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しおりを挟む"3年前に亡くなった俺の妻だよ"
それを聞いた瞬間、繭子は固まった。
あの写真の女性は、亡くなった奥様……。
マスターは結婚していた…。
素敵な男性だし年齢的にも結婚していたとしても何もおかしいことはない。ただ、彼から一度もそういう話題が出たことがなかったので今まで思い至らなかった。
車の中で少しだけ話してくれた。
奥様は依子さんというお名前で、マスターがまだお父様の元で修行していた頃からの常連さんで、マスターが3代目を継いだ時に結婚し、お父様が亡くなられた後は夫婦で店を切り盛りしていたが、結婚して1年と少し経った頃、依子さんにがんが見つかった。気づいた時にはかなり進行していて、あっという間に全身にがんが転移してしまい、手の施しようがなく入院からわずか半年足らずで亡くなってしまった…。たった2年弱の結婚生活だった。それから話の流れでマスターのお母様は彼が10歳の時に交通事故で亡くなったことも知った。
繭子はショックのあまり口が利けなかった。
小さい頃にお母様を、そしてお父様の後に立て続けに奥様まで…。マスターの悲しみは計り知れないほど深かったに違いない。
淡々と話していたが、まだ心の痛手は癒えていないだろう。
「依子は紅茶やハーブティーが大好きで、特にハーブティーにはうるさくてね。ほら、ウチはコーヒーよりもお茶の方が種類がたくさんあるだろう? そこが気に入って毎日のように通ってきては親父とお茶の話で盛り上がっていた。修行中の俺が淹れたお茶を試飲しては『あなたはまだまだね、もっと頑張りなさい』なんて言うもんだから悔しくて彼女に認められたくて必死でベストな淹れ方をマスターしたよ」
一平は当時のことを思い出したのか、フッ…と軽く笑った。
まだ依子さんのことを愛しているのですか、と聞くまでもなかった。マスターの話しぶりや表情から、まだ奥様のことを想っているのが分かったからだ。
一平の気持ちを思うと繭子はたまらなくなった。
どうして、どうして神様はマスターにそんな残酷な仕打ちを与えたの?
どうして、せめて、せめて依子さんだけでも救ってくれなかったの?
これ以上気を遣わせてはならないと車の中では必死に堪えていた涙が、部屋に入った途端、ドッと溢れた。
ああ…マスター…私なんかよりもずっとずっと辛い経験をしているというのに…。
ただの客にすぎない私のことを気にかけてくれ、話を聞いてくれ、怒ってくれ、気持ちに寄り添ってくれ、励ましてくれた…。
彼は自分の経験から、悲しんで苦しんでいる私のことを敏感に感じ取って、手を差し伸べてくれたのかもしれない。
マスターも自分に言い聞かせていたのかもしれない。
"急がなくても焦らなくてもいい…自分のペースで自分を取り戻していけばいい"
"明けない夜はない、と信じてこれからの人生を歩んでいこう"
繭子は一平を想って泣きに泣いた。さっきあれほど泣いたのに涙が枯れることはなかった。
そしてようやく泣き止むと決意した。
私はマスターに救われた、だから今度は私が彼に恩返ししよう。
私の方こそおこがましいかもしれないが、あなたの力になりたい。
だから、どうかあなたの寂しさや悲しさを私にも分けてくれませんか、それで少しでも楽になれるのなら、私がいくらでも受け止めます、それ以外にも何か私にできることはありますか、あなたのためなら何でもします。
そのために、ひとまず自分の恋心を封印しよう。何より、一平の心に付け入るようなことをしたくなかった。
一平が依子さんを忘れられなくとも愛していたとしても、彼を想う気持ちに変わりはなかったし、これからも変わることはないだろうが、一平の心に明るい朝が訪れてくれるなら、たとえこの恋が報われなくても構わないと思った。
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