蠱惑Ⅱ

壺の蓋政五郎

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蠱惑Ⅱ『雨催い』

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 夕立に追われたことはありませんか?夕立と晴れの境に立ったことはありませんか?私はある男に関わるまで夕立のことなど考えたこともありませんでした。ですがどうしても立ち会わなければならないことになったのです。男は誘拐犯として逮捕しました。ですが可笑しな供述を続けていました。しかし男の言うことが事実でなければ辻褄が合わない事態になったのです。

『俺は殺してなんかいないって。助けようとしたんだよ』
『それじゃ何故被害者宅に電話した?』
『坊主は萬屋の倅だってことは知ってる。いつも仕事帰りに寄るからな。電話番号は店のマッチに書いてあるよ。うちに行けばたくさんある。もう調べただろ』
『子供を助けて身代金要求か?笑わせるな』
『だから俺が抱えて助けようとしたんだ。それで電話しただけだ』
『金を要求したな?』
『そん時坊主はまだ生きていたんだ。助けりゃ幾らかもらえると思っただけだよ』

 男は殺された男の子の自宅から一キロほど離れたアパートに暮らしています。職業は職工で三十二歳独り者です。金遣いは荒く常に生活苦の状態が続いていました。駅前には男の子の実家が経営する雑貨屋があり、この他に店らしき店はスナックが一軒と自動車修理工場があるだけです。他の用足しは隣町まで行かなければなりません。ですからこの萬屋はこの界隈に暮らす人達に取って重宝する何でも屋でした。煙草、酒、鮮度は悪いが肉・魚も置いています。地元野菜は新鮮で安価、日常雑貨は種類は少ないが一通りのものは揃います。

『どこで殺したんだ』
『殺してなんていねえよ。田んぼの畔でザリガニ釣してたんだよあの坊主は』
『ザリガニ釣?』
『ああ、俺んちの窓からよく見る、学校退けちゃあいつもその畔でザリガニ釣してんだ』
『と言うことは顔見知りだな、それで犯行に及んだんだな』
『顔見知りって、あの店しかねえだろ、誰だって坊主のことは知ってるよ』

 男は否認を続けていました。そして不思議なことを口にしたのです。若い刑事はそれを馬鹿げた言い訳と笑い飛ばしました。

『お前は窓からあの子を見ていたんだな』
『ああ、そんとき夕立が来たんだ。田んぼの先の山から下りて来た。真っ暗になり雨が壁になり田んぼを責めて来たんだ』
『あの子はどうした、気が付かなかったのか?』
『夢中でザリガニ釣してた。そのうち雨の音で他の音は全て消された。俺は坊主を呼んだんだ、「おい逃げろ、夕立が来るぞ」家に帰れとは言えねえ、だって坊主の家は夕立の中に入ってしまっている。「坊主、逃げろ、こっちに来い、早く」やっと坊主は俺に気付いた。そして竹竿を放り投げて走り出した。だけど魚籠のザリガニが気になったんだろうよ、逃がしに戻ったんだ。そん時はもうアパートの前に真っ黒い壁が立ちはだかっていたんだよ。俺はアパートの玄関も窓も閉めてじっと夕立の立ち去るのを我慢していた。そして十五分もしたかなあ、アパートの玄関に坊主が倒れていた。俺は担いで上がって介抱したんだ。だがすぐに死んじまった。うつ伏せに倒れていた。身体の裏側は真っ黒に焼けただれていた』
『ばか野郎、雨の中で背中が焼けるか』
 
 本庁から出向している若い刑事は相手にしませんでした。しかし実際に男の子の死因は火傷だと鑑識が言っていました。私達は男の自供を元に捜査を始めました。一昨年に東京で発生した身代金誘拐事件の犯人が逮捕され、誘拐された男の子は既に殺され墓地に埋められて発見されました。その影響で地方の村でも子供の通学路には親が交代で監視する様になった矢先のこの事件でした。

『ここだよ、ここは溜池から近くて大きなザリガニが上がって来る。それを坊主は狙っていたんだ。真っ赤ちんて大きな奴だ。煮て食えば海老と変わらねえ』
『真っ赤ちん?何だそれは?』
『若い刑事さんよ、あんたこの辺りの出じゃねえな、関東なら大概真っ赤ちんで通じる。甲羅が真っ赤ででっけい鋏ぶら提げて何でも喰らう獰猛なザリガニだよ』

