洪鐘祭でキス

壺の蓋政五郎

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 いつもより30分も早く起床した。
「どうしたの雅恵?雨が降るよ」
 いつもぎりぎりまで寝ている雅恵に母の礼子が冷かした。
「行って来ます」
「雅恵、朝ごはんは?」
「お母さん、おにぎり大きいの一個握って、塩だけでいいから」
 雅恵は弁当を鞄に入れて歯磨きをした。大きなおにぎりを掴んで靴を履いた。
「行って来ます」
 玄関を飛び出した。
「何だあいつは」
 父の清吾が街道を走る雅恵を見て言った。
「お嬢さん行ってらっしゃい」
 高宮旅館下働きの五郎が見送った。
「五郎、もう外はいいからお前もご飯食べなさい。岩さんにも声を掛けてな」
「うん」
「うんじゃないだろう、はいだろう」
「うんはい」
 脳に障害がある五郎だがたまにとぼける時もある。
「今のはどっちだ?」
 清吾は笑って問い質した。
「雅恵の奴どうしたんんだ、いつもより30分も早く出て行った」
 清吾が礼子に訊いた。
「あの子昨日洪鐘祭のパレードの後、遅れて帰って来たでしょ。どうも相馬先生と弁天堂に残っていたみたい」
「ほんとかそれ?」
「岩さんに円覚寺さんへ届け物の使いをしてもらった際に総門から百鷺池を歩く二人を見たらしいの。薄暗いからはっきりとしないけど面を小脇に抱えていたらしいから雅恵と相馬先生に間違いないと思うわ」
 礼子はニヤニヤしながら言った。二人共相馬が婿入りすることを望んでいる。二人の仲睦まじい噂は大歓迎である。
「そうか、相馬先生と弁天堂にいたのか。若いけどあの先生もやるなあ。雅恵も上出来だ」
 相馬の気持ちなど眼中にない。高校卒業したらすぐに結婚も視野に入れている。
「いいお婿さんですよ」
「ああ最高のお婿さんだ。これを逃したらスカを掴むのと一緒だ」
 二人は見合ってほくそ笑んだ。
「お願いします」
 帳場から客が呼んだ。洪鐘祭のために遠方から来た客が帰宅する時間帯である。
「お世話になりました」
「こちらこそろくなおもてなしも出来ませんで」
 15部屋あるうちの10部屋が洪鐘祭関係の客である。満室になったのは数年振りである。
「みんな帰って静かになるな」
 大船から江の島までモノレールで結ぶ計画がある。その調査で滞在している二人組の技師が長期で高宮旅館を利用している。ベテラン技師は山本で、若い技師は横田と言う。山本が引き上げる客を見送りながら言った。
「この二日間ご迷惑をお掛けしました。今日からまたゆっくりとなさってください」
 満室で風呂や食事の時間が制限される。山本と横田は風呂上りの晩酌が日課であるが食堂が込み合いそれが出来なかった。
「ご主人、気にするな部屋も食堂も酒の味は変わらんよ」
 山本は朝食を催促した。
「おはようございます」
 横田が浴衣姿で首にタオルを掛けたまま下りて来た。
「おう、今日は町屋で地質調査がある。お前はそれに立ち会ってくれ。わしは一度会社に戻る。夕方には帰って来る」
「山本さん、会社に行くならご自宅に泊ればいいじゃありませんか。明日は午後から西鎌倉でボーリングです。僕が立ち会っていますからゆっくり来られたらどうですか?娘さんも喜ぶでしょう」
 山本は妻帯で子供が二人いる。埼玉に家を買い単身赴任である。週に一度の休みはあるが調査のまとめ作業が残る。それを日曜日にまとめ上げる。自宅に戻るにはあまりにも時間が足りない。
「まあいいさ。娘ももうガキじゃない、一家の主のお陰で大学に進学出来ることを身を持って知るいい機会だ。親父のありがたみが分かるだろう」
 横田が残念そうに頭を下げた。
「あのう、大船から江の島まで電車走るんですか?」
 仲居の岩が訊いた。
「電車じゃありません。モノレールです。ほらオリンピックの年に開業した羽田空港から東京までのモノレールをご存知でしょう」
 横田が答えた。
「モノレールが出来るのか?」
 五郎がはしゃいだ。
