8 / 17
洪鐘祭でキス 8
しおりを挟む
「いい?説明するね。多分信じてくれないかも。弁天様に手を合わせるでしょ。真剣によ。誰かに思いを寄せる力が届くと弁天様がご褒美をくれるの」
里美が誠二と亨に説明した。
「あたしの勘だけどね、二人の思いが重なる時に鐘突きのおじさんが出てくると思うわ。だから今日は無理かもしれない」
雅恵が愚痴をこぼした。
「おばあちゃん、信じて、元カレをしっかりと想い出して祈って。そうすればきっと叶うわよ。そして愛を引き摺り出すのが先決」
里美が雅恵を元気付けた。
「そうよおばあちゃん、きっと現れるわ」
茶屋の女将も励ました。
「おばあちゃん、あたしが行くからね」
里美が雅恵の代わりを進言した。
「駄目だよ里美、お前に危険なことはさせられないよ。それこそ罰が当たるよ。あたしはもう先が短いし、愛を見つけて、もし戻れなくても、ずっと寄り添って行くよ」
雅恵は覚悟を決めていた。
「ねえ、あたしに協力して」
里美が亨に耳打ちした。雅恵では体力的に無理だと思っている。里美は自分なら愛を連れ出す自信があった。
「どうすればいいの?」
亨が小声で訊き返した。
「あたしの足をしっかり押さえて。絶対に離さないで」
「ああ、絶対に離さない」
亨は初対面の時から里美に好意を抱いていた。里美も敏感に感じていた。
「さあ、弁天様にお祈りしましょう」
茶屋の女将が号令を掛けた。女三人が前列に、男二人がその後ろに並んだ。茶屋の女将に合わせて二礼二拍した。そして手を合わせ祈りを捧げる。雅恵は愛を連れ戻せるように。茶屋の女将は愛が元気でいますように。誠二は愛と付き合いが出来るように。里美は愛を掴まえることが出来ますように。亨は里美が愛を連れてくるように。五人の愛への思いが重なった。
「よっこらしょっと」
弁天堂の左側の格子戸が開いて男の声が聞こえた。五人を睨むように縁側に出て来た。睨んですぐに笑った。男の顔は赤い、それに酒臭い。
「夜は止めようぜ。これが最初で最後だぞ」
男は浴衣の裾を端折った。袖をたくし上げた。豆絞りの手拭いを捩じり上げ鉢巻きにした。縁側から下りる時に足がもつれて転げそうになる。雅恵が支えたが身体の感触がない。雅恵の手が男の肩から入り背中に抜けた。
「大丈夫ですか?」
酒臭くて雅恵が息を止めた。
「ぷはーっ、だから夜は止めようって言ったんだ。まあしょうがねえさ」
ふら付きながらも橦木を掴んだ。二度引いた。
「来るよ」
里美がみんなに言った。三度目に大きく引いて鐘を突いた。鐘の音と共に空気が揺れた。次元の境目が曖昧になる。
「おばあちゃんごめん」
里美が手を伸ばした。異次元に引き上げられる。亨が足を掴んだ。
「見ないで」
パンツが丸見えである。亨は下を向いた。
「駄目だ、押さえ切れない」
亨の足も浮いた。誠二が掴んだ。里美は辺りを見回した。灰色の世界に青い線がある。その線の上に誰かいる。
「愛、愛」
力の限り叫んだ。
「君を迎えに来たんだよ。さあ帰りなさい」
愛と寄り添っていたのは若き日の相馬だった。
「いや、このままこうしていたい」
愛が拒んだ。
「君はまだこの次元に来ることを許されていない。覗くだけが神様のご褒美だよ。さあいつかまた会える日が来る」
「きっと?」
「ああきっとだ?」
相馬が愛と手を繋いで青い線上を伝っている。
「愛、愛」
里美が愛に気付いた。
「愛、迎えに来たよ。みんな心配しているよ」
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんも下にいるよ」
相馬が溜息を吐いた。
「相馬先生はおばあちゃんと愛とどっちが好きなの?」
相馬が微笑んだ。そして愛の手を大きく振った。手が離れて愛が回転しながら里美に近付いた。
「愛、手を出して」
愛が手を伸ばした。里美が愛の手を握った。
「引っ張って」
亨に向けて叫んだ。
「誠二引っ張れ」
誠二が亨の足を引っ張りズボンのベルトを掴んだ。
「もう大丈夫だ、引っ張るぞう」
誠二が地べたに仰向けになり雅恵と女将が亨の腰に抱き付いた。亨が里美を引っ張る。里美の頭がこっちの次元に戻った。愛の足が見えた。
