やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 8

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 俺はこの事件が世間に知れて一躍ヒーローなんてのも悪くないなんて考えていた。しかしよく考えるとそんな単純な事件ではない。活劇だけならまだしも、その裏に隠されたどろどろした人間関係までも曝されてしまう。それに主役は俺じゃない、俺は倒れて虫の息だった山田を上から殴りつけただけだ。女子供でもそのくらいできる。もし先輩がいなかったらこんな結末にはならないで、まだ永遠と追撃は続いていただろう。ドブから川、川から河、河から海へと、もし追いついたにしても、どてっ腹をぶち抜かれて俺がくたばっていたに違いない。排水で膨れた身体で海に流され、小魚に突っつかれて穴だらけになって相模湾に沈むんだ。そして大型漁船のスクリューに巻き込まれて跡形も無く消えちまうだろう。俺が消えたことなんかみんな二三日で忘れてしまい、いつもと変わらぬ日常が始まるんだ。そんなもんか。だけど先輩は何者なんだろう、そしてよし乃との関係は。どっちにしても妖しい、妖しいから愉しいのか、今日行こう。

 俺は夢もみずに、夕方まで寝てしまった。
「やすお、起きましたか、包帯取り替えてあげるから下りてきなさい」
おふくろが階段の下で言った。気が付かなかったが右手に大袈裟な包帯が巻いてあった。ちょうちょ結びを外し、ぐるぐる回すと血の染みたガーゼが出てきた。傷口に付着していて剥がすのが痛かった。広げると十字の穴が開いていて血が染み出してきた。俺はチェーンがないのに気付き、タオルケットを跳ね除け階段を駆け下りた。
「おふくろ、チェーンなかったか、俺の右手に巻かれた十字架のネックレス、どこやった?」
「知らないわよお母さんは、あなたの服を脱がせてお風呂に入れるのが精一杯でした。お父さんは臭いからおまえやれって、何も手伝わないのよ」
 そうだ、俺は倒れこむように風呂場に行き、おふくろにシャワーをかけてもらったんだ。掌を広げて、傷口に詰まった泥を、凍みるのを我慢して洗い流したのを覚えてる。その時チェーンはなかった、すると送ってくれたパトカーの中に落としたか、それなら大船署に電話して横田に聞いてみよう。
「もしもし、昨夜はどうもありがとう。君のおかげで人殺しにならなくてすんだよ」
「ああっどうも、びっくりしましたよ。私も警官でなかったらあなたと同じ行動を取ったと思います。実はすっきりしたんです、あいつが沈むのを見て。先生が殴り出した時は既に後ろにいたんです。それでもうやばいなと感じたところで止めたんですよ。ここだけの話にしてください。でも山田の鼻は完全に陥没していたらしいです。素人の拳ではああはならないと鑑識が言ってました。たぶん消えた助け人の一撃でしょう。勿論これは黙ってます。止めるのを故意に遅らせた事と相殺してください」 
「ありがとう。ところで車にチェーン落ちていなかったかなあ、十字架のネックレスなんだけど」
「あっ、先生の手に巻かれていた。覚えていませんか?一緒に送ってくれた山田エバマリアさんが、あなたの拳にキスをしてそれを外し、自分の首に掛け、十字を握り締めてお祈りしていました」
「そうですか、そうだったんですか。すっかりダウンしていたもんで気が付きませんでした。お休みのところ起こしちゃってすいませんでした」
「いえ、こちらこそ、ご苦労様でした」
 ほっとした。俺の拳から直接彼女に戻ったのなら一番望むところだ。今回は神様も素通りせずに彼女に味方してくれたんだろう、ありがたいこった。
「おふくろっ、おやじなんか言ってたか?」
「ええ言っていましたよ。バカッタレって」
「それだけか?」
「ええ、後にも先にもそれだけですよ」
「出かける、ジーパンは?」
「捨てたわよ、あんな物まだ穿くつもりだったの、今朝ビニールに詰めて生ゴミに出しました、ジーパンもTシャツもバンドも右足だけのズックも」
