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やっちん先生 1
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タイムリミットが近づいている。こいつらは俺の出勤前に残された、僅か数分の貴重な時間を狙って邪魔をする。退屈な一日が始まろうとしているのに、いや使い切れないほどの時間を無駄にしているのに何故この時間にターゲットを合わせ、俺に苦痛を与えるのか。俺がどれだけ地獄の苦しみを味わっているか、こいつらにはわかっちゃいない。本当にもうだめだ。一点に神経を集中させて、その螺旋のように捩れた筋肉を締め付ける。通常の呼吸ではもたない。顔の半分をしかめて、もう半分の顔の、薄く開いた唇から大気中の不純物を濾過しながらやさしい酸素だけを吸いとる。しかし二分が限界だ。神が想定した耐久度を超えた締め付けはドリルのように脳天へ突き上げる。
「か、母さん、早くしてくんねえか」
「失礼ね、二階のトイレ使えばいいじゃないの。あなた達専用に作ったトイレなんですから」
くっ、ふざけやがって、俺は内腿の筋肉が引き攣る寸前まで硬直させ、鷹が野ウサギを掴み殺すように階段手摺を握り締め、横歩きで一段一段を確実に踏みしめて登る。
「おおい、美恵子、いつまでしゃがんでんだよ。学校に遅れちまうじゃねえか」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ、生理現象なんですから。トイレぐらい好きな時間にゆっくりさせてくださいよ。下のトイレ使わせていただいたらどうですか?どうせ私がお掃除するんですから」『キューキュルキュルギュー』くわっ、なんだ一体その音は、猛毒ガスが液化の途中で発生する腐敗音か、それとも猛禽達が腐肉を食いちぎる悦楽の宴か。ち、ちきしょう。あっ言い遅れました。俺は鎌倉の八幡高校に勤める徳田安男です。高校に勤めているからといって先生ではありません。雑役係りと申しますか、そうそう昔は用務員さん、その昔は小使いさんなんて、実に無礼な呼び方をしていましたね、学校に家族で寝泊りして、生徒達の為に色々ご苦労なさってくれたのに。今では学校に寝泊りする制度はありません、夜間の警備は警備会社に委託しています。ですから一般の市職員と同じ就業時間であります。学校ではやっちん先生と呼ばれています。「やっちん先生おはようございます」
「お、おっはようーございます、美智子先生急ぎますんであとで」
俺は自転車で学校まで通勤している。飛ばせば五分の道のりだが、山の上にある学校だから、最後の上り坂である二百メートルが強烈に辛い。もうすぐ校門だ、肛門か?頭に浮かぶそんなくだらんギャグに頬を緩めてしまえば一巻の終わりだ。
「やっちん先生、おはようございます。おういつも偉いですねえこの坂を自転車で一気に駆け上がれるのは、いやあ若いっていいですねえ」
「おはようございます、校長先生、お先に」
「あれ、またですか?いやあ失敬、股ですなはっはっは」
ふざけやがって、校長のこのくだらないジョークが以外に効く。俺は昇降口にちゃりんこをぶっ倒し、トイレに駆け込む。極楽、極楽。
「やっちん先生、やっちん先生、やっちんせんせーい」
「ぎゃあっ、あっ吉岡さん」
「失礼ね、私の顔見てぎゃーはないでしょ。いつまで昼寝しているんですか、それに寝言まで言って。ほんとに、言いつけますよ校長に。教頭先生がお捜しです。グラウンドの用具小屋、裏の椿の木に、毛虫がたくさんたかっているので駆除してくださいって」
