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やっちん先生 7
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「おっす」
「やっちん先生」
彼女が俺に飛びついた。俺もおもいっきり彼女を抱きしめた。気の利いた言葉は浮かばなかったが俺の全身で気持ちを表現した。
「ありがとう、やっちん先生」
伝わった、俺の気持ちが彼女に伝わった。彼女は首から十字のネックレスを外し、俺の掌に握らせ、茶褐色の両手で包んだ。
「お願い、これであいつをぶって、一回でいいからあいつをぶって」
俺はエバの両肩に手を被せ、ただ頷いた。部屋のドアを開け、内側をノックする男がいた。
「すいませんけど、いいでしょうか先生。もう少し彼女達に尋ねたいことがありまして、ええ急ぎなんですよ」
「はい、申しわけありません。僕の用は済みましたのでどうぞ。ところで捕まったんですか?」
古い映画にかぶれているのかどうか、今時珍しい、麻のパンツに開襟シャツを着た刑事が、俺の質問に訝しそうに聞いている。
「総動員でやってはいるんですけどねえ。どこへ姿くらましたのかあの野郎、あっ失礼」
俺は表の若い警官に一礼して山田宅を後にした。俺は山田が捕まらないのが不思議でならなかった。大船駅までは走っても十分は要するし、返り血を浴びていて街には出られないだろう。バスの最終便はとっくに行き過ぎている。タクシーの往来は稀で、呼ばなければ拾えないだろう。辺り一体の住宅、店舗には警察の厳しい捜査が続いているに違いない。溝鼠はドブか。裏のドブ川に潜んでいそうな気がした。俺はよし乃が仮住まいしている店の上のマンションに行きました。青山の自宅に帰ってしまっていないかも知れませんでしたが、もしいたら懐中電灯を借りようと思ったからです。いたとしても懐中電灯なんか持ってない可能性が強いでしょうが、下手の考え休むに似たりで行動に移しました。エレベーターで五階に上がり、各戸の表札を確認して回りましたが、肝心の彼女の苗字を知らず、まさか『よし乃』と案内している筈がなく、自分の早とちりに情けなくなりました。
「やっちん、やっちんたらこっちよ」
後ろを振り向くと臍が丸見えのノースリーブのシャツとピタッとヒップに張り付いた、太腿露な短いパンツ姿のよし乃がドアを半開きにして俺を手招きしてました。俺は視線をパンツに絞り、手招きされるままによし乃に近付いて行きました。
「どこ見てるのよ、このどすけべ」
「いやいや違うんだ。でも何で俺に気が付いたのよっちゃん」
「警察が来て、傷害事件の容疑者が逃走中だから気を付けるようにって。それで眠れなくなってバルコニーで外を眺めていたら、自転車に乗ったノッポを見つけたの。目を凝らしてよく見ると、そのノッポがやっちんで、このマンションに入るの見たから、もしかしたらうちに来るのかなあと覗き穴覗いていたの。そしたら案の定やっちんがうろうろしてたというわけ」
「そうか、神様のお導きってやつかな」
「入れば」
「いやこんな夜中にレディの部屋に、じゃあお茶だけ」
俺はマンションという住宅に初めて入った。地元の友達の多くは百姓と漁師と職人が多く、大小は兎も角、木造の家しか上がり込んだことはなかった。
「よっちゃん、ゆっくりしちゃいられないんだ。懐中電灯あるかな」
「何するの、まさか強盗でもしようって」
俺はよし乃を視界からずらして受け答えした。そうしないとどうしても彼女の胸元や下半身に神経が集中していまい、目的を忘れてしまいそうだった。俺が部屋を見回す不自然さに、感の鋭い彼女は気がついているだろう。