「それ、もっと引っ張って」
愛の足を誠二が掴んだ。靴が脱げて異次元に吸い込まれた。
「あっ、靴」
愛が手を伸ばした。
「買ってあげるから」
雅恵が声を上げた。鐘の音が完全に止んだ。次元の境目が元に戻る。愛が地べたに墜落した。
「愛」
「おばあちゃん」
二人が抱き合った。
「おばあちゃん、ごめん」
愛が泣いた。
「いいのよもう、心配した。もう離さないよ」
「寒い」
愛が震えている。霜が降りたように愛の制服は冷たく湿っている。
「熱いコーヒー淹れようね」
茶屋の女将が厨房に入った。
戦後山ノ内八雲神社の例大祭は簡素になっていた。5年前の昭和35年に中町の子供神輿が作られた。例大祭当日には本神輿と子供神輿の二基を神社下の広場に並べて式典だけが挙げられている状態が続いていた。戦前は神輿渡御が行われていたがそれを知る若い衆も少なくなった。
「誰か神輿を挙げてやれ」
地元の年寄りが例大祭に集まった若い衆に怒鳴った。
「そんなこと言ったってじいさん、この人数で担げるわけねえだろう」
下町で酒屋を営む横田茂三が返した。
「誰かがやらなきゃいつまで経っても挙がらねえじゃねえか。神様は担いでなんぼだ。町中をよ、八雲の神様が練り歩くのを待ちわびてる年寄りが大勢いるだろう。神社までお参り出来る身体じゃねえ、神様が近付いた時だけ手を合わせて賽銭を投げ入れるんだ。年寄り見捨てるおめえ等じゃろくな山ノ内にゃならねえ」
年寄りは言い捨てて神社を後にした。
「勝手なことばっかりいいやがってよ」
式典に参加している若い衆のやる気が失せてしまった。神官も苦笑いをしている。
「だけどじいさんの言うことに一理あるな。誰かがやらなきゃずっとこのままだ」
式典に参加している高宮旅館の主である高宮清吾が腕を組んだ。
「誰がやるんだ、そんな奴はいねえだろう」
横田が首を捻る。
「俺達世代じゃ駄目だろうな。一回り若い世代で威勢のいいのがいねえか」
二人は顔を見合わせた。
「あいつは駄目だ、威勢のいいのとやくざ崩れとは意味が違う。それに神輿渡御となれば囃子を復活させなきゃならねえだろう」
「ああ、それをうちの雅恵にやらせようと考えてる。うちのばあさんが囃子で笛を吹いていたし、さっきのじいさんは太鼓の名手だと聞いている。あれだけ言うんだから断るわけがない。囃子だ、先ずは囃子からだ。下地が出来なきゃ輿は挙がらない」
清吾は雅恵に子供等に囃子を指導するよう目論んだ。洪鐘祭の後に相馬が突然姿を消した。すぐに連絡があるだろうと誰もが楽観していたが3ヶ月を過ぎた例大祭の7月22日になっても音沙汰はなかった。
「それで雅恵ちゃんはどうだ?」
「ああ、普段通りの生活をしているよ。あれ以来店の手伝いもよくやってくれてる。だけど夜中に啜り泣きが聞こえる。忘れられねえんだろうなあ」
式典が終わり解散した。
「雅恵、もう店の方はいいから勉強なさい」
一心不乱に掃除をしている雅恵に礼子が声を掛けた。
「うん、もう少し」
雅恵は手を休めずに答えた。
「お嬢さん、俺、今月で従妹の家に行くんだ」
「えっ、五郎ちゃんそれほんと?」
下働きの五郎は年内で閉館する高宮旅館を出て行く。主の清吾が五郎の親戚に連絡して折り合いがついた。旅館を廃業すれば従業員は必要ない。かと言って脳に障害がある五郎を山ノ内界隈で受け入れてくれるところはない。それも住込みである。飯場を構えている鳶の親方がいるが高所が商売の稼業だから怪我を負わせてはいけないと慎重だった。ましてや商店においては従業員を養うほど余裕はない。五郎の引き受け先が決まらずにいた時に、水戸で百姓をしている親戚から返事があった。清吾は水戸まで足を運び、受け入れ先を確認した。そしてこの人達なら間違いないだろう、五郎を安心してお願い出来ると確信したのである。
「お父さん、五郎ちゃんが田舎に帰るってほんと?」
雅恵は清吾に確認した。
「ああ本当だ。五郎の母親が死んでからずっとうちで預かっていたが、うちも今年で店を閉める。うちに居てもやることはない。それに五郎もあれはあれで気兼ねをする。茨城のな、そこそこ大きい農家だ、五郎の叔母叔父に当たる方で明るくて面倒看のよさそうな人だ。五郎のためにはその方がずっといい」