「あっわかりました。吉岡さん今日は一段とお美しいですねえ。それでびっくりして大きな声をあげっちゃって、すいません。今度うちの奴にその美貌の秘訣を伝授してやってくださいよ」
「ま、やっちん先生たら、それじゃ」
寝起きに吉岡さんの顔が現れたら誰だって驚く。肩の上にドンと乗っかった頭部、その接続を担っている首が無い。大きな口、べったりと塗りたくった真紅のルージュは頬の中央まで切れ上がっている。鼻は無花果の実を押し付けたようだ。目はわからない、それはアイシャドーと言っては失礼で、歌舞伎の隈取に近く、毎日TPOに合わせて変えているせいか、目そのものの形は確認できない。体型は高級ハムを想像して欲しい。その下半分には釣鐘みたいに裾の広がったカーテンのようなスカートを巻いている。カーテンは地面すれすれまで覆っていて中はベールに包まれている。神秘の世界に無理矢理連れて行かれた新任の教師が過去に何人かいたらしいが、いずれも消えていなくなったそうだ。噂だが彼女に喰われてしまったか、まだカーテンの奥に囚われているという説もあるが定かじゃない。ただカーテンを被されたら絶対に逃げられないというのは間違いなさそうだ。彼女は私の同僚で基本的には同じ仕事をしている。四十二才になるベテランで、その上女性と言う事もあって、彼女は校舎内、俺が外と、自然に役割分担が決まってしまった。梅雨明けの夏休みに入る前に校庭の植木に毛虫がつく。駆除はしてもらっているが、薬の散布を外したところにあいつらは群がる。椿の木と相性がいいのかよく棲家に選ぶ。穴のあいた葉っぱがあれば大体こいつらの仕業で、先端の柔らかくて美味しそうな葉を求めて登っていく。おっいたいた、俺は背中に担いだ化学兵器でやつらを皆殺しにする。糊が効かなくなって壁から剥がれ落ちるメモ書きみたいに落ちて行くさまはいつ見ても面白い。ざまあみやがれ地獄に落ちろ。しかし梅雨明け後の晴れた日の暑いこと。
「やっちんせんせいー」
「なんですか教頭先生。こいつらはきっちり始末つけますから心配しないでください。それともご自分で地獄に落としてやりますか?」
「冗談はやめて下さい。私が虫嫌いなのよくご存知でしょ。特に毛虫は大嫌い。神様もよくこんな醜いものをお創りになって、神経疑いますわ」
「そうですか?、意外とかわいいですよ。それに案外いけるかもしれませんよ。あっそうだ、たくさん取れたらフライパンで炒ってみましょうか、あとで職員室にお届けしますよ」
「うわーっまったく下品。25日から始まる校舎の防水工事で、業者の方が調査するらしいので立ち会って案内してあげてください。いいですか、もう最低」
「わかりました、後で、炒って」
背の低い教頭は背中をもぞもぞさせながら逃げるように校庭の真ん中を突っ切った。灼熱の太陽は真上から教頭を攻撃し、影が教頭を盾に隠れている。毎年夏休みに学校の補修工事は行われる。今年は音楽室で水漏れが確認されたので、最優先に防水工事を決定したらしい。
「お世話になります。宜しくお願いします」
こぶとりの銀縁めがねが名詞を差し出した。
「へーっ金城さん。沖縄出身ですか?」
「よくわかりますねえ、さすが先生」
金城性が沖縄県出身者とは誰でも想像がつく。工事関係者は、作業をやり易くするために我々に丁重に接してくる。我々に嫌われると工事に支障をきたすと考えているようだ。そのせいか、歯の浮くようなお世辞を言い、ぺこぺこ頭を下げて接してくる。それが至上命令らしい。なにも俺みたいな役所の一番下っ端に気を使う必要ないのに、仕事を任された監督も楽じゃない。公共事業を巡っての贈収賄事件が頻繁に起きているが、こんな田舎町の小規模な工事にもその慣わしは健在している。「金城さん、なんでも言ってくださいね。校内のあっちこっち鍵かけてあるから、朝、工事を始める前に僕か吉川というもうひとりの技能員に連絡ください」