「実はその事件の被害者は複数いて、どちらも俺に関係があるんだ。一人は俺の親友で脇腹を刺されて入院している。運良く一命は取り留めた。さっき病院で両親と会って話して来たんだ。もう一人は俺が勤めている学校の生徒なんだ。母親はフィリピン人で大船のスナックで給仕をしている。母親もナイフで顔をえぐられ、娘は父親に・・・・」
「いいのやっちん、言わなくて。彼女ハーフなんだ、あたしと一緒ね」
「一緒ってよっちゃん」
「あたしね、お母さん朝鮮人なの。父親は日本人だけどね。母さんは朝鮮に帰ってからもう十五年になるわ。でもひどい父親ね、死刑にすればいいのよ。駄目か、日本の法律は甘いから、五年もしないで出てくるでしょ」
朝鮮人と発声するとその響きが暗く重く聞こえるのは俺だけでしょうか。小学生の頃悪口の代名詞に使っていました。その仕返しか、高校のとき朝鮮高校の生徒に追いかけ回されました。
「どうしたのそのネックレス?可愛いわね、あたしにくれるの?」
「これはその娘のものなんだ。ここに来る前に俺は、事件現場だった彼女達のアパートにいたんだ。家の前を警察が警備していてね、俺は慰めに行ったんだけど言葉ひとつかけられずに退散と惨めなもんさ。帰り際に彼女が俺の拳にこの十字のネックレスを握らせて父親を打ってくれって、一回でいいから打ってくれって。俺さあ、俺に出来ることはそれくらいなんだよね。この思いだけは叶えてやろうって決めたんだ。半月もすれば当事者以外はみんな忘れちまうんだ。親戚も友達も近所の連中だって、もしかしたら俺も例外じゃない。酒かっ喰らって面白そうな話にすぐにつられてしまうんだ。だからそうなる前にこの約束だけは守りたいんだ。仕事首になっても、返り討ちにあって刺されるかもしれないけど、この十字を握った拳をあいつの顔に打ちつけるまでは死なないで踏ん張るつもりだ」
「約束守ってあげて、ねえ約束守ってあげてよ絶対に。そして明日きっと顔出して。でも一人じゃ危ないわ、強力な助っ人を頼んであげる」
そう言って彼女は誰かに電話をした。懐中電灯はお店にあるからと言い、よし乃はレインコートを羽織り、スヌーピーのキーホルダーが付いてる鍵の束をジャラジャラいわせて出て行った。俺はサイドボードの中に飾りのように並べてある一本のブランデーをコーヒーカップになみなみと注ぎ一気に煽った。頭のてっぺんから足の先まで武者震いがした。ブランデーを元に戻し、洗面所で顔を洗った。口の中がべたべたしていて気持ち悪い。そう言えば昨夜も面倒臭くて歯を磨いていない。俺は左手の人差し指に歯磨きを乗せ、しごくように歯と歯茎を擦りつけた。手を洗い十字のチェーンを手首に巻いた。
洗面所から出るとよし乃が戻ってきた。レインコートを羽織っていてよかった。そうでなければ俺の気持ちは萎えていたかもしれない。
「明日、口あけだから俺が」
「縁起悪いけどまあいいわ」
エレベーターの中の鏡が彼女を映し出している。ドアーが閉まると独りっきりになり、さっきと違う震えが背筋に走った。自転車を漕ぎ出すと後から同じようなママチャリが付いて来る。俺は愛車を停め、後ろを振り返るとどこかで会ったことのあるおやじがニコニコしてこっちを見ている。
「先輩か?そうかよっちゃんの言ってた助っ人って先輩か?その気持ちはありがたいけどこりゃあ遊びじゃねえんだ。下手打つと取り返しのつかねえことになっちまうから無理するなって、相手は刃物持ってるから老し寄りには危険だ。よっちゃんにはよく言っておくから帰った方がいいよ。ありがとう、明日、店で会おう」