「五郎ちゃん寂しそうだった」
雅恵も五郎の将来を考えたら清吾の考えに賛成だった。旅館を閉める話には反対していた雅恵だが、礼子に説得されて旅館を継ぐ夢を諦めていた。この6月に祖父が亡くなり、雅恵に賛成してくれる存在も失っていた。
「水戸から叔母さんが迎えに来る。見送ってやれ。あいつはお前が好きなんだ」
「いつ帰るの?」
「27日の昼前だ。ああ、お前は学校だな。父さんと母さん、それとあいつの姉代わりだった岩さんと三人で送る」
雅恵は学校に早引きの届けを出した。
「先生、明日なんですがお昼で早引きしたいんですがお願いします」
相馬の後継で歴史の教師である笹尾に早退願いをした。
「そりゃ先生も意地悪したくないが理由は何なの?」
「うちは旅館を営んでいます。うちでずっと働いていた人が辞めて茨城に帰るんです。駅まで見送りしたいんです」
「その人は住み込みじゃないの?」
「はい」
「なら前日の晩や登校前に挨拶出来るね。それに今生の別れでもあるまいし、わざわざ学校を早退してまで見送らなくても、もっと素敵な送り方があるんじゃないの」
五郎が雅恵を好いているとは打ち明けられない。雅恵が小学5年の時に母親に連れられてきた五郎は15歳だった。雅恵は両親からあの子は頭の病気だからおかしなことを言うんじゃないと厳しく言われた。しかし簡単な足し算を間違えた五郎を笑い飛ばしたことがある。友達を連れて来て一緒に五郎をからかったこともある。人の道として外れたことだけを想い出した。
「先生、お願いします。12時15分の電車に乗るんです。一時間だけ、いや30分だけ抜けさせてください」
雅恵は笹尾に頭を下げた。
「私はいいと言えないよ一度退職して臨時教師としてここに来ている。生徒の一々をイェス、ノーと返事は出来ない」
「誰ならいいんですか?」
「校長に相談してみなさい」
雅恵は校長室に行った。
「どうした?君はこないだ校庭を突っ切った子だな。高宮旅館の娘さんだ」
「はい。申し訳ありませんでした」
あの事件の後に両親を呼ばれて厳しく注意された。
「それで私に何の用かな?」
「明日の午後30分だけ授業を抜けさせてください」
校長はいきなりのお願いに驚いた。
「担任の笹尾先生に話したのかね?」
「はい、私の一存ではと言われ、校長先生にお願いするように言われました」
「そりゃ困ったな」
雅恵は事情を訊かれ正直に答えた。
「それは笹尾先生の言う通りだと私も思いますよ。当日の朝、しっかりと送ればその方も理解してくれるだろう。君に学校を途中で抜けさせてまで見送りをして欲しくないと私はそう思います」
校長も笹尾と同意見である。五郎に障害があることを打ち明ければ分かってくれるかもしれない。しかし雅恵には言えなかった。雅恵は下を向いて黙ってしまった。
「さあ、教室に戻りなさい、授業が始まりますよ」
自宅に戻った。五郎はいつものように街道沿いを掃いていた。
「お嬢さん、お帰りなさい。お世話になりました。今日で仕事は終わりです」
五郎がにこやかに言った。雅恵は苦しくなりその場から逃げた。五郎の部屋は旅館の厨房の隣である。六畳一間で火の扱いは禁じられている。両親は雅恵に五郎の部屋に入ることをずっと禁じていた。その晩五郎の部屋をノックした。
「お嬢さん、駄目です」
厨房から岩が叱った。
「旦那様に言いますよ」
雅恵はその場から走り去った。翌朝、制服に着替えて表に出ると五郎がいない。
「五郎ちゃんは?」
岩に訊ねた。
「あの子部屋に閉じこもっているの、中から鍵かけてね」
清吾が岩から聞き付けてやって来た。
「五郎、五郎、何しているんだ、開けなさい。水戸の叔母さんが迎えに来るのに支度しなければならないだろ。五郎、開けなさい」
清吾がドアに耳を当てる。五郎のすすり泣きが聞こえた。
「これで開けましょうか?」
岩がバールを持ち出した。
「いや、もう少しこうしておいてやろう」
五郎が泣いていると告げれば雅恵が動揺する。雅恵は別れの挨拶をするつもりでいたが叶わなかった。
