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しおりを挟む「いらっしゃいませ、こんばんは」
繭子のやさしく落ち着いた声が常連客を温かく迎える。
白いシャツに細身の黒いパンツ、そして一平とお揃いの黒いソムリエエプロンを着け、髪をポニーテールにしている繭子はとてもかわいらしく実年齢よりも少し幼く見え、大学生でも通用するくらいだ。本人は最初は子どもっぽく見えるのが少々不満げだったのだが、一平が「良く似合っているしとてもかわいいよ」と何度も褒めると、頬を染めてはにかんだ。その姿がまたとても愛らしかった。
「マスター、ハンバーグセットお願いします、食後はホットコーヒーで」
「了解」
繭子が店で働くようになってもうそろそろ1ヶ月になる。
初日、16時半より早く店に入った繭子は、一平に、本日からどうぞよろしくお願いします、と挨拶をすると、まずは店内の掃除に取り掛かった。飾ってあるたくさんのアンテークの時計や置物類を落としたり壊さないようにそっと丁寧に羽のはたきを掛け、それが終わるとトイレ掃除、そして、床をモップで隅々まで綺麗に水拭きし、最後にカウンター席とテーブル席を拭き上げた。繭子のおかげで店の中がより一層ピカピカになった。一平が労うと、繭子はきょとんとした顔をしてから、そんなの当たり前のことだし、元々掃除が好きなので全く苦にならないし、せっかく年代物の貴重な品々が素敵に飾られているのに埃が被っていたら悲しいから、と言ったのだった。そして閉店後も同じように店内を掃除した後、カウンター内や厨房までピカピカにしてくれるのだった。
もちろん繭子が入ってくれる前も飲食業を行う上では基本の基本としてとにかく店内の衛生に関しては最大限気を使ってやってきたが、彼女のおかげでさらに安心して営業できるようになった。
接客に関しても、丁寧だがお客さんが居心地よく過ごせるようにあまり過度な接客はせずに注文を聞いて運んだ後はいい意味でほっといて邪魔をせずに目立たないように温かくお客さんの様子を見守っている。元々店のスタイルとして昔からそうしているのだが、何も言わなくても繭子も自然にそうしていたのには驚いた。おそらく繭子自身が常連客だったから客の立場でここの雰囲気がよく分かっていたからだろう。
そうした繭子の働きぶりを見てきて、一平は最初はあまり繭子に負担を掛けさせたくなかったので新しいスタッフが入るまでの期間限定のつもりでいたのだが、できればずっとこのまま繭子にいてもらいたいと思うようになっていた。
繭子が来てから2週間後の土曜の夜、常連客であり2人にとって友人でもある美沙絵と駿が来店した。
繭子は店で働いていることを美沙絵に伝えていたらしく、美沙絵は入ってくるなり「繭子さ~ん、やっと来れたよ。ごめんなさい、なかなか都合が合わなくて」と言いながら繭子に抱き着いた。そして、駿と一緒に意味ありげに笑っている様子から、2人が恋人同士になったこともすでに知っているとみえる。その証拠に、カウンターに座った海堂夫妻に「ねぇねぇ、駿さん、何だかマスターと繭子さんの周りだけお花畑が広がっているような気がするんだけど」「ああ、確かに。それプラス、幸せオーラも見えてすごく眩しいな~」「うん、眩し~い! それに、ふぅ~ここだけやけに熱いな~」と顔の前で手をパタパタと仰ぐマネまでされて冷やかされ、照れ臭いったらありゃしない。そして恥ずかしそうに上目遣いに一平をチラチラ見る繭子に美沙絵が「カワイイ!」と連発してさらに繭子の頬を染めさせていた。
でもそんな風にからかいながらも、美沙絵と駿は心から彼らのことを喜んでいた。
一平の料理に舌鼓を打ちながらみんなでおしゃべりをし楽しいひと時を過ごし「また来ます」と笑顔で手を振りながら夫妻は帰って行った。
実を言うと、一平と結ばれてから数日後、繭子はたまたま平日が公休だった美沙絵からもし都合がよければ家に来ないかと誘われて一緒にランチをしたのだ。
美沙絵が作ってくれたシーフードパスタとミモザサラダはとても美味しく、レシピを教えてもらったので早速作ってみようと思った。
食後に繭子が持参したケーキやお菓子を食べながら、一平と付き合うことなったと話すと、美沙絵は大きく目を見開いた後「ホントに~!? わぁ~よかった!」と喜んでくれた。
そして繭子は初めて彼女に打ち明けたのだ。
会社でパワハラを受け適応障害となり退職したこと、通っていた心療内科がたまたま古時計の近くだったので思い出して久しぶりに行ったこと、また店に通うようになり彼に魅かれていったこと、そして美沙絵が助けてくれたあの夜に過呼吸を起こした理由、一平から何か辛いことを抱えているなら話してほしいと言われ洗いざらい打ち明けたこと、彼は全て受け止めてくれ自分の気持ちを分かってくれ一緒に寄り添ってくれて怒ってくれてそして励ましてくれたこと、そのおかげで立ち直ることができたことを。
