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やっちん先生 6
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「いいか、エバこれでおまえも女だ。おまえの母さんと同じ歳に女になったんだ。いずれあの先公にやられちまうんだ。その前に俺が女にしてやっただけだ。いつまでも泣いてないで飯の支度でもしろ。それからなあ、明日の晩からバイトに行け、俺が店を紹介してやるから、母親と一緒じゃやり辛いだろうからな、はははっ。稼げるぞ頑張れば、綺麗なドレスも靴もパパが買ってやるから」
こんな惨い事があっていいのでしょうか。エバは女の直感でドブ鼠野郎の陵辱を予想し、俺を盾に使って防御を試みていたのです。父親からの責め苦に対して、俺に腕を回したのも、身を守る為の女の本能ではなかったのでしょうか。弱い女を守ったり、庇ったりするのが男の義務ですよね。言葉で訴えられない不器用な少女の、身体を張った直訴に感付いてやれなかった自分が情けなかった。何があろうと無かろうと毎日電話しろって言ったのは俺なのに。彼女は下半身丸出しで畳の上でうつ伏せになり、肩を小刻みに揺らしていました。何が辛いって、これ以上辛い事なんて俺には想像できません。一秒たりとて持ち堪えられないロケーションに徹平は飛び込んでしまいました。男ならどうやって彼女に声をかけたらいいのか、どんな慰めも通じないでしょう。もしかしたら神さえも目を逸らし、通り過ぎるのではないでしょうか。徹平はバスルームのドアに掛けてあったバスタオルで彼女を包み、抱きかかえて廊下で待つ母親へ預けました。「ママーッ」と母親の首に抱きつき泣き叫びました。サラさんは涙をいっぱいにため、首を横に振り、神の悪戯に抗議しました。お互いに目を合わせられない口惜しさが、母娘の間にガスのように立ち込め、森羅万象を拒み続けるでしょう。
「よう、てめえ人間か、人間なわけねえよなあ。犬や猫だってこんな酷えことしねえぞ」
「てめえ誰だ。他所の家庭に土足で踏み込みやがってって科白があるけどそれはおめえのことか。いいか、俺の女房と娘だ。サラに騙されて、同伴したぐれえでいい気になりやがって、勘違いも大概にしろよ。てめえがなあ、いくら色気取りしたってこの女は俺の女房なんだよ。俺が乳房を握ればすぐに反応して、覆い被さってくるんだよ。そしてなあ、猪みていにひいひい言って俺の腹の上で昇天するんだ。なんならここで、てめえの目の前で正体暴いてやろうか。サラも興奮していつもより腰を激しく振るかもしれねえぞはははっ。娘も娘だ。親子の血は争えねえなあ。初めは痛がったが直に俺を受け入れたぜ。もう女だ、金さえ払えばおめえだって抱かせてやるぞ。ようチンチクリン」
「もういいのか。それで終いか。てめえが喋ってる間ずーっと息を止めていたぜ。てめえの口臭は腐肉を喰らうハイエナよりひどいぜ、温泉宿の排水口から顔を出すドブ鼠みてえな面しやがって、てめえみてえな野郎は鎌倉に住む資格なんてねえんだよ。生まれも育ちも問わねえし、貧しくたって学が無くたっていいんだ。身体の不自由な人や老寄りに、嘘でもいいから優しい言葉を投げかけて、ご先祖様に、形だけでも手の合わせられる人間だけがこの町で生きていけるんだ。てめえみてえなドブ鼠の皮を被った鼬の屁野郎は、八幡様に成り代わって俺が成敗してやるからそう思え」
よくもまあこんな啖呵がすらすらと出てくるものかと感心します。これだけの啖呵をきれる男に弱い奴はいない筈なんですがねえ映画や芝居では、しかし徹平は例外なんです。逃げ足はすばしっこいんですよ、それにブルース・リーのまねさせたら天下一品です。たぶん今回も『アチャー』とか言ってエバの父親に向っていったに違いありません。蝿叩きパンチを数発浴びせたのがせきのやまでしょう。