先輩は頷きながら相変わらずニコニコして俺のあとをついてきた。俺はアパートの反対側に回り込み自転車を降りた。外灯のないドブ川は真っ黒で、灯りなしで人を探し出すのは不可能だ。ドブは道路から三メートルは下がっている。水嵩はどれくらいあるのか確認できないがたぶん五十センチくらいか。ドブ底より道路の方が明るい。立って歩いては奴から見つかってしまうかも知れない。ドブの向こうにアパートが見える。パトカーは止まっているがアパートの廊下に警官の姿はない、車で待機しているのか。俺はガードレールの隙間から目を凝らしアヒル歩きでゆっくりと進んだ。こんなことしていて奴はいるのか、上手くタクシーを乗り継いで、どっかの街の安ホテルで寝てるんじゃないのか、でも居そうな気がする。夢に出て来たあいつは確かにこのドブを住処にしていた。警察に訊かれたら夢で見たからって言うのか。あの若い警官が腹抱えて笑い飛ばすだろう。車は渡れない小さな橋の下で魚が跳ねるような水音がした。俺は立ち止まりその方向に目を凝らした。一瞬だが光った。真っ赤な光だ。なんであそに光が。煙草の火のような気がする。吸う時に指の隙間から零れるようなひかり、間違いない煙草だ、誰かいる、誰かとは山田に決まっている。蒸し暑いからってあんなところで夕涼みする奴はいない。ライトをつけてから飛び降りるか、それとも飛び降りてからライトを点けるか。俺の目的はこの十字で山田を打つことで、捕まえることじゃない。よしライトを点けて、待機している警官に飛び込むのが知れるような大声を出してやろう。俺は立ち上がり煙草のひかりにライトを照らした。いた。奴は両手を広げ顔を隠した。
「やまだあっ」
俺は飛び降りた。水量は以外に多く、腰まであった。間髪いれずに少し離れたところで同じような水音がした。底は汚泥が溜まっているので、足を取られて思うように進めない。
「やまだあ、待てこの野郎」
奴は必至で逃げる。俺も必至で追う。距離は詰まらない。まるでスローモーションのように追い、スローモーションのように逃げる。足を上げる度に汚泥が撹拌され火山の噴火のように沸きあがってくる。それに例えようのない、濃度の濃い、ドブの原液そのものの臭いが鼻を劈く、ジーパンにたっぷり染み込んだ汚物と腐臭で、帰ったらおふくろに叱られるに違いない。逃げる、追う、逃げる、追う。一向に距離は縮まない。スポットライトに曝された悪党は、肩を大きく揺さぶって幅三メートルの競技場をゆっくりとゆっくりと走って行く。突然奴の前の水面が盛り上がった。奴は驚いて立ち止まった。水面から跳ね上がったのは先輩だ。先輩は水中を泳いで山田を待ち伏せしていたのだ。山田がナイフを大きく振りかぶった。
「先輩、危ないっ」
先輩はわかっているよと言わんばかりに頷いた。次の瞬間あまりの速さで、何をしたのかわからなかったが、ぼきっと砕ける音と共に山田は宙を舞った。立ち上がった山田の顔面に先輩の見事な肘撃ちがのめり込んだ。大きな光が俺達を照らした。懐中電灯とは比べ物にならないような眩しい光だ。
「何やっているんだ君達」
警備の若い警官がガードレールの上をジャンプしてドブへ飛び込んだ。俺は水面に顔だけ出して唸っている山田の胸倉を漸くつかまえた。
「おい、ドブ鼠、この拳にはな、エバとキリストさんの、恨みと訓えがたっぷりと詰まってる。覚悟しやがれ」
思いっきり殴った。山田の顔が沈み、浮いてきたとこをまた殴る。上から叩きつけるからかなり効く。五回目を振り下ろそうとしたとき、若い警官に跳ね飛ばされた。
「もういいだろう先生。もういいでしょ先生、死んでしまっては終わりです。こいつに罪を償わせましょう」
もし彼が止めに入ってくれなければ俺は本当に山田を殴り殺していたかもしれない。山田はドブの水を飲んだせいか、嘔吐している。サイレンが鳴り響きドブ川はスポットライトで舞台のように照らされた。映し出されたのは俺と警官と水面でぷかぷかやってる山田の三人だった。先輩の姿はいつの間にか消えていた。たぶん水中をなまずのように下って行ったのだろう。梯子が下ろされ、腰まであるゴム長靴を履いた消防の救助隊員が俺の脇を支えてくれたが俺は腕を振り払い、自分で梯子を上った。若い警官の指示で籠がクレーンで下ろされ、山田を乱暴に押し込んだ。籠で吊り上げられた山田はネズミ捕りに掛かったドブ鼠そのものだった。