「今生の別れじゃないんだから、夏休みに会いに行けばいいじゃない」
礼子がその場しのぎの慰めを言った。
「さあ、雅恵は学校に行きなさい。お父さん達がしっかり送るから」
もう時間がない。登校時間にはいつもギリギリだである。だが休んだことはない、それが自慢だった。雅恵は諦めて登校した。三時間目が終了した。12時15分北鎌倉発の電車を見送るには四時間目の途中で抜け出さなければならない。その四時間目は担任の笹尾の授業である。そして12時になった。
「高宮、ちょっと来なさい」
笹尾が雅恵を教壇に呼んだ。
「お前さっきから気分悪そうだな、教室で吐かれては困るぞ。行って来なさい」
生徒達に分からぬようにウインクをした。
「はい、ありがとうございます」
雅恵は教室を出て校庭を走った。
「校長先生、またあの子」
教頭が走る雅恵を指差した。
「ああ、あの子か」
頭を掻いて笑った。
「校長先生ったら」
校長は清吾に電話して事情を訊いていた。それを担任に伝えていたのである。校庭を走る雅恵に教室から拍手が湧いた。
「静かにしなさい」
笹尾が時計を見た。間に合うだろうか心配になる。北鎌駅に着くと電車が動き出した。雅恵はまた街道を走り権兵衛踏切に立った。一両目からずっと目を凝らす。最終車両に五郎がいた。
「五郎ちゃ~ん」
五郎が電車の中できょろきょろしている。
「五郎、あっち見ろ」
叔母が両手を海藻にように揺らす雅恵に気付いた。
「お嬢さん」
権兵衛踏切を電車が行き過ぎる。五郎は後部窓から手を振った。雅恵は遮断機が少し上がると線路に入った。
「五郎ちゃん、ありがとう、元気でね」
声は聞こえないが気持ちは通じる。
「お嬢さん、いい人と結婚して」
五郎が袖で涙を擦る。叔母が手拭いて拭き取った。車掌が五郎と雅恵を交互に見ていた。雅恵は五郎を見送ることが出来て嬉しかった。何より手を振り合えたのが良かった。一緒に暮らした13年間、五郎から教わることはたくさんあった。からかった記憶が薄れて行った。そして学校に向けて走った。
「校長先生、あの子です」
教頭が指差した。雅恵の表情を見れば見送りが叶ったことを証明している。
「うん、無いことにしよう」
「校長先生ったら」
校庭を走る雅恵に拍手が湧いた。雅恵が手を振った。
「こら、拍手は止めなさい」
担任の笹尾が笑って叱った。
里美が誠二と亨に説明した。
「あたしの勘だけどね、二人の思いが重なる時に鐘突きのおじさんが出てくると思うわ。だから今日は無理かもしれない」
雅恵が愚痴をこぼした。
「おばあちゃん、信じて、元カレをしっかりと想い出して祈って。そうすればきっと叶うわよ。そして愛を引き摺り出すのが先決」
里美が雅恵を元気付けた。
「そうよおばあちゃん、きっと現れるわ」
茶屋の女将も励ました。
「おばあちゃん、あたしが行くからね」
里美が雅恵の代わりを進言した。
「駄目だよ里美、お前に危険なことはさせられないよ。それこそ罰が当たるよ。あたしはもう先が短いし、愛を見つけて、もし戻れなくても、ずっと寄り添って行くよ」
雅恵は覚悟を決めていた。
「ねえ、あたしに協力して」
里美が亨に耳打ちした。雅恵では体力的に無理だと思っている。里美は自分なら愛を連れ出す自信があった。
「どうすればいいの?」
亨が小声で訊き返した。
「あたしの足をしっかり押さえて。絶対に離さないで」
「ああ、絶対に離さない」
亨は初対面の時から里美に好意を抱いていた。里美も敏感に感じていた。
「さあ、弁天様にお祈りしましょう」
茶屋の女将が号令を掛けた。女三人が前列に、男二人がその後ろに並んだ。茶屋の女将に合わせて二礼二拍した。そして手を合わせ祈りを捧げる。雅恵は愛を連れ戻せるように。茶屋の女将は愛が元気でいますように。誠二は愛と付き合いが出来るように。里美は愛を掴まえることが出来ますように。亨は里美が愛を連れてくるように。五人の愛への思いが重なった。
「よっこらしょっと」
弁天堂の左側の格子戸が開いて男の声が聞こえた。五人を睨むように縁側に出て来た。睨んですぐに笑った。男の顔は赤い、それに酒臭い。