美沙絵は黙って繭子の話を聞いていたが、依子のことを知った時は「えっ…!」と驚き、しばらく言葉を失っていた。やはり一平が結婚していたことは知らなかったらしい。一平がまだ亡くなった依子のことを愛していると思い、自分の想いには蓋をしてこの恋が報われなくてもかまわないから自分を救ってくれた一平に何か恩返ししようと決めたことを話すと、美沙絵は繭子の両手をそっと包み込んだ。それから、母親に無理やりセッティングされてお見合いをしたのだがその相手とは友人というか兄妹のような関係になったこと(これにも美沙絵は驚いていた)、熱を出した一平を看病したこと、そして、色々な経緯を経て依子の月命日に一平から告白されたことを話した。全てを話し終えると繭子の両手を包み込んでいた美沙絵の両手に力が籠った。
「…繭子さん、辛かったことも含めて全てを話してくれてどうもありがとう。とにかく繭子さんが立ち直って元気になってくれて本当によかった。それに、繭子さんの恋が実ったことも心から嬉しい。マスターの奥様のことは全然知らなかったからびっくりしたけど、マスターは前を向いてこれからの人生を繭子さんと一緒に歩んで行こうって決めたんだね…。よかった、本当によかった…」
美沙絵は涙ぐみながらとても喜んでくれた。
「ありがとう。まだ始まったばかりだけど、一平さんのために私ができることは何でもするつもりだし、彼を支えていきたいと思ってるんだ」
「私は陰ながら応援するね。あ、結婚が決まったら真っ先に教えてね!」
「えっ…! そんなのまだ分からないから…」
焦って赤くなる繭子を見て美沙絵は、きっとそう遠くない話だろうな、と思いながら微笑んだ。
翌週の日曜の閉店後、繭子が扉のプレートを『Close』に返すとカウンター内で作業をしていた一平が繭子を労った。
「お疲れ様。今夜はいつもより忙しかったけど、よく頑張ってくれたね」
「お疲れ様でした。いえ、マスターの方が大変だったと思います。あまり戦力になれずに申し訳ありませんでした」
「そんなことない、十分助かったよ。俺は慣れてるし、まあこういうこともたまにあるから大丈夫だよ」
通常日曜の夜は客はまばらなのだが、今夜は常連さん達に加え、偶然ここを見つけたという一見さんやら、5名でやってきた団体さんやらで珍しく満席に近い状態だったのだ。料理やドリンクを作るのは全て一平で、繭子はそれを運んだり下げたり食器やグラスの洗い物をするだけだったので申し訳なく思った。
閉店後、残った洗い物と店内の掃除を全て済ますと、今夜の賄いは私が作ろう、と準備に取り掛かった。一平は繭子の手料理が食べられると喜んだ。一平の料理の腕と比べると劣るのは仕方がないが、繭子なりに考えて、鶏もも肉とベビーリーフが余っていたので、まず鶏もも肉を斜めに食べやすい大きさに切って甘辛く焼いて、皿に盛ったごはんの上にベビーリーフを敷いてその上に盛り付けた。そして残っていたコーンスープを温め直して出した。
「こんなものしか作れませんでしたが…」
「わぁ、旨そうだ。十分だよ。俺だって賄いはいつも簡単なものだろう?」
そんなことはない。一平はいつも繭子のためにちゃちゃっとすぐにとても美味しいものを何品か作ってくれる。自分ももっと頑張って一平のように作れるようになりたいのだが…。そんな風に思っている繭子をよそに、早速一平が食べ始める。
「あ、旨い! 味付けもちょうどいいよ。ベビーリーフとも合ってるし、これはごはんが進むな」
と言いながら、繭子が食べている間にすっかり平らげていた。
「ありがとう。ご馳走様でした。ホント美味しかったよ、また作って」
「…お粗末様でした。こんな簡単なのでよければ…」
繭子は恐縮しながらも、とりあえず合格をもらえたようだったのでホッとした。
「あの、今日は1人で帰ります。送っていただかなくても大丈夫ですから早くお休みください」
いつも帰りは一平に送ってもらっているがさすがに今夜は疲れているだろうし申し訳ないと思い、帰り支度をしながらそう申し出ると、一平に腕を引かれギュッと抱きしめられた。
「…明日は休みだし久しぶりに泊らないか? ゆっくり話もしたいし、繭子を愛したい…」
「…っ」
赤くなった繭子の頬に一平が優しく唇をつける。
「イヤか…?」
熱の籠った目で見つめられ胸が高まった。答えは決まっている。
「…イヤじゃないです…」
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