輪廻

壺の蓋政五郎

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輪廻『水飴』

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「黄金バットは今日も行く~』拍子木が打ち鳴らされた。田之上は最後の紙芝居師、今年米寿を迎えた。この仕事は天職、しかし食い扶持にはならない。
「もう終わりか、月光仮面やれよ」
 客は中村、田之上のファン、同級生でもある。
「やれったってお前ひとりだよ客は、一銭にもなりゃしねえ。残った水飴全部買え、それなら俺のネタ全部披露してやる」
 田之上は片付けながら言った。中村は水飴を割箸でこねている。透明から段々白くなる。割箸を合わせて口に放り込む、取り出すと入れ歯が付いて出た。また水飴を口に戻し入れ歯を正規の位置に調整、ピタと歯茎の凹凸に嵌ったところで口を開けて割箸を回した。回転で入れ歯から離れたタイミングで引き出した。
「しばらく駄目だな子供等、この新型ウィルスで親が外に出さない。こんな広い公園でマスクしてりゃどうってことねえけどな」
 中村がブランコの外周鉄柵から腰を上げた。
「明日もう一日来て、またお前一人ならそれで最後にしよう」
 田之上は自転車を押す。五年前に一度転んでから手押しである。中村が後ろを支えて歩き出した。
「確かにゲームの方が面白い、黄金バットも話はいいけどあのマスクは悪役だよどう見ても、うちの孫はショッカーの仲間だと思ってる」
 川縁の長屋が田之上の住まいである。
「ありがとよ」
 中村は田之上が飼っている柴犬に口から出した水飴を与えた。
「ほら、喜んでシャブッてら。口の中で粘っちゃって苦しんでるよ」
 中村はコロの仕草を笑っている。
「あのよ、うちのかかあの口を舐め回すんだよこの犬は、おめえの涎たっぷり染みた水飴食わせんじゃねえよ」
「ほいじゃな、明日は月光仮面やれ、俺は黄金バットよりそっちがいい。なんてったって正義の味方だいい人だ♪」 
 中村は川縁を鼻歌で戻って行った。
「おかえりなさい」
 田之上の妻メイ子が床から半身起きて言った。
「おうただいま、よし起き上がるか。トイレ行くか?我慢してたろ」
「お願いします」
 幅の狭い車椅子に乗せる。狭い廊下の突き辺りでメイ子を抱えひと回しして便座に座らせた。
「終わったら声掛けろ」
 田之上は夕餉の支度に入る。支度と言っても残り物を冷蔵庫から出してテーブルに並べるだけである。メイ子はトイレに長居する。小一時間掛けて出るものを全部出す。その都度亭主に頼るのが申し訳ない。デイホームからも誘いが来ている。だけどやれるとこまで頑張ろうと田之上の強い意志が支えている。それにそれほど残り時間がないことを二人共察していた。メイ子が床に伏せるようになり三か月、どこが悪いと言うより怠くて立ち上がれないようになってしまった。齢は同じ米寿、二人はお迎えと考えていた。少しずつ力が抜けて最後はゼロになりあの世に逝く。田之上は妻を先に逝かせたい。俺が先じゃ妻が苦労する。俺一人なら野垂れ死にもいい。
「あんた、お願い」
「よっしゃ」
 手の水気を振って飛ばした。便座から抱え上げ車椅子に座らせる。壁と車椅子の僅かな隙間を背伸びして前に回りバックで戻る。
「あんた公園は、子供達は来ましたか?」
 メイ子が尋ねた。
「ああ、寂しいもんだ。毎日テレビで脅かされてりゃ外にも出たくなくなる。感染すりゃあ虐められるってんだから寂しい世の中だ。まあ仕方ねえな、それが国民性ってやつだ」
 田之上が鰯の缶詰を皿に移し替えた。冷蔵庫から沢庵とミニトマトを出して座った。
「飯よそるか?」
「あたしはこれで充分」
 メイ子は鰯のたれを箸の先に付けて舐めた。
「いくらお迎え待ちでも少しは食わねえといけねえよ、腹が減って三途の川まで辿り着かなきゃ渡るもんも渡れねえよ」