 若い刑事は真っ赤ちんを知らないことで田舎もんと思われたのが悔しいようでした。一面の田んぼは黄金色です。落水直前です。百姓も稲刈りが始まる前にこの事件の落着を望んでいるでしょう。
 五町ほどある田んぼの先には山と言うには低い、丘と言うには少し高さがある森が続いています。森に流れる小川が田園の真ん中に流れ、容易く水を取り込める豊かな農地です。こんなのどかな村で子供が死んだのですから大騒ぎとなるのは当然でしょう。村民は東京の身代金誘拐事件に感化されています。若い刑事もその視点が邪魔して事件の全容が絞れないのでしょう。棒切れで田んぼの上澄みを揺らすと煙幕のように土が色となり舞い上がりました。

『お前のアパートの窓はあそこだな』
『ああ、あそこから坊主を見ていた。魚籠さえ空けに行かなきゃ助かったかもしれねえ』
『お前があの子に声を掛けた時夕立はどの辺りだ?』
 男は畔を歩き立ち止まりました。
『この辺りだと思う』
 男は自宅アパートの窓を見て言った。
『夕立はどれくらいの速さだった?』
 男は手錠で自由が利きません。それでも小走りで向かって来ました。
『ゴーッ ゴーッ』と笑いながら若い刑事目掛けて走ります。若い刑事は飛びのいて男の接近を躱しました。
『お前、ふざけると痛い目に合わすぞ』
 若い刑事が怒るのを大笑いして喜んでいます。若い刑事は実力を見透かされ、馬鹿にされ始めたのでしょう。
『そのままの速度で自宅まで走れ』
 私が言うと男は笑うのを止めて走り出しました。私は時計を見ました。アパートの玄関まで三分三十秒、男の走りは七歳の子が全速力で走るのとほぼ同じぐらいでしょうか。
 男の子がザリガニ釣に出掛けるのを親は容認していました。それは萬屋からこの地点が見えるからです。学校から帰り、竹竿と魚籠を持ってザリガニ釣を楽しみにしていたようです。親御は店から監視していたと聞いています。男のアパートからこの畔、この畔から萬屋、しかし男のアパートから萬屋は死角です。田んぼに突き出た公園の林があるからです。
 男のアパートは上下とも八所帯で真ん中に通路があるごく普通の木造アパートでした。窓からさっきの畔を見つめました。

『どうして火傷なんですかねえ。絞殺とか刺殺とか撲殺とかならあいつをすぐにでも落としてやるんだが』
 若い刑事は実力不足とは認めていないようでした。若いけど階級は私より上です。出世頭のようですが経験不足はどうにもならない。ですがあまり出しゃばって嫌われると面白くない。言われたように案内係りを務めるのが賢明でしょう。

