思い出は小糠雨と共に

宮里澄玲

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 帰国後は、延ばしてもらった仕事に早速取り掛かり、慌ただしい日々が続いた。
 
 私はスウェーデン語と英語の翻訳や通訳の仕事をしている。
 本来はスウェーデンの絵本や文学作品などの翻訳や映画の字幕翻訳をメインにやっていきたいのだが、正直それだけでは生活が成り立たないので普段は不本意ながらも英語の通訳や翻訳の方がほとんどだ。日本では北欧の家具や雑貨類やスウェーデン発のファストファッションはとても人気があるが、小説や映画といった分野は素晴らしいものがありながらも残念ながら紹介される機会が中々ない。これまで手掛けてきた数少ない映画や数冊の絵本や向こうで大ベストセラーとなったミステリー小説の翻訳以外にも、いい作品を探し出しては自ら馴染みの出版社の編集者や映画配給会社のヨーロッパ担当者に持ち込んでいる。今回もスウェーデン滞在中にストックホルムで1番大きな書店に足を運んで、自分の感覚でこれはと思う本を大量に買い、映画も日本人に受け入れられそうな作品のDVDも何枚か買った。
 請け負っていた仕事が終わると早速出版社に持ち込む小説を数冊厳選し、あらすじやお勧めする理由と冒頭の数ページを翻訳したものをまとめたレジュメの作成に没頭しているうちにあっという間に2週間が過ぎていった。
 
 朝、目覚めてカーテンを開けると外は雨だった。
 今日は雨か……あっ! 
 その時不意に借りっぱなしになっていた傘のことを思い出した。
 あれから1ヶ月近くも経ってしまった。早く返さないといけない。それに今日は土曜日だ。もしかしたら会えるかもしれない。開店と同時くらいに行って待ってみよう。
 傘だけ返すのは申し訳ないので、店に行く前にどこかで何かお礼の品を買うことにした。
 向こうでは自分の仕事に使えるようなものばかりを買い込んだので、人様に渡せるようなお土産などはなかったからだ。
 今日どうか雨男さんに会えますように…。窓の外に向かって期待を込めて願った。 

 カランコロン……。
 ドアベルの音が聞こえたのですぐに顔を上げたが、残念ながら私の待ち人ではなかった。入ってきたのは常連客らしいカップルだった。男性はスラッとした長身のとてもハンサムなまるでモデルのようで、隣にいるのは色白で小柄なこれまた綺麗で素敵な若い女性だった。2人はカウンターについて注文を終えるとマスターの奥様と談笑していた。
 12時半になるところだった。もしランチを取るならそろそろ来てもいい頃だ。私は入った時に目に入りやすい席でカモミールティーを飲みながら本を読んで過ごしていたが、気もそぞろで本の内容がほとんど頭に入ってこなかった。それにそろそろ食事も頼まないと失礼だし…。
 その時だった。カランコロンと優しいドアベルの音と共に入ってきたのは、あなただった。思わず立ち上がると私に気付いたあなたと目が合った。あなたは一瞬ポカンとした後、パァ~と満面の笑みを浮かべた。色鮮やかな春の美しいお花畑のような笑顔だった。

 私の向かいに座ったあなたは、お久しぶりですね、お元気でしたかと柔らかい口調でたずねてきた。はい、でも急に色々と用事が入ってしまって傘をお返しするのが遅くなってしまいまして申し訳ありませんでした、と詫びながら傘とお礼の品を渡すとあなたは、お返ししてくださらなくてもよかったのに、と恐縮しながら受け取った。そして傘を見つめると驚いていた。
――もしかして、わざわざきれいに洗って丁寧に折り目をつけてくださったのですか? 
――はい。おそらく職人さん手作りの上等なものだと思ったのでそのままお返しするわけにはと…。余計なことをしてしまったのでしたら申し訳ありません。
 私が謝るとあなたは慌てたように手を左右に振った。 
――余計なことだなんてとんでもない! びっくりしただけなんです。これまでも人に傘を貸したことは何度もありましたが、ここまで丁寧な状態にして返してくれたのはあなたが初めてで…。こちらこそどうもありがとうございました。こんなお気遣いまでしていただきまして…。
 あなたは頭を下げると、デパートで簡単にラッピングしてもらった袋に目を向けた。ほんのお気持ちですがよろしかったら使ってくださいと言うと、開けてもよろしいですかと聞いてきたので、頷いた。
――わぁ…綺麗な水色のハンカチだ。あっ、刺繍がしてある。
 ハンカチの刺繍に気付いたあなたは破顔した。 
――これ、僕にピッタリの刺繍ですね! すごい! ありがとうございます、大事に使わせてもらいます!
 大喜びの様子に私も顔が綻んだ。ハンカチの隅には傘をさして楽しげに歩く男性の姿の刺繍が施させている。購入したハンカチに無料で好きなデザインの刺繍をしてくれる期間限定のサービスがあるのを知り、雨男のあなたをイメージしたイラストを描いてこんな感じでとお願いしたのだった。
 それから私たちはランチを食べながら他愛もないおしゃべりを楽しんだ。そして、並んで傘をさしながらまた一緒に駅まで帰った。
――今日はありがとうございました。楽しかったです。もしまたあそこで偶然居合わせることがありましたら、ご一緒してくださると嬉しいのですが。強制も約束もしません。あなたの負担になるといけませんし、おひとりでゆっくり過ごしたい時もあるでしょうから。もしそうしてもいいと思ってくださった時だけで結構です。   
――分かりました。そちらだっておひとりで過ごしたい時もあるでしょうから、お互いに気遣いをせずにしましょう。私も今日お話しできて楽しかったです。ありがとうございました。
 お互いに一礼してから別れた。
 
 会えて本当によかった。ようやく目的を果たせたし、ただ世間話をしただけだったが、あなたの笑顔に心通うことのない母との関係に沈んでいた私の心が安らいだ。
 そういえば、今日もお互いに名乗り合わなかった。見た目や話をした感じだと年齢は同じくらいか1つか2つくらいしか違わないのではないか。どういう仕事をしているのかも知らないし逆に尋ねられることもなかった。でもそんな関係もミステリアスで悪くないかも。あの店で偶然居合わせた時に気が向いたら一緒の時間を過ごすだけの関係。 
 恋愛は当分いい。今まで何人かと付き合ったことはあるが、どれも長続きしなかった。みんな私の外見しか見ていなかったというか、ハーフの女と付き合っていることを周りにひけらかすような人ばかりだった気がする。私は自分の内面をちゃんと見てほしかった。そんな人と出会いたかった。あなたは私の見た目に気付いているのかいないのか、何も言わなかったし聞かれなかった。そもそも私を恋愛対象に見ていないのかもしれない。でもそれでいい。それがいい。これから友達くらいにはなれるかもしれないが、今は今日みたいな気楽な話をするだけの関係が心地いい。


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