 田之上は焼酎二リットル入りのペットボトルから一日定量分の一合をコップに注いだ。
「悪いねあんたにこんなことやらせて」
 メイ子が鰯を齧る田之上に言った。
「何言ってんだ今更、俺はずっと好きなことをやらしてもらった、それも一日の食い扶持にも足りねえ稼ぎでよ。おめえのパートでここまで好き勝手やらせてもらったんだ。最後ぐれいはおめえの好きなようにしてくれ、それぐれいしか俺には出来ねえ。トイレも我慢すんじゃねえぞ、夜中でも構わねえから起こしてくれ、絶対に這って行くようなことはするなよ」
「あんたと一緒になってあたしは幸せだよ」
「ばか野郎、今更恥ずかしいよ」
 田之上は今朝焚いた飯をぐい吞みほどの茶碗によそい、レンジでチンした。
「これぐらいは食えよ」
 メイ子は頷いて鰯のたれを箸先で飯に落とし、一回に五粒ほど摘まんで食べ始めた。
「あのな、明日子供等いなきゃ紙芝居師廃業しようと思う。駄菓子も只じゃねえ、それにいつまでも持つわけじゃねえし。古いの子供等に食わして腹痛でも起こしたらそれこそ大変だ」
「あんたの人生はあんたが決めればいいさ。だけどあんたの人生そのものの絵本はどうすんだい?」
「あんなもん燃せばいいさ、明日帰ったら燃そう。残しときゃ未練が残ってお前の後を追えねえよ」
 メイ子が茶碗を下した。箸を茶碗の上に揃えて置いた。
「渡し箸は縁起が悪い、おめえの癖はずっと直らねえなあ」
「今更だよ、今じゃおまじないになった。三途の川を上手く渡れますようにってね」
「あの世への予行演習ってやつだな」
 二人は笑った。
「あたしはもう近いよ、分かるんだ。ゆんべ夢に母と姉が出て来てさ、笑ってんのさ、呼ばれているんだよ。こんなに静かに逝けるなんて考えてもみなかった」
「そうか、そりゃいい、安心して連れてってもらえる。それ聞いてひと安心だ。俺もそう遠くねえ。そんときゃ家族でお迎え頼むぜ」
「あんた、少し寒い」
 田之上はメイ子を抱えて床に就けた。毛布と掛け布団を掛ける。田之上は足元に手を入れてメイ子の爪先を擦った。
「暖かい」
「おめえの夢は何だった?」
「あたしは紙芝居師のあんたに惚れたんだ。最後に黄金バットを見たかった」
 それが最後の会話となった。夜中に『あんた』と聞こえて目が覚めた。もしかしたら夢の中かもしれない。
「トイレか?」
 顔を寄せて声を掛ける。メイ子は目を瞑り微笑んでいる。何かに似ている、仏壇の観音様。
「メイ子、メイ子」
 肩を揺すったが返事はない。田之上は涙が溢れ出た。それは悲しいと言うより嬉し涙に近い。こんな風に死ぬのは幸せもんだと思った。
「お願いします。今度メイ子が生まれてくるときは金の心配が要らねえ家に嫁げますように」
 メイ子の頬に手を当てた。
「こんばんは」
 男の声、もう零時を回っている。
「何だいこんな夜中に。今取り込み中だ、明日にしてくんな」
 田之上は襖に向かって言った。
「奥さんがご臨終でしょ」
 田之上は驚いて襖を開けた。男は狭い玄関に立っている。内回し錠は掛け忘れていない、床に就く前に確認している。男は黒い服に焦げ茶色のハンチング。
「あんた葬儀屋か?それにしちゃえらい早いな。段取り良過ぎじゃねえか、それとも医者?」
 金原仙人はどっちでもいいと思った。田之上の思いが通じて来た、邪魔なら引き返してもいい。
「はい、お悔やみだけでもいいでしょうか?」
「ちょっと待ちない。すっぴんだからよ、少し色付ける」
 田之上はメイ子の顔に薄化粧を施した。紙芝居師は絵が得意、最後に薄紅を注すと生きているようである。浴衣の胸元を直して掛布団をきれいな長方形にした。
「入んない」
 金原は部屋に上がりメイ子の枕元に正座した。触れなくても天寿全うと一目で分る、落ち着いてやさしい表情、眠りに付いたまま息を引き取ったのだ。
「ところであんたは誰だ?」
「あなたの願いを叶えて上げたいとやって来ました。実は葬儀屋でも医者でもありません。仙人をやっています」
 田之上は可笑しくて開いた口が塞がらない。
