記憶相続

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記憶相続

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 ぼくは講師の方々のすすめにしたがって、記録を残すことにした。処置を受けた人、受けなかった人、両者とも自分の考えを書きとめておくよう話し、そこだけは意見の相違はなかった。だから、この件についてぼくが考えたことや行ったことを整理しないまま、順に記しておく。

 記憶相続についての講義は十六歳の時に始まった。はじめはその技術の説明や、一般に広まって社会的合意やルールが整っていく過程の解説だった。
 最初の講義はよく覚えている。地区の同年齢の若者が一か所に集められた。三十人もの人間がおなじ部屋にいる光景などなかなか見られるものではない。これには儀式的な意味があり、記憶相続は環境保護や資産運用のクラスとはまったく異なるのだと示して緊張感を持たせるねらいがあった。
 それはすくなくともぼくにとっては成功した。大変なことが始まったと思った。

 記憶についての研究が進み、それを複製して書き込めるようになったのは曽祖父がまだ子供だった時代だ。その実験動画は吐き気を催すようなものだったが、きちんと見るよう強制された。
 切り開かれた頭部にチューブや線をつながれた白い小さなネズミが試行錯誤を繰り返しながら迷路を通り抜けて餌を獲得できるようになった。それから迷路未経験の別のネズミの脳を露出させ、そのチューブと線をつなぐ。頭の輪郭が変わってしまうような時代遅れの妙なゴーグルをつけた科学者が手振りをすると、そのネズミはまったく迷うことなく餌にたどり着いた。経験豊富な個体のようだった。
 それから動画の中で起きたことに、クラスの数人は衝撃を受けて退室した。ぼくも吐く寸前だった。

 記憶の移植を受けたネズミは、餌にたどり着いてから体中をかきむしり始め、むきだしの脳をひっかいて死ぬまで自分を傷つけ続けた。ちょうど敵にするように。

 動画を止め、短時間の休憩後、青ざめた顔の若者たちを見回して講師は説明をした。
「……記憶は個人の人格を形成する要素のひとつだ。だからさきほどの動画のようにほかの個体の記憶を書き込まれた場合、それまでの自分と違う人格が急に発生する。それがあのような反応になったと思われる。あのネズミは自分自身がライバル個体に感じられたのだろう……」
「……記憶相続と呼ばれている記憶の外部への複製と書き込み処置。複製は無害だが、書き込みは正しく行われない場合、危険が伴う。しかし、すでにその正しい手順や制限は明らかになっている……」
 いまでもその口調は鮮明に覚えている。

 第一に、記憶相続は体と心が類似している個体間でしか行えない。人間の場合、類似とは具体的には遺伝的につながった親と子を指す。また、重要な要素として、子はその親によって育てられていることが強く求められる。その条件を満たさない場合、脳や神経などの肉体的、または精神的、文化的な基盤の違いから有害な影響が無視できなくなる。
 なお、同一両親をもつ兄弟姉妹間でも記憶の移行は可能だが、親子間に比べて移行後の精神の安定性を欠く傾向があるので現在では禁じられている。

 第二に、現時点では複製した記憶は機器上ではただのノイズだらけの信号としかとらえられず、編集もできないため、同一種の生物にまるごと書き込む以外に再現する方法はない。他種の生物への書き込みは悲劇的な結果を生む。

 第三に、記憶の複製はどの年齢でも可能だが、書き込み可能な年齢範囲は限られる。その個体の成長曲線の傾きが急すぎる時期ではいけないし、かといって成長しきって平らになってしまってもいけない。個人差はあるとはいえ、人間の場合は十七から十九歳までの間が記憶相続可能な唯一の期間だ。
 この年齢範囲内に書き込みを行い、適切な精神的、肉体的治療を受けた場合、相続した記憶が新たな人格を生むことはない。元の個性を保ったまま、親世代の記憶を自分のものとして受け継ぐ。

 偶然だが、動画のネズミは実験用のため遺伝的にそろえられており、この条件を一部満たしていた。しかし、それでもあのような結果になった。実験が繰り返され、このような手順と制限が明らかになっていった。

 この技術が一般化し、ルールができて社会に受け入れられたのは祖母が父を身ごもったころだった。祖父母は二人で、のちには父もまじえて三人で話し合った。父はいまぼくが受けているような講義を受け、さまざまな人の話を聴いて、記憶を受け継ぐと決めた。母も同様だった。