「ありがとうございます。ご迷惑おかけしますが宜しくお願いします」
「そんなに気を使わないでください、やり辛いから。今度一杯飲りましょうよ、沖縄の話でも聞かせてくださいよ」
「わかりました。早速セット致します」
なにか勘違いしたようだ。俺は気軽にその辺の居酒屋で、割り勘で軽く飲ろうと言ったのに、こいつはたぶん、会社に戻ると俺に催促されたと報告して、ここ一両日中にお姉ちゃんのたくさんいる藤沢あたりのクラブでも予約するだろう。まあいいや、あれこれ言っても要求が多いと誤解されるだけだ。
「以前は屋上を生徒達に開放していたんですが現在は常時施錠してます。これが屋上の鍵です。出入り口は二箇所ありますがどちらもこの鍵で開きます。スペアーがありますので金城さんにあとでひとつ預けます」
久し振りに屋上に出た。ここにはあまり来たくない。それは三年前になるがある悲しい事件があったからです。そう、あの、誰かがカッターで切ったフェンスの外側に、彼女は立っていました。下を覗くと向日葵が並んでいます。三年前と同じです。
「芳恵、なんか美味いもんねえのかよ。こんなクラッカーで酒飲めるかよ」
「うるさいわね徹平、うちは喫茶店よ。スナックじゃないんだからね、昼真っからビール飲んで。あんたがいるからお客さん入り辛いのよ。外からよく見える席に座っているからお客さん恐がって素通りしちゃうんじゃない。こっちに移ってよ。カウンターの一番奥に」
「わかったよ。そんなゴキブリ見るような目をすんなよ。俺だってひとりで時間潰すの大変なんだら。それと芳恵、徹平って呼ぶのはぼちぼち止めてくんねえか。今年から頭になったろ、おまえにでっかい声で徹平って呼ばれると恥ずかしいんだよ」
「いいじゃない同級生なんだから。ババアになったって街で見かけたら徹平って入れ歯飛ばして叫んでやるから。それに何が頭よ、真昼間から酒喰らって、なんかやる事ないの?だから嫁さんも来ないのよ」
「おめえに嫁の説教される筋合いはねえよ。それじゃあ言わせてもらうけどあなたの旦那さんはどうしたんですか?ここ3年ほど拝見しておりませんが、7年前に誓った言葉は偽りだったのでしょうか?あのとき包んだお祝いを返してくれませんか」
「あっそう、頭になったから少しは大人になったかと思っていたけど、カシラじゃなくあたまに来たのね。わかったわ返すわ。でもうちのつけと相殺して残りの4万5千円今払ってよ。さあ早く。ないの?偉そうな事言って。じゃあいいわ、明日の昼FAXで事務所に送っておくから振込んでちょうだい」
「芳恵、やだなあ本気になっちゃって。俺は心配してるんだよ。戻ってきたおまえの第二の人生に俺の持ってる全てで協力しようと思っているんだよ、だからもうちょっと待ってくんない。あっやっちん、てめえ遅いんだよ。いつまで待たせりゃあ気が済むんだよ」
「ふざけんな、約束なんかしてねえじゃねえか。それに学校に電話すんなよくだらねえことでよ」
「仕方ねえじゃねえかおめえ携帯持ってないんだから。それより芳恵が俺を苛めるんだよ、なんとかしてくれよ」
芳恵は中学の同級生で去年実家の一部を改装して喫茶店「ケイ」を開いた。手作りのケーキに評判が出て、そこそこ繁盛している。七年前に結婚して世田谷の大きなうちに嫁いだが、どういうわけか3年前に戻ってきた。子供も二人いたはずだが姿は見ていない。その寂しさを紛らわすために、この店を父上の勧めで今年の一月にオープンした。なぜひとりで戻ってきたのかは知る由もない。俺たち部外者が聞いたところでなんの解決にもならないし、心配を装って同情しても、酒の肴となりすぐに広まる。俺にも野次馬根性はあるがあえて触れないようにしている。
