やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 11

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「おっはようございます美智子先生。また今日は一段と美しいじゃありませんか」
「あらやっちん先生今朝は快調のようですね」
「ええ、一番に美智子先生と挨拶交わせるとその日一日調子がいいんですよ、これが教頭や吉川さんだと厳しいんですよ。それじゃ先に行きます、ほいほいほいと」
 こんなひとが嫁に来てくれたら最高だ、おやじもジャンプして喜んでくれるだろう。清潔で疚しいところがないから誰でも気軽に打ち解けられる。会話が途切れても気まずい北風は寄せ付けず、水分をたっぷり含んだやさしい南風で包んでくれる。これはいくら学習しても習得は困難で、彼女の天性である。
 俺は校舎に入ると、念の為にまたトイレに行った。ここで駄目押ししておけば苦しむことはなく、何を喰おうと何を飲もうと今日一日内臓は完璧な機能を果たしてくれる。
「やっちん先生、おはようございます。さっき三年生の野球部の子がやっちん先生を訪ねてきましたよ。伝言はって聞いたら、いいですって教室に戻って行きました」
「そうですか、雄二かな。どうせ飯でも食わせろってそんなもんですよあいつらの用事なんて、わざわざすいません」
 吉川先生はニカっと笑い、その場ターンを決めて職員室に向って行った。俺が彼女の後姿に釘付けになっていると何か言い忘れたのか、Uターンをして転がって来た。転がって来たと表現したのは大袈裟ではなく曲芸の玉乗りがこういう進み方をするからである。
「教頭先生がお呼びでしたよ、急用らしいので、仕事にかかる前に職員室に寄って下さいって」
「教頭が?、急用?、偉そうに。吉川先生、職員室に行くんでしょ。教頭にこう伝えて下さい。頼み事があるならグランドにいるから来るようにって、毛虫を籠いっぱいに捕まえて待ってるからって」
「いいんですか、そんなこと伝えて」
「ええ構いませんよ。我々は部下じゃないんだから。子供達を教育するのが先生方、子供達が過ごし良い環境作りをするのが俺や吉川さんの仕事じゃないですか。完全に役割分担が決まっているんだから、小間使いにされては困りますよ、貴重な市民の税金で生活させていただいてるんだから俺達は」
「へーっ、やっちん先生にそんなご立派な職業意識があったなんて見直しましたわ。でも何か、特定の生徒の事で、それならやっちん先生が適任ですと美智子先生の推薦があったようですよ」
「やだなあ吉川先生、それを早く言ってよ。急用ですね、わっかりました」
 俺が喜び勇んで職員室に飛び込むと、ほとんどの教員は授業に出ていて、教頭と数学の中川先生が扇風機の前で立ち話をしていた。美智子先生も見当たらず、俺は二人に気付かぬ振りをして職員室を出た。
「やっちん先生、やっちん先生。お話がございます。吉川先生から伺いませんでしたか?、もう」
「あれっ、美智子先生じゃないんですか?こう見えても忙しいもんで、なんでしょうか教頭、手短めにお願いします」
「すいませんやっちん先生、実は僕が教頭先生に相談したら、美智子先生が、やっちん先生が適任ではないかとアドバイスしてくれたもので、お忙しいところお呼びだてしてしまって申し訳ありませんでした」
 昨年この中学に転任してきた中川先生が頭を下げた。俺はそんなこととは知らずに教頭に減らず口を叩いてしまい、気まずい思いをしてしまった。このおとなしそうな数学の教師は、高校大学時代に野球部に所属していて、高校時代には甲子園こそ出場し損ねたものの、県大会でベスト四まで残った経験がある。それもベンチではなく先発完投型の投手で、その上四番を打つスラッガーでもあったらしい。転任当初はもう野球は辞めたからと、校長に野球部の監督に推薦されても断っていたが、練習している雄二の素質を目の当たりにして、自分で育ててみたいと沸々と過去の情熱がわき上がり、成しえなかったプロの夢を雄二の将来に託したくなり、校長の誘いを引き受けた。部活が終了時間を迎えても、雄二にマンツーマンで指導している姿を、真っ暗になったマウンドでよく見かける。その成果もあり雄二は名門大学に特待生制度を利用して進学することがほぼ決定していた。学力があっても貧しくては入学することの出来ない名門校を中川先生の指導のもと勝ち取ったと言っても過言ではないでしょう。
「なんでしょうか中川先生、キャッチボールだったら夕方にしてくれませんか。仕事が忙しいというより熱いから。涼しくなってからのがいいんじゃないですか」
俺のジョークが受けたらしい。
「実は雄二、関野雄二のことなんですけど」
「中川先生、授業は?」
「二時限目からです」
「じゃあここではなんですから宿直室行きませんか、煙草も吸えるし、冷たいもんもありますから」
 俺は聞き耳を立てている教頭を無視して場所替えを提案した。除け者にされた教頭の目尻が、先の尖った金縁のフレームより更に鋭く飛び出していた。
階段の下のデッドスペースを簡易に間仕切りしたこの部屋は、我々技能員の休憩所にしなさいと校長が提供してくれた部屋である。本来俺達技能員の部屋は用意されてなくて、受け付け室の中に机と椅子があるが、まさかいくら暇だからと言って受付室で寝るわけにもいかず、表仕事専門の俺には退屈な場所である。ここを提供されてからは雨降りの日には助かる。家から運んできた畳で三畳間を作り、枕も毛布も用意していつでも仮眠が取れる。空いたスペースは外仕事や水周りの修理に使う工具類を自費で購入し揃えてある。吉川さんにも遠慮なく休憩に使うように言ったが、擦り切れた畳の上に丸まってる毛玉だらけの毛布と、端が切れて籾殻が飛び出しているカバーの無い枕を見たせいか、『結構です』と言ったきり近寄りもしない。だからここは俺専用の個室と言ってもいい。小さな冷蔵庫やカセットコンロも置いて、雪が降って外仕事ができない日などは、目刺でも焼いて、熱燗で一杯なんてのもたまにやる。
「どうぞどうぞ、散らかってますけど」
「へーっ、この部屋はこんなふうになっていたのですか。教員の間ではここの話をするのはタブーになっていて、存在すら曖昧にとぼける先生もいますよ。でも凄いですね、斧とか鎌とかぴかぴかに砥いでいますね、あれ銛もあるじゃないですか、何に使うのですか?」
「よく聞いてくれました。これは内緒にしておいてくださいよ。実は裏山に住んでる雉が朝早い時間に出てくるんですよ。一度追いかけたけどすばしっこいのなんのって、それでね、このゴムつきの銛で仕留めてやろうと思っているんですよ。でもこの時季は脂が乗ってないからしばらく泳がせておいて、卒業式の頃に絞めて雉鍋で一杯やろうと考えています、中川先生もどうですか?」
「はあ、なんとなくタブーになっているのが理解できました」
「あれっ中川先生は雉嫌いですか?もしかしたら古いの食わされた経験が?でしたら心配ご無用、俺上手いんですよ鳥捌くの。味付けもきっと気に入ってもらえると思うけどな。日本酒たっぷりぶち込んで炊くんですよ。味付けは酒と醤油だけで、あっそうか、鍋が好きじゃない?早く言ってよ、だったら腿をこんがりと網焼きにしてあげますよ、塩と一味をぱらぱらっと振ってね。これはやっぱりビールですね。ああ想像しただけで酒が飲みたくなってきた。ちょっと早いけどやっちゃいますか、鰹の酒盗がありますよ」
「いや次授業があるのですいません」
「そうですよね、酔っ払って数字間違えたらしゃれにならないっすよね。ところで雄二のやつがご迷惑でもかけましたか?なんでも言ってください、あいつが生まれた時から同居しているようなもんですから」
 酒を拒否したインテリのスポーツマンは俺の自慢の道具がよっぽど気に入ったのかひとつずつ手にとって重さを確認したり刃先を指でなぞったりしていた。
「コーヒーでもいれましょうか?ここ水道が無いからカップ洗ってないけど。俺が昨日牛乳飲むのに使っただけだから汚くはありませんよ」
「いやほんとに結構です。ありがとうございます。実は関野が練習を休むようになってきました。どこか身体の調子でも悪いのか尋ねてもなんでもありませんて下向いたきり黙ってしまいましてね。まあ難しい年頃ですからあまり厳しく追及するのも逆効果かなと思いまして、人生経験豊富な校長に相談しようと校長室へ尋ねたら留守してまして、教頭先生が私では役不足ですかって気を使ってくれたものですから相談した次第なんですよ。そうしたらあの子はやっちん先生の父上が経営なさってる住宅でおばあさんと二人で暮らしていると美智子先生が教えてくれたものですから」
「さすが美智子先生、すごい、とにかくすごい。で雄二の奴どうなんでしょうか、先生の察するところ、何か心当たりはありますか?」
 斧の柄を持って上から振り下ろし、何かを確認したように頷いていた中川先生は、切り株にござの座布団を敷いた低い椅子に腰掛けて話し始めた。