「夜は止めようぜ。これが最初で最後だぞ」
男は浴衣の裾を端折った。袖をたくし上げた。豆絞りの手拭いを捩じり上げ鉢巻きにした。縁側から下りる時に足がもつれて転げそうになる。雅恵が支えたが身体の感触がない。雅恵の手が男の肩から入り背中に抜けた。
「大丈夫ですか?」
酒臭くて雅恵が息を止めた。
「ぷはーっ、だから夜は止めようって言ったんだ。まあしょうがねえさ」
ふら付きながらも橦木を掴んだ。二度引いた。
「来るよ」
里美がみんなに言った。三度目に大きく引いて鐘を突いた。鐘の音と共に空気が揺れた。次元の境目が曖昧になる。
「おばあちゃんごめん」
里美が手を伸ばした。異次元に引き上げられる。亨が足を掴んだ。
「見ないで」
パンツが丸見えである。亨は下を向いた。
「駄目だ、押さえ切れない」
亨の足も浮いた。誠二が掴んだ。里美は辺りを見回した。灰色の世界に青い線がある。その線の上に誰かいる。
「愛、愛」
力の限り叫んだ。
「君を迎えに来たんだよ。さあ帰りなさい」
愛と寄り添っていたのは若き日の相馬だった。
「いや、このままこうしていたい」
愛が拒んだ。
「君はまだこの次元に来ることを許されていない。覗くだけが神様のご褒美だよ。さあいつかまた会える日が来る」
「きっと?」
「ああきっとだ?」
相馬が愛と手を繋いで青い線上を伝っている。
「愛、愛」
里美が愛に気付いた。
「愛、迎えに来たよ。みんな心配しているよ」
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんも下にいるよ」
相馬が溜息を吐いた。
「相馬先生はおばあちゃんと愛とどっちが好きなの?」
相馬が微笑んだ。そして愛の手を大きく振った。手が離れて愛が回転しながら里美に近付いた。
「愛、手を出して」
愛が手を伸ばした。里美が愛の手を握った。
「引っ張って」
亨に向けて叫んだ。
「誠二引っ張れ」
誠二が亨の足を引っ張りズボンのベルトを掴んだ。
「もう大丈夫だ、引っ張るぞう」
誠二が地べたに仰向けになり雅恵と女将が亨の腰に抱き付いた。亨が里美を引っ張る。里美の頭がこっちの次元に戻った。愛の足が見えた。
「それ、もっと引っ張って」
愛の足を誠二が掴んだ。靴が脱げて異次元に吸い込まれた。
「あっ、靴」
愛が手を伸ばした。
「買ってあげるから」
雅恵が声を上げた。鐘の音が完全に止んだ。次元の境目が元に戻る。愛が地べたに墜落した。
「愛」
「おばあちゃん」
二人が抱き合った。
「おばあちゃん、ごめん」
愛が泣いた。
「いいのよもう、心配した。もう離さないよ」
「寒い」
愛が震えている。霜が降りたように愛の制服は冷たく湿っている。
「熱いコーヒー淹れようね」
茶屋の女将が厨房に入った。
戦後山ノ内八雲神社の例大祭は簡素になっていた。5年前の昭和35年に中町の子供神輿が作られた。例大祭当日には本神輿と子供神輿の二基を神社下の広場に並べて式典だけが挙げられている状態が続いていた。戦前は神輿渡御が行われていたがそれを知る若い衆も少なくなった。
「誰か神輿を挙げてやれ」
地元の年寄りが例大祭に集まった若い衆に怒鳴った。
「そんなこと言ったってじいさん、この人数で担げるわけねえだろう」
下町で酒屋を営む横田茂三が返した。
「誰かがやらなきゃいつまで経っても挙がらねえじゃねえか。神様は担いでなんぼだ。町中をよ、八雲の神様が練り歩くのを待ちわびてる年寄りが大勢いるだろう。神社までお参り出来る身体じゃねえ、神様が近付いた時だけ手を合わせて賽銭を投げ入れるんだ。年寄り見捨てるおめえ等じゃろくな山ノ内にゃならねえ」
年寄りは言い捨てて神社を後にした。
「勝手なことばっかりいいやがってよ」
式典に参加している若い衆のやる気が失せてしまった。神官も苦笑いをしている。
「だけどじいさんの言うことに一理あるな。誰かがやらなきゃずっとこのままだ」
式典に参加している高宮旅館の主である高宮清吾が腕を組んだ。
「誰がやるんだ、そんな奴はいねえだろう」
横田が首を捻る。
「俺達世代じゃ駄目だろうな。一回り若い世代で威勢のいいのがいねえか」
