やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 10

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「先輩かっこいいよなあ、何やってたひとなの?」
「秘密。あまり深入りしない方がいいわよ。やっちん宅に忍び込んで咽喉を掻っ切って帰って来ても、何もなかったようにここで一杯やるぐらい余裕があるひとなんだから。実はあたしもよく知らないんだけど、どこか外国の特殊部隊で活動してたみたいよ。でもあたしには凄くやさしいの、あたしが惚れた男と浮気してもパパには内緒にしてくれるわ、たぶんよ」
「礼を言いたいんだけどなあ、遅いなあ今日は」
「だから来ないの、やっちんにお礼を言われるのが照れ臭いし、過去を探られるのが嫌なのよあのひと、あたしの勘だけど暫くはやっちんと時間帯をずらすと思うわ」
「そうかもしれないなあ、きっとそうだろう。俺みたいなちんぴら崩れの地方公務員に頭下げられたら、先輩の経歴と生き様に傷がつくよな。よし、先輩飲みたくて我慢してるんじゃないか、今日は帰るよ。あっ報告するの忘れてた。おかげさんで彼女との約束守ることができたよ。さっき会ってきたんだけど笑顔を見せてくれたよ、飛び切り上等な」
「そう、良かったじゃない。守ってあげなさいよしっかりと」
「じゃあ」
 よし乃は両目を瞑って軽く頷いた。
 俺は恋愛不器用で、よし、ここでの場面でタイムリーが打てない。準備万端相手が受け入れ態勢を整えてくれているのに見逃してしまう。次に打順が回ってくるときには牽制されて歩かされ、ひとり立ち寄った居酒屋でズボンの裾をパタパタと叩くのが関の山だ。それからはお互いの間に妙な感情の壁が遮り、ボリュームをマックスにして叫んでも、耳に掌をあてがい『はあ』とやられて、はいそれまでとなる。もしかしたらよし乃は俺とエバの関係を深読みし過ぎているのではないか、雄二が、俺とエバが腕を組んで歩いたのを見て拗ねたように、俺が彼女との約束を、命懸けで果たしたのを妬いているのか、その上あの約束の立会人はキリストだし、神に誓った女には手出し無用を貫いているのか。昨夜懐中電灯を借りに寄ったときに抱いてしまえばよかった。後先考えずに、本能のままに獣に成りきり、よし乃に覆い被さっちまえばよかったんだ。先輩に絞められようと十字架突き立てられようと汗臭いべたべたした身体でよし乃にむしゃぶりついてしまえばよかった。世間体を気にする小心者の俺がパラッと纏った薄っぺらの正義感をちらつかせても山田母娘の幸せには繋がらない。徹平みたいに、何も心配することはないからと言ってやれない自分が情けない。惚れた女にも、正義感を見せびらかした少女にも正体を暴かれた。マスクを剥がされたプロレスラーが観衆の罵声を浴びせられて花道を引き上げていく気持ちが痛いほどわかる。気持ちが沈んでくると着流しが似合わなく感じて恥ずかしくなってきた。小脇に抱えた紙袋の擦れた音が耳に入ると鳥肌が立った。自転車を漕いで家まで帰る十五分の道程に耐えられるだろうか、対向車のパッシングが俺の化けの皮を剥がし、追い越す車のクラクションが嘲笑う。浴衣の裾ははだけ、帯はずり上がり、胸元は大きく口を開き、額からだらだら垂れる負け犬の汗は胸をつたい帯で溜まる。溜まった汗は行き場を失い胴を一周して浴衣に染み込む。俺はなだれこむように家に飛び込みガラスの引き戸を閉めた。
「どうしたの?やだ、みっともないその格好、お風呂に入って着換えなさい。消毒して包帯取り替えてあげますから」
「おやじは?」
「遅くなるらしいわ」
「おかげさんでジーパンとTシャツ買ってきたよ。ありがとう」
「ありがとうだってばかみたい。あとでご飯食べるんでしょ」
 おふくろに『お手』をした。
 
 事件から二週間が経過したが徹平はまだ退院できずにいらいらしていた。自宅療養を希望していたが、担当医からあと一週間我慢しろ、今無理すると傷口がぱっくり開いて血が噴出すると脅かされていた。徹平の苛立ちを静めてくれるのが毎日見舞いに来る山田母娘だ。特にサラマリアさんは徹平の身の回りの世話をやいてくれている。完全看護の病院だがサラさんが見舞い中は看護婦もサラさんに全てを任せている。俺もほぼ毎日学校からの帰り掛けに寄っているが、必ず彼女が居る。初めのうちはサラさんを訝しがっていた徹平の母親も、彼女の献身的で素直な態度に安心したのか、今では病院の事務的手続きを済ませると「サラ、お願いね」と気安く声をかけ帰ってしまう。母親の気持ちの変化に徹平は喜んでいたし、俺もこのままゴールまで突き進みそうな予感がしていたが、考えた通りに神様は道を明けてはくれないようです。