「おい、あんちゃん。喧嘩ってのはな、理屈じゃねえんだ。それとな、幾ら拳固で殴ってもな、死なないんだよ。訓えてやるからな、自分の腰にな、こうやってひかりものの柄をあてがってな、頭をかち割られようと、つま先で顔面蹴り上げられようと一直線に臍目掛けて突進するんだ。ひとつ注意があるけどな、いくら恐くても目を瞑ったらだめだよ。わかったな、それじゃあ行くからな、死ねーっこの野郎」
「あらやだ、サイレン止まったわよ、近くで何かあったのかしら」
「こんな時間に気が利かねえなあ、仕事に疲れた若い衆が気分よく飲ってるってのによう。どうせどっかの馬鹿がどっかのアホにどてっ腹ぶち抜かれたんだろうよ。ざまあみろ」
「まあやっちんたらやさしくないのねえ。そろそろお店終いにしよう。やっちん車呼ぶわね」
「追いだすのか、まあいいや」
俺は鉄平が死に損なっているなんてこととは知らずに飲んだくれていました。『よし乃』に通える楽しみがひとつ増えたのが嬉しくて、運転手に釣銭をとっとけと、偉そうに顎を持ち上げた。台所は既に消灯してあり、テーブルに大きな布巾がかけてあった。それを取り払うと、揚げ物ばかりだったのでまた被せた。犬が残った餌に後ろ足で土をかける真意が読めた。鉢に分けてあった生暖かいご飯を茶碗によそって、冷たいわかめの味噌汁をかけて一気に流し込んだ。
「やすお、やすお、温めようか」
おふくろが奥の寝室から声をかけた。
「おやじが目を覚ますからでかい声だすなっていうのに。いいよ、もう食ったから。余ったフライは明日の弁当に入れて。俺寝るよ」
「お風呂は?」
「明日入るから今日はいいや」
「きったない」
吐き捨てておふくろは諦めた。おやじが眼を覚まさないように抜き足で階段を登り、Tシャツとジーパンを脱ぎ捨てて布団に倒れこんだ。タオルケットがサラサラしている。おふくろが取り替えてくれたようだ。今夜はいい夢が見れそうだ。いけねえ、俺は今日何しに大船まで行ったんだ。思い出して鳥肌が立ち上半身を起こした。エバや徹平から電話はなかったかな、もしあればおふくろが言うはずだし問題ないだろう。よし乃の夢でも見て眠るとするか。
・・・『先輩、何喰ってるんですか?美味そうに』
『残念ねえやっちん、あれしかないのよ。市場で威勢のいいのが入ったからって。皮だけ軽く炙って食べたら最高なんだって。特に今日のは小ぶりで活きがいいって』
『やっちん』
『あれ、誰か呼んだぞ、気のせいかな』
『やっちん俺だ、助けてくれ』
『あっ、徹平の声だ。どこだ徹平、どこだ。あっ先輩、ちょっと待った。なんだそれ、それだよそれ、頷いてるだけじゃわかんねえよ。先輩が頭と足を掴んで今齧り付こうとした、それはなんだって聞いてるんだ?見せてみろよ隠さないで、ま、まだ動いているじゃねえか』
『だから威勢のいいのが入ったって言ったでしょ。何回言わせんのよこのとうへんぼく』
『と、とうへんぼく、よっちゃん、そんな化石みてえな売り言葉をよく知ってんなあ』
『やっちん、やっちん、助けてくれ』
『あああっ、先輩その頭よく見せろ。ぎゃあーっ、徹平じゃねえか、おまえこんなとこで何やってんだ』
『だからさっきからおめえのこと呼んでんじゃねえか何回も、助けてくれよ早く、そうしねえとこの歯無しの頷きおやじに喰われちまうよ』
『そうじゃねえよ、なんでおめえがこの皿の上に乗っかって登場してきて、先輩のつまみになりかけてんだって聞いてんだよ、それに軽く火まで通されてよ』
『そんなことはどうだっていいじゃねえか、大体こうなったのもおめえのせいだぞ。いつの間にか俺の後ろからいなくなるからこうなっちまったんだ。おめえのポジションは俺の後ろでカバーすることじゃねえか、飯食ってんのかこのばかやろう』
『よっちゃん、市場で威勢がいいのがってこいつのことか?何をやったか知らねえけどこいつはよう、生まれた時からのだちなんだ。威勢がいいってのはどうかなあ、当たってないように思うんだけどなあ。口ばっかりでまるっきり根性の無い野郎で、食ったって甘ったるくて酒の肴にゃむかねえよ。だから先輩も齧り付くの諦めてくれないかあ。あっそうだ、俺がはたはた奢るから、なあ先輩』