「地獄より辛い懲役がたっぷりと待ってるから愉しみにしておけ、このドブ鼠が」
山田宅で事情聴取をしていた刑事が籠の中の山田に向って吐き捨てた。俺はガードレールに背をあずけてへたり込み、よし乃のマンションを見上げた。ベランダに白い人影があった。手を振っているように見えたが俺の勘違いかもしれない。
「先生、やってくれるじゃないの。あの野郎顔ぐしゃぐしゃに潰れてるよ。もうひとりいたらしいけど先生の知り合い?」
「いや全然知らないひとだった。俺がやられそうになったから助けてくれたんでしょう。その辺にいませんか」
俺は先輩の存在をとぼけた。あの俊敏で静かな動き、一撃で相手を沈める打撃、ただ者じゃない。名乗り出れば警察から感謝状や金一封が褒美としてもらえるだろうが、そんなゴミに感動する先輩じゃないだろう。隠しておくのが仁義だ。
「怪我はありませんか?一応病院で検査した方が宜しいのじゃありませんか?」
若い警官は靴を脱ぎ、ズボンを膝までまくっていた。何故だかわからないがその格好が可笑しくて笑いが止まらなくなってしまった。若い警官もつられて大笑いしだした。こうなるとちょっとやそっとじゃ収まらない。緊張から解け一瞬にして緩んだ悩が空回りを始めたのだ。
「しょうがねえなあ、横田、おまえもういいから先生送って帰れ」
笑いが伝染するのを嫌って刑事は現場をあとにした。駆けつけたエバがバスタオルで俺の顔と頭を拭いてくれた。右手を高く掲げると手首のチェーンがサイレンの赤に反射して光っていた。手を開くと十字架が手の平に喰い込んで血が滲んでいた。杭ほど痛くはないだろうがキリストと痛みを分ち合えたような気がした。今度暇な時に聖書でも眺めて見るか、なんかいい事あるかもしれない。
「やっちん先生」
彼女が俺に飛びついた。俺もおもいっきり彼女を抱きしめた。気の利いた言葉は浮かばなかったが俺の全身で気持ちを表現した。
「ありがとう、やっちん先生」
伝わった、俺の気持ちが彼女に伝わった。彼女は首から十字のネックレスを外し、俺の掌に握らせ、茶褐色の両手で包んだ。
「お願い、これであいつをぶって、一回でいいからあいつをぶって」
俺はエバの両肩に手を被せ、ただ頷いた。部屋のドアを開け、内側をノックする男がいた。
「すいませんけど、いいでしょうか先生。もう少し彼女達に尋ねたいことがありまして、ええ急ぎなんですよ」
「はい、申しわけありません。僕の用は済みましたのでどうぞ。ところで捕まったんですか?」
古い映画にかぶれているのかどうか、今時珍しい、麻のパンツに開襟シャツを着た刑事が、俺の質問に訝しそうに聞いている。
「総動員でやってはいるんですけどねえ。どこへ姿くらましたのかあの野郎、あっ失礼」
俺は表の若い警官に一礼して山田宅を後にした。俺は山田が捕まらないのが不思議でならなかった。大船駅までは走っても十分は要するし、返り血を浴びていて街には出られないだろう。バスの最終便はとっくに行き過ぎている。タクシーの往来は稀で、呼ばなければ拾えないだろう。辺り一体の住宅、店舗には警察の厳しい捜査が続いているに違いない。溝鼠はドブか。裏のドブ川に潜んでいそうな気がした。俺はよし乃が仮住まいしている店の上のマンションに行きました。青山の自宅に帰ってしまっていないかも知れませんでしたが、もしいたら懐中電灯を借りようと思ったからです。いたとしても懐中電灯なんか持ってない可能性が強いでしょうが、下手の考え休むに似たりで行動に移しました。エレベーターで五階に上がり、各戸の表札を確認して回りましたが、肝心の彼女の苗字を知らず、まさか『よし乃』と案内している筈がなく、自分の早とちりに情けなくなりました。