「いいから気にしねえで入れよ」
 ビニールのカーテンが大部屋の中で個室に確保する唯一の手段である。カーテン越しにサラさんの姿がぼんやり映っていた。柔らかなで甘い香りがカーテンの合わせ目から漏れてきます。カーテンを潜ると徹平は上半身裸で、サラさんが濡れタオルで彼の背中を拭いていました。かなり力を入れて擦っているのでしょう、背中に背負った徹平自慢の金太郎が紅潮していました。
「コニチハ」
「悪いな、汚いもん見せちまって、辛抱してくれ。熱い風呂にでもざぶんと入れりゃ一発でさっぱりするんだけど、藪医者の野郎ふざけやがって許可しねえんだ」
 口と裏腹にとろけそうな眼をしていた。
「サラさん、適当で構わないよ、強く拭くと漫画が落ちちゃうから、金太郎が熊の下敷きじゃかっこつかないし、まあそれもこいつらしくていいかも」
「おいおい言ってくれるじゃないの。病人苛めると先生に言いつけちゃうぞ。あっそうそう、校長と教頭が見舞いに来たよ、暇なんだなあいつらも、休日、祝日に時間を割いて来てくれたんなら恐縮してあたまのひとつも下げてやるけど平日の昼前だぞ、税金から給料貰ってる時間にだぞ、まさかこの封筒の中身も税金じゃねえだろうなあ、まあいいか、先に貰った年末調整ってやつだな。はいサラありがとう」
「アタシ、ハナカエル」
「ついさっき芳恵が来て、その花束とケーキ持ってきたんだ。サラが俺の身体拭いていてくれてるときだったからテーブルに置いてすぐ帰っちまった。あいつ口軽いからなあ、おめえから口止めしといてくれ、俺とサラのこと近所に言い触らすんじゃねえぞって」
 サラさんは半紙に包まれた花束と花瓶にしている牛乳ビンを提げて病室から出て行った。徹平の世話を焼くのが生き甲斐のように明るく楽しそうな足取りで廊下に消えた。
「ああ、芳恵に口止めしておく。万が一徹平とサラさんの関係が外部に漏れたらただじゃおかないからって、俺も絶交するからって脅かしておく」
 徹平がカーテンを開けるように指示したので俺は勢いよくカーテンを開け放った。他の患者六人と付き添いや見舞い客の全員がこっちを見ていた。驚いてこっちを見やったというより、いきなり遮断を取り払ったのでこっちを窺っていたのが見つかってしまい、不自然な動作で誤魔化しているのが可笑しかった。隣のじいさんは徹平のベッド方向に身体の向きを合わせていて、聞き耳を立てていたのが一目でわかった。じいさんは見開いた眼をゆっくりと閉じ、ぐるっと寝返りをした。
「じいさん羨ましいのか?あんなばばあじゃなあ。そうだ、甘いもんは好きだろ、うちの奴が戻って来たらケーキ切ってやるから、なっ」
 徹平はサラマリアさんをうちの奴とじいさんに言った。どこまでの関係か俺に知る由もないが、男と女の関係であるのは疎い俺でもすぐわかる。調子よくて、生意気だけど嘘を吐かないのがこいつの真情で、言った事には責任を取る。刺された翌日に、『何も心配しなくていいから』と俺に頼んだサラさんへの伝言は、言い換えれば『俺がおまえの面倒を看るから』とプロポーズ以外の何ものでももない。徹平はどんな障害があっても自分から彼女を放棄したりしないだろう、男として、男を売ってる商売として最後まで責任を果たすだろう。
「やっちん、あんまり芳恵に強く言うなよ、噂広められるのは俺も心外だけど、何しろ女だからなあ、ワイドショー見まくって近所の暇なばばあ同士喋くりまわるのが商売だから」
 徹平は俺の脅しを本気にしたのかもしれない。本当は町中に広まり、『佐藤組五代目結婚』なんて話で持ち切りになるのを期待しているに違いない。
「いや、だめだ。芳恵には俺からがっちり言っておく、鎌倉の頭をばかにしたらこの町じゃ生きていけないって言っとく」
「おめえも頑固だねえ、俺がいいって言ってるじゃねえか。女の弱さを理解してやれよ」
 徹平はむきになって芳江への忠告を阻止した。
『おおっ』と言う感嘆の声が殺風景な病室にあがりました。病室にいる全員の、そして隣のじいさんまでがその声に誘発されて入り口に視線を集中しました。そこには牛乳ビンの口から大きく広がる鮮やかな花達が競演していました。勿論主役はサラマリアさんで、全ての花を抑えて一番きれいに咲き誇っていました。向いで療養している、中年男性患者の付き添い婦がサラさんに近寄り、「綺麗だねえ。おめでとう、幸せにね」と声をかけると、病室から拍手が沸き上がりました。隣のじいさんも半身起こしておもいっきり手を叩いていました。
「全くしょうがねえなあ、やっちんカーテン閉めろ」
 嬉しくてしょうがなくて、泣きっ面を見られるのが恥ずかしい徹平はカーテンの中で泣いていました。

 事件から3週間が経ち普段通りの生活に戻った。
「おふくろっ、早くしてくれよ。ああっ漏れそうだ」
「母さんまだ時間かかりますよ。雄二君ちで借りなさいよ」『ブキョブキョビッチョ』
「なんだブキョブキョって、何を食えばそんな音で出て来るんだよ、ちっきしょうふざけやがって」
 今日は学校まで我慢するのは無理のような気がする、いちかばちかの勝負をかけて、途中で漏らしてしまったらそれこそ大恥をかく。中学生のときの二の舞はこりごりだ、想い出すだけで臭ってくる。
 生まれつき腸の出来が良くないせいか食後すぐにトイレに駆け込む。それが習慣になっていて、おふくろや弟に先を越されると時間に余裕のない朝は非常に困る。中学で無遅刻無欠席を優一の勲章と考えていた俺はぎりぎりまで待っていたがおふくろは出てくるどころか、一層激しくブチかまし続けた。仕方なく用を足さずに登校する嵌めになってしまった。堪えに堪えて校門までの最後の上り坂に差し掛かったとき、後から忍び寄って来た徹平がいきなり指浣腸したのだ。集中して捻る事によって詮をされていた腸と外部との通用門は外からの不法侵入者によっていとも簡単に破られてしまった。開いた穴は自力では塞げない。俺は垂れるに任せて男子トイレまで走った。下着は見るも無惨に汚されていたが、幸い学生ズボンに害はなく、用を足した俺はパンツを脱ぎ、カバンの中から弁当箱を取り出して、包んでいた新聞紙に汚れたパンツを丸めた。今日の授業に体育はないし、誰にもばれる事はないと安心してトイレをあとにしたのだが甘かった。
「何これ?」
徹平がゴミ箱の蓋を持ち上げ言った。
「んっ臭せい、何だよやっちんこの新聞紙はよ?まさか」
 徹平は俺の股間に神経を集中させ透視を始めた。
「パンツかこれ?ええっフルチンかよやっちん」
「見えるのか徹平?透けてるか?」
「バーカひっかかりやがんの」
「徹平、てめえ汚ねえぞ、騙しやがって」
「勘違いするなよ、汚いのは俺じゃなくておまえ。クソ漏らして、汚れたツンパ丸めてポイかよ。こりゃあ受けるぞ」
「受けるって誰に、おまえまさかチクルんじゃねえだろうな。親友じゃねえか」
「ああそうだ親友だ。この事は誰にも話さない。俺んちは嘘つくとおじいさんに拳骨喰らうから約束は守る。でも話したくて話したくてしょうがないおいしい話を生涯我慢するんだからそこんとこヨロシク」
「なんだよヨロシクって。わかった、カツ丼奢るよ」
「まあ今日はそれでいいや。でもこれはカード代わりに使わせてもらうよ。初めてのアコム♪」
 それから現在に至るまで、自分に都合の悪い時、俺に協力を求める時にちらつかせる。俺がとぼけていると丸めてポイとか、クソ塗れとか、妙な節をつけて唸りだす。今更誰に知れようと気にしているわけではないが、徹平のその仕草が可笑しくて従っている。
「ばあちゃん、悪いけど便所貸してくれ。雄二はもう行ったのか?」
「ああ、たんと垂れてけ。あの子は朝連で早く出かけた。ところでやっちん、うちの子に彼女おるんか?」
「いいや、聞いてない。ばあちゃんもうちょっと辛抱しとけよ、秋には水洗にするっておやじ言ってたから」
「なーに気にしちゃいねえ、近所に畑でもあればぶんまいてやるんだが、そうだおめえんとこの畑に撒いてやるか、これから茄子や胡瓜の苗植えるんでねえか?」
「いやあまずいよばあちゃん。周りは住宅出来ちゃったし、それに腰に良くないぞ重いもん持ったら」
「なーに少しずつタッパに入れて何回も運べば同じだ、それにおらの腰は寝ていても治るもんでもねえし、お父さんに伝えておいてくれ。次の日曜日にばばあが肥し撒きに行くからって、いい野菜ができるぞ」
「ばあちゃんほんとにいいって。俺時間ないから学校行くからな、ほんとにいいからな畑に肥やし」
 頑固で律儀なばあさんだから油断ならない。うちのおやじに恩を感じていて、どっから手に入れたのか、おやじの消防服姿の写真をちっちゃな観音様の横に並べて立てかけ、毎朝拝んでいると雄二が言ってた。それを聞いたおやじは暫く肩を落としていた。


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