二人は顔を見合わせた。
「あいつは駄目だ、威勢のいいのとやくざ崩れとは意味が違う。それに神輿渡御となれば囃子を復活させなきゃならねえだろう」
「ああ、それをうちの雅恵にやらせようと考えてる。うちのばあさんが囃子で笛を吹いていたし、さっきのじいさんは太鼓の名手だと聞いている。あれだけ言うんだから断るわけがない。囃子だ、先ずは囃子からだ。下地が出来なきゃ輿は挙がらない」
清吾は雅恵に子供等に囃子を指導するよう目論んだ。洪鐘祭の後に相馬が突然姿を消した。すぐに連絡があるだろうと誰もが楽観していたが3ヶ月を過ぎた例大祭の7月22日になっても音沙汰はなかった。
「それで雅恵ちゃんはどうだ?」
「ああ、普段通りの生活をしているよ。あれ以来店の手伝いもよくやってくれてる。だけど夜中に啜り泣きが聞こえる。忘れられねえんだろうなあ」
式典が終わり解散した。
「雅恵、もう店の方はいいから勉強なさい」
一心不乱に掃除をしている雅恵に礼子が声を掛けた。
「うん、もう少し」
雅恵は手を休めずに答えた。
「お嬢さん、俺、今月で従妹の家に行くんだ」
「えっ、五郎ちゃんそれほんと?」
下働きの五郎は年内で閉館する高宮旅館を出て行く。主の清吾が五郎の親戚に連絡して折り合いがついた。旅館を廃業すれば従業員は必要ない。かと言って脳に障害がある五郎を山ノ内界隈で受け入れてくれるところはない。それも住込みである。飯場を構えている鳶の親方がいるが高所が商売の稼業だから怪我を負わせてはいけないと慎重だった。ましてや商店においては従業員を養うほど余裕はない。五郎の引き受け先が決まらずにいた時に、水戸で百姓をしている親戚から返事があった。清吾は水戸まで足を運び、受け入れ先を確認した。そしてこの人達なら間違いないだろう、五郎を安心してお願い出来ると確信したのである。
「お父さん、五郎ちゃんが田舎に帰るってほんと?」
雅恵は清吾に確認した。
「ああ本当だ。五郎の母親が死んでからずっとうちで預かっていたが、うちも今年で店を閉める。うちに居てもやることはない。それに五郎もあれはあれで気兼ねをする。茨城のな、そこそこ大きい農家だ、五郎の叔母叔父に当たる方で明るくて面倒看のよさそうな人だ。五郎のためにはその方がずっといい」
「五郎ちゃん寂しそうだった」
雅恵も五郎の将来を考えたら清吾の考えに賛成だった。旅館を閉める話には反対していた雅恵だが、礼子に説得されて旅館を継ぐ夢を諦めていた。この6月に祖父が亡くなり、雅恵に賛成してくれる存在も失っていた。
「水戸から叔母さんが迎えに来る。見送ってやれ。あいつはお前が好きなんだ」
「いつ帰るの?」
「27日の昼前だ。ああ、お前は学校だな。父さんと母さん、それとあいつの姉代わりだった岩さんと三人で送る」
雅恵は学校に早引きの届けを出した。
「先生、明日なんですがお昼で早引きしたいんですがお願いします」
相馬の後継で歴史の教師である笹尾に早退願いをした。
「そりゃ先生も意地悪したくないが理由は何なの?」
「うちは旅館を営んでいます。うちでずっと働いていた人が辞めて茨城に帰るんです。駅まで見送りしたいんです」
「その人は住み込みじゃないの?」
「はい」
「なら前日の晩や登校前に挨拶出来るね。それに今生の別れでもあるまいし、わざわざ学校を早退してまで見送らなくても、もっと素敵な送り方があるんじゃないの」
五郎が雅恵を好いているとは打ち明けられない。雅恵が小学5年の時に母親に連れられてきた五郎は15歳だった。雅恵は両親からあの子は頭の病気だからおかしなことを言うんじゃないと厳しく言われた。しかし簡単な足し算を間違えた五郎を笑い飛ばしたことがある。友達を連れて来て一緒に五郎をからかったこともある。人の道として外れたことだけを想い出した。
「先生、お願いします。12時15分の電車に乗るんです。一時間だけ、いや30分だけ抜けさせてください」
雅恵は笹尾に頭を下げた。
「私はいいと言えないよ一度退職して臨時教師としてここに来ている。生徒の一々をイェス、ノーと返事は出来ない」
「誰ならいいんですか?」
