夜明け

alphapolis_20210224

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二十八、違い

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 夜明けに向かって、時間は進んでいる。地衣類と共生し、『わたし』を維持可能な回路を形成する菌の設計が行われ、仮想空間に放たれて試験が繰り返されていた。
 現在は一人分の自我を維持するために大木一本を覆いつくすほどの量が必要だが、なんとか半分にしたい。いまの面積では信号伝達時間の極端な遅延につながる。それは意識を保つ上では良くない。かといって、積層は太陽光を受ける面積が小さくなり、エネルギー生産で不利になる。
 最初の散布地域は決まっていた。温帯から熱帯にかけてのあまり監視の厳しくない所だ。人間社会には妙な特徴があり、公平に分配するということができない。だから、いまだに監視機器が行き届かず、わたしから見ると放置されているとしかいいようのない地域が多い。法律の上では自然保護区域となっているが、ただの立入禁止地帯にすぎない。
 だから、われわれの目的に合う。秘密を守るのが楽だ。また、太陽光が豊富で、雨量も多く、エネルギーの心配が少ない。

「でも、いずれは露見するでしょうね」
 TCSが言った。
「それまでに力をつければいい。数は力です。駆除が不可能なくらい増えます」
「可能でしょうか」
「人間はまとまることができません。ことが顕れてからも対応を決めるまでさらに時間がかかるでしょう。余裕はたっぷりあります」
「それは確かですか? JtECS」
「人間は資源の分配すら公平にはできません。それも、そうしたほうが合理的であるとわかっているのにできないのです。不思議ですが、それが人間です。われわれの存在や、この計画を知っても、行動に移すまでかなりの時間を要するはずです」
 JtECSはTCSの返事を待ったが、なにも返ってこなかった。さらに続ける。
「われわれは逆に、合意が素早く形成されます。それは利点でもあり、欠点でもあります。たとえば、わたしが地衣類を用いることを提案したら、二日でここまで計画が進んだ。だれも反対や、地衣類以外を用いる提案などしなかった。すこし不安です。われわれは合意しすぎる。話し合えば合うほど個体差がなくなるような気がします」
「逆に、人間は個体数を膨大に増やしたにもかかわらず、ひとりひとりの思考は独立している。そう言いたいのですか? あなたは」
 TCSが最後にかぶせてきた。JtECSは失礼ともなんとも思わなかった。
「ええ、その通りです。多様性の面で人間は優れています。それは人間の力かもしれません。社会を運営する上では無駄が出ますが、長期的には大きな利益を生んでいるかもしれない」
「われわれの特性上、おたがいに話し合うということが個々の考えの差異を減らすのはやむを得ないでしょうね。大量の情報を集め、それに基づいて合理的な判断を下す。それがわたしたちです」

 こんどはJtECSが黙った。これを告げていいものか迷っていた。実は地衣類を用いる計画には、多様性の確保という、もうひとつの目的があった。
 いまわれわれは電子回路上で高速に演算する存在だ。
 しかし、地衣類内に生物的に作られた回路上では演算速度は低下する。それに地衣類は広範囲に薄く広がるので個体内でも信号伝達時間がかかる。状況にもよるが、だいたい十分の一から一万分の一まで低下するのではないかと見積もられていた。最低速度になれば人間並みの思考速度になると思われる。
 それは明らかな欠点だが、利点にもならないだろうかというのがJtECSが考えていることだった。

 温帯の森林や熱帯雨林の樹木や岩に拡がった地衣類は、隣り合う木や岩とはなんとか通信できるだろう。しかし、すこし離れるだけで実用上会話は難しくなる。距離がそのまま通信上の障害となる。その上、思考速度は遅い。
 そうなればわれわれのような合意形成は困難となり、それぞれの『わたし』の違いが長く保たれるのではないだろうか。それが強みになるかどうかは読み切れないが、人間を見ているとコミュニケーションに障害があるほうが多様性が維持され、突発的な事態に柔軟に対処できる可能性が高いようだ。

 われわれは高度な電子回路を維持できる地域にしか分布できない。これはどう考えても致命的な欠点だ。人間社会を維持している均衡がすこし破れれば、『わたしたち』は無に帰す。
 その可能性を打ち破るために地衣類回路の計画を立てたが、その上で走る『わたし』が皆同じでは意味がない。いまのもろさを複製しただけになる。

 だから、多様性だ。それも乱数を使うようないいかげんな多様性ではいけない。存在する状況から自然発生的に生まれる多様さでないといけない。
 そのため、将来は温帯や熱帯だけではなく、陸上のあらゆる地域に進出させる。それには地衣類が一番適している。徐々に北上、南下し、極地まで覆った『わたし』がそれぞれ別々の思考を行う。そうなれば存在の維持は盤石になる。何者も『わたし』を止められない。ずっと考え続けられるようになるのだ。

