎天下に頑張っている。雄二と孝は三塁側で投球練習をしている。バッテリーを組むのもこの夏で最後となる。孝は練習にほとんど出なくなり、進学に向けて学校でも家庭でも机と対面しているらしい。この教室は中川先生が担任の三年二組で、放課後は野球部の更衣室に使用されている。中川先生が手を振った、時計を指してもうすぐ終わるからとジェスチャーで俺に知らせた。彼が愉しみにしている斧投げをこれからやるので俺は待っているのだ。しかし五時には終了しなければならない。
ジョセフ神父と大船で六時に待ち合わせしている。サラマリアさんとエバに会う前にもう一度二人の意見に変わりはないか確認しておくためだ。もし少しでも考えにぶれが出たなら、事前に調整して、二人の考えを一致させて、迷いが無いと示す必要があるからだとジョセフ神父の配慮だ。さすが神の使いだ、俺とは気配りが違う。
野球部員が全員バックネット前に集合した。中川監督の訓示に部員達が神妙な顔して耳を傾けている。監督の一語一句にはっきりと「はい」とか「おい」とか返事をしている。家庭でもあれくらいの返事をして、言うことを聞いてくれたら親達はさぞ育て易いのに、うまくいかないもんだ。監督が輪から抜けて、キャプテンの孝を中心に円陣を組み、気合を入れて解散となった。一年生だけが残りグラウンドの整備を始めた。
「やっちん先生、お待たせ、食事しましたか?」
「いや、終わってからにしますよ、俺先に行ってますから、生徒に見つからないように来てくださいよ、そうですね、裏門から出て、テニスコートの上を通り過ぎると大きな桜の木があります、フェンスと桜の木に隙間がありますからそっから山に入って下さい。俺が下草を刈って歩き易くしてありますから」
「毛虫いませんかね?」
「いますよ、それより靴で来て下さいよ、蝮がいますから」
俺は階段下の道具置き場件仮眠所の鍵を開け、斧と鎌を担いで校庭を横切った。
「やっちん先生、お願いします」
サッカーボールが俺の前に転がってきた。俺はかっこよくゴールまで蹴ってやろうと思い、助走をつけておもいきり爪先で蹴っ飛ばしたが大きくカーブして土手を転げ落ちた。
「ダーッシュ」
俺のごまかしに二枚目のサッカー部員は肩を落として言った
「先生勘弁してくださいよ、暑いんすから」
藪を抜けて中川先生がやって来た。
「すごいですねえ、周りが住宅地とは思えませんねえ、まるでジャングル、これじゃあ蝮がいても不思議はないですね。でも本当に大きな山ですねえ、学校の敷地とはびっくりですよ」
さっきまで野球部の厳しい監督だったとは想像もつかないほど中川先生は童心に返っていた。
「もっと下草をまめに刈ったり、木の小枝を落としたりすればいい散歩道になりますよ」
「学校で予算割り振って着工すればいいのになあ、生徒達の課外授業なんかにも使えるし、近所の憩いの場にもなるだろうにねえ」
「そうなったらこういう遊びはできませんよ、俺が毛虫や蝮がいるから山に入らないように指導していますからねえ、へっへ、それに雉や狸なんかもいなくなっちゃいますしね、愉しみなくなる、それより中川先生始めますか、俺も五時頃には帰りたいんですよ」
「あ、あれですか的は?」
「どうです、いい感じでしょう、けやきの根っこです。こことあの赤松の前からも狙えます。あの面は俺が去年細工したものです、いいですか見本見せますから」
俺は斧の皮カバーを外し、十二メートル離れたバームクーヘンのような的に投擲した。斧は三回転して切り口に喰い込んだ。根に喰いこむ感触がフォロースローした腕に伝わってくる。中川先生が的に走りより眼を輝かせて喰い込んだ斧先を直視している。
「先生抜いてきてください」
彼は簡単に抜けると思ったのか小手先で引っ張ったが諦めて、根っこに足をかけ両手でぐらぐら押し引きしながら抜いた。
「もう一度俺がやりますから、高校野球のエースだった人に投げ方を指導するのも変だけど、やはりオーバースローがいいですね」
ブルッブルッブルッと斧の歯が空気を切る重い音をたてて、やはり三回転して喰い込んだ。今度はど真ん中に完璧な角度で的を射た。歯の上部の鋭いトライアングルの先端からぶち刺さっている。斧の柄が小刻みに振るえている。「どうですか、これ完璧ですよ」
中川先生はフリスビー犬みたいに俺が投擲するたびに走りより斧を持ち帰ってきた。