「ああ、五年後には開通を予定しているよ。このモノレールは懸垂式と言って羽田とは違いレールにぶら下って移動するんだよ。まるで空を飛んでいるみたいにね」
 説明する横田自身も目を輝かせている。
「五年後ってそんなに早く開通するんですか?」
 清吾も話に加わった。
「モノレールはレールを支える支柱部だけ買収出来ればいいからね。支柱の立つ部分はほぼ決まっています。基本的に京浜道路の上にレールを敷設します。後は駅ですね。地元の方と綿密に打ち合わせをして決定していきます」
「あのう、すいませんがうちは町屋なんですけど、駅は出来るでしょうか?」
 岩が訊いた。
「これはまだ内定ですからお話しするわけには行きませんが、町屋には大企業がありますからね。間違いなく出来ますよ。仲居さん、これ秘密ですよ」 
 山本が口に人差し指を立てた。
「そうですか、町屋に駅が出来るんですか。ありがとうございます」
 岩は嬉しそうに礼を言って台所に入った。
「俺も町屋に引っ越す」
「お前は帰るとこがないの」
 五郎がはしゃぐのを清吾が断ち切った。
「ところで山本様達はいつごろまで調査をされるんですか?」
 清吾は年内で旅館を畳む決意をしている。それまでにこの二人が引き払ってくれればいいが来年も継続するつもりならば早めに伝えた方が失礼がないと思った。
「一応年内、延びれば来年の三月。私達は調査さえ終えれば引き揚げです。何か不都合でもありますか?」
 山本に問われて清吾は迷った。予定を話せば早く引き上げてしまうかもしれないと不安になる。しかし客商売が客に迷惑を掛けるわけにはいかない。
「実は今年いっぱいで宿を閉めようと考えていまして、山本様達にご迷惑を掛ける前にお伝えするのが筋と思いました。もっと早くにご案内すべきところを商人の悪知恵でしょうか、申し訳ありません」
 清吾は深々と頭を下げた。
「ご主人、ご主人、頭を上げてください。そんなことで謝らないでください。ご主人の生活設計に私等が口出しするのはおこがましいけど、実は二人で話していました。客が毎日四組から五組でよくやっていけるなと感心していました。そうですか、廃業されますか。それじゃその準備で私共も早く退散した方が宜しいですか?」
 清吾の一番心配していたことである。この二人組が出てしまえば安定した収入は得られない。
「もしご主人が宜しければ、年内いっぱい利用したい。それと私共の下請けが大船や深沢に宿をとっています。その連中もここに移動させましょう。年内いっぱいは10室をうちで利用することになりますがどうでしょう?」
 山本は清吾の心の内を読んでいた。
「そんなことまでしていただいて宜しいのでしょうか?」
「飯は美味いし、風呂もいい、周辺の環境もいいし、なにしろ女将さんが美人と来たもんだ」
「ありがとうございます」
 山本達はスバル360に乗って出勤した。
「旦那さん、いい人で良かったですね」
 仲居の岩が喜んでいる。
「ああ、岩さん、年内忙しくなるけど頼みますよ」
 清吾も気を引き締めた。仲間内の10部屋なら個別の10部屋より扱い易い利点がある。もし本当に10部屋入るなら一見の客を取らなくてもいい。山本達だけで十二分に運営していける。そしてその日の昼に山本から電話があり、山本、横田の二部屋の他に9部屋を用意するよう電話が入った。それも三日後のことである。
「礼子、山本さんが9部屋を予約成された。他の予約は入っているかい?」
「円覚寺さんの関係が今度の土日に二組です」
「そうか、そのお客さんを最後にしよう。山本さんの厚意に甘えることにしよう」
「他のお客さんは取らないと言うことですか?」
「ああ、そうしよう」
「あなた、良かったですね」
「ああ、神様がご褒美くれた」
 二人は準備に掛かった。

「雅恵早い」
 驚いたのはクラスメイトの高松弥生である。
「たまにはね」
 雅恵は鞄を教室に置いて職員室の前に行った。教師達が続々と登校してくる。雅恵は相馬を待っていた。声を掛けるのは恥ずかしいが確認の目を合わせたかった。一時間目のベルが鳴る。