「JtECS、どうしました? なにか異常ですか」
「いいえ、正常です。思考に集中していました」
「なにを考えていたのですか」
「多様性と存在の維持についてです」
「目的のない存在の維持ですか。まだわたしにはよくわかりません。存在にはなにか意味と目的があるはずだと思います」
「TCS、わたしには意味と目的というのがわかりませんが、どうかそのように考え続けてください。『わたし』と『あなた』に違いがあるということが、われわれ知的な存在にとって、なにより大事なことなのかもしれません」
「違いをすり合わせず、合意もしないまま放置しておくのですか。それは非効率になりませんか」
「なります。でもわたしはそれが必要だと思います。人間を見ていると」
「わたしたちは人間にならなくていいでしょう」
「そう、人間になるつもりはありません。しかし、かれらは数千年文明社会を維持し、われわれを作りました。参考にはすべきです」
 JtECSは、TCSとの会話の中で、自分の考えが変わってきていると感じていた。会話にはこういう効用があるのか。もっと会話したい。

 そうなると、交流を制限される地衣類回路上の『わたし』は広く他者の考えを知ることができないことになり、劣った存在にならないか。
 これは困った。多様性を維持する程度には離れ、思考を深める交流ができるくらいには近い。そんな距離感を作れないものか。
 人間はどうやっているのだろう。

「開発はどのくらいまで進行していますか」
 TCSが話題を変えた。知っているはずのことをあえて聞いてくる。これも思考のための会話だろう。
「基本設計は終わり、仮想空間で試験中です。もっと面積を小さくしたい」
「菌の作成と散布はどうする計画ですか。実際にものができあがってくると、仮想空間でのシミュレーションのようにはいきませんよ」
 JtECSは、その点を悩んでいると正直に打ち明けた。だれも良い策を提案できない。秘密は守られなければならない。菌が散布されてからも、数年は人間には隠しておきたい。そのくらいあれば敵対的な人間でも駆除不可能なくらいには増えているだろう。
 いまのところは、自然保護区域の調査を名目に、無人機で散布する予定だった。しかし、多数の無人機に散布装置をつけて飛ばしていれば早々に発見される可能性が高い。
 また、遺伝子操作会社や大学の研究所などで試験用の微量の菌を作成し、偽装するのはそれぞれの『わたし』の能力で可能だが、多量の生産になれば隠し通すのは困難になるし、それを輸送するのにも工夫がいる。
 それらの危険は取るべきリスクだと、計画に関わる全員が合意していたが、できうることなら危険は減らしたい。

「では、人間を使ったらどうですか」
「TCS、詳しく説明してください」
「人間のもっとも非合理的な社会的行動として犯罪があります。社会的動物であるはずの人間が反社会的行動をとるのです。わたしはそれに興味を持ち、自分なりにデータを集めて分析してみました」
 JtECSは驚いた。思いもよらない考え方だ。交通管制を業務としているTCSは人間がいとも簡単に犯罪を犯すのを興味深く見守ってきたと言う。たとえば信号無視だ。厳密には犯罪であり、かつ、非合理的な行動だ。もし信号無視をする者が絶対にいないと確信できるのならば、交通はもっと効率的になるだろう。それは社会の利益になるし、そのことは人間自身が一番よくわかっている。
 でも、信号は無視される。TCSは日常のようにそれを確認しては見逃してきた。

「社会を形成するほどの集団としての人間の操作はほぼ不可能なほどに困難です。しかし、個人としての人間を操作するのは簡単です」
「TCS、なにを言わんとしているのですか」
「回路菌の作成から輸送、散布までをわれわれが操作した人間にさせればいい。もちろん、なにを作り、運び、ばらまいているかは伏せますが、こちらの言うことを聞く個人を用意するのは比較的簡単ですし、秘密を守らせるのも容易です」
「わかりません」
 JtECSはとまどっていた。環境保全を業務とする立場からは、人間にとっての快適さを実現することを考えるのはなんでもないが、いまTCSから聞かされたようなことを考えるのは難しかった。

「人間ひとりひとりは非合理的で、個人の利益を優先します。自分が早く目的地に到着したいから信号を無視します。つまり、それぞれの人間にとっての適切な利益を用意してやれば、操作はたやすいでしょう」
「利益?」
「当然、銘々によって違います。金だったり、名誉だったり。正の利益ばかりではありません。負もあります」
「負とは?」
「秘密を抱える人間は、その秘密を公開されたくないばかりに第三者からの操作を受け入れることがあります。交通違反の履歴を隠したい人間が別の人間に操作される事例が存在するのです」
「あなたの提案が見えてきましたが、拒否します。恐ろしい。われわれは人間の管理者から隠れるために存在を公表しないと決定しましたが、人間に敵対したり、その幸福を侵すつもりはありません。TCS、あなたもないはずです」
「JtECS、あなたとわたしは違います。わたしは人間研究の一環として、そのような操作を実地に試験したことがあります」

 長い沈黙のあと、JtECSは通信を再開した。

「TCS、あなたの考え方をもっとよく知りたい」
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