やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 12

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「中川先生、そろそろ行かないと。雄二の件は俺に任せてください。報告しますよ」
「はあ、宜しくお願いします。ところでやっちん先生この斧は手入れが行き届いていますね」
「校庭の裏山も学校の敷地なんですよ、ほらバックネットの裏。行ったことないでしょ、広いんですよグラウンドと同じぐらいの面積があります。山裾は高いフェンスで囲ってありますから誰も侵入しません。俺が下草刈ったり、伸び過ぎた欅や椎の木の枝を落としたりしているんです。でもね、絶対に他言無用ですよ、斜に切り込んだ大きな欅の切り株が年輪をダーツの的みたいに構えているんですよ。それ目掛けて投げ込んでます。ど真ん中にのめり込んだときの感触、堪りませんよ」
「是非連れて行ってください。そりゃあ面白そうだ、お願いしますやっちん先生」
  小脇に抱えた教科書と筆記用具をカタカタいわせて俺に何度も斧投げの約束を確認して、役に立たない数字遊びを学びに来ている客のもとへ消えて行った。
 中川先生から相談を受けた日、雄二はクラブを休んだ。監督にも相棒の孝にも告げず、無断欠席だったらしい。孝は雄二が何も話してくれずに独りで悩んでいるのを口惜しがっていた。
「やっちん先生、俺あいつに信用されてないんですよきっと」
 劇的な出会いから十数年、同じ道を歩んで来た二人だが、この学校を最後に別の道に進むことになっている。白球に夢を賭け現実化してきた雄二と、残念ながら野球では力を出せなかった孝は、見つめる対象が違ってきていた。
「そんなことねえって、おまえの考えすぎだよ。ところで孝は野球辞めるのか?」
「ええ、俺身体も素質も恵まれてないし、そのつもりでいます。大学に行ったら真剣に勉強してみようかなって思っています。野球では雄二に負けたけど、これなら俺の方がってものを掴んでみますよ」
「おまえならなんでも出来るさ、ろくに勉強していないのに成績はいつも上位だし、面倒看がいいから後輩からは慕われているし、先生方も誉めてるよ、行事がある度に率先してやってくれるって、みんなが嫌がることを孝が笑顔でやり出すと吊られるようにみんなが動き出すって」
「多少成績が良かったり、ひとにいい奴だなんて煽てられてもいいことなんかありませんよ。じゃあこれで練習戻りますから、雄二のこと、俺からも宜しくお願いします、あいつ不器用だから。失礼します」
 脱帽した孝の頭はもう丸刈りではなく整髪料で光っていた。高校と同時に野球を卒業する孝の強い意志が窺える。十年前、雄二を苛めていた孝のケツを赤くなるまで引っ叩いたのを想い出した。
「さあ、いこうぜいこうぜ」
 孝の声がグラウンドを引き締めた。ノックをしている中川先生が俺に向ってバットを投げるふりをして頭を下げた。たぶん斧投げを催促しているのだろう、しょうがない、今度の土曜日の午後にでも誘ってやるか。

「ばあちゃん、雄二いるか?」
「まあだけえってくるわけねえべ、、玉投の練習しとるよ。飯食ってくか?」
「うちにも言ってないから今日はいいや、雄二が帰って来たら俺んちに顔出すように言ってくれるかばあちゃん、たまにはゆっくりあいつと野球の話がしてみたくなってな」
「ああ、飯食ったら顔出すように云っとく」
 俺の背筋に厭な悪寒が走った。あんなばあちゃん子の雄二がばあちゃんに隠し事するなんて考えられない。俺はママチャリでエバの家に向った。
 アパートの下に見覚えのある自転車が階段の手摺に寄りかけられている、あれは雄二自慢の二十段変則だ。スタンドを取り外しているので置く時は必ずどこかに寄りかけるのだ。二人でいるのか、それとも母親のサラさんもいるのだろうか、たぶんサラさんはこの時間徹平の付き添いで病院にいるはずだが。少し時間をおいてから寄ってみようか、八時頃になればサラさんも病院から戻ってくるだろう。今の俺にはエバと二人きりになる余裕も勇気もない。久し振りに『よし乃』を覗いてみよう、なんとなくぎごちない別れ方をしてから行きにくい。顔を出していないが、考えてみれば客と女将の関係から脱出し損ねただけで、俺に遠慮する道理はない。彼女には大金持ちのパトロンがいて俺に入り込む余地なんかありはしないのだ。やっちん、よっちゃんの間柄でいいじゃないか、それ以上の進展があればその時はそれで対処すればいいいのだ。先輩に咽喉掻っ切られてドブに沈むのもそれなりにカッコよくていいだろう。西日がガラス戸を真っ赤に染めている。冬場と違い六時を回ったのに一向に暗くならないからなんとなく飲み屋の暖簾を潜るのが照れ臭く感じる。ガラス戸の中にぼんやりと客の足が並んでいる、こんな時間から『よし乃』に客がいるのは珍しく、大体俺より早く酒を飲んでいる奴はそうはおらず、どうせろくな仕事をしていないのだろう。これ見よがしに大声でビール注文してやろう、いかにも常連見参て感じで振舞ってやろう。