「やっちん、やっちんたらこっちよ」
後ろを振り向くと臍が丸見えのノースリーブのシャツとピタッとヒップに張り付いた、太腿露な短いパンツ姿のよし乃がドアを半開きにして俺を手招きしてました。俺は視線をパンツに絞り、手招きされるままによし乃に近付いて行きました。
「どこ見てるのよ、このどすけべ」
「いやいや違うんだ。でも何で俺に気が付いたのよっちゃん」
「警察が来て、傷害事件の容疑者が逃走中だから気を付けるようにって。それで眠れなくなってバルコニーで外を眺めていたら、自転車に乗ったノッポを見つけたの。目を凝らしてよく見ると、そのノッポがやっちんで、このマンションに入るの見たから、もしかしたらうちに来るのかなあと覗き穴覗いていたの。そしたら案の定やっちんがうろうろしてたというわけ」
「そうか、神様のお導きってやつかな」
「入れば」
「いやこんな夜中にレディの部屋に、じゃあお茶だけ」
俺はマンションという住宅に初めて入った。地元の友達の多くは百姓と漁師と職人が多く、大小は兎も角、木造の家しか上がり込んだことはなかった。
「よっちゃん、ゆっくりしちゃいられないんだ。懐中電灯あるかな」
「何するの、まさか強盗でもしようって」
俺はよし乃を視界からずらして受け答えした。そうしないとどうしても彼女の胸元や下半身に神経が集中していまい、目的を忘れてしまいそうだった。俺が部屋を見回す不自然さに、感の鋭い彼女は気がついているだろう。
「実はその事件の被害者は複数いて、どちらも俺に関係があるんだ。一人は俺の親友で脇腹を刺されて入院している。運良く一命は取り留めた。さっき病院で両親と会って話して来たんだ。もう一人は俺が勤めている学校の生徒なんだ。母親はフィリピン人で大船のスナックで給仕をしている。母親もナイフで顔をえぐられ、娘は父親に・・・・」
「いいのやっちん、言わなくて。彼女ハーフなんだ、あたしと一緒ね」
「一緒ってよっちゃん」
「あたしね、お母さん朝鮮人なの。父親は日本人だけどね。母さんは朝鮮に帰ってからもう十五年になるわ。でもひどい父親ね、死刑にすればいいのよ。駄目か、日本の法律は甘いから、五年もしないで出てくるでしょ」
朝鮮人と発声するとその響きが暗く重く聞こえるのは俺だけでしょうか。小学生の頃悪口の代名詞に使っていました。その仕返しか、高校のとき朝鮮高校の生徒に追いかけ回されました。
「どうしたのそのネックレス?可愛いわね、あたしにくれるの?」
「これはその娘のものなんだ。ここに来る前に俺は、事件現場だった彼女達のアパートにいたんだ。家の前を警察が警備していてね、俺は慰めに行ったんだけど言葉ひとつかけられずに退散と惨めなもんさ。帰り際に彼女が俺の拳にこの十字のネックレスを握らせて父親を打ってくれって、一回でいいから打ってくれって。俺さあ、俺に出来ることはそれくらいなんだよね。この思いだけは叶えてやろうって決めたんだ。半月もすれば当事者以外はみんな忘れちまうんだ。親戚も友達も近所の連中だって、もしかしたら俺も例外じゃない。酒かっ喰らって面白そうな話にすぐにつられてしまうんだ。だからそうなる前にこの約束だけは守りたいんだ。仕事首になっても、返り討ちにあって刺されるかもしれないけど、この十字を握った拳をあいつの顔に打ちつけるまでは死なないで踏ん張るつもりだ」
「約束守ってあげて、ねえ約束守ってあげてよ絶対に。そして明日きっと顔出して。でも一人じゃ危ないわ、強力な助っ人を頼んであげる」