「さあ先生どうぞ、的に神経集中するのはいいんですけど振りかぶったとき頭にも気をつけてください、特に耳なんか、柄の握りが緩んで投げる瞬間に回転してしまって刃先が擦るなんてこともありますからね、これはボールとは違いますから、触っただけでけっこういい傷になってしまいますよ、はくがついていいか、生徒達おとなしくなったりして」
中川少年は俺のジョークになんの反応もみせず、投擲を繰り返した。さすがエースだけのことはあって的には八割の確立で命中させた。しかし的に当たるのは柄であったり、頭の部分であったりと刺さるまでには至らなかった。
「中川先生それで最後にしましょう。最初から根っこに投げ刺すのは無理ですよ、俺なんか二年かかっているんですから」
彼は納得いかないようで、しきりに首を傾げていた。
「うまく刺さらないないなあ、やっちん先生みたいにグサッといかないもんですかねえ。悔しいなあ」
「中川先生どうですか、八月八日の登校日にまたやりましょうよ、どうですか?」
「はい、是非お願いします、ところでやっちん先生その鎌は?」
「これですか、中川先生には目の毒だなあ、まあいいでしょう、俺が一回だけ投擲してみましょう、これはだめですからね、俺の秘密兵器なんすから、触らせませんよ」
この鎌はうちの曾じいさんが昔、鍛冶屋に特注で作らせたもので、従来の鎌より肉厚で重さも倍はある。きれいな三日月形はブーメランを連想させる。うちの物置で錆び付いていたのを俺が学校の技術室で入念に砥いだのだ。柄は握りやすく細く短く改良した。鎌はオーバースローよりサイドスローの方が投げやすく命中率もいい。俺は両手を広げ、右に二歩移動しながら身体を大きく捻り、スナップを利かせ三日月を投げた。ファファファファファと回転音たてて的にのめり込んだ。こんなカッコつけたオーバーアクションで投げなくても良かったのだが喰い入るように見つめている俄か少年に失礼のないようにしたまでだ。
「や、やっちん先生」
「わかりました、わかりました。八月八日」
「はいっ」
「先生、悪いけど入って来たとっから帰ってもらえますか、別に気兼ねすることないんだけどもし誰かに見つかると先生嘘つけそうもないし」
「はいっ」
俺は藪を鎌でなぎ倒し、校庭の上に出た。スロープになった擁壁の石積みを下った。職員室から視線を感じるが気のせいかもしれない。もう四時だというのに校庭を横切る風は熱風で、素足の薄い靴底からは、蓄えこんだ太陽熱を俺に突き上げてくる。朝礼以外はグラウンドで除け者にされている朝礼台にタオルが置きっ放しになっていて、それが今にも飛びそうなぐらい風が強く吹いている。Eと頭文字が確認出来たが面倒くさくてそのままにした。
モノレールの大船駅回改札口でジョセフ神父と待ち合わせをしていた。五分ほど待っていると正装したジョセフ神父は現れた。神父とチンピラ紛いが肩を並べて歩いているとよく目立つのか、通り過ぎる人達は何事かといった視線を投げかけるが、俺と視線が交差するとみんな目を逸らせた。俺は188センチあるし、ジョセフ神父はさらに俺より高く、肩幅もがっちりしていてその上胸板も分厚い。顔立ちもすっきりしていてハリウッドスターといっても大袈裟じゃない。
擦れ違う人達の視線が、神父と、俺とでは微妙に違うのがわかる。
「やっちん先生、コーヒーにしますか、それとも?」
訪問時間までにはたっぷり一時間あるし、多少アルコールの力を借りた方がいいかもしれないと思った。飲み過ぎは厳禁だが適度であれば言葉も滑らかになって都合がいい。
「俺の知ってるおでん屋があるんですけどそこでいいですか?山田さんちからも近いし」
「おでんいいですねえ、こんな暑い日は何よりのごちそうですよ」
面白いひとだ。しかし相当日本語を学習したのだろう、机上だけではなく、生きた会話を積んでこなければこんな上等なジョークは飛ばせない。
「おでん屋といってもまだおでんはやってないんです。でも気に入ってくれると思いますよ」