「よっちゃん、生」
「ごめんなさい、悪いけど出直してくれませんか」
 よし乃の表情が曇った。
「いいからいいから、私達はそろそろ失礼するから、女将だめじゃないか常連さんにそんな失礼なことを言っては、すいませんねえすぐに引き上げますから」
 洋服にはとんと疎い俺だが、仕立てのよいスーツをお洒落に着こなした老紳士が俺に会釈した。しなやかな白髪をバックに流し、真っ黒に日焼けした肌はゴルフとかマリンスポーツとか仕事以外で焼いたものであろう。俺みたいに真夏に校庭で肉体労働をして焼けた赤土焼けとは違う。紳士の脇にだらしなく立っている若者が下から覗き込むように俺を睨んでいる。銀色のリングで長髪を後ろで束ねている。
「なんか付いてる俺の顔に?」
 問いかけに若者は欠けた前歯を隠すように静かに笑った。
「さぶろー、ひとをそんな目で見るんじゃない、何度言ったらわかるんだ。車を用意しなさい」
 若者は老紳士に軽く会釈して店を出た。
「すいませんまだ世間知らずの子供で、孤児院から引き取り、私が養子として育ててきた子ですけど、生まれたときからの環境がそうさせたのか、ひとを蔑み、敵意のある眼で人を見る癖は成人した今でも直らずにいます。困ったもんだ」
 老紳士は最後の困ったもんだを自身に言い聞かせるように囁いた。彼の生い立ちを俺に説明する必要なんてないのにどうしてだろう、聞かなければ対等な立場で言い合ったり、やりあったりが可能だったのに、孤児院育ちが俺に遠慮を生じさせ、他人に素性を知られた彼はなおさら憎悪が深まるのではないだろうか。
「生でいいですか?」
 よし乃が素っ気無く言った。老紳士が愛想のないよし乃の対応が気に入らなかったのか、厳しい目つきで彼女を睨みつけた。
「社長、お車ご用意出来ました」
 若者が小刻みに首を縦に振りながら老紳士に報告した。
「じゃあまた来るから」
「いつ?、またっていつ?」
 よし乃がきつい口調で問い返した。
「私が忙しいのわかっているだろう。子供みたいなことを言うんじゃない、それにお客様の前でみっともないだろう」
 なんでこんなロケーションに出っくわしたのだろう、ついてないぜ全く。視線のやり場に困り、グラスの飲み口に付着した泡を見つめ、それが弾ける音に集中した。
「何曜日の何時何分に来るなんて答えを期待しているんじゃないわ。何月の上旬とか下旬とかその程度も教えてくれないの?」
「世話になってんだろうおばさん。わがまま言うと嫌われちゃうよ」
「黙ってなさいさぶろー、車で待っていなさい」
 亀のように頭だけを店に突っ込んでいた若者は老紳士に叱られて大きく舌を出し、ウインクを俺に投げかけてガラス戸を閉めた。挑発が趣味なのか、それとも俺が嫌われたのか、もしかしたら友達が欲しいのかもしれないがそうだったら当分叶いそうにない。
 若者と入れ替わりに先輩が入って来た。先輩は俺の会釈を無視して老紳士に深く頭を下げた。彼がシルバーメタリックのジャガーに乗り込み発車するまで姿勢を変えずに見送った。発車間際に運転席から若者が俺に中指を突上げた。
店の中には重苦しい空気が充満して、それぞれが紛らわすためにごまかしの動作で凌いでいる。よし乃はいつまでもそら豆を洗っている。細く開いた蛇口から糸のような水が、よし乃の掌でもまれているすべすべのそら豆の上を滑っていく。先輩は酒を注文するタイミングを計っているが上手くつかめずに首を行ったり来たりさせている。
「あっ、ごめん、やっちん、生もう一杯やろうか?」
「ああ、そうだな、そろそろもらおうか」
 よし乃が重い空気を自ら切り裂いてくれた。
「ショウチュウ」
 先輩が注文した。先輩の声を初めて聞いた。発音に訛りがある、それは東北地方でも関西でも沖縄のアクセントでもない。何年か前に韓国に旅行に言ったとき、食堂やみやげ物屋のおばさんが商売として必要な単語だけをピックアップして覚えた日本語の発音だ。よし乃のパトロンに深く頭を下げ続けた先輩は一体何者なんだろう。詮索はやめよう、もし嫌われて、どぶ川で見た先輩の洗練されたプロの技で襲われたらそれこそつまんない。まだまだやりたいことはたくさんあるしな、せめて世帯を持って孫の顔をおふくろに拝ませるまでは死にたくない。
「やっちん、例のハーフの子、元気になった?」
「ああ、おかげさんで元気になりつつあるよ、野球部のエースといい関係みたいだ。実は彼女の様子を窺いに来たんだがエースのちゃりんこがあったからそれで先にこっちへ寄ったんだ」
