思い出は小糠雨と共に

宮里澄玲

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 結局のところ、私の帰省はたった10日ほどだった。

 あの日、病室に入ってきた私に母はまるで幽霊でも見たかのように心底驚いた表情をしてから、わざわざここまで何しに来たの?と冷たく言い放った。何しにって…お父さんが連絡をくれたのよ、しばらくの間こっちで面倒を見るからと言うと、母はあの人ったら余計なことを…と呟きながら顔をしかめた。
 元々小柄な母だが最後に会った時よりもさらに小さくなっていた。でも病的な感じではなく顔色も悪くなかった。病室に入る前に担当の看護師に話を聞いたところ、処置が早かったおかげで深刻な状態ではなく翌週に再検査をして何も問題がなければ退院できるが、しばらくの間は家で安静にしていなければならないとのことだった。
 ――連絡を受けた時は驚いたけど、大事に至らずによかった。何か必要なものがあれば家に取りに帰るけど。あと、こっちにいる間お母さんのところに泊まっていいでしょう? その方がここまで通いやすいし。
 ――今週中には退院できるそうだから、あんたがいなくても大丈夫だから。   
 ――そんなこと言ったって、最低限の着替えとかいるでしょう? それに、退院してもしばらくの間安静にしていないといけないって看護師さんから聞いたわ。普通に生活できるようになるまで私が面倒みるから。
 ――……じゃあ、着替えだけお願いするわ。それ以外は何もいらない。だから早く日本に帰りなさい。退院後のことは、面倒見てくれる人を手配してもらうから。
 ――そんな……。どうして? お母さんが私に来てほしいって言ったからすぐに飛んできたのよ。 
 ――は? 私はそんなこと一言も言ってないけど。
 ――お父さんから聞いたのよ、お母さんがそう言ってるからって。
 ――私はそんなこと言った記憶ないから! とにかく、あんたにしてもらうことはほとんどないから。 
 ――……分かった。じゃあ、着替えを取りに行ってくるから。
 
 久しぶりに再会したというのにどこまでもその冷たい態度に私は内心傷ついていたが、とりあえずタクシーで母の家に向かった。
 
 やはり母は何も変わってなかった。
 まだ私を憎んでいるのだ。
 
 私は溢れる涙を懸命に堪えながら車窓から流れるどんよりとした曇り空の寒々しい故郷の景色を眺めていた。
 その空模様は、まるで私たち母娘の関係そのものを表しているようだった。 
 
 
 再検査をして幸い問題がなかった母は、翌日退院した。当日、しばらくの間お世話をしてくれる介護福祉士の女性が母に付き添って家に戻って行き、私はろくに母と話せないまま本当にお役御免となり追い払われてしまった。何ともあっけない別れだった。
 虚しさと悲しさで胸が一杯だったが、仕方がないのでこっちでやるべき用事を済ませたらなるべく早い便で帰ろう……。ちょうどいいフライトの予約をし、もう母の家には泊まれないので空港近くのホテルを取った後、スウェーデン時代からずっと連絡を取り合っている幼馴染にメッセージを送ると、すぐにホテルをキャンセルしてウチに来なさいと彼女から返信が来たので、せっかくなのでお言葉に甘えさせてもらうことにした。彼女が仕事から帰ってくるまでカフェで持ってきたノートパソコンで仕事関係のメールチェックをしたりスケジュールの調整などをして時間をつぶした。そして夕方、久しぶりに見る芸術的な地下鉄アートを堪能しながら彼女が住むアパートの最寄り駅に向かったのだった。
 私との再会をとても喜んでくれた彼女の存在は母のことで失意に陥っていた私の心を慰めてくれた。彼女は今回の私の帰郷の理由を知り驚いたものの、大事に至らなくてよかった、すぐに元の生活に戻れるよと言ってくれた。だが私の家族の事情を知っている彼女は、私が自分に対する母の態度について話すとそっと溜息をついた。
 ――そう…まだそんな頑ななのね…。あのことはあなたのせいじゃないのに。
 ――でもお母さんはそう思ってないの。まだ私を恨んでいる。だから私を日本に……。それに、私も、いくらお父さんやあなたや周りの人たちが私のせいじゃないって言ってくれても、どうしても自分を責めてしまう…。
 ――だめ! いい加減やめなさい! 誰に聞いてもあなたが悪いなんて思わないし、彼女があなたを日本の家族に預けたのだって他に何か理由があるはず。それに、彼女が倒れた時あなたに来てほしいって言ってたんでしょう? もし本当に憎んでいたらそんなこと言わないでしょう?
 ――でもお母さんは、そんなこと一言も言ってないって。次の日の夜にお父さんと食事をしたから改めて確認してみたら、確かに私の名前を呼んでたって…。でもどっちみち私はお払い箱になったんだし、帰りの便ももう取ったの。土曜日に出国するから。
 ――えっ! せっかく久しぶりに帰ってきたのにもう行っちゃうの!? もっとのんびりすればいいのに…寂しいわ。
 ――ありがとう、そう言ってくれて。でもね、お父さんはもう別に家庭を持ってるからあまり邪魔はできないし、お母さんはああだし…。それに私も仕事があるし。今回の件で色々調整してもらったから担当者の人に申し訳ないしね。  
 ――帰省中も仕事の心配するなんて、あなたってそういうところはすっかり日本人ね。
 ――ごめんね。またちょくちょく連絡するし、次はいつか分からないけどまた帰って来るから。 
 ――絶対よ! 忘れたらただじゃ済まないからね!
 
 
 それから私は3日間幼馴染の家にお世話になり、必ず寄らなければならない大切な場所に足を運んだ後、帰国の途に就いたのだった。
 
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