「こいつが逝った瞬間にあんたが来た。こりゃ神様の思し召しと思って上げちまった。まあいいさ仙人でもなんでも、明日の朝に葬儀屋に電話する。それまで俺達だけの通夜だ。付き合うかい」
「はい。お付き合いしましょう」
 忙しなくガラス戸を叩く音。繰り返し叩く。火事の知らせか、ガラスが割れんばかりの激しい叩き方。
「誰だい、近所迷惑だ」
「俺だ、こんな夜中に電気が点いてるからおかしいと思って来たんだ。メイちゃんに何かあったのか?」
 同級生の中村だった。
「おめえか、空襲警報の知らせと勘違いしたぜ。まあへえれよ」
 中村は上がり込んで知らない男に怪訝な顔をした。
「おめえの予想通りだ、メイ子が逝った」
「えっ」
 中村がメイ子の枕元に寄る。
「メイちゃん、だけど幸せそうな顔して、ナンマイダナンマイダ」
 涙が溢れて止まらない。中村は涙が止むまで立ち上がらないでいる。
「この人は仙人だそうだ。メイ子が死んだと同時訪ねて来た」
 田之上が中村に金原仙人を紹介した。
「仙人?タイミングがタイミングだけに疑うのも悪いな」
 中村は金原仙人を見て言った。
「通夜だ、おめえも付き合え。メイ子の奪い合いに負けた好美で参加を許す」
 三人は同級生、メイ子はクラスの人気者。田之上が成人式でメイ子を勝ち取った。
「よし、酒は?」
 田之上は焼酎のペットボトルを指差した。
「それじゃメイちゃんの極楽往生に水差す、待ってろ」
 川の対面の自宅に戻り一升瓶を二本持って来た。田之上の床を畳んでそこにお膳を出した。グラスは湯飲み、金原仙人は二人の先輩に酒を注いだ。人も米寿を回れば心の悪鬼が抜け出る。個人差はあるが心の中の善悪の善が上回る。田之上は湯飲みの酒をメイ子の口に付けた。
「中村の酒だよメイ子」
 この世で一番美しい光景。連れ添った米寿の二人と親友の透き通った価値観で充満している。金原仙人もそれに酔いしれていた。
「ところで仙人のお兄さん。あんたの職業は?」
 中村が訊いた。金原仙人を只酒喰らいと思っている。
「いいんだよ中村、こりゃメイ子の魂が呼んだお人だ。ここに参加するよう神様の言い付けだろうよ」
 田之上は中村の憶測を断った。
「人には寿命があり、それは神が設定します。奥さんは天寿を全うしました。神からすれば優等生です。私は神の手伝いで転生をしています」
「転生って輪廻転生かい、そんなもんは本当にあるのかい?」
「ええ、全ての生き物は転生します。ただ転生前のことは覚えていません。たまにこの光景どっかで見たことなるなあ、と感じることがありますよね、あれが前世の記憶です」
「こいつは俺みていな男と一緒になったばっかりに苦労のし通しだった。こんだ生まれる時は金持ちに嫁がせてえ」
 田之上が言った。
「俺んとこに来ればこんな苦労はさせなかったのによう。どこが良くてこいつと連れ添ったのかねえ」
 中村が溢した。
「こいつは俺の一本気に惚れたんだ。最後に俺の紙芝居が見てえと言ってた。叶えてやりたかったなちきしょう」
「それ叶えて上げましょう。そのために私は呼ばれました。私の最も得意とするところです」
 金原仙人が得意気に言った。
「どうやって?」
 二人は信用していない。特に中村は金原のことを空き巣ぐらいにしか思っていない。金目の物を物色して、隙あらば抱えてとんずらしようと算段している。相手は年寄りだから駆け足で逃げ切れる、「そうだろう」と腕組みをして金原を睨んだ。金原はそんな中村が可笑しくてならない。
「先ず騙されたと思って私を信用してください。奥さんの夢を叶えてやりたい一心です」
「まあいいだろう、なっ中村?」
 中村も渋々首を縦に振った。
「奥さんの寿命を三十分間だけ巻き戻します。本当は神に逆らう行為ですから使いたくはないのですが、まあこれくらいはいいでしょう。その三十分に演じてください。時間は丑三つ時がいいでしょう、お仲間も誘われて出て来るかもしれません。菓子はありますか、少し多めに用意した方がいい、紙芝居の時間はどれくらいですか。全て合わせて三十分にまとめてください。場所は何処がいいでしょうか?」