「ねえやっちん、聞いて。徹平が結婚式のお祝い返せって言うの。私が忘れようと努力しているのに」
「わかったわかった、芳恵泣くなよ、お客さん来たらどうすんだ」
「あっこいつ、やっちんの前では女らしくしやがって、さっきは夜叉の如く目を吊り上げて俺に襲いかかって来たくせに」
徹平は佐藤徹平と言って俺の無二の親友だ。おじいさんのおじいさんの代からとび職をしている由緒ある家系の息子だ。先代の親父さんがやり手で店を大きくした。そして今年親父さんの現役引退を機に徹平が五代目頭となった。おじいさんの代からの職人が現役で頑張っているので、徹平に仕事の段取りは回って来ない。町内の行事や付き合いごとに専念していれば用は足りる。時折人手が足りなくなるとベテラン職人達にこき使われている。当然雨降りの日は休みで、飲み仲間を捜しまわっている。大概俺が格好の餌食となる。学校に何度も電話をかけて早く来いと急かす。普通の勤め人は雨降りだろうが大雪だろうが平日に休めるわけないのにこいつには通じない。
「早退けすりゃあいいじゃねえか。どうせ雨降りは外仕事やらねえんだろ。ぼけーっとしてるんだったら時間の無駄じゃねえか、俺と世界情勢でも語り合った方がよっぽど利口じゃねえか」
こいつの理屈は筋が通っている。確かに雨降りは外仕事をしない。校舎内の作業は吉川さんに任せているので俺に出番はない。本でも読んでいるか隠れて寝ているかそんなもんだ。こんな日は税金から給料をいただいているかと思うと俺でも胸が痛む。しかし酒が一杯入ればすぐに忘れて、晴れた日に頑張ればいいじゃねえかと自分自身を慰めている。
「そりゃあ大した仕事はしてないけど、帰るわけにはいかねえだろう。それが俺達サラリーマンの辛いとこよ。職人のようにはいかないよ」
「はい、やっちん。特製ケーキとレモンティ」
「おっこれこれ、ここに来たら芳恵の手作りケーキだよな。うん美味い」
「なーにがうん美味いだって、おめえにケーキの味わかるのかよ。一口で食っちまってよ。こないだも大福食ったあとにつぶアンかこしアンかって聞いてもわかんなかったじゃねえか」
「表現出来ないくらい美味しいってこったよ。おまえもくだらないことよく覚えてるねえ」
「か、母さん、早くしてくんねえか」
「失礼ね、二階のトイレ使えばいいじゃないの。あなた達専用に作ったトイレなんですから」
くっ、ふざけやがって、俺は内腿の筋肉が引き攣る寸前まで硬直させ、鷹が野ウサギを掴み殺すように階段手摺を握り締め、横歩きで一段一段を確実に踏みしめて登る。
「おおい、美恵子、いつまでしゃがんでんだよ。学校に遅れちまうじゃねえか」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ、生理現象なんですから。トイレぐらい好きな時間にゆっくりさせてくださいよ。下のトイレ使わせていただいたらどうですか?どうせ私がお掃除するんですから」『キューキュルキュルギュー』くわっ、なんだ一体その音は、猛毒ガスが液化の途中で発生する腐敗音か、それとも猛禽達が腐肉を食いちぎる悦楽の宴か。ち、ちきしょう。あっ言い遅れました。俺は鎌倉の八幡高校に勤める徳田安男です。高校に勤めているからといって先生ではありません。雑役係りと申しますか、そうそう昔は用務員さん、その昔は小使いさんなんて、実に無礼な呼び方をしていましたね、学校に家族で寝泊りして、生徒達の為に色々ご苦労なさってくれたのに。今では学校に寝泊りする制度はありません、夜間の警備は警備会社に委託しています。ですから一般の市職員と同じ就業時間であります。学校ではやっちん先生と呼ばれています。「やっちん先生おはようございます」