「佐々木さん、あなたはどう思います?」
「どうと申しますと?」
「どうして火傷なのか考えてくださいよ、まったく」
「富岡さん、萬屋に行ってみませんか?」
「どうして?被害者宅は悲しみに暮れている。早くあの男を落とさないと」
 富岡は焦っています。何としても職工の待田に自供させることしか頭にないようです。
「ちょっと出て来ます」
 私は本庁まで遺体確認に行きました。明日は通夜で遺体も萬屋に戻ります。
「引っくり返してもらえますか」
 私は担当にお願いしました。背中から太腿まで黒く焦げていました。待田の供述では初めに声を掛けて三分ほどで夕立が去り、この状態で見つかって部屋まで担ぎ上げた。それまではザリガニ釣をしていた。待田の声に気付いて走り出し一旦魚籠を空けに戻り再度逃げ出したが間に合わなかった。アパートの玄関で待田が部屋に引き上げた。待田の家には燃やした痕跡はない。他で犯行を?いやそんな時間はない。
「先生、どうやって燃やせばこうなりますか?温度は?」
「火傷にも二種類あります。所謂火に炙られる。火事とか焚火とか、それと熱湯や薬剤による火傷。これは間違いなく火で焼けたものです、それも高温で一気に」
「とするとここまで焼けるのを我慢していられませんね」
「ええ、ショック死でしょう、殺してさらに焼き続けた」
 私は安置所を出て萬屋に寄りました。明日の通夜を控え慌ただしく動いていました。親戚一同が集まり通夜振る舞いの準備をしていました。母親は話を聞ける状態ではありませんでした。父親を掴まえた。
「悲しみの中すいません、犯人逮捕のため少しお話を聞かせてください。私は隣町から来ました佐々木と申します」
 主人は快く受付けてくれた。
「実は今、ご長男のご遺体を拝見して来ました」
 父親は想い出して涙を流した。
「ご長男がザリガニ釣をしていたのはご存知でしたか?」
「はい、あの子は学校から帰ると家にも上がらずザリガニ釣に出掛けていました」
 主人が外に誘った。赤いベンチに腰を下ろした。
「ほら、あそこです。公園の林がせり出しています、その線を左に辿るとあの子の釣り場です」
 確かにさっきいた場所。店内からは見えない、店先に出て初めて確認出来る。
「店内からは見えませんね?」
「はい、私か家内、それと叔父が交代で覗いていました」
「あの日は夕立が来ました。ご長男は夕立に巻き込まれあのような痛ましい姿になられました。ご家族は夕立にお気付きでしたか?」
 主人は頷いて立ち上がりました。
「私が気付いたときには既にうちの店の屋根を叩いていました。急いで表に出ましたが既に夕立はベンチを叩いていました。家内は夕立の中に飛び込みましたがすぐに雨に叩かれる痛みで倒れました。私も痛みを堪えながら家内を引き摺り出して店に飛び込みました」
「痛いと言うとどれくらいですか?」
「痛いと言うより熱いと表現した方が正しいかもしれません。叔父も傘を差して真っ黒い夕立の中に入りましたが傘は潰れ叔父は命からがら逃げ出して来ました」
 主人の熱いと言う例えが気になりました。
「旦那さん、奥さんが」
 中から小僧が呼びに来た。主人は心配顔で戻った。夫人が貧血で倒れたようですが持病故問題ありませんでした。代わりに叔父を呼んでくれました。さっきの小僧が盆に麦茶を載せてベンチに置いて行きました。
「傘が萎むほどの強い降りだとお聞きしました」
「ああ、こんな夕立は初めてだ。助けられんかった」
「ずっとこの辺りにお住まいでしょうか?」
「ああ、ずっとじゃ」
「変わりましたか?」
「ああ、変わったような変わらんような。あんた刑事さんかね、ひとつ訊きたい」
「はい、でもこの辺りに土地勘はありませんが」
「さっき誠を見て来たそうだね、本当に誠だったかね?」
 私は叔父が何を言いたいのか分かりませんでした。
「と言いますと?」
「俺の兄が空襲で死んだからさ、誠が夕立の中で火傷したと言うからおかしいと思ってな」