バス通りを行くと横須賀線の踏み切りに引っかかった。踏み切りの鐘は鳴り続けるが一向に電車はこない。横に大型のトラックが止まった。焼けたジュラルミンの荷台が顔を照らす。対面で踏み切り待ちをしている腰の九十度に曲がったおじいさんが状態を反らし俺達を見ている。おじいさんは俺と目が合っても怯むことなく見つめ続ける。人生の達人に身形格好では太刀打ちできない。気になるのは踏み切り棒よりおじいさんの頭が少し出ていそうで心配だ。ブアーンと生意気な警笛を響かせて紺色の古めかしい電車が通り過ぎた。対面のじいさんは踏み切りが上がってもすぐには歩き出さず、左右を再度確認してようやく歩き出した。左手に黄色い煙草を一箱握って、踏切を渡るとすぐ線路脇の細い道に姿を消した。線路の向こう側の煙草屋に用足しに出かけたのだろうが、それだけだったらあまりにも危険な散歩であるような気がした。学生の頃よく通ったポケットバーがT字路の角にある。ポケットバーなんて言い方は照れくさい、板張りの小屋である。相変わらずエアコンは設備されていないのだろう、バス通りに面した窓という窓は開けはなれていて排気ガスに混じって、ときおり場所を間違えたやわらかい南風がちびっこハスラーの長髪を揺らしている。
「ジョセフ神父、ここです」
暖簾は掛けられ、客寄せのおまじないである塩盛りもきれいに入り口脇に用意されている。
「こんばんは」
よし乃の姿はみえない。
「まあ入りましょう、用足しにでも行ってるのでしょう女将、ビールでも先にやっちゃいましょう」
足を入れるといつもの席に先輩、空いているときの俺の指定席である右端の突き当たりにあの挑発的な青年が座っている。さぶろーと呼ばれていた青年は俺を見つめてくすくす笑っている。これから山田親子との試練が待ち受けているのに幸先の悪いスタートだ。しかしここで臆して店を出てしまってはそれこそいい笑いものだ。
「さあ神父どうぞ、遠慮しないでください、ここ顔なんすから」
神父が身体を屈めて暖簾を潜り、店に顔を出したとたんに青年の顔色と表情が一変した。ジョセフ神父は先輩と三郎に軽く会釈して俺の隣に腰をおろした。
クラブ活動で残る一部の子供達以外はすべて下校した。にょっきり手足の一年坊主もケツのポケットに櫛を差し込んで、垂れた前髪をかぶりを振って整えるという見ていて鳥肌が立つような小技を身につけたガキもいる。つい最近まで永遠の親友を誓っていたどろんこ遊びの仲間はもう周りにはいない。しかし校門を出て坂を下る生徒達全員が楽しそうにはしゃいでいる。やはり勉強するより遊んでいた方が大人も子供も楽しいに決まっている。
「やっちん先生、すいませんけどお先に失礼します」」
「吉川先生夏休みのご予定は?」
ノースリーブからはみ出した腕は白く透き通っていて、上等なハムに見えてしまい齧り付きたくなるほど美味そうだ。
「特にありませんけど避暑地に行って読書でもしたいわ、誰か誘ってくれないかな、やっちん先生は?」
「俺っすか?俺はうちでごろごろしてるでしょうねえ、秋に台湾へ行きますから金残しておかないと、ビールでもかっ喰らって北京語の通信教育でもやってますよ。予定ができたら遠慮なく言ってください。俺代わりますから」
「ありがとうございます。でも予定表通りに出勤しますからやっちん先生も安心してお休みください。では」
吉川先生の釣鐘スカートとフリルのついた日傘はどちらもコスモス柄だ。横に広がって歩く学生達の隙間を縫うように巨体を進めていく。笑顔の行列が坂ノ下から校門まで続いている。こんな楽しい終業式に地獄の苦しみを課せられた少女がいる。その少女は今日も欠席している。雄二から相談を受けた翌日からもう五日間無断欠席をしている。担任の田中先生が何度も自宅に電話しているようだが本人は出ず、母親がたどたどしい日本語で「スイマセン、アシタマッテ」と繰り返したそうだ。明日というのは今日で、今晩彼女宅で、処刑判決を十五歳の少女に言い渡すのだ。
田中先生が夏休み中も連絡を取り続け、納得のいく応答がなければ担任の責任として、家庭訪問せざるを得ないだろうと言っていた。エバがさらし者になる前に終わらせなければならない。歪んでいるかもしれないが俺が判断した正義だ。グラウンドでは野球部とサッカー部がうまく使い分けして練習している。どちらも秋の大会に向けて炎天下に頑張っている。雄二と孝は三塁側で投球練習をしている。バッテリーを組むのもこの夏で最後となる。孝は練習にほとんど出なくなり、進学に向けて学校でも家庭でも机と対面しているらしい。この教室は中川先生が担任の三年二組で、放課後は野球部の更衣室に使用されている。中川先生が手を振った、時計を指してもうすぐ終わるからとジェスチャーで俺に知らせた。彼が愉しみにしている斧投げをこれからやるので俺は待っているのだ。しかし五時には終了しなければならない。