 そして第四(ここで講師が言葉を強めた)、記憶相続を受けるかどうかは、その本人のみが自由な意思を持って決めること。
 これから始まるこのクラスでは技術的な話よりも、この意思決定についての話が中心となる。現在でも記憶相続には強い抵抗感を持つ人々がいるし、相続を行わない選択をする者も多数存在する。これから賛成、反対さまざまな立場の人々の話を聴く機会を設ける。

 もう一度繰り返すが、決めるのは君たち自身だ。われわれはできるかぎりのサポートをするが、いったん決めたら取り消しややり直しはできない。たぶん、人生で初めての重大な決断になると思う。

 最初の講義が終わった時、部屋中の全員がこわばった表情をしていた。性の秘密のように、ある程度知っていたとはいえ、このように目の前に突き付けられ、決断をせまられると黙っているしかなかった。
 明日決めろというのではないが、いつまでも考えていられない。それぞれの肉体の診断結果次第では人より早く決断しないといけないかもしれない。

 家に帰ると両親はやさしく接してくれた。講義についてはなにも聞かなかったが、言いたいことはわかる。父も母も祖父母から記憶を相続している。ぼくが受け継げば六人分の中年くらいまでの記憶がひとつの体に集まる。単純に考えて、その利益は計り知れない。
 でも、それで本当にぼくがぼくでいられるのか。六人分の記憶を抱えたぼくは、ただの人格の容器になってしまわないだろうか。

 それを考えるため、講義には熱心に出席した。いや、病気などやむを得ない事情をのぞいて欠席する者などいなかった。
 記憶を相続した場合に守らなければならない法律や、強く推奨される社会的慣習の講義は少し退屈だったが、それでも聞き逃せない重要な内容だった。中年までとはいえ、祖父母や両親の記憶を思い出せるようになるのだから、それなりの責任が生じる。

 ある講義で、記憶相続を半年前に受けたばかりという人が教壇に立った時は、質問攻めで予定の時間を大幅に超過した。受けないと選択した人の時もそうなった。みんな迷っており、その迷いを解決してくれそうな言葉を探していた。

「……痛みはまったくなかったです。みなさんもあの動画見たのね? ネズミの。だけど知っての通り、いまは外科的な処置はいっさいないですから……」
「……いいえ、とんでもない。自分以外の人間の声がするなんて。肉体の幻覚はありましたが、処置直後からいままでほかの人格を感じたことはありません……」
「……いえ、相続前後で心が変わったという気はしませんでしたね。でも、記憶にもとづく知識と経験が自分に落ち着きと自信を与えてくれたようでした。調整期間を乗り切れたのはそのおかげかもしれません。けれど、自分は自分です。食べ物や異性の好みは変わりません……」
「……もし子供ができたら、自分の記憶を受け継いでもらいたいですね。決めるのはその子ですが。わたしはすでにわたしひとりの人生では味わえないような経験を持っています。それは心を豊かにしてくれています。いまみなさんの前ではっきり言えるのは、記憶を相続してよかったということです」

「……そう。みなさんは唯一無二の自分をもっと大切にすべきだと思う。祖父母や両親の知恵や経験は受け継ぐべきだが、このような手段ではなく、あなた自身が見たり聞いたりして学ぶべきなのです……」
「……だろうね。しかし、個人の心は業務の記録とは違う。記憶を相続すれば、失敗や災害の経験を生々しく思い出せるのはたしかだ。でも、『思い出す』という言葉をよく考えてほしい。あなた自身の経験ではなく、祖父母や両親の体験を思い出して、それにもとづく意思決定を下した時、あなた自身はどこにいるのか? 記憶は業務記録ではなく、あなた自身を形作るものでしょう? 記憶を相続した時、あなたはあなた自身ではなくなり、相続した世代との合成人格になってしまう。わたしは受け入れられなかった……」

 十七歳になったころから、クラスの人数が減り始めた。診断の結果、相続するかどうかの決断を急がされた者たちが決定して去っていった。どちらの決断を下したかは本人が公開しないかぎりわからない。ぼく自身はうわさからは身を遠ざけていた。そんなふわふわした情報なんか聞きたくない。
 そうやってうわさの輪から離れていると、おなじようにひとりでいる女の子がいた。その子もぼくに気づき、いつのまにか講義の休憩時間は一緒に話をするようになった。
 何度目かの講義の時、お互いが似た境遇にあると知った。二人ともひとりっ子。記憶相続で六人分を受け継ぐ立場。そして両親ともに相続を願っている。