『やっちん、あなたも渡世人の端くれでしょ、往生際の悪い人ね。それにもう遅いのよ。友達の心配するより自分の事を考えたら。見てよその醜い姿』
『醜いって、俺は友達の徹平を、あ、あれれ、なんだこれ、な、なんで俺が魚なんだよ。それにここは皿の上じゃねえか。あっ先輩、俺なんか食ったって美味くないって、うっ、臭えなあ先輩の息、生ゴミのばけつに溜まった汁みてえな臭いがするぜ。あっ止めろって、あああっ・・・』
「やすお、やすお、や、す、おーっ」
「どぎゃーっ」
「何がどぎゃあーっよ失礼ね。電話よ」
俺は喰われる寸前でおふくろに助けられた。もし起こされなければ先輩に喰われて死んでいたかもしれない。突然死なんてのはそんなものだろう。親はありがたい。いくつになっても子供を見守ってくれているんだ。
「電話?何時だよ。こんな夜中に誰だよ。もう寝たから明日にしろって」
「もう五回目よ。可哀相じゃない彼女。生徒じゃないの山田さんて。ほんとにいいのね」
「山田?、五回?、昨夜から五回もかけてきたのか?どうして伝えてくれなかったんだよ、飯食ってるときによ」
「母さんが言おうとしたら父さんが起きるから明日でいいっておまえがそう言ったんじゃないの。それから徹平君からも四回電話があったのよ。一緒だったんでしょ」
「徹平から?」
夜中の二時半でした。俺は階段を転げるように降りて受話器を耳にあてがいましたが、ツーツーと無情の音が俺をせせら笑っているようでした。直感で鉄平の危険を感じました。誰も出なくてもいい、勘は外れでいい、斉藤組にダイヤルするとすぐに番頭兼小頭の卓三さんが出ました。
「深夜にすいません、やっちんです。徹平から何度も電話があったと聞いて」
「やっちん、徹平と一緒じゃなかったのか。あのばか刺されて大船病院に運ばれた。会長も姉さんもとっくに行ってる」
受話器の隙間から零れる悪い知らせは脇に立っていたおふくろの顔色を変えるのに充分なクレパスでした。
「心配するなって、あのチビが死んでたまるか」
俺はさっと着替えを済ませ家を飛び出ました。鉄扉をくぐるときおやじの影が玄関にありました。ママチャリを漕ぎました。競輪選手がスパートをかけるときのようにサドルから尻を上げ、漕ぎ続けました。病院の救急入り口に自転車を投げ捨て、院内に走り込むと会長の膝に泣き崩れているおふくろさんを見つけました。
「徹平は?」
「ああ、なんとか一命は取り留めた。もしかしたら血が必要になるから分けてやってくれないか。やっちんの血が入れば、廻りが良くなってもうちょっと背が伸びるかもな」
会長は涙でたっぷりと目を潤し、それが珠になっておふくろさんの頭に零れ落ちないように踏ん張っていました。男を売るのが商売で、息子の危機にもジョークをかまし、余裕を見せびらかしましたが、はったりにしか聞こえませんでした。担当の看護婦が、明日になれば意識も戻り、あとは回復を待つだけだと、迷子になった兄弟を慰めるように小さくなった二人に微笑みかけていました。俺はロビーに出て、自分の手落ちのように心配しているおふくろに電話をしました。受話器を握ったのはおやじでした。どういう訳か、おやじが出た瞬間我慢していた涙が零れました。
「徹平君は大丈夫だったんだな?」
「ああ、おふくろに云ってくれ。明日には回復して、正月出初のはしごには影響ないって」
おやじが伝えなくても、おふくろに聞こえるように大きな声で受話器に向って怒鳴ったのでわかったでしょう。潮が満ちるごとく、おふくろの顔に赤みが戻るのが、受話器を握る俺の左手に震動してきます。俺は気の落ち着いた会長に事件のあらましを聞き、あとで来るのを約束して山田親子が暮らすアパートへと自転車を飛ばしました。アパートの前にはパトカーが止まっていました。階段を駆け上がると、警官が今にも拳銃を抜く構えで俺に立ち止まるよう威嚇しました。