ジョセフ神父と大船で六時に待ち合わせしている。サラマリアさんとエバに会う前にもう一度二人の意見に変わりはないか確認しておくためだ。もし少しでも考えにぶれが出たなら、事前に調整して、二人の考えを一致させて、迷いが無いと示す必要があるからだとジョセフ神父の配慮だ。さすが神の使いだ、俺とは気配りが違う。
野球部員が全員バックネット前に集合した。中川監督の訓示に部員達が神妙な顔して耳を傾けている。監督の一語一句にはっきりと「はい」とか「おい」とか返事をしている。家庭でもあれくらいの返事をして、言うことを聞いてくれたら親達はさぞ育て易いのに、うまくいかないもんだ。監督が輪から抜けて、キャプテンの孝を中心に円陣を組み、気合を入れて解散となった。一年生だけが残りグラウンドの整備を始めた。
「やっちん先生、お待たせ、食事しましたか?」
「いや、終わってからにしますよ、俺先に行ってますから、生徒に見つからないように来てくださいよ、そうですね、裏門から出て、テニスコートの上を通り過ぎると大きな桜の木があります、フェンスと桜の木に隙間がありますからそっから山に入って下さい。俺が下草を刈って歩き易くしてありますから」
「毛虫いませんかね?」
「いますよ、それより靴で来て下さいよ、蝮がいますから」
俺は階段下の道具置き場件仮眠所の鍵を開け、斧と鎌を担いで校庭を横切った。
「やっちん先生、お願いします」
サッカーボールが俺の前に転がってきた。俺はかっこよくゴールまで蹴ってやろうと思い、助走をつけておもいきり爪先で蹴っ飛ばしたが大きくカーブして土手を転げ落ちた。
「ダーッシュ」
俺のごまかしに二枚目のサッカー部員は肩を落として言った
「先生勘弁してくださいよ、暑いんすから」
藪を抜けて中川先生がやって来た。
「すごいですねえ、周りが住宅地とは思えませんねえ、まるでジャングル、これじゃあ蝮がいても不思議はないですね。でも本当に大きな山ですねえ、学校の敷地とはびっくりですよ」
さっきまで野球部の厳しい監督だったとは想像もつかないほど中川先生は童心に返っていた。
「もっと下草をまめに刈ったり、木の小枝を落としたりすればいい散歩道になりますよ」
「学校で予算割り振って着工すればいいのになあ、生徒達の課外授業なんかにも使えるし、近所の憩いの場にもなるだろうにねえ」
「そうなったらこういう遊びはできませんよ、俺が毛虫や蝮がいるから山に入らないように指導していますからねえ、へっへ、それに雉や狸なんかもいなくなっちゃいますしね、愉しみなくなる、それより中川先生始めますか、俺も五時頃には帰りたいんですよ」
「あ、あれですか的は?」
「どうです、いい感じでしょう、けやきの根っこです。こことあの赤松の前からも狙えます。あの面は俺が去年細工したものです、いいですか見本見せますから」
俺は斧の皮カバーを外し、十二メートル離れたバームクーヘンのような的に投擲した。斧は三回転して切り口に喰い込んだ。根に喰いこむ感触がフォロースローした腕に伝わってくる。中川先生が的に走りより眼を輝かせて喰い込んだ斧先を直視している。
「先生抜いてきてください」
彼は簡単に抜けると思ったのか小手先で引っ張ったが諦めて、根っこに足をかけ両手でぐらぐら押し引きしながら抜いた。
「もう一度俺がやりますから、高校野球のエースだった人に投げ方を指導するのも変だけど、やはりオーバースローがいいですね」
ブルッブルッブルッと斧の歯が空気を切る重い音をたてて、やはり三回転して喰い込んだ。今度はど真ん中に完璧な角度で的を射た。歯の上部の鋭いトライアングルの先端からぶち刺さっている。斧の柄が小刻みに振るえている。「どうですか、これ完璧ですよ」
中川先生はフリスビー犬みたいに俺が投擲するたびに走りより斧を持ち帰ってきた。
「さあ先生どうぞ、的に神経集中するのはいいんですけど振りかぶったとき頭にも気をつけてください、特に耳なんか、柄の握りが緩んで投げる瞬間に回転してしまって刃先が擦るなんてこともありますからね、これはボールとは違いますから、触っただけでけっこういい傷になってしまいますよ、はくがついていいか、生徒達おとなしくなったりして」
中川少年は俺のジョークになんの反応もみせず、投擲を繰り返した。さすがエースだけのことはあって的には八割の確立で命中させた。しかし的に当たるのは柄であったり、頭の部分であったりと刺さるまでには至らなかった。