「バンドもか?」
「大体、ジーパン一本とTシャツ二枚で一夏乗り切れると思ってるの?いい機会だからまとめて買って来なさい。お金なかったら出してあげるから」
「わかってねえなあおふくろも、俺は金が無いから衣類を揃えないんじゃねえんだ。必要ないから買わないの。アジアやアフリカの貧困をおふくろだって知ってるだろう。布切れ一枚腰に巻いて、大切に使っているんだ。彼等の、物を大切にする精神を言ってるんだよ俺は」
「いい心掛けねえ、だったらあそこに要らないカーテンあるからお好きなようにデザインして腰に巻いて出掛けなさい。なんなら母さんアイロンかけてあげようか」
「口の減らねえばばあだ、まとめ買いするにも、そこまで着ていく服がねえじゃねえか。礼服と、成人式に着た裾の広がったスーツ、それと浴衣が二枚しかないんだよ。どうやって街まで行くんだよ?」
「浴衣でいいじゃない、この時季の夕方ならちっとも可笑しくないわよ、それにあの浴衣はお父さんが仕立てたもので、とっても高価で粋なものよ」
 病院に見舞いに行くのに礼服じゃまずいし、パンタロン穿いているのを誰かに見られたら三年間はばかにされる。やっぱり浴衣しかないか。
「あっおふくろ、悪いけど五万ぐらい貸してくんない、明日銀行で下ろして来るから」
「一昨日貸した二万はどうしたの、明日返すって。それにあなたの口座にお金なんか入っていませんよ。カードの使用代金が引き落とせないって通知きていたから母さん振り込んでおきましたよ七万八千円。お父さんに相談します」
「わかったわかった、暮れのボーナス一括で返すから」
「暮れのボーナスって、夏のボーナス頂いたばかりじゃない」
「男には断れねえ付き合いが色々あって物入りなんだ。なっおふくろ、俺のキャッシュカード渡してあるじゃねえか、だからおやじに内緒で頼むよ、なっ」
 俺はなんとかおふくろを口説いて金を借りることに成功した。俺は着替えようかと二階に上がったが、どうも股の辺りが生臭いのでシャワーを浴びに再び下におりた。いくらおふくろでも俺の倅や尻の穴まで、指を突っ込んで洗ったわけじゃないだろう。ヘドロが挟まっていたり、もしかしたらアメーバーが大事な倅の皮の内側にへばり付いてるかもしれない。俺はバスルームに行き、足の指の股から、鼓膜のすぐ手前まで、外部と触れている部分は全て石鹸で洗い流した。久し振りにさっぱりした。右手が濡れてしまったのでおふくろに消毒液と軟膏を塗り直してもらい、包帯もあんな大袈裟じゃなく、傷口部分だけにしてもらった。箪笥の中から半紙に繰るまった浴衣を引っ張り出し、パンツ一枚の上に羽織った。兵児帯を締め、立ち鏡に映した。お洒落なおやじが選んだ浴衣だけあって色柄はいい。ただ、着慣れていないせいかどうもしっくりこない。
「おふくろっ、ちょっと見てくれないか、なんか変だな」
「帯の位置が上すぎるのよ。兵児帯は各帯より気持ち下げ目の方が見栄えがいいわ」
 締め終えて浴衣の合わせ部分を帯の上へずりあげた。懐に余裕ができ、見た目もそれなりによくなった。
「いいじゃない。若い頃のお父さんとまではいかないけど三分の一ぐらいには近付けたわ」
「勝手にやってろ」
 外に出ると太陽が地平線ぎりぎりで粘っている。もう梅雨明けも近い、夏休み前に梅雨明けするだろう。物置に行き、自転車を昨夜のドブッ淵に置きっ放しにしたのを思い出した。あんなポンコツ誰も持っていかないだろうけど、浴衣でママチャリじゃカッコつかない。丁度いいところに雄二がクラブ活動から帰って来た。
「おい、雄二、雄二、おい。何とぼけてんだこの前から。男らしくねえなあ、気にいらねえことがあったらぶつかってこいよ。女の腐ったのみてえに無視しやがって」
「俺見たんだ、孝も。やっちん先生が山田と手を組んで歩いているのを、焼肉食わせてもらった晩に」
 やっぱりそうだった。こいつらにはニキビが噴火するぐらい刺激が強かったのかもしれない。俺は嘘でこの場をかわしても、純情なこいつらを裏切るだけだから一部始終を話して聞かせた。
「あの子は二三日の内にはたぶん落ち着いて学校に戻るだろう。噂は波紋みてえに早く大きく広がるもんだ。もし苛めらていたら助けてやってくれ。仲間の少ない弱い奴を守ってやろうじゃねえか俺達で。損な役回りかもしらないけど、いつかきっと誰かが神様に報告してくれるって」
 雄二は大きく頷きばあちゃんが待つアパートのドアを開けた。カバンとショルダーバックを中に投げ入れ、こっちに振り返り、大きく振りかぶって俺の胸に魂を投げ込んだ。
「ストライークッ」
しっかり受け止めた。それはいいが肝心な自転車の話を忘れてしまった。まあいいや自分で持ってくることにしよう 
 
 徹平の病室に近付くと女の子の笑い声が廊下まで聞こえる。案の定だ、徹平のベッドの周りには看護婦が三人いて、あいつのくだらないジョークに馬鹿受けしているみたいだ。
「おい、何やってんだよ、入って来いよ」
 俺の着流しに驚いたのか看護婦達は逃げるように部屋から出て行った。
「どうだ、傷の具合は?」
「傷ってこれか?こんなのどうってことねえよ、皮を五六枚突かれただけだ。だけど俺としたことが迂闊だった。安アパートは廊下も狭いし、天上も低いからそれで避けきれなかったんだ。あれが外だったら三メートルも跳ね上がって、空中で二回転して奴の頭の上に着地してよ、サンバのステップでも踏んでやったのによ、惜しいことしたぜ」
「おまえジルバも踊れねえじゃねえか、そんなことより彼女は大丈夫か?」
「大丈夫てっのは身体のことか?傷はおまえも知ってる頬の傷だけだ。だけど精神的なものは計り知れないなあ、これから一生涯付きまとい、癒えるのかどうか俺には何とも言えない、やっちん、おまえには色々面倒かけたなあ。それにあのドブ川で捕り物したんだって、カッコつけやがって。俺も誘ってくれればよかったのによう。あの野郎の首っ玉押さえて、たらふく排水を飲ませてやったのに」
「そりゃ無理だ。あのドブ川なあ、思ったより深くて、徹平だったら口まで浸かって溺れちまってたよ。それにその突かれた腹の穴によ、汚泥の住人であるゴカイやミミズが入り込んで腸に貯まった排泄寸前の液体をみんな吸われちまうぞ」
「けっこうじゃねえか、ついでに腸の中まで這って行ってもらってちゅるちゅる吸ってくれりゃあダイエットにもなるしな」
 もう心配ない。三途の川の手前から帰還したこの口達者なチビは、閻魔様に喝を入れられたのか、よりグレイトになって還ってきた。
「これから山田さんちに顔出してくる。俺は母親より娘が心配でな、まあ俺に何かできるわけじゃあないけど、昨夜彼女やお前の電話を無視して、飲んだ暮れてた俺にも責任があるしな。取り敢えず様子見程度だけど行ってくるよ。おまえから伝えたい事何かあるか」
 徹平は隣のベッドでカステラに齧り付いているじいさんを見つめていた。ぼろぼろとカスがこぼれているが気にしている風も無い。右足の親指の爪でぼりぼりと左足の甲を掻き始めた。
「しょうがねえなあ、何もかもよ。やっちん、和服のときは大股で歩くのは止めとけよ、じいさん、ようじいさん、家族はいるのか?」
 じいさんは耳が遠いのか面倒臭くてとぼけているのか、徹平の呼びかけに返事もせず音の聞こえないテレビを見てにやにやしていた。
「あっそうそうおやじさんに礼言っておいてくれ、それとおばさんが明日来るらしいけど何も不自由してないから気を使わないでくれって」
「うちのおやじ来たのか今日?」
「ああ、見舞金までいただいちまって悪いことした。それから明日来るとき適当な本でも買って来てくれよ。もう暫く退院出来そうもないらしいから」
「頭、組合長さんがお見えになりました」