「失礼ですがどちらにお出でですか?」
「そこの山田さんちなんですけど」
「山田さん宅で事件が起こった関係上お身内以外の訪問は控えていただいていますが、どういう関係でしょうか、それによってはご遠慮願うかもしれません。一応取次ぎはいたしますが」
若い警官はホルダーから手を離さないでいる。薄汚れたジーパンとTシャツ、その上ズック履き姿の長身男が階段駆け上がって来れば誰でも警戒するのが当然だ。無用心に訪問を許可するやさしいおまわりさんよりも、寧ろ、万が一には銃を抜いて対処する心構えがあるこの若い警官を頼もしく思った。俺は正直に身分と訪問の理由を簡単に説明した。若い警官は俺から視線を外すことなくドアを開け、来客を知らせた。
「どうぞ、彼女の担任の先生でしたか、失礼しました。勇気付けてあげてください。私からもお願いします」
俺と同じ公務員だが、その使命感では俺などお呼びでない。カッコつけでなく素直に自分の気持ちを表現できるこの若い警官が羨ましく思った。
「はい、自分に出来る精一杯のやさしさを分けてあげるつもりで来ました」
彼はまるで被害にあった山田母娘が自分の家族であるかのように最高の笑みを浮かべ、俺に敬礼をし、静かにドアを閉めた。
部屋に入ると毛布を被りうずくまる娘と、ある一点を見つめる抜け殻のような母がいた。二人の視線はこの先交差するのだろうか、それとも生涯交わることはないのだろうか、俺にできる事は同情だけか、それも半月もすれば忘れてしまう薄っぺらなものだ。無機質で時の流れさえ止まってしまったこの空間で、その場限りの、出まかせのやさしさなんか通用するのか、俺は畳に染み込んだ血痕を跨ぎ、サラマリアさんに一礼してエバの横に正座した。サラさんは俺が前を通ったのに気が付いたのかどうか、一切反応はなかった。暫くの間、声をかけそびれ俺はエバを上から見つめていた。『こんばんは』だめだ『痛くないかい』ああっ絶対だめだ『どうだい調子は』いいわけねえだろう『電話くれたんだって?』だから来たんじゃねえか『お腹空いてないかい?』飯なんか食えるか『挫けちゃいけないよ』鳥肌が立つ。焦れば焦るほどくだらない言葉が浮かび、逆に俺の存在が二人を遮っているように思えてきました。もし俺がいなければ二人は見つめ合えたんじゃないか。俺がでしゃばったばっかりに遠慮しているんじゃないか。足が痺れ、正座から胡座に崩した。その畳の擦れる音で俺の存在に気が付いたのか、エバが下から俺を見つめた。
こんな惨い事があっていいのでしょうか。エバは女の直感でドブ鼠野郎の陵辱を予想し、俺を盾に使って防御を試みていたのです。父親からの責め苦に対して、俺に腕を回したのも、身を守る為の女の本能ではなかったのでしょうか。弱い女を守ったり、庇ったりするのが男の義務ですよね。言葉で訴えられない不器用な少女の、身体を張った直訴に感付いてやれなかった自分が情けなかった。何があろうと無かろうと毎日電話しろって言ったのは俺なのに。彼女は下半身丸出しで畳の上でうつ伏せになり、肩を小刻みに揺らしていました。何が辛いって、これ以上辛い事なんて俺には想像できません。一秒たりとて持ち堪えられないロケーションに徹平は飛び込んでしまいました。男ならどうやって彼女に声をかけたらいいのか、どんな慰めも通じないでしょう。もしかしたら神さえも目を逸らし、通り過ぎるのではないでしょうか。徹平はバスルームのドアに掛けてあったバスタオルで彼女を包み、抱きかかえて廊下で待つ母親へ預けました。「ママーッ」と母親の首に抱きつき泣き叫びました。サラさんは涙をいっぱいにため、首を横に振り、神の悪戯に抗議しました。お互いに目を合わせられない口惜しさが、母娘の間にガスのように立ち込め、森羅万象を拒み続けるでしょう。
「よう、てめえ人間か、人間なわけねえよなあ。犬や猫だってこんな酷えことしねえぞ」