「お、おっはようーございます、美智子先生急ぎますんであとで」
俺は自転車で学校まで通勤している。飛ばせば五分の道のりだが、山の上にある学校だから、最後の上り坂である二百メートルが強烈に辛い。もうすぐ校門だ、肛門か?頭に浮かぶそんなくだらんギャグに頬を緩めてしまえば一巻の終わりだ。
「やっちん先生、おはようございます。おういつも偉いですねえこの坂を自転車で一気に駆け上がれるのは、いやあ若いっていいですねえ」
「おはようございます、校長先生、お先に」
「あれ、またですか?いやあ失敬、股ですなはっはっは」
ふざけやがって、校長のこのくだらないジョークが以外に効く。俺は昇降口にちゃりんこをぶっ倒し、トイレに駆け込む。極楽、極楽。
「やっちん先生、やっちん先生、やっちんせんせーい」
「ぎゃあっ、あっ吉岡さん」
「失礼ね、私の顔見てぎゃーはないでしょ。いつまで昼寝しているんですか、それに寝言まで言って。ほんとに、言いつけますよ校長に。教頭先生がお捜しです。グラウンドの用具小屋、裏の椿の木に、毛虫がたくさんたかっているので駆除してくださいって」
「あっわかりました。吉岡さん今日は一段とお美しいですねえ。それでびっくりして大きな声をあげっちゃって、すいません。今度うちの奴にその美貌の秘訣を伝授してやってくださいよ」
「ま、やっちん先生たら、それじゃ」
寝起きに吉岡さんの顔が現れたら誰だって驚く。肩の上にドンと乗っかった頭部、その接続を担っている首が無い。大きな口、べったりと塗りたくった真紅のルージュは頬の中央まで切れ上がっている。鼻は無花果の実を押し付けたようだ。目はわからない、それはアイシャドーと言っては失礼で、歌舞伎の隈取に近く、毎日TPOに合わせて変えているせいか、目そのものの形は確認できない。体型は高級ハムを想像して欲しい。その下半分には釣鐘みたいに裾の広がったカーテンのようなスカートを巻いている。カーテンは地面すれすれまで覆っていて中はベールに包まれている。神秘の世界に無理矢理連れて行かれた新任の教師が過去に何人かいたらしいが、いずれも消えていなくなったそうだ。噂だが彼女に喰われてしまったか、まだカーテンの奥に囚われているという説もあるが定かじゃない。ただカーテンを被されたら絶対に逃げられないというのは間違いなさそうだ。彼女は私の同僚で基本的には同じ仕事をしている。四十二才になるベテランで、その上女性と言う事もあって、彼女は校舎内、俺が外と、自然に役割分担が決まってしまった。梅雨明けの夏休みに入る前に校庭の植木に毛虫がつく。駆除はしてもらっているが、薬の散布を外したところにあいつらは群がる。椿の木と相性がいいのかよく棲家に選ぶ。穴のあいた葉っぱがあれば大体こいつらの仕業で、先端の柔らかくて美味しそうな葉を求めて登っていく。おっいたいた、俺は背中に担いだ化学兵器でやつらを皆殺しにする。糊が効かなくなって壁から剥がれ落ちるメモ書きみたいに落ちて行くさまはいつ見ても面白い。ざまあみやがれ地獄に落ちろ。しかし梅雨明け後の晴れた日の暑いこと。
「やっちんせんせいー」
「なんですか教頭先生。こいつらはきっちり始末つけますから心配しないでください。それともご自分で地獄に落としてやりますか?」
「冗談はやめて下さい。私が虫嫌いなのよくご存知でしょ。特に毛虫は大嫌い。神様もよくこんな醜いものをお創りになって、神経疑いますわ」
「そうですか?、意外とかわいいですよ。それに案外いけるかもしれませんよ。あっそうだ、たくさん取れたらフライパンで炒ってみましょうか、あとで職員室にお届けしますよ」
「うわーっまったく下品。25日から始まる校舎の防水工事で、業者の方が調査するらしいので立ち会って案内してあげてください。いいですか、もう最低」
「わかりました、後で、炒って」
背の低い教頭は背中をもぞもぞさせながら逃げるように校庭の真ん中を突っ切った。灼熱の太陽は真上から教頭を攻撃し、影が教頭を盾に隠れている。毎年夏休みに学校の補修工事は行われる。今年は音楽室で水漏れが確認されたので、最優先に防水工事を決定したらしい。
「お世話になります。宜しくお願いします」
こぶとりの銀縁めがねが名詞を差し出した。
「へーっ金城さん。沖縄出身ですか?」
「よくわかりますねえ、さすが先生」
金城性が沖縄県出身者とは誰でも想像がつく。工事関係者は、作業をやり易くするために我々に丁重に接してくる。我々に嫌われると工事に支障をきたすと考えているようだ。そのせいか、歯の浮くようなお世辞を言い、ぺこぺこ頭を下げて接してくる。それが至上命令らしい。なにも俺みたいな役所の一番下っ端に気を使う必要ないのに、仕事を任された監督も楽じゃない。公共事業を巡っての贈収賄事件が頻繁に起きているが、こんな田舎町の小規模な工事にもその慣わしは健在している。「金城さん、なんでも言ってくださいね。校内のあっちこっち鍵かけてあるから、朝、工事を始める前に僕か吉川というもうひとりの技能員に連絡ください」
「ありがとうございます。ご迷惑おかけしますが宜しくお願いします」
「そんなに気を使わないでください、やり辛いから。今度一杯飲りましょうよ、沖縄の話でも聞かせてくださいよ」
「わかりました。早速セット致します」
なにか勘違いしたようだ。俺は気軽にその辺の居酒屋で、割り勘で軽く飲ろうと言ったのに、こいつはたぶん、会社に戻ると俺に催促されたと報告して、ここ一両日中にお姉ちゃんのたくさんいる藤沢あたりのクラブでも予約するだろう。まあいいや、あれこれ言っても要求が多いと誤解されるだけだ。
「以前は屋上を生徒達に開放していたんですが現在は常時施錠してます。これが屋上の鍵です。出入り口は二箇所ありますがどちらもこの鍵で開きます。スペアーがありますので金城さんにあとでひとつ預けます」
久し振りに屋上に出た。ここにはあまり来たくない。それは三年前になるがある悲しい事件があったからです。そう、あの、誰かがカッターで切ったフェンスの外側に、彼女は立っていました。下を覗くと向日葵が並んでいます。三年前と同じです。
「芳恵、なんか美味いもんねえのかよ。こんなクラッカーで酒飲めるかよ」
「うるさいわね徹平、うちは喫茶店よ。スナックじゃないんだからね、昼真っからビール飲んで。あんたがいるからお客さん入り辛いのよ。外からよく見える席に座っているからお客さん恐がって素通りしちゃうんじゃない。こっちに移ってよ。カウンターの一番奥に」
「わかったよ。そんなゴキブリ見るような目をすんなよ。俺だってひとりで時間潰すの大変なんだら。それと芳恵、徹平って呼ぶのはぼちぼち止めてくんねえか。今年から頭になったろ、おまえにでっかい声で徹平って呼ばれると恥ずかしいんだよ」
「いいじゃない同級生なんだから。ババアになったって街で見かけたら徹平って入れ歯飛ばして叫んでやるから。それに何が頭よ、真昼間から酒喰らって、なんかやる事ないの?だから嫁さんも来ないのよ」
「おめえに嫁の説教される筋合いはねえよ。それじゃあ言わせてもらうけどあなたの旦那さんはどうしたんですか?ここ3年ほど拝見しておりませんが、7年前に誓った言葉は偽りだったのでしょうか?あのとき包んだお祝いを返してくれませんか」