「校長に相談してみなさい」
雅恵は校長室に行った。
「どうした?君はこないだ校庭を突っ切った子だな。高宮旅館の娘さんだ」
「はい。申し訳ありませんでした」
あの事件の後に両親を呼ばれて厳しく注意された。
「それで私に何の用かな?」
「明日の午後30分だけ授業を抜けさせてください」
校長はいきなりのお願いに驚いた。
「担任の笹尾先生に話したのかね?」
「はい、私の一存ではと言われ、校長先生にお願いするように言われました」
「そりゃ困ったな」
雅恵は事情を訊かれ正直に答えた。
「それは笹尾先生の言う通りだと私も思いますよ。当日の朝、しっかりと送ればその方も理解してくれるだろう。君に学校を途中で抜けさせてまで見送りをして欲しくないと私はそう思います」
校長も笹尾と同意見である。五郎に障害があることを打ち明ければ分かってくれるかもしれない。しかし雅恵には言えなかった。雅恵は下を向いて黙ってしまった。
「さあ、教室に戻りなさい、授業が始まりますよ」
自宅に戻った。五郎はいつものように街道沿いを掃いていた。
「お嬢さん、お帰りなさい。お世話になりました。今日で仕事は終わりです」
五郎がにこやかに言った。雅恵は苦しくなりその場から逃げた。五郎の部屋は旅館の厨房の隣である。六畳一間で火の扱いは禁じられている。両親は雅恵に五郎の部屋に入ることをずっと禁じていた。その晩五郎の部屋をノックした。
「お嬢さん、駄目です」
厨房から岩が叱った。
「旦那様に言いますよ」
雅恵はその場から走り去った。翌朝、制服に着替えて表に出ると五郎がいない。
「五郎ちゃんは?」
岩に訊ねた。
「あの子部屋に閉じこもっているの、中から鍵かけてね」
清吾が岩から聞き付けてやって来た。
「五郎、五郎、何しているんだ、開けなさい。水戸の叔母さんが迎えに来るのに支度しなければならないだろ。五郎、開けなさい」
清吾がドアに耳を当てる。五郎のすすり泣きが聞こえた。
「これで開けましょうか?」
岩がバールを持ち出した。
「いや、もう少しこうしておいてやろう」
五郎が泣いていると告げれば雅恵が動揺する。雅恵は別れの挨拶をするつもりでいたが叶わなかった。
「今生の別れじゃないんだから、夏休みに会いに行けばいいじゃない」
礼子がその場しのぎの慰めを言った。
「さあ、雅恵は学校に行きなさい。お父さん達がしっかり送るから」
もう時間がない。登校時間にはいつもギリギリだである。だが休んだことはない、それが自慢だった。雅恵は諦めて登校した。三時間目が終了した。12時15分北鎌倉発の電車を見送るには四時間目の途中で抜け出さなければならない。その四時間目は担任の笹尾の授業である。そして12時になった。
「高宮、ちょっと来なさい」
笹尾が雅恵を教壇に呼んだ。
「お前さっきから気分悪そうだな、教室で吐かれては困るぞ。行って来なさい」
生徒達に分からぬようにウインクをした。
「はい、ありがとうございます」
雅恵は教室を出て校庭を走った。
「校長先生、またあの子」
教頭が走る雅恵を指差した。
「ああ、あの子か」
頭を掻いて笑った。
「校長先生ったら」
校長は清吾に電話して事情を訊いていた。それを担任に伝えていたのである。校庭を走る雅恵に教室から拍手が湧いた。
「静かにしなさい」
笹尾が時計を見た。間に合うだろうか心配になる。北鎌駅に着くと電車が動き出した。雅恵はまた街道を走り権兵衛踏切に立った。一両目からずっと目を凝らす。最終車両に五郎がいた。
「五郎ちゃ~ん」
五郎が電車の中できょろきょろしている。
「五郎、あっち見ろ」
叔母が両手を海藻にように揺らす雅恵に気付いた。
「お嬢さん」
権兵衛踏切を電車が行き過ぎる。五郎は後部窓から手を振った。雅恵は遮断機が少し上がると線路に入った。
「五郎ちゃん、ありがとう、元気でね」
声は聞こえないが気持ちは通じる。
「お嬢さん、いい人と結婚して」
五郎が袖で涙を擦る。叔母が手拭いて拭き取った。車掌が五郎と雅恵を交互に見ていた。雅恵は五郎を見送ることが出来て嬉しかった。何より手を振り合えたのが良かった。一緒に暮らした13年間、五郎から教わることはたくさんあった。からかった記憶が薄れて行った。そして学校に向けて走った。