「おなたのお兄さんが空襲で?」
「ああ、そこの自動車整備工場があるだろ、昔は軍需品の工場だった。もっと広くてな、陸軍のトラックが週に二度三度と荷物を取りに来ていた」
「その工場が爆撃されたんですね」
「ああ、うちの店もとばっちりだ、骨組みが太いから家の形は残った。他は全部燃えてしまった」
「村の方は?」
「警報が出ていたからな、防空壕に避難していた」
「お兄さんは?」
「兄はザリガニ釣をしていた。ここから戻るように大声で叫んだ。このベンチがあるところまで来てUターンした。『あっ魚籠』そう叫んでな。戻れ戻れと大声で叫んだが空が真っ黒になり俺は豪に連れて行かれた」
「それでお兄さんは?」
「あの溜池に浮いていた。背中から太腿まで真っ黒になってな」
 叔父の兄が空襲で死んでいた。それはまあ珍しい事ではない。しかしこの事件の被害者と事件前の行動も火傷による死因も同じである。そして一番驚いたのは魚籠を取りに戻ったことである。
「妙なことを伺いますがお兄さんがザリガニ釣をしていたのはどの辺りですか?」
 叔父は指差した。
「誠と同じところさ、溜池があるからあそこにはでっかい真っ赤ちんが釣れるんだ」
 私は言葉に詰まりました。そんな偶然があるでしょうか。
「魚籠は、魚籠はどうです?」
「古い鍋を細工して作ったもんだ。うちの親父がこさえた。鍋に小さな穴を開けて針金通して、その針金に細い針金を螺旋に巻いたもんだ。誠は小学校に上がるとザリガニ釣をしたいと俺にせがんだ。針金は錆びてボロボロだから俺が交換してやった。鍋は兄貴が使っていたのと同じさ。こんなでっかい真っ赤ちんが入る、鍋の底と擦れると金属音がするんだ。真っ赤ちんの甲羅は赤(銅)だと兄が自慢していた」
 私は署に戻りました。遺留品の竹竿と魚籠を見ました。魚籠は叔父が言っていた通り中型のブリキの鍋でした。魚籠は生臭い。
「魚籠の底に残っている臭いの正体、蛙の皮を剥いたもんです、ザリガニ釣にはよく使いますよ」
 担当が鼻をつまんで言った。取調室では相変わらず富岡刑事が待田の落としに余念がありません。
「何処で焼いたんだ?」
「俺じゃねえって、どうして信用してくれねえんだ。そもそも五分足らずであんなことできっこねえ」
「ほう、そうか、五分で出来れば認めるんだな?」
「あんたに言っても話にならねえ。年配の刑事に替えてくれよ」
 富岡は待田以外の線は思いつかないようです。確かにあの現場からして他には浮かばないでしょう。ですが夕立の中で火傷と言う死因が混乱させています。首を絞めた痕跡もない、刃物で刺した痕跡もない。富岡刑事は夕立が去った後の三分から四分の間に焼き殺した証拠を探し続けています。
「佐々木さんもふら付いてないで協力してくださいよ。身代金誘拐、それは未遂ですが殺人は現行犯に近い」
「あの火傷は藁や薪で焼いたものじゃありません。強い熱波、例えば爆弾が破裂した、そんな一気で高温による火傷です。待田にそこまで知恵が回るでしょうか」
「燠《おき》の上に載せればどうです。三分あればあれぐらいにはなる」
 ゼロじゃないが時間が足りない。
「燠にするにはかなりの時間が掛かります。予めどこかで焚火していたのでしょうか?」
 私はその線を諦めさせるつもりで言ったのですが富岡は掌を叩いて『そうだ、その線だ』と聞き込みに出掛けました。私も引っ張り出され焚火の目撃者捜しに隣町まで歩く羽目になりました。
「焚火じゃなくても煙を見ませんでしたか」
 必死に聞き込む富岡が哀れにも見えましたが、犯人捜しに躍起になるのは悪い事ではないと言い聞かせ深夜まで付き合いました。辺りはほとんど百姓ですからあちこち焚火が確認されました。しかし燠が残るほどの焚火は確認出来ませんでした。
「明日は隣村の西側を責めましょう」
 富岡は早朝の待ち合わせを私に言い付けて本庁に戻りました。