「そりゃ川の公園だ。戦後すぐ再開したのが川の公園だ。たくさんの子供等がこいつの芝居に胸をときめかしてた。感動して泣く子までいた、その泣いた子をあやす子がいる、あやす子を囃す子、囃す子を叱る子、叱る子を宥める子、そうやって輪が出来た」
 田之上の舵切る自転車を後ろで中村が支える。メイ子の車椅子を金原仙人が押した。古い鉄橋を超えると川の公園に到着した。
「準備が出来たら教えてください」
 田之上を中村が手伝う。
「よし、準備良し」
 金原仙人は頷いてメイ子の額に掌を当てた。指を裂けるほどに広げるとゆっくりと脳に沈んでいく。三十分間の現世への転生である。沈んだ指が浮き出るとメイ子が目覚めた。始まりの拍子木を打ち鳴らした。どこからか子供等が集まり出した。コロが尾を千切れんばかりに振って子供等に吠えた。
「仙人、これどういう事?」
 中村が集まる子供等に驚いて訊いた。
「野辺の送りに集まってくれたのでしょう」
 金原仙人は静かに言った。
『おいちゃん、水飴おくれよ』
『おじさん、あたいは梅ジャム』
 子供等の声がくぐもっている。水面の中から話しているように聞こえる。子供等が一列に並んで駄菓子を受け取る。一人の子が指を口に咥えている。背に乳飲み子がいる。
「坊や君は?」
 田之上が腰を落としてその子に訊く。
『その子んちは貧乏だからお金は無いよ』
 鼻垂れ坊主が冷かした。
『おいらの半分あげるよ』
『あたいのあげるよ』
 大勢の子がその子に駄菓子を差し出した。
「いいからいいから、おじさんがプレゼントだ」
 中村が小銭を出した。
『おじさんありがとう』
「ぼん、お母ちゃんは?」
『お母ちゃんは空襲で死んだ、父ちゃんは満州だい』
 中村が背中の子の顔を覗いた。「あっ」と後ろに仰け反った。骸骨だった。
「ぼん、おじさんにその子の面倒も見させちゃくれねえか?」
『だめだい、ちゃんが帰るまでおいらが面倒看るって母ちゃんと約束したんだい』
『そうだ、そうだ』
 子供等がその子を加勢する。
「おじさんがこの子を天国に連れて行く。いいね」
 金原が合掌をして子供等に言った。するとみんなが頷いた。帯を解いて背の子を下した。中村が大事に抱えて「ありがとう」と頭を下げた。
「あたしに抱かせておくれよ」
 メイ子がネンネコを受け取って抱いた。
「ゆりかごの歌を♪カナリアが歌うよ♪ねんね~こ~ねんねこ~ネンネコよ~♪」
 骸骨がカチカチと歯を鳴らして喜んだ。
「メイ子」
「メイちゃん」
 生き返ったメイ子に二人は絶句した。
「さあ始めましょう」
 金原仙人が号令を掛けた。時間が押し迫っていた。
「わっはっはっはっー」
 田之上が黄金バットを演じ始めた。
「後十分です、急がないと」
 金原仙人が田之上を急かした。
「助けて~、助けて~、女の子は攫われてしまいました。すると、わっはっはっはっー、空に黄金バットが現れた」
『黄金バット頑張れ』
 子供等の大声援、昔に戻ったようだ、田之上が嬉しくて声にならない。
「あんた頑張れ」
 メイ子が田之上に声援をおくる。
「田之上、子供等に笑われるぞ」
 中村が半べそで叫ぶ。一人の女の子が割箸に絡めた水飴を半分にしてメイ子に差し出した。
『おばちゃんあげる、甘いよ』
 メイ子が口に入れた。
「おお甘い、ほっぺがくっ付いちゃうよ、ありがとう」
 メイ子が微笑むと女の子は味噌っ歯を出して照れた。
「わっはっはっはっー。黄金バットは今日も行く~」
 拍子木が打ち鳴らされた。子供等が川に向けて歩き出した、コロが追い掛ける。ひとりずつ川に消えていく。コロがワンと吠えた。メイ子の顔が肩に落ちた。両手にネンネコだけが残った。
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