「あっそう、頭になったから少しは大人になったかと思っていたけど、カシラじゃなくあたまに来たのね。わかったわ返すわ。でもうちのつけと相殺して残りの4万5千円今払ってよ。さあ早く。ないの?偉そうな事言って。じゃあいいわ、明日の昼FAXで事務所に送っておくから振込んでちょうだい」
「芳恵、やだなあ本気になっちゃって。俺は心配してるんだよ。戻ってきたおまえの第二の人生に俺の持ってる全てで協力しようと思っているんだよ、だからもうちょっと待ってくんない。あっやっちん、てめえ遅いんだよ。いつまで待たせりゃあ気が済むんだよ」
「ふざけんな、約束なんかしてねえじゃねえか。それに学校に電話すんなよくだらねえことでよ」
「仕方ねえじゃねえかおめえ携帯持ってないんだから。それより芳恵が俺を苛めるんだよ、なんとかしてくれよ」
芳恵は中学の同級生で去年実家の一部を改装して喫茶店「ケイ」を開いた。手作りのケーキに評判が出て、そこそこ繁盛している。七年前に結婚して世田谷の大きなうちに嫁いだが、どういうわけか3年前に戻ってきた。子供も二人いたはずだが姿は見ていない。その寂しさを紛らわすために、この店を父上の勧めで今年の一月にオープンした。なぜひとりで戻ってきたのかは知る由もない。俺たち部外者が聞いたところでなんの解決にもならないし、心配を装って同情しても、酒の肴となりすぐに広まる。俺にも野次馬根性はあるがあえて触れないようにしている。
「ねえやっちん、聞いて。徹平が結婚式のお祝い返せって言うの。私が忘れようと努力しているのに」
「わかったわかった、芳恵泣くなよ、お客さん来たらどうすんだ」
「あっこいつ、やっちんの前では女らしくしやがって、さっきは夜叉の如く目を吊り上げて俺に襲いかかって来たくせに」
徹平は佐藤徹平と言って俺の無二の親友だ。おじいさんのおじいさんの代からとび職をしている由緒ある家系の息子だ。先代の親父さんがやり手で店を大きくした。そして今年親父さんの現役引退を機に徹平が五代目頭となった。おじいさんの代からの職人が現役で頑張っているので、徹平に仕事の段取りは回って来ない。町内の行事や付き合いごとに専念していれば用は足りる。時折人手が足りなくなるとベテラン職人達にこき使われている。当然雨降りの日は休みで、飲み仲間を捜しまわっている。大概俺が格好の餌食となる。学校に何度も電話をかけて早く来いと急かす。普通の勤め人は雨降りだろうが大雪だろうが平日に休めるわけないのにこいつには通じない。
「早退けすりゃあいいじゃねえか。どうせ雨降りは外仕事やらねえんだろ。ぼけーっとしてるんだったら時間の無駄じゃねえか、俺と世界情勢でも語り合った方がよっぽど利口じゃねえか」
こいつの理屈は筋が通っている。確かに雨降りは外仕事をしない。校舎内の作業は吉川さんに任せているので俺に出番はない。本でも読んでいるか隠れて寝ているかそんなもんだ。こんな日は税金から給料をいただいているかと思うと俺でも胸が痛む。しかし酒が一杯入ればすぐに忘れて、晴れた日に頑張ればいいじゃねえかと自分自身を慰めている。
「そりゃあ大した仕事はしてないけど、帰るわけにはいかねえだろう。それが俺達サラリーマンの辛いとこよ。職人のようにはいかないよ」
「はい、やっちん。特製ケーキとレモンティ」
「おっこれこれ、ここに来たら芳恵の手作りケーキだよな。うん美味い」
「なーにがうん美味いだって、おめえにケーキの味わかるのかよ。一口で食っちまってよ。こないだも大福食ったあとにつぶアンかこしアンかって聞いてもわかんなかったじゃねえか」
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