「中川先生それで最後にしましょう。最初から根っこに投げ刺すのは無理ですよ、俺なんか二年かかっているんですから」
彼は納得いかないようで、しきりに首を傾げていた。
「うまく刺さらないないなあ、やっちん先生みたいにグサッといかないもんですかねえ。悔しいなあ」
「中川先生どうですか、八月八日の登校日にまたやりましょうよ、どうですか?」
「はい、是非お願いします、ところでやっちん先生その鎌は?」
「これですか、中川先生には目の毒だなあ、まあいいでしょう、俺が一回だけ投擲してみましょう、これはだめですからね、俺の秘密兵器なんすから、触らせませんよ」
この鎌はうちの曾じいさんが昔、鍛冶屋に特注で作らせたもので、従来の鎌より肉厚で重さも倍はある。きれいな三日月形はブーメランを連想させる。うちの物置で錆び付いていたのを俺が学校の技術室で入念に砥いだのだ。柄は握りやすく細く短く改良した。鎌はオーバースローよりサイドスローの方が投げやすく命中率もいい。俺は両手を広げ、右に二歩移動しながら身体を大きく捻り、スナップを利かせ三日月を投げた。ファファファファファと回転音たてて的にのめり込んだ。こんなカッコつけたオーバーアクションで投げなくても良かったのだが喰い入るように見つめている俄か少年に失礼のないようにしたまでだ。
「や、やっちん先生」
「わかりました、わかりました。八月八日」
「はいっ」
「先生、悪いけど入って来たとっから帰ってもらえますか、別に気兼ねすることないんだけどもし誰かに見つかると先生嘘つけそうもないし」
「はいっ」
俺は藪を鎌でなぎ倒し、校庭の上に出た。スロープになった擁壁の石積みを下った。職員室から視線を感じるが気のせいかもしれない。もう四時だというのに校庭を横切る風は熱風で、素足の薄い靴底からは、蓄えこんだ太陽熱を俺に突き上げてくる。朝礼以外はグラウンドで除け者にされている朝礼台にタオルが置きっ放しになっていて、それが今にも飛びそうなぐらい風が強く吹いている。Eと頭文字が確認出来たが面倒くさくてそのままにした。
モノレールの大船駅回改札口でジョセフ神父と待ち合わせをしていた。五分ほど待っていると正装したジョセフ神父は現れた。神父とチンピラ紛いが肩を並べて歩いているとよく目立つのか、通り過ぎる人達は何事かといった視線を投げかけるが、俺と視線が交差するとみんな目を逸らせた。俺は188センチあるし、ジョセフ神父はさらに俺より高く、肩幅もがっちりしていてその上胸板も分厚い。顔立ちもすっきりしていてハリウッドスターといっても大袈裟じゃない。
擦れ違う人達の視線が、神父と、俺とでは微妙に違うのがわかる。
「やっちん先生、コーヒーにしますか、それとも?」
訪問時間までにはたっぷり一時間あるし、多少アルコールの力を借りた方がいいかもしれないと思った。飲み過ぎは厳禁だが適度であれば言葉も滑らかになって都合がいい。
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面白いひとだ。しかし相当日本語を学習したのだろう、机上だけではなく、生きた会話を積んでこなければこんな上等なジョークは飛ばせない。
「おでん屋といってもまだおでんはやってないんです。でも気に入ってくれると思いますよ」
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「ジョセフ神父、ここです」
暖簾は掛けられ、客寄せのおまじないである塩盛りもきれいに入り口脇に用意されている。
「こんばんは」
よし乃の姿はみえない。
「まあ入りましょう、用足しにでも行ってるのでしょう女将、ビールでも先にやっちゃいましょう」
足を入れるといつもの席に先輩、空いているときの俺の指定席である右端の突き当たりにあの挑発的な青年が座っている。さぶろーと呼ばれていた青年は俺を見つめてくすくす笑っている。これから山田親子との試練が待ち受けているのに幸先の悪いスタートだ。しかしここで臆して店を出てしまってはそれこそいい笑いものだ。
「さあ神父どうぞ、遠慮しないでください、ここ顔なんすから」
神父が身体を屈めて暖簾を潜り、店に顔を出したとたんに青年の顔色と表情が一変した。ジョセフ神父は先輩と三郎に軽く会釈して俺の隣に腰をおろした。
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