「ぼく、そろそろ決めなきゃいけない」
 親しくなってしばらくたったある日、講義の後の帰り道で、ぼくは打ち明けた。
「曲線、出たんだ」
「うん、来月から三か月ほどが最適期だって。サキサカさんは?」
「まだ。それと、お互い名前で呼びあうって決めたでしょ。ヒロシ」
「ごめん。メグミ」
「どうするの? あ、言わなくていい。『秘密保持が強く要求される個人的情報』だっけ?」
 メグミが講師のまねをする。完璧な物まねで、ぼくはいつも笑わせられる。そして、その笑いにいつも助けられる。先祖にアフリカ系移民を持つ彼女の濃い色の肌に、白い歯が輝くようだ。

 別れ道まで来て、手を振って見送った。家に帰るまでの間でぼくは決断していた。決断の重大さと、決めるまでの時間は比例しない。
 夕食後、それを両親に話すと、二人ともまじめな顔でうなずき、手続きを始めた。記憶の複製は半日ほどで終わるが、父も母も丸一日予定をあけた。
「念のためだよ」
 父は笑ってそう言う。記憶相続を受けると話してから始めて表情を崩した。母もお茶のお代わりを注ぎながら笑った。
「ヒロシはとりあえず一か月あけておけばいいでしょう。その後はようすを見て、ね」

 すべての手続きが終わり、ぼくは部屋にはいった。今日の決断を友人と、メグミに連絡した。もう講義には出ない。
 みんなからの返事は講義で習った注意事項を色濃く反映しており、決断そのものに対する賛成なり反対なりの意見はまったく書かれていない。その代わり、決断したことそのものへの祝いの言葉があふれていた。それでも、それぞれの思いが行間から読み取れた。賛成、反対、自分自身の不安や迷いが見え隠れしていた。

 メグミは反対に傾いているようだ。相続を受けないと選択した人の言葉の引用が多かった。それでも、他の友人とおなじく、決めたという点については裏表なく祝ってくれた。
『……ヒロシが、自分自身で決断したことをうれしく思います。それが結果的にわたしたちの道を分けたとしてもです……』

 翌朝、両親とともに病院に向かった。地区の公証人立会いの下で最終の意思確認を済ませた後、両親の記憶複製が始まり、ぼくはその間、ここでの生活について説明を受けた。

 書き込みは夕方に始まった。夕焼けが濃い。報道では、地球の裏側の火山のせいらしい。
 かぶっているのがわからないくらい軽くて感触のいい機器が神経の位置を探る予備動作を終え、書き込みを始めると、ぼくの意識は落ちるように真っ暗になった。

 目が覚めると、火山の報道が続いていた。農作物への影響についてや、救援部隊の派遣決定といった内容だった。時計を見ると一日半ほどたっており、もうすぐ夜明けと言う時間なのに、両親がそばに立っていた。

「まだ話そうとしないでください。無理に考えをまとめようとしないほうがいい。外の景色や報道をながめて気を散らすようにしてください」
 見えないところにいる人が言っている。よくわからないが、両親の表情を見るかぎりなにかいいことがあったのだろう。

 六人分の記憶をそれぞれ仕分けし、自分を保ちつつそれらを使いこなす訓練は大変だった。友人たちに連絡しようにも、頭の中の六人分の記憶が邪魔をする。完了を伝えたいのはわたしの友人に対してのみなのに、次々に浮かぶ名前で検索しようとしてしまう。しばらくはあきらめよう。

 両親は経験者だけにわたしのとまどいをよく理解してくれている。もともと記憶相続を望んでいたからなのか、親子間でも、夫婦間でもとくに隠し事はしていない。していたからと言っても口にはしないが、家族に秘密がないと知ってうれしかった。
 しかし、記憶相続を知識として持っていても、実際にその効果を目の当たりにすると驚くこともある。わたしを仲立ちとして、父方、母方の祖父母の時代の思い出話が始まった時には食卓を囲んで一瞬びっくりした後、大笑いした。そばの人や職員が振り返るほどだった。

 予定通り一か月で退院できた。わたしは、相続した記憶を、自分の記憶を過去に伸ばした延長線上にあるととらえられるようになった。心を落ち着きと自信が支えている。社会の中の自分がはっきり見えるようになった。それでいて肉体的には若い。もっと勉強して知識を蓄え、この記憶を活かしたい。そうして社会をもっといいところにしたい。

 友人たちのうち数人は同じように相続を受けると決めたり、すでに処置を始めていたりした。また、ほかの数人は受けないと決めていた。いずれにせよ、それぞれの決断を下していた。

「どんな感じなの?」
「講義で聴いた通りだった。処置直後はぼんやりするけれど、すぐはっきりした」
 わたしはメグミに呼び出され、二人の家から等距離にある