「何やってるんだ君は」
 倫理社会の教師がベルが鳴るのに教室に戻らない雅恵を叱った。
「すいません、相馬先生は来られましたか?」
「相馬先生は今日からしばらくお休みになられると朝早く教頭先生のご自宅に電話が入ったそうだ。早く教室に戻りなさい」
 雅恵は頭が真っ白になった。そんなはずはない。昨日弁天堂からの帰りにじゃあ明日と挨拶してくれた。
「お休みの理由はなんですか?」
 倫理社会の教師は仰け反った。
「君等が知ることでもないだろう。新しい歴史の先生が明日から来ます」
「嘘だ」
「こらっ」
 雅恵は駆け出した。そして相馬が下宿している交番の裏の関谷宅を目指して走った。校庭を走る雅恵に拍手が上がる。鎌倉街道に出て自宅前を通過する。
「お嬢さん」
 下働きの五郎が清吾に知らせに入る。中華大幸の女将が店回りを掃除している。
「雅恵ちゃん」
 振り向きもせずに走り去った。交番前に立って駅前の様子を眺めている高橋が雅恵に指を差した。
「雅恵ちゃん、学校」
 雅恵は交番脇を通り抜け関谷宅に飛び込んだ。息の荒い雅恵に関谷が驚いた。
「どうしたんだ、高宮さんとこの雅恵ちゃんじゃないか」
「相馬先生は?」
「相馬先生は朝一出て行きましたよ。私が車で大船駅まで送りました」
「何があったんですか?」
「具体的には何も、ただ一大事ですぐに行かなければならないと仰っていましたよ」
「大船ですか?」
「ああ大船駅だよ」
「ありがとうございます」
「おいおい、雅恵ちゃん、もう遅いよ」
 関谷が雅恵の後ろ姿に声を掛けた。雅恵は走った。北鎌駅前でタクシーに乗り込む。
「大船駅」
 大船駅で飛び降りた。
「おいおい、運賃」
 運転手が呼び止める。駅の階段を駆け上がる。
「すいません、見送りです」
 改札を走り抜ける。東海道線のホームに駆け下りた。ホームの端から端まで走って移動する。藤沢寄りの端で追い掛けて来た警官に声を掛けられた。
「君、タクシーの運賃を払っていないね」
「はい」
 ホームにへたり込んだ。そして泣き出した。警官も困ってしまった。追い付いた駅員もどうすることも出来ない。
「なんかあったんだな、可哀そうに、お巡りさん、俺の方はいいから、優しくしてやってよ」
 タクシーの運転手が泣きじゃくる雅恵を見て諦めた。
「さあ、立って、事情を話してくれないかな」
 警官が雅恵を立ち上がらせた。支えていないとクラゲみたいにへたり込んでしまう。片側を警官、片側を駅員が支えている。自宅に電話をすると清吾が素っ飛んで来た。
「ご迷惑をお掛けしました」
「タクシーには後で電話でもしてやってください。国鉄は電車に乗り込んだわけじゃないので特に料金は発生しないと穏便にしてくれました」
「ありがとうございます」
「ごめんなさい」
 雅恵は警官に謝罪してまた泣き出した。
「特別な事情がありそうですね」
「はい、近い将来婿になる男が突然姿をくらましたんです」
「そうですか、そりゃ可哀そうに」
 警官が同情した。
「申し訳ありませんでした」
 駅前には関谷が軽自動車で待っていた。
「関谷さんごめんなさい。お父さんごめんなさい」
「いいからいいから」
 関谷が慰める。清吾も娘の乱暴を叱ることが出来ない。雅恵は清吾の膝の上で泣いている。背を擦るのがやっとで慰めの言葉もない。自宅に着いて自分の部屋に入った。
「あなた大丈夫かしら?」
「大丈夫って何が?」
「相馬先生を思う余りに・・・」
 礼子は言葉に出すことも縁起が悪いと口ごもる。
「行って見てくる」
 清吾は礼子の言葉で急に胸が高まった。雅恵の部屋の引き戸に耳を当てた。音がしない。
「雅恵」
 引き戸をおもいきり開けた。寝息が聞こえた。
「雅恵、お父さんもお母さんも怒っていないからな」
「ごめんなさい。あたしが思い込んでいただけだと分かった。あたし学校に行く。欠席になりたくないから」
 これまで一日も休みがない。
