思い出は小糠雨と共に

宮里澄玲

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 強制も約束もしない――。
 
 それでも私は土曜日になると、よほど仕事が立て込んでいない限り、自然とあの店に足が向かった。空いていればあの時と同じ席に座る。あなたが来るかどうかも分からないのに。でもだいたい3回に1回の確率で、12時半頃になるとあなたは現れた。そして私がいるのが分かると優しく柔らかな笑みを浮かべながら向かってくるのだった。私はあなたのあの笑顔が大好きだった。
 私たちはランチをしながらあるいはお茶を飲みながらやはりただ取り留めのない話をするだけだ。お互いのプライバシーには踏み込まない。
 それでも、色々話をするうちに少しづつではあるがあなたのことを知っていく。例えば、大の甘党でここのアップルパイが好物だとか。確かにあなたは食後にいつも何かケーキ類を頼んでいた。それを知り、今度「セムラ」や「ハロングロットル」とかを買って渡そうかと思った。「セムラ」というのは甘いパン生地の間に生クリームが挟んだシュークリームのような形をしたスウェーデンの国民的スイーツで、「ハロングロットル」はラズベリージャムがのったクッキーで、どちらも私が大好きなお菓子だ。甘いものが好きならきっと気に入ってくれるに違いない。
 それから小さい頃に実家で柴犬を飼っていて毎日散歩に連れて行き一生懸命世話をした話を聞いた時、私もある思い出が蘇った。日本に来たばかりの頃、祖父の隣の家でやはり柴犬を飼っていて、日本の犬を見たのが初めてだった私はその愛くるしさに一目惚れし、毎日のように隣の家に見に行ったものだった。そんな私の様子に、隣の家のおばさんは時々私に犬の散歩を任せてくれたのだ。その話をしたら、そうですよね! 柴犬って可愛いですよね! 僕は犬の中で一番好きなんです!と嬉しそうに言ったのだった。だが私は自分がスウェーデンから来たことは言わなかった。言いたくなかった。もしどうして自分だけが日本に来たのか聞かれたら答えることができなかったからだ。幸い、あなたは何も聞いてこなかった。
 
 次に会った時はあなたは雨男らしく雨に関するさまざまな表現の言葉を教えてくれた。知らなかった表現が多く、私は感心すると同時に翻訳者として日本語の勉強不足を思い知って恥ずかしくもなった。
 ――自分が雨男のせいか、雨を表現する言葉を色々と知りたいと思い歳時記をいつも持ち歩いて読んでいました。春の雨なら「桜雨(さくらあめ)」読んで字のごとく桜の花が咲くころに降る雨。初夏なら「緑雨(りょくう)」とか「翆雨(すいう」。どちらも新緑の季節に振る雨。秋なら「秋霖(しゅうりん)」秋の長雨のことですね。そして冬なら「氷雨(ひさめ)」みぞれや雪に変わる前の凍るように冷たい雨、などなど。雨を表す言葉って400語以上あるらしいですよ。
 ――え、400語以上も!?
 ――そうらしいです。さすがに僕もまだ全部は分からないのですが、いつか全て制覇するのが目標です。
 笑いながら手持ちのメモ用紙にサラサラと雨の言葉を書いていく。綺麗な字だと思った。その時、あなたが書きながら口にした言葉が妙に耳に残った。
 ――「こぬか雨?」
 ――ああ、霧雨のことです。米糠のように細かな雨が音もなく降る雨です。
 あなたは言いながらメモ用紙に「小糠雨」と書いた。
 ――日常会話ではほとんど使われませんよね。でも僕は「小糠雨」の方が好きですね。なんだかノスタルジックな響きで。
 私も同じように感じた。
 ――そうですね、詩的というか文学的な感じで私も好きです。小糠雨…これからは私も霧雨のことをそう呼ぶようにします。でも、こんなにたくさん雨の表現があるなんて知りませんでした。恥ずかしいです…。
 ――詳しく知らない人の方が多いですよ。俳句や短歌などをやっている人たちならともかく、僕らや僕らより若い年代の子たちならなおさらです。僕の場合は、ただでさえ憂鬱な雨を少しでも快適に楽しく過ごしたくて。雨の種類をたくさん知っていれば、あ、今日は何々雨だ、今日は何々雨か、という風に楽しめますからね。
 ――そうですね。雨の日が待ち遠しくなりますね。あの、よろしければそのメモ、頂いてもよろしいですか?
 あなたは少し驚いたような顔をした後、ほのかに顔を赤らめた。
 ――あ、でも、走り書きでこんな乱筆なものをお渡しするのは恥ずかしいのですが…。
 ――そんなことありません。綺麗な字です。とても勉強になりましたので、今日はせめてこれだけでも覚えておきたいのです。それに私ももっと色々知りたいと思いました。私も早速帰りに歳時記を買いに行きます。
 本音だった。仕事柄いつも言葉には敏感でいたつもりだったが、まだまだだった。スウェーデン語や英語もそうだが、日本や日本語についても深くもっと勉強しなければと反省したのだった。
 ――…分かりました。こんなものでよろしければどうぞ。それに、あなたが私の話を熱心に聞いてくださり興味まで持ってくださってとても嬉しいです。
 照れくさそうに渡されたメモは私の宝物になった。
 
 私たちは店を出ると、駅前の大きな書店に行った。そして、私はあなたが薦めてくれた読みやすい歳時記を買ってから、いつものように駅で別れた。 
 私はいつもより気持ちが高揚していた。そして、あなたのことをもっと知りたいと思ってしまった。
 でも、だめ、私たちは友人とも呼べないまだその手前の関係。それに私だって自分の素性をほとんど明かしていないのだ。これから徐々に焦らずゆっくりといい関係になれたらいい。だって、また店に行けば会えるのだから。
 
 
 私はあの時、あなたとの楽しいひと時がこれからもずっと続くと信じていた。
 
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