  富岡が下痢で動けないと早朝五時に電話が入りました。恐らく神経性の胃潰瘍から下痢をしたのでしょう。一人で聞き込みに回るよう指示されましたが馬鹿らしくて止めることにしました。それより萬屋の叔父からもう少し話が訊きたい。私は午後から叔父を連れて遺体の確認をしてもらうつもりです。あまりにも状況が酷似している。違いは空襲と夕立です。もしかしたら夕立の雨と晴れの境に何か不思議な力が生じる可能性があるのではないかと、おかしなことを思い浮かびました。こんなことを富岡に話せば大笑いするに違いありません。鬼の居ぬ間に洗濯じゃありませんが富岡が戻る前に確認しなければなりません。
 萬屋は重い雰囲気に包まれていました。
「嫁さんの気持ちを考えると他人事ながら悔しさが通じます」
「ああ、嫁はずっと泣き通しですよ、立ち直れるか心配です」
 叔父は溜息を吐いた。
「今日は昨日の続きを伺いに来ました。突然ですいません」
「いいさ、中にいるより気が紛れる、嫁の泣き声は終日屋敷中に響いています。悲しさのあまり屋根が崩れるかもしれない」
 叔父の例えは大袈裟ではないようです。
「空襲で亡くなられたお兄さんのお墓はどちらでしょうか?」
 叔父が歩く後に続いて行きました。溜池の裏の一族の墓地に着きました。
大谷石で積まれた立派な墓地です。
「これが一族の墓ですが遺骨は残っていません」
「どういうことですか?」
「昔は土盛りしていない田と同じ高さの墓でした。大雨で墓ごと流されました。残ったのはこの石碑だけです」
「それじゃご先祖の遺骨も流されてしまったのですか?」
「この辺りは土葬ですから流されてすっかり土にかえってしまったんでしょう」
「土葬ですか、お兄さんのご遺体も?」
「流されてしまいました。溜池なら天国に行ってもザリガニ釣楽しめていいと底を攫うこともしませんでした。どうせ元はうちの溜池ですから」
 過去の参事と重なるとこが多く、おかしな想像が膨らんでしまいます。
「あなたは誠君が発見された時にご遺体を確認されましたか?」
「はい、下のアパートの逮捕された男の布団の上にうつ伏せに寝かせているのを両親と一緒に確認しました。嫁は気絶しました。父親は嫁を抱いて家に戻りました。刑事さんも立ち会っておられたでしょう」
 私も立ち会っていました。叔父の言う通りです。とするとしっかり確認したと言うには及びません。
「失礼ですが、しっかりと誠君の顔を見て確認されましたか?」
「他に誰がいるんです、誠以外に?」
 両親もこの叔父も、その潜在意識から長男であることを疑いもなく認めていたのでした。
「すいませんがもう一度遺体の確認をお願いします」
 叔父は渋々了承した。
「裏返しておきましたから」
 担当が遺体をうつ伏せにしていた。叔父は手を合わせ片目を開けて遺体の背を見た。ぶつぶつと言っているのはまさに念仏でした。
「すいませんがもう一度仰向けにしてください」
 担当は気を利かせたつもりが外れだったので苦笑いをして仰向けに返した。叔父の念仏ははっきりと聞こえるほど大きくなりました。私が肩を叩くと念仏を止め目をゆっくりと開けました。
「お願いします。しっかり確認してください」
 叔父は目を顰めて遺体に寄りました。
「ああっ」
 倒れそうになるのを私が支えました。
「どうされました?誠君ですね?」
「分からない」
「分からないとはどういうことです?」
「誠のようで兄にも似ている」
 血の繋がった親族、それも同じ齢、似ていない方がおかしい。
「しっかりと見てください。お願いします」
 頭を下げる以外にない、この叔父から誠と証言を取ることがこの事件のスタートである。
「歯が見れますか?」
「なんです?」
「歯ですよ歯。兄は前歯の下側の乳歯が二本とも抜けてありませんでした。誠はまだ乳歯が残っていました」
「お願いします」
 担当は頷いて口を開きました。硬く閉まっています。担当は遺体に手を合わせ再度力を入れて口を開きました。少し開けると水と一緒に小さなザリガニが出て来ました。担当も私も驚いて一歩後退しました。。ザリガニは小さいながらも両方の鋏を持ち上げて威嚇しています。
「どうですか?」
「兄さん」
 叔父は抜けた乳歯を見てそう言いました。
「それでは誠君じゃありませんね」
「兄に間違いありません」
 担当は首を傾げました。
「うつ伏せに倒れた時に抜けた可能性もある。この年頃はいつ抜けてもおかしくありませんからね」
 確かに担当の言うことにも一理あります。
「着ていた服を見せてくれませんか?」
 担当はボロボロになった布切れをビニール袋から出した。
「こっちがシャツです、そしてこっちがズボン」
 叔父はズボンの一部を見て泣き崩れました。
「あんちゃん、二郎あんちゃん」
「お兄さんのものですか?」
「膝のあてもの、あれは母が縫い足したものです」
 担当と私は顔を見合わせました。担当は首を振って否定しています。信じろと言っても無理でしょう。ですがもし、叔父の言うようにこの遺体が四十年前に空襲で亡くなった叔父の兄であるならば誠はどこかにいることになる。私は署に連絡して周辺の捜索を願いでました。地元や隣町の消防団も加わり辺り一帯、溜池の攫いまで行いました。しかし発見することは出来ませんでした。もしかしたら本当に誘拐されているのかもしれない。萬屋の主人に電話には注意するよう伝えました。悲しみに暮れていた夫人に希望を与えたことは逆に罪深いことだったかもしれません。夕方になりました。今日の捜索は終了し明日早朝から再開することが決まりベンチの前で叔父と別れました。
「雨のようだな」
 東の空は明るい。
「降りますか?」
「雨の臭いがする」
 すると西の空から夕立が真っ黒い壁を立ててやってきました。
「来た、刑事さんも中に入りなさい」
「これ借ります」
 店先にあった金盥を被り夕立が来るのを待ちました。
「刑事さん、刑事さん」
 叔父の声は雨に消されました。金盥を叩く雨音は戦場の機関銃のように耳を劈きます。ベンチまで来た黒い壁、身体の後ろ半分を夕立の中に、前半分を晴れの中に、私は走りました。夕立の速さに合わせて畔を走りました。すると溜池から取水栓で繋がれた畔に少年が立っています。ずっと先のアパートの二階から男が叫んでいます。私は少年を脇に抱えて走りました。畔が泥濘、足が滑りました。少年が『魚籠』と声を上げました。
「魚籠はもういいんだ、あの魚籠はもういい」
 気が付いたときには私は病院に搬送されていました。目が覚めると富岡が立っていました。
「あの少年はどうしました?」
「ああ、見つかった。やっぱり待田だ。町の女に預けていた」
 私は午後病院を出ました。そして萬屋に行くと何もなかったかのように店を営んでいました。叔父が出て来ました。
「これから兄の供養に行きます。良かったらお付き合いください」
 私は曖昧に頷いて畔に向かいました。あの子が取りに戻ろうとした魚籠が沈んでいました。棒切れに引っ掛けて畔に上げました。大きな真っ赤ちんが鋏を持ち上げて威嚇しています。私はそのまま元の位置に沈めました。沈殿した土が煙幕のように土色になって上がって来ます。雨の臭いが西風に乗って流れて来ました。
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