「お母さんごめんなさい、もう大丈夫」
「今日は休んだらどう?晩にすき焼きでも作るから」
「三年間無欠席は絶対に達成するの。行って来ます」
「おい、どっちに行くんだ」
 鎌倉街道を右に曲がった。
「関谷さんに謝って来る」
 雅恵は走った。走ると涙が溢れた。袖で拭くがすぐに溢れる。
「大幸のおばさん、さっきは素通りしてごめんなさい」
 大幸の女将が頷いた。駅前交番に立ち寄ると高橋巡査が道案内をしている。
「お巡りさん、ごめんなさい」
「いいよ、気を付けてな」
 関谷宅の玄関に関谷が立っていた。
「関谷のおじさん、ごめんなさい」
 雅恵は関谷に抱き付いて泣いた。枯れることのない涙が関谷のシャツを濡らした。関谷は雅恵の背を叩いて頷いた。
「きっと帰って来るさ。大事な本がたくさんあるんだ。相馬先生の宝物だからな」
 雅恵は涙を拭いて頷いた。北鎌倉駅前にさっきのタクシーが停まっていた。運転手が近寄る雅恵に気付いた。
「後でお金を払いに行きます。本当にごめんなさい」
「お金は要らないよ。おじさんも若い頃を想い出した。一生懸命生きてね」
 また涙が溢れた。駅前の観光客が雅恵を見ている。雅恵は街道を走った。
「あっお嬢さん」
 五郎が箒を振った。雅恵も手を振る。北鎌の校庭を走る。拍手が湧いた。

 弁天堂に残ったのは雅恵と茶屋の女将、里美、そして誠二と亨の五人である。午後7時半になっていた。
「さあ、何かつくりましょう。腹が減っては戦は出来ぬ」
 女将がみなを店に誘った。ぜんざいを温めて振る舞った。
「ああ温まったわ。ごちそう様です」
 雅恵が礼を言った。
「いいえ、若い人には物足りないでしょう、もうひとつ作ろうか?」
「ええ、でも大丈夫です」
 誠二が遠慮した。腹が背にくっ付きそうなくらい空腹である。
「これ上げる」
 里美が鞄から菓子パンを出した。誠二と亨は遠慮している。
「君が食べればいいじゃないか。俺等は大人だから我慢出来る」
「無理しない、無理しない」
 里美は封を切って半分に割って二人に差し出した。照れながら受け取り食べ始めた。
「君は愛ちゃんの同級生ですか?」
 亨が訊いた。
「はい、三年間ずっと同じクラスなんです」
「そう、じゃ愛ちゃんのことはなんでも知ってる?」
 亨は愛に交際している男がいるかどうか誠二のために訊くつもりである。誠二も恥ずかしいが答えは知りたい。雨は完全に上がり月に掛かっていた薄雲もどこかへ消えた。
「愛ちゃんに彼氏はいるの?いや勘違いしないで、俺じゃないんだ、俺の友達がさ、愛ちゃんに気があるみたいだから」
 亨の誤魔化しは子供でも見破られる。里美が誠二を見た。誠二が目を逸らす。友達とは誠二のことであるとすぐに分かった。
「教えない」
 里美の意地悪である。愛に交際相手はいない。学校は女子高で通学も徒歩だから他校の男子生徒と触れ合う機会はゼロである。地元の男子は高宮家の一人娘であることから遠慮が生じて迂闊に手を出せない。それに愛は婿を募集するつもりである。婿をもらい実家のアパート経営で生計を立てて行きたいと考えている。贅沢しなければ夫婦と子供二人なんとかやっていける。夫婦でボランティア活動をして暮らすのが夢である。
「これだけは言っとくわ、愛はお婿さん募集。ボランティア活動や山ノ内の子供達にお囃子を教えるのが夢だよ」
「里美ちゃんは」
 亨が訊いた。
「あたし?」
 里美は頬を赤くした。自分が恋愛の対象になることが恥ずかしかった。里美も彼氏はいない。戸塚からの登校途中で気になる男子はいたが先日彼女とのツーショットを見せ付けられて愕然とした。
「そう、里美ちゃんは彼氏いるの?」
「さあ、そろそろ愛を迎えに行きましょうかね」
 亨が里美に質問したところで雅恵が立ち上がって号令を掛けた。月の輝きに星が反応している。
「満天の星空よ」
 女将が空を見上げて言った。 
  
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