「てめえ誰だ。他所の家庭に土足で踏み込みやがってって科白があるけどそれはおめえのことか。いいか、俺の女房と娘だ。サラに騙されて、同伴したぐれえでいい気になりやがって、勘違いも大概にしろよ。てめえがなあ、いくら色気取りしたってこの女は俺の女房なんだよ。俺が乳房を握ればすぐに反応して、覆い被さってくるんだよ。そしてなあ、猪みていにひいひい言って俺の腹の上で昇天するんだ。なんならここで、てめえの目の前で正体暴いてやろうか。サラも興奮していつもより腰を激しく振るかもしれねえぞはははっ。娘も娘だ。親子の血は争えねえなあ。初めは痛がったが直に俺を受け入れたぜ。もう女だ、金さえ払えばおめえだって抱かせてやるぞ。ようチンチクリン」
「もういいのか。それで終いか。てめえが喋ってる間ずーっと息を止めていたぜ。てめえの口臭は腐肉を喰らうハイエナよりひどいぜ、温泉宿の排水口から顔を出すドブ鼠みてえな面しやがって、てめえみてえな野郎は鎌倉に住む資格なんてねえんだよ。生まれも育ちも問わねえし、貧しくたって学が無くたっていいんだ。身体の不自由な人や老寄りに、嘘でもいいから優しい言葉を投げかけて、ご先祖様に、形だけでも手の合わせられる人間だけがこの町で生きていけるんだ。てめえみてえなドブ鼠の皮を被った鼬の屁野郎は、八幡様に成り代わって俺が成敗してやるからそう思え」
よくもまあこんな啖呵がすらすらと出てくるものかと感心します。これだけの啖呵をきれる男に弱い奴はいない筈なんですがねえ映画や芝居では、しかし徹平は例外なんです。逃げ足はすばしっこいんですよ、それにブルース・リーのまねさせたら天下一品です。たぶん今回も『アチャー』とか言ってエバの父親に向っていったに違いありません。蝿叩きパンチを数発浴びせたのがせきのやまでしょう。
「おい、あんちゃん。喧嘩ってのはな、理屈じゃねえんだ。それとな、幾ら拳固で殴ってもな、死なないんだよ。訓えてやるからな、自分の腰にな、こうやってひかりものの柄をあてがってな、頭をかち割られようと、つま先で顔面蹴り上げられようと一直線に臍目掛けて突進するんだ。ひとつ注意があるけどな、いくら恐くても目を瞑ったらだめだよ。わかったな、それじゃあ行くからな、死ねーっこの野郎」
「あらやだ、サイレン止まったわよ、近くで何かあったのかしら」
「こんな時間に気が利かねえなあ、仕事に疲れた若い衆が気分よく飲ってるってのによう。どうせどっかの馬鹿がどっかのアホにどてっ腹ぶち抜かれたんだろうよ。ざまあみろ」
「まあやっちんたらやさしくないのねえ。そろそろお店終いにしよう。やっちん車呼ぶわね」
「追いだすのか、まあいいや」
俺は鉄平が死に損なっているなんてこととは知らずに飲んだくれていました。『よし乃』に通える楽しみがひとつ増えたのが嬉しくて、運転手に釣銭をとっとけと、偉そうに顎を持ち上げた。台所は既に消灯してあり、テーブルに大きな布巾がかけてあった。それを取り払うと、揚げ物ばかりだったのでまた被せた。犬が残った餌に後ろ足で土をかける真意が読めた。鉢に分けてあった生暖かいご飯を茶碗によそって、冷たいわかめの味噌汁をかけて一気に流し込んだ。
「やすお、やすお、温めようか」
おふくろが奥の寝室から声をかけた。
「おやじが目を覚ますからでかい声だすなっていうのに。いいよ、もう食ったから。余ったフライは明日の弁当に入れて。俺寝るよ」
「お風呂は?」
「明日入るから今日はいいや」
「きったない」
吐き捨てておふくろは諦めた。おやじが眼を覚まさないように抜き足で階段を登り、Tシャツとジーパンを脱ぎ捨てて布団に倒れこんだ。タオルケットがサラサラしている。おふくろが取り替えてくれたようだ。今夜はいい夢が見れそうだ。いけねえ、俺は今日何しに大船まで行ったんだ。思い出して鳥肌が立ち上半身を起こした。エバや徹平から電話はなかったかな、もしあればおふくろが言うはずだし問題ないだろう。よし乃の夢でも見て眠るとするか。