「校長先生、あの子です」
教頭が指差した。雅恵の表情を見れば見送りが叶ったことを証明している。
「うん、無いことにしよう」
「校長先生ったら」
校庭を走る雅恵に拍手が湧いた。雅恵が手を振った。
「こら、拍手は止めなさい」
担任の笹尾が笑って叱った。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
嘘はあなたから教わりました
菜花
ファンタジー
公爵令嬢オリガは王太子ネストルの婚約者だった。だがノンナという令嬢が現れてから全てが変わった。平気で嘘をつかれ、約束を破られ、オリガは恋心を失った。カクヨム様でも公開中。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
悲恋を気取った侯爵夫人の末路
三木谷夜宵
ファンタジー
侯爵夫人のプリシアは、貴族令嬢と騎士の悲恋を描いた有名なロマンス小説のモデルとして持て囃されていた。
順風満帆だった彼女の人生は、ある日突然に終わりを告げる。
悲恋のヒロインを気取っていた彼女が犯した過ちとは──?
カクヨムにも公開してます。
聖女はこの世界に未練がない
菜花
ファンタジー
ある日、聖女として異世界に呼ばれた理穂。けれど、召喚された先ではとっくに聖女がいると言われた。だがそれは偽者らしく、聖女なら出来るはずの瘴気の浄化は不十分だった。見るに見かねて理穂は聖女の仕事を始めるが、偽聖女周りの人間には疑われて暴言まで吐かれる始末。こんな扱いされるくらいなら呼ばれない方が良かった……。でも元の世界に帰るためには仕事はしないといけない。最後には元の世界に戻ってやる!あんたらは本物の聖女を疑った人間として後世に語られるがいいわ!カクヨムにも投稿しています。
乙女ゲーム世界に転生したけど、幼馴染の悪役令嬢がド外道すぎる
maricaみかん
ファンタジー
乙女ゲーム『繋がりのコンチェルト』の世界に転生したリオン。
彼の幼馴染、ディヴァリアはその世界で歴史上最も多くの人間を殺した悪役令嬢だった。
そんなディヴァリアに対し、リオンは幼馴染としての好意、彼女の悪事への嫌悪感、それらの間で揺れ動く。
この作品は小説家になろう、カクヨム、ハーメルン、Pixivでも投稿しています。
私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】
小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。
他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。
それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。
友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。
レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。
そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。
レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……
聖女なんかじゃありません!~異世界で介護始めたらなぜか伯爵様に愛でられてます~
トモモト ヨシユキ
ファンタジー
川で溺れていた猫を助けようとして飛び込屋敷に連れていかれる。それから私は、魔物と戦い手足を失った寝たきりの伯爵様の世話人になることに。気難しい伯爵様に手を焼きつつもQOLを上げるために努力する私。
そんな私に伯爵様の主治医がプロポーズしてきたりと、突然のモテ期が到来?
エブリスタ、小説家になろうにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる