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労災調査士『ファイル22 墜落(レッコ)』 4

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 落下現場に向かう織田の胸中は複雑であった。藤木源三郎は先代からの職人で現在六十七歳を回った大ベテランである。難易度の高い仕事は全て彼の指示で動いている。怪我の状態は、もし死亡事故になったらどうなる、十月から乗り込む予定の相模原の現場はだいじょうぶなのだろうか、藤木の身体の状態より、自身の生活の心配が優位を占めたのだった。
「源さんだいじょぶか、救急車呼んだ方がいいんでねえか」
 いち早く駆けつけた高品が心配して言った。藤木は寝そべり痛みを堪えていた。
「いいやいいや、なんとかだいじょぶだ」
 腰をおさえて細い声で唸った。
「腰打ったか、くるぶしも腫れてるなあ、捻挫かもしんねえ、よし医者連れて行くから、ちょっと痛えけど辛抱しろよ」
 高品と洋二が藤木を両脇で抱え起こした。誰もいなければ唸り声を轟かせたに違いないが、藤木は涙を垂らしてそれを堪えた。
「おやじ、おんぶした方が源さんも楽だ、どれ、俺に背負わせろ、ちょっと痛えけど源さん我慢しろよ」
 自衛隊はある意味看護のプロである。患者の扱い方は他の職人の比ではない。
「おい、高品さん、救急車呼んだ方がいいんじゃねえか、内臓までいってるかもしれねねぞ」
 応援で来ている山崎が言った。
「とにかく下におろすべ」
 エレベーターのある十八階まで階段を洋二が背負って下りた。織田が上がって来たエレベーターに乗った。
「どうしたんだい、源さん、だいじょうぶかい」
 織田は動揺で茨城弁がひどくなっていた。涙を堪えている藤木が首を縦に振った。意識がしっかりしていることに、駆けつけた織田をはじめ、職員一同胸を撫で下ろした。ロビーは職人達でごった返していた。洋二に背負われた藤木を庇う言葉が飛び交う。藤木は痛みを堪え作り笑顔でいちいち頷く。鳶の藤木を知らない者はこの現場にはいない。車を用意していたのは大竹工業の職員ではなく織田の若い衆の田中であった。藤木を後ろの座席に寝かせると田中の運転で織田が助手席に乗り込み、走り出した。
「織田さん、悪いけど川崎の病院にしてくれ、通うの大変だからよ」
「いいけど、それまで我慢できるかい、四十分ぐらいかかるよ」
「だいじょぶだ」
「あっもしもし、織田ですけど、これから川崎の病院まで連れて行きますので、はい、帰りは少し遅れますので、はい、申訳ありません、はい、分かりました、はい、すいません、はいそうですね、まだ医者の診断待たなければ分かりませんけど、本人も意外としっかりしてましので、はい、すいません、はい、分かりました、はい、お願いします、はい、宜しくお願いします、はい、ご迷惑おかけします、はい、はい、申訳ありません、はい、はい、分かりました」
 電話の相手は大竹工業の保土ヶ谷作業所課長横山である。藤木の容態がそれほど重症でないとの情報が入ると早くも事故隠しが始まる。治療費及び休業補償を約束し、現場での事故を隠すため、労災保険を適用しないよう織田に釘付けしたのである。
「源さん、悪いけど労災は使えないみたいだなあ、休んだ日数の保証はするからって課長が言ってくれたから間違いないよ、それで、健康保険証で治療してもらって、その治療代はうちの会社で負担するから、だから医者に現場のこと言わないでくれないかなあ」
「ああいいよ、悪いな織田さん、迷惑かけちゃって、骨までは言ってないような気がするから二週間も休めば現場に戻れるだろう、悪いな、忙しいとこ」
 二和建設に所属し、大竹工業絡みの仕事を五十年近くに渡り携わってきたベテランが、怪我をしてしまったことを悔い、親方に詫びている。技術が優れ、責任感の強い職人の多くがこのような態度をとる。藤木のように、何憚ることなく労災を適用されて当然の男が、事故を起こしたことを詫びるのだ。
「労災にしてやりゃあいいじゃねえかなあ、公共事業でもねえのによう」
 運転する田中が口を尖らせて言った。田中の発言は誰が聞いても尤もであり、高い労災保険料を支払っているのにそれを使わせない建設会社が不思議でならない。痛みの落ち着いた藤木が少し身体を起こした。
「腰の痛みもだいぶ収まったなあ、くるぶしだけだな、捻挫だなきっと、まあ大したことないからだいじょぶだ」
 藤木が自分に言い聞かせるように腫れたくるぶしを摩りながら言った。
「それじゃあ源さん、医者に聞かれたら家の階段から落ちたことにするか。箪笥を運び込むとき足を踏み外して転げ落ちたってことにしてよ。俺も受付でそういうから」
「分かった、悪いな織田さん、面倒かけるな、よろしく頼むな」
 田中には二人の会話が情けなく、歯痒くてならなかった。過去に事故を起こしたことのない超ベテランが、上からの事故隠しによる押さえつけにあっている。超ベテランは、痛みを我慢して、事故を起こしてしまったことを何度も詫び、難しい立場にある織田を安心させようと、無理に身体を起こし、笑みまで浮かべて怪我の状態が軽症であるとアピールしている。
「まったくよう、そこまでして事故を隠さなきゃならないのかねえ、藤ちゃんがしっかりと面倒看てもらわないで誰が面倒看てもらうんだよ、精一杯働いて、会社のために何十年も貢献してきた藤ちゃんに、そんな思いさせて恥ずかしくないのかねえ、大竹も二和も。会社でしっかり面倒看るから、安心して養生してくれぐらいのこと言えないのかねえ」
 田中の嘆きに織田は反応出来なかった。そんな織田を庇うように藤木が言った。
「田中さん、そう言うなって、会社も色々あるんだから、不景気で仕事も無いから、事故でもあると取れなくなったりするんだろきっと、いやあ、俺が悪いんだ、迷惑かけて悪いなあ、すぐによくなんだろうから田中さん頼むな」
 田中には藤木の下手な態度が不憫でならない。
「藤ちゃん、現場のことなんて気にしないでいいから、しっかりと完治するまで入院して、その分しっかりと手間貰うんだよ。退院したってすぐに復帰出来るわけじゃねえんだから、そのリハビリ期間もしっかりと貰うんだぞ」
「それは大丈夫でしょ、課長が約束してくれたんだから」
 藤木を煽る田中に、織田は辟易としていた。折角まとまりかけた事故の偽装が土壇場で崩れはしないかと心配でならなかった。出来ることなら田中の言うように労災扱いにしてあげたい、しかし、この最悪の景気の中、事故を起こすと査定が下がり、次の仕事の受注に影響するからである。
 バブル崩壊後、土木建築業界に携わる職人達全員が職を失う不安に刈られて生きている。ベテラン連中は、バブル崩壊後の不景気は戦後最大だと口を揃えて言っている。手間賃も最低二万二千円から最高一万五千円に下がった。更に下がる気配を窺っている。それでも仕事があればいい。景気の良い頃みたいに手がけている工事が終われば、次に行く現場が確保されているわけではない。織田もこの保土ヶ谷の現場のあとは決まっていない。十月から乗り込む予定の二子新地の現場も確実ではない。もし確定したとしても始まるまで二ヶ月間は完全に空きになる。それに藤木の容態が予想よりも悪く診断されたら、彼を取り巻く家族や友人が黙ってはいないだろう。隠しきれなくなり労災適用となれば、大竹工業から二和建設はその代償として数か月の指名停止を言い渡される。織田は車中で藤木の怪我が軽傷であることを願った。

(六)

 医者の診断は腰や腕の打ち身と足首の捻挫であった。六十度の勾配を八メートルの高さから滑り落ちたわりには軽症であった。それはただ運が良かっただけではなく、五十年以上の経験と、きつい仕事を全力でこなしてきた故に鍛えられた強靭な肉体であったからこそである。それにベテラン技術者は仕事をしながら墜落のイメージもしている。もしここで滑り落ちたら、風に煽られたら、あのパイプに、あの手摺に摑まる、そんなイメージが一瞬で浮かぶ。だから経験の浅い職人よりずっと軽症で済む。一、鳶として最前線で活躍してきた証である。六十を過ぎたベテランは、大概安全回り等の軽作業に回される。しかし藤木は、鉄骨の立て方、クレーンやエレベーターの組み立て作業などを、鳶職の花形的作業から外れることなくここまでやってきた。その体力は織田班のなかでも群を抜いていた。二~三年前からは鉄人と異名を取っていた。
幸い三日間の入院で自宅療養となった。
「なんだ、今日見舞いに行ったら午前中に退院したって、骨折り損になっちゃったよ」
 二和建設の専務長井が現場休憩室で言った。職人達は三時の休憩時間だった。
「織田ちゃん聞いていた、退院するの?」
「いや、明日とか言っていたけどなあ、早くなったのかなあ」
「そうなの、なんだあのじじい、早くなったら早くなったと朝のうちに織ちゃんにでも電話しとけばいいのになあ、病院の駐車場代、三百円損しちゃったよ、でもまあよかった、大した怪我じゃなくて、三日で退院なんてついてるよほんと」
 専務の長井は誰からも嫌われていた。例外はなく大竹工業の監督も職人達からも嫌われている。長井のいやみで休憩中の職人全員がしらけていた。そんなムードを気にする風もなく長井の毒舌は続いた。
「ところで織田ちゃん、藤ちゃんは健保で受けたのか病院?そしたら請求書もらっておいてくれる今日までの」
「通院はどうします?」
「通院なんていくらもかからないって、湿布取り替えるだけだから、週に一度行くくらいじゃないの、そのくらい自分で払えって、みんなに迷惑かけたんだから、なあ洋ちゃん、洋ちゃんがおんぶして下まで下りたんだって、あの重量級を、大変だったろ?」
「いえそんなことありません」
 長井との面識は三度目だが、みんなが嫌う理由がよく分かった。
「これから所長に退院の報告に行ってくるよ、心配してるだろうから、とりあえず三日間の休業ですんだことにしてもいいだろう、なあ織田ちゃん、どうせここも半月もやればきりがつくんでしょ?」
「そうですね、完全じゃないと思うけど、八人は要らないだろうなあ、三人も残って仮囲いの盛り替えをするぐらいですね」
「そうだろう、じゃあどうせ藤ちゃんは用無しだ、ははは、なあ洋ちゃん?」
 二和建設の職人だけでなく、隣接したテーブルで休憩をとっている他職の職人達まで気分を害し、そして自問するのであった。うちの会社は自分が事故にあったとき面倒看てくれるのか?次の仕事は考えてくれているのかと。ベテラン職人は尚更で、この現場と同時に首になるのではないだろうか心配であった。長井のえげつない発言と、最悪の景気が不安を煽るのであった。
「専務、退院したからってすぐに復帰出来るわけじゃないよ、捻挫は結構かかるから思ったより」
 長井の能書きに嫌気がさしていた田中が我慢出来なくなり藤木を庇って言った。応援で来ている山崎も相槌を打って喜んでいる。織田は波風を立てたくなく、田中のちょっかいに苛立った。
「そうなんだよなあ、逆に折れた方が治りが早いっていう人もいるよなあ確かに、まあそんときはそんときで考えよう、なあ織田ちゃん、さあて、事務所に顔出してご機嫌とってくるか」
 狭い休憩室で二人分の席を占領していた長井が立ち上がって言った。
「これから現場検証するんでしょ、全員で?」
「高品が打ち合わせから戻って来たら全員で行きます」
「ほうらやっぱり全員でしょ、この忙しいのにみんなに迷惑かけちゃうんだよなあ、一人の不心得者のために、いいかいみんな、これを教訓にして残りも僅かなんだから絶対に事故を起こしちゃ駄目だよ、いいね、会社が面倒看るのも限界があるからね、じゃあ織田ちゃん宜しく、なあ洋ちゃん」
 洋二は自分に振られるのが迷惑だった。振られる度にみんなの視線を浴びていた。長井が席を外すとあちこちで溜息が聞こえた。溜息の元は長井のせいだけではない、自分の考えを、長井に面と向かって言えない自分自身の情けなさからでもある。長井に嫌われたら、次の仕事のときに声をかけてもらえない、きっと織田に使わないよう指示するだろう。不景気が、仲間を庇うためのほんの小さな気遣いまで、土俵にすら上げるのを拒んでしまう。
 
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