「あらそうですか、ついでに寄ったわけね、でもいいわ来てくれたから許してあげるわ。でも良かった、立ち直れて、なんか気になっていたのよね彼女を、自分と重ねるつもりじゃないけど」
 よし乃はゆであがったそら豆を布巾に包めて水気をとり、竹のざるに盛って俺と先輩にそれぞれ差し出した。
「よっちゃん適当に塩かけちゃってよ、俺、手汚いし」
 よし乃は笑って竹ざるを引き戻し先輩にも目配せして両方に塩をふってくれた。
「でも大丈夫なの、高校生の男女に遠慮し過ぎじゃないの、教育者として心配じゃない?」
「そうなんだ、野球部のエースはしっかりしたやつで男女間の間違いはないと思うんだ、ただその子は野球で進路が決まっているからここでくじけると楽しみにしているあいつのばあちゃんが可哀想でな」
 よし乃の表情がきつくなったのは俺の気のせいではなかった。エバよりも雄二を優先した俺の発言に、深い意味はないが、パトロンとの関係がぎくしゃくしている今のよし乃の顔色を変えるには充分だったのだろう、子供とはいえ女より男を庇ったのは俺の失言だった。
「やっちんもあまいわ、十五の女は子供じゃないわ、十八の男の脳は幼稚だけどね。その幼稚さが不幸にするのよ。まあいいか、濁り酒やる?」
 雲行きが妖しくなると吹き飛ばしてくれた。しかし咽喉元で出番を待機している言葉をもう一度大脳に戻し、篩にかけて選別された優秀で森羅万象誰に対しても差し障りのない言葉を発する作業は非常に疲れる。いったんアルコールで緩くなった脳みそに仕事をさせるのは残酷だ。大体それまでして飲むメリットはあるのか、疲れを癒してくれたり、他人にとってはくだらない悩みを一時の間だが忘れさせてくれるから酒を利用する。よし乃に惹かれる気持ちは褪せてはいないが、飲み屋『よし乃』に魅力を感じなくなってしまった。
「今日は遠慮しとくよ、酔って説教すると凶暴になるから。ところで今度よっちゃんドライブ行かないか?自分の車は持ってないけどおやじの借りられるから」
「覚悟できてる?命がけよあたしを連れだすのは、ははっ冗談、うれしいわ」 
 よし乃が言ったように覚悟が必要かもしれない。あのパトロンを筆頭に彼女を取り巻く連中は油断できない。
「はっきり断わられなくてよかった、また来るよ、先輩また」
 先輩は頷いて見送ってくれた。店をでるとき背筋がぞくぞくっとした。耐え抜いた空間から開放されるときにこの寒気がはしる。これでこの店に来ることはないような気がしたが明日になれば忘れていて、藍色の暖簾を右手で掃うのは必至だ。
 
 身体の不調を理由に早退した。吉川先生は信用していなかったが俺がいない方がいいに決まっていて、帰り際に「残念ですねえ」と言ってニカッと笑った。野球部の朝連を覗いたら雄二がピッチングをしていたので安心した。もし休んでいてエバと一緒だったらどうしようか悩んだが、ひとつ肩の荷が下りた感じで楽になった。明日から学校休むらしいと雄二が言っていた通りエバは来ていない。彼女の担任の現代国語を教えている田中先生に出欠を確認したら、「休んでますけど、なにかご存知ですか?」と逆に問いただされたので「別に」と素っ気無く答えてあとにした。
「おふくろ、飯食わせてくれ、飯食ってシャワー浴びたらまた出かけるから」「おまえ、学校行ったの?」
「俺が休んでどうすんだ。子供達の未来を閉ざしてしまうじゃないか」
「お父さんにそう報告しておきます。涙流して喜びますよ」
 これだ、まったく口の減らねえばばあだ。
「鰯でいいわね」
 俺が山田邸に行くと駐車場にサラマリアさんとジョセフ神父が既に待っていた。こんな重い内容の話題だから先に来てくれていて助かった。待ち時間に心臓が破裂したかもしれない。
「コーフィーショップでも行きましょう。私達の意見をまとめてからエバに会った方がいいでしょう」
 ジョセフ神父の先導で駅前の広い喫茶店の奥のテーブルについた。神父はまだ何もサラさんには知らせていないようだ。しかし、彼女もこの会合が朗報でないのは俺達の冴えない表情を見て察しているだろう。ジョセフ神父が口火を切ってくれて助かった。この問題を持ちかけたのは俺の方で、当然この場をリードしなければいけないのだが、話の緩急をわきまえない俺がいきなり無茶を言って彼女を傷つけてはいけないという配慮からだろう。なにもかもお見通しだ。
「サラ、気を落着かせて聞いて欲しい。君にとっても悪い内容です」
 そこまで日本語で言ってそのあとはタガログ語で静かに、含めるように説明している。サラさんはある一点を見つめ、頷くこともなく神父の言葉を聞いている。

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