 恰幅がいい中年の組合長が雪駄履きをぱたぱたいわせて入室した。徹平に近付き、ほっぺたをつねり「ばかやろう」と言った。徹平はこの世界では新参者で、頭連中の中では小僧呼ばわりされている。顔を赤くしてぺこんと頭を下げた。俺と相対するときとは雲泥の差があり、お膳に上がってつままれた子猫のようだった。俺はとばっちりを喰う恐れがあるので何も言わずに撤退した。陽は沈み風が吹き始めた。着流しが心地良く、人目も気にならなくなってきた。
俺は明日からの通勤及び普段着兼よそいきのジーパンとTシャツを仕入れに、いつも行く街外れの小さな店に寄った。いつもと言っても一年に一回であるが、服屋はここしか知らない。ウインドウに映る着流しに一寸躊躇ったが、今日ここで買わなければ明日からこの格好で通勤しなければいけないと思うと恥ずかしがってる余裕はない。
「いらっしゃい、あらま、どうしたの今日は」
 おかまっぽい喋り口の店長が俺のつま先から脳天まで一瞥した。実際におかまなのか、そうじゃないのか定かではないが、若い男の腕にぶら下って明け方の街を徘徊していると噂で聞いている。俺達はおかまの店長、訳してかま店と呼んでいる。
「ジーパン一本と白のTシャツ五枚くれる」
「くれるって自分で選んでよ。ジーパンも色々あるから試着してみて、浴衣こっちに預かりましょうか?」
「いや、サイズはわかってるから、それに普通のジーパンでいいんだ、もっともポピュラーなやつで」
「そうおう、残念ねえ、シャツは?」
「無地で襟のしっかりしたのがいい、柄付き、色付きはだめだよ」
「無地はないわよう、あっこれでどう、ロゴが小さく入っているけど目立たないわよ」
 俺は以前購入した完全な無地を見つけてくれるように強く頼んだが、かま店はうちにはそう言った下着の類は置いていないと言い張り、仕方なく、足跡のマークを刺繍してあるTシャツを買った。代金を支払い、近いから家まで届けてくれないかとお願いしたが、出前はやっていないと断られた。このカッコで紙袋を下げて歩くぐらいみっともない真似はないような気がした。それに紙袋のデザインは、短いジーパンの下から半分はみだした尻を見せびらかしている金髪だ。別の袋はないのか訊ねるとかま店はニヤニヤしてそれ以上に露骨な写真がプリントされた袋を自分の胸に押し当てて差し出した。仕方なく袋を丸め、小脇に抱えて表に出た。来年の梅雨時までこの店に用はないし、かま店にも会わなくてすむ。
 
 ドブ川沿いからアパートを窺った。カーテンが閉まっていて確認できないが豆電球が点いているような明るさだ。出かけているのか、それとも疲れて眠っているのか、ただ貝のように押し黙っているのか。ドブを覗き込むと深夜から早朝にかけての乱闘などなかったかのように汚水はゆっくりと確実に海に向かって移動している。よし乃に灯が点った。もしかしたら今日は店を開けないような気がしていたがいつもより一時間遅れで開店した。営利目的ではなく趣味でやってる店だから休んでも構わないのだろうけど、寂しさを紛らわす手段のひとつとして開けたのかもしれない。よし乃の母親は朝鮮人で、帰国して十五年になると告白された。父親は日本人でエバと同じハーフだとも打ち明けた。最近はパトロンから分け与えてもらった青山にあるでっかいマンションには戻らずに、やはりパトロンからもらったこの賃貸マンションの一戸に仮住まいしている。俺が深夜に懐中電灯を借りに訪問したときも、どことなく寂しそうな感じがした。もし、エバとの約束がなかったら俺はよし乃と関係を持ったに違いない。その関係をパトロンに知れたら俺は、いやよし乃はどうなるのだろう。
 アパートに灯りが点いた。どちらかが在宅しているのは間違いない。思い切って行ってみるか、どちらか一人だけだったら、上がり込めば誤解を招くに決まっている。雄二の嫉妬を目の当たりにして、俺のエバに対する心中が微妙に変化してきた。生徒とか子供ぐらいにしか考えていなかったので、腕を組んだり、抱き合ったりしているのを目撃されてもなんの気にもならなかったが、今はそれがひどくいやらしいものに思えてきた。

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