・・・『先輩、何喰ってるんですか?美味そうに』
『残念ねえやっちん、あれしかないのよ。市場で威勢のいいのが入ったからって。皮だけ軽く炙って食べたら最高なんだって。特に今日のは小ぶりで活きがいいって』
『やっちん』
『あれ、誰か呼んだぞ、気のせいかな』
『やっちん俺だ、助けてくれ』
『あっ、徹平の声だ。どこだ徹平、どこだ。あっ先輩、ちょっと待った。なんだそれ、それだよそれ、頷いてるだけじゃわかんねえよ。先輩が頭と足を掴んで今齧り付こうとした、それはなんだって聞いてるんだ?見せてみろよ隠さないで、ま、まだ動いているじゃねえか』
『だから威勢のいいのが入ったって言ったでしょ。何回言わせんのよこのとうへんぼく』
『と、とうへんぼく、よっちゃん、そんな化石みてえな売り言葉をよく知ってんなあ』
『やっちん、やっちん、助けてくれ』
『あああっ、先輩その頭よく見せろ。ぎゃあーっ、徹平じゃねえか、おまえこんなとこで何やってんだ』
『だからさっきからおめえのこと呼んでんじゃねえか何回も、助けてくれよ早く、そうしねえとこの歯無しの頷きおやじに喰われちまうよ』
『そうじゃねえよ、なんでおめえがこの皿の上に乗っかって登場してきて、先輩のつまみになりかけてんだって聞いてんだよ、それに軽く火まで通されてよ』
『そんなことはどうだっていいじゃねえか、大体こうなったのもおめえのせいだぞ。いつの間にか俺の後ろからいなくなるからこうなっちまったんだ。おめえのポジションは俺の後ろでカバーすることじゃねえか、飯食ってんのかこのばかやろう』
『よっちゃん、市場で威勢がいいのがってこいつのことか?何をやったか知らねえけどこいつはよう、生まれた時からのだちなんだ。威勢がいいってのはどうかなあ、当たってないように思うんだけどなあ。口ばっかりでまるっきり根性の無い野郎で、食ったって甘ったるくて酒の肴にゃむかねえよ。だから先輩も齧り付くの諦めてくれないかあ。あっそうだ、俺がはたはた奢るから、なあ先輩』
『やっちん、あなたも渡世人の端くれでしょ、往生際の悪い人ね。それにもう遅いのよ。友達の心配するより自分の事を考えたら。見てよその醜い姿』
『醜いって、俺は友達の徹平を、あ、あれれ、なんだこれ、な、なんで俺が魚なんだよ。それにここは皿の上じゃねえか。あっ先輩、俺なんか食ったって美味くないって、うっ、臭えなあ先輩の息、生ゴミのばけつに溜まった汁みてえな臭いがするぜ。あっ止めろって、あああっ・・・』
「やすお、やすお、や、す、おーっ」
「どぎゃーっ」
「何がどぎゃあーっよ失礼ね。電話よ」
俺は喰われる寸前でおふくろに助けられた。もし起こされなければ先輩に喰われて死んでいたかもしれない。突然死なんてのはそんなものだろう。親はありがたい。いくつになっても子供を見守ってくれているんだ。
「電話?何時だよ。こんな夜中に誰だよ。もう寝たから明日にしろって」
「もう五回目よ。可哀相じゃない彼女。生徒じゃないの山田さんて。ほんとにいいのね」
「山田?、五回?、昨夜から五回もかけてきたのか?どうして伝えてくれなかったんだよ、飯食ってるときによ」
「母さんが言おうとしたら父さんが起きるから明日でいいっておまえがそう言ったんじゃないの。それから徹平君からも四回電話があったのよ。一緒だったんでしょ」
「徹平から?」
夜中の二時半でした。俺は階段を転げるように降りて受話器を耳にあてがいましたが、ツーツーと無情の音が俺をせせら笑っているようでした。直感で鉄平の危険を感じました。誰も出なくてもいい、勘は外れでいい、斉藤組にダイヤルするとすぐに番頭兼小頭の卓三さんが出ました。
「深夜にすいません、やっちんです。徹平から何度も電話があったと聞いて」
「やっちん、徹平と一緒じゃなかったのか。あのばか刺されて大船病院に運ばれた。会長も姉さんもとっくに行ってる」
受話器の隙間から零れる悪い知らせは脇に立っていたおふくろの顔色を変えるのに充分なクレパスでした。