そう言って彼女は誰かに電話をした。懐中電灯はお店にあるからと言い、よし乃はレインコートを羽織り、スヌーピーのキーホルダーが付いてる鍵の束をジャラジャラいわせて出て行った。俺はサイドボードの中に飾りのように並べてある一本のブランデーをコーヒーカップになみなみと注ぎ一気に煽った。頭のてっぺんから足の先まで武者震いがした。ブランデーを元に戻し、洗面所で顔を洗った。口の中がべたべたしていて気持ち悪い。そう言えば昨夜も面倒臭くて歯を磨いていない。俺は左手の人差し指に歯磨きを乗せ、しごくように歯と歯茎を擦りつけた。手を洗い十字のチェーンを手首に巻いた。
洗面所から出るとよし乃が戻ってきた。レインコートを羽織っていてよかった。そうでなければ俺の気持ちは萎えていたかもしれない。
「明日、口あけだから俺が」
「縁起悪いけどまあいいわ」
エレベーターの中の鏡が彼女を映し出している。ドアーが閉まると独りっきりになり、さっきと違う震えが背筋に走った。自転車を漕ぎ出すと後から同じようなママチャリが付いて来る。俺は愛車を停め、後ろを振り返るとどこかで会ったことのあるおやじがニコニコしてこっちを見ている。
「先輩か?そうかよっちゃんの言ってた助っ人って先輩か?その気持ちはありがたいけどこりゃあ遊びじゃねえんだ。下手打つと取り返しのつかねえことになっちまうから無理するなって、相手は刃物持ってるから老し寄りには危険だ。よっちゃんにはよく言っておくから帰った方がいいよ。ありがとう、明日、店で会おう」
先輩は頷きながら相変わらずニコニコして俺のあとをついてきた。俺はアパートの反対側に回り込み自転車を降りた。外灯のないドブ川は真っ黒で、灯りなしで人を探し出すのは不可能だ。ドブは道路から三メートルは下がっている。水嵩はどれくらいあるのか確認できないがたぶん五十センチくらいか。ドブ底より道路の方が明るい。立って歩いては奴から見つかってしまうかも知れない。ドブの向こうにアパートが見える。パトカーは止まっているがアパートの廊下に警官の姿はない、車で待機しているのか。俺はガードレールの隙間から目を凝らしアヒル歩きでゆっくりと進んだ。こんなことしていて奴はいるのか、上手くタクシーを乗り継いで、どっかの街の安ホテルで寝てるんじゃないのか、でも居そうな気がする。夢に出て来たあいつは確かにこのドブを住処にしていた。警察に訊かれたら夢で見たからって言うのか。あの若い警官が腹抱えて笑い飛ばすだろう。車は渡れない小さな橋の下で魚が跳ねるような水音がした。俺は立ち止まりその方向に目を凝らした。一瞬だが光った。真っ赤な光だ。なんであそに光が。煙草の火のような気がする。吸う時に指の隙間から零れるようなひかり、間違いない煙草だ、誰かいる、誰かとは山田に決まっている。蒸し暑いからってあんなところで夕涼みする奴はいない。ライトをつけてから飛び降りるか、それとも飛び降りてからライトを点けるか。俺の目的はこの十字で山田を打つことで、捕まえることじゃない。よしライトを点けて、待機している警官に飛び込むのが知れるような大声を出してやろう。俺は立ち上がり煙草のひかりにライトを照らした。いた。奴は両手を広げ顔を隠した。
「やまだあっ」
俺は飛び降りた。水量は以外に多く、腰まであった。間髪いれずに少し離れたところで同じような水音がした。底は汚泥が溜まっているので、足を取られて思うように進めない。
「やまだあ、待てこの野郎」
奴は必至で逃げる。俺も必至で追う。距離は詰まらない。まるでスローモーションのように追い、スローモーションのように逃げる。足を上げる度に汚泥が撹拌され火山の噴火のように沸きあがってくる。それに例えようのない、濃度の濃い、ドブの原液そのものの臭いが鼻を劈く、ジーパンにたっぷり染み込んだ汚物と腐臭で、帰ったらおふくろに叱られるに違いない。逃げる、追う、逃げる、追う。一向に距離は縮まない。スポットライトに曝された悪党は、肩を大きく揺さぶって幅三メートルの競技場をゆっくりとゆっくりと走って行く。突然奴の前の水面が盛り上がった。奴は驚いて立ち止まった。水面から跳ね上がったのは先輩だ。先輩は水中を泳いで山田を待ち伏せしていたのだ。山田がナイフを大きく振りかぶった。
「先輩、危ないっ」
先輩はわかっているよと言わんばかりに頷いた。次の瞬間あまりの速さで、何をしたのかわからなかったが、ぼきっと砕ける音と共に山田は宙を舞った。立ち上がった山田の顔面に先輩の見事な肘撃ちがのめり込んだ。大きな光が俺達を照らした。懐中電灯とは比べ物にならないような眩しい光だ。
「何やっているんだ君達」
警備の若い警官がガードレールの上をジャンプしてドブへ飛び込んだ。俺は水面に顔だけ出して唸っている山田の胸倉を漸くつかまえた。
「おい、ドブ鼠、この拳にはな、エバとキリストさんの、恨みと訓えがたっぷりと詰まってる。覚悟しやがれ」
思いっきり殴った。山田の顔が沈み、浮いてきたとこをまた殴る。上から叩きつけるからかなり効く。五回目を振り下ろそうとしたとき、若い警官に跳ね飛ばされた。
「もういいだろう先生。もういいでしょ先生、死んでしまっては終わりです。こいつに罪を償わせましょう」
もし彼が止めに入ってくれなければ俺は本当に山田を殴り殺していたかもしれない。山田はドブの水を飲んだせいか、嘔吐している。サイレンが鳴り響きドブ川はスポットライトで舞台のように照らされた。映し出されたのは俺と警官と水面でぷかぷかやってる山田の三人だった。先輩の姿はいつの間にか消えていた。たぶん水中をなまずのように下って行ったのだろう。梯子が下ろされ、腰まであるゴム長靴を履いた消防の救助隊員が俺の脇を支えてくれたが俺は腕を振り払い、自分で梯子を上った。若い警官の指示で籠がクレーンで下ろされ、山田を乱暴に押し込んだ。籠で吊り上げられた山田はネズミ捕りに掛かったドブ鼠そのものだった。
「地獄より辛い懲役がたっぷりと待ってるから愉しみにしておけ、このドブ鼠が」
山田宅で事情聴取をしていた刑事が籠の中の山田に向って吐き捨てた。俺はガードレールに背をあずけてへたり込み、よし乃のマンションを見上げた。ベランダに白い人影があった。手を振っているように見えたが俺の勘違いかもしれない。
「先生、やってくれるじゃないの。あの野郎顔ぐしゃぐしゃに潰れてるよ。もうひとりいたらしいけど先生の知り合い?」
「いや全然知らないひとだった。俺がやられそうになったから助けてくれたんでしょう。その辺にいませんか」
俺は先輩の存在をとぼけた。あの俊敏で静かな動き、一撃で相手を沈める打撃、ただ者じゃない。名乗り出れば警察から感謝状や金一封が褒美としてもらえるだろうが、そんなゴミに感動する先輩じゃないだろう。隠しておくのが仁義だ。
「怪我はありませんか?一応病院で検査した方が宜しいのじゃありませんか?」
若い警官は靴を脱ぎ、ズボンを膝までまくっていた。何故だかわからないがその格好が可笑しくて笑いが止まらなくなってしまった。若い警官もつられて大笑いしだした。こうなるとちょっとやそっとじゃ収まらない。緊張から解け一瞬にして緩んだ悩が空回りを始めたのだ。
「しょうがねえなあ、横田、おまえもういいから先生送って帰れ」
笑いが伝染するのを嫌って刑事は現場をあとにした。駆けつけたエバがバスタオルで俺の顔と頭を拭いてくれた。右手を高く掲げると手首のチェーンがサイレンの赤に反射して光っていた。手を開くと十字架が手の平に喰い込んで血が滲んでいた。杭ほど痛くはないだろうがキリストと痛みを分ち合えたような気がした。今度暇な時に聖書でも眺めて見るか、なんかいい事あるかもしれない。
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