「ええ、気になってることがひとつあります。あの子に交際している女生徒がいますがやっちん先生ご存知でしょうか?そうですね二週間ぐらい前から練習を見学に来たり、この前の日曜日の試合には関野のために作った弁当持参で応援に来てくれたりと、端から見ていてもさわやかな関係に思えました。彼女の明るい応援姿が関野だけではなくて他の部員達にも刺激になり、野球部全体の雰囲気も明るくなってきました。恋愛は障害になると考えていた私も、正直、今回の関野と彼女の関係をみて、いままでのカビの生えた考えは改めました。健全な交際は練習の邪魔になるどころか、狭いグラウンドの中からしか物事を判断できない私には、考えられなかったパワーをも引き出してくれるのだと気がつきました。彼女がグラウンドに顔を出し始めてからの一週間は関野も大野もナイン全員が、楽しく充実した練習をこなせました。ところが先週になって急に彼女が姿を見せなくなりましてね、部員達は隠してないで連れて来いと冷やかしていましたが、どうも関野の反応が気になりまして、それとなく尋ねたのですが、ご存知の通り怪我や病気を隠してでも練習を休まない子でしょ、自分自身で処理しようと懸命になっているとは思うのですが下を向いたきり何も話してくれません。また嘘をついて誤魔化すことが出来る器用な子でもありませんしね。強い子だから余計に苦しんでいるのでしょう。まあ少し時間が経てば解決してくれる問題だと思いましたし、それ以上突っ込んでは訊かないようにとうちの女房のアドバイスもありましてね、いくら心配しても私に出来ることはたかが知れていますし、あと半年もすれば私の指導から離れてしまうんですけどね。でも野球はともあれ、一教師として彼等の行動が気になりましてね。監督首でも教師失格じゃみっともないし」
 中川先生は俺と視線を合わせずに、斧がよっぽど気にいったのか柄や刃を摩って言った。
「しかしあいつに彼女ねえ、どんな子ですか?可愛いですか?なら許してやろうかなあ」
「うちの生徒です。一年生で山田という可愛いいというか、ここだけの話ですが魅力的な女性と言ってもいいでしょう。母親がフィリピン人とかでハーフらしいです。さぞ母親は美人なんでしょうねえ」
 雄二がエバと交際している。弱い者は守ってやろうじゃねえかと偉そうに俺が雄二に言ったのに、この胸の高まりはどういうことだろう。俺とエバが腕を組んで歩いていたのを目撃した雄二は嫉妬して、俺を無視することで報復した。今俺は雄二に嫉妬している。そう思いたくないが破裂寸前の動悸が脳天から足の指先まで震動している。十字架を握らされた日に、子供、生徒から、女へと俺の心の中で変化してしまったのかもしれない。守る事は愛で、対象が女なら恋に変わっていくのは極自然でそれに気がつかなかった俺が鈍いんだ。まして敏感な年頃の二人が、愛から恋に変化するのに障害もなければ時間も必要なくて、雑誌のページをめくるより容易に決まっている。考えてみれば野球部のキャプテンでエースと、モデルばりのスタイルとフェイスを兼ね揃えた二人は最高のカップルだ。将来マスコミに取り沙汰されるような大物になって週刊誌にスッパ抜かれてもカッコがつく。そんな二人の関係を祝福してやろう。自分の気持ちを封じ込め、無理矢理恋を愛に戻してでもカッコいい二人を応援してやろう。
 一時限目が終了して、生徒達の足音でこの部屋の天上になる階段がばたばたと響いてきた。それぞれが先を急いで十五分の休み時間を楽しむための場所確保に走って階段を降りてくる。短い休み時間に教室を出るのは一年生が多く、学年が上になるほど教室から出なくなる。各町内から集まり、この高校でクラスが別々に引き裂かれた竹馬の友らは、友達であるのを再確認する目的で校舎の隅、昇降口の陰で思い出話に盛り上がる。くわがた虫を山に取りに行ったとき、すずめばちに追われたこと、縄跳びに上手く入れなかったこと、ぶかぶかの白いワイシャツからにょっきりと飛び出したアスパラみたいに頼りない腕を振り回し、ひとつひとつに繋がりの無い話題を短すぎる時間でお互いの胸に叩き込む。『忘れるなよ、いつまでも忘れるなよ、いつまでも俺達、私達仲間なんだから』無情のチャイムが彼等の胸を締め付ける。次の休み時間に再会を誓い、階段を一段飛びで駆け上がり教室に戻り、いまだ友達になれない隣人に照れ笑いを浮かべ指定席に着く。小中学校で座っていた子供椅子から、高校に進学し、大人の椅子をあてがわれたはにかみやにとって、椅子と机の僅かな隙間が誰にも侵害されない安全地帯だ。そこに入り込むか、先を越されるかでこれから始まる三年間の自分の位置付けが決められてしまう弱肉強食の危ない世界でもある。支流から本流に流された稚魚は、前後左右に群がる同じような姿形をした初対面同士が、それぞれの先入観と価値観で選別を開始している。勝負は一瞬でついてしまう。敗者復活戦は設定されていない。三年間を勝ち組みで優位に過ごすか、負けて劣等感を噛み締めるか、この時期の一勝負で決まってしまう。俺は身体に恵まれているのと、家が地元では大きな農家であったのが幸いにして勝ち組みに残れたようだ。
 

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