「心配するなって、あのチビが死んでたまるか」
俺はさっと着替えを済ませ家を飛び出ました。鉄扉をくぐるときおやじの影が玄関にありました。ママチャリを漕ぎました。競輪選手がスパートをかけるときのようにサドルから尻を上げ、漕ぎ続けました。病院の救急入り口に自転車を投げ捨て、院内に走り込むと会長の膝に泣き崩れているおふくろさんを見つけました。
「徹平は?」
「ああ、なんとか一命は取り留めた。もしかしたら血が必要になるから分けてやってくれないか。やっちんの血が入れば、廻りが良くなってもうちょっと背が伸びるかもな」
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「徹平君は大丈夫だったんだな?」
「ああ、おふくろに云ってくれ。明日には回復して、正月出初のはしごには影響ないって」
おやじが伝えなくても、おふくろに聞こえるように大きな声で受話器に向って怒鳴ったのでわかったでしょう。潮が満ちるごとく、おふくろの顔に赤みが戻るのが、受話器を握る俺の左手に震動してきます。俺は気の落ち着いた会長に事件のあらましを聞き、あとで来るのを約束して山田親子が暮らすアパートへと自転車を飛ばしました。アパートの前にはパトカーが止まっていました。階段を駆け上がると、警官が今にも拳銃を抜く構えで俺に立ち止まるよう威嚇しました。
「失礼ですがどちらにお出でですか?」
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若い警官はホルダーから手を離さないでいる。薄汚れたジーパンとTシャツ、その上ズック履き姿の長身男が階段駆け上がって来れば誰でも警戒するのが当然だ。無用心に訪問を許可するやさしいおまわりさんよりも、寧ろ、万が一には銃を抜いて対処する心構えがあるこの若い警官を頼もしく思った。俺は正直に身分と訪問の理由を簡単に説明した。若い警官は俺から視線を外すことなくドアを開け、来客を知らせた。
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俺と同じ公務員だが、その使命感では俺などお呼びでない。カッコつけでなく素直に自分の気持ちを表現できるこの若い警官が羨ましく思った。
「はい、自分に出来る精一杯のやさしさを分けてあげるつもりで来ました」
彼はまるで被害にあった山田母娘が自分の家族であるかのように最高の笑みを浮かべ、俺に敬礼をし、静かにドアを閉めた。
部屋に入ると毛布を被りうずくまる娘と、ある一点を見つめる抜け殻のような母がいた。二人の視線はこの先交差するのだろうか、それとも生涯交わることはないのだろうか、俺にできる事は同情だけか、それも半月もすれば忘れてしまう薄っぺらなものだ。無機質で時の流れさえ止まってしまったこの空間で、その場限りの、出まかせのやさしさなんか通用するのか、俺は畳に染み込んだ血痕を跨ぎ、サラマリアさんに一礼してエバの横に正座した。サラさんは俺が前を通ったのに気が付いたのかどうか、一切反応はなかった。暫くの間、声をかけそびれ俺はエバを上から見つめていた。『こんばんは』だめだ『痛くないかい』ああっ絶対だめだ『どうだい調子は』いいわけねえだろう『電話くれたんだって?』だから来たんじゃねえか『お腹空いてないかい?』飯なんか食えるか『挫けちゃいけないよ』鳥肌が立つ。焦れば焦るほどくだらない言葉が浮かび、逆に俺の存在が二人を遮っているように思えてきました。もし俺がいなければ二人は見つめ合えたんじゃないか。俺がでしゃばったばっかりに遠慮しているんじゃないか。足が痺れ、正座から胡座に崩した。その畳の擦れる音で俺の存在に気が付いたのか、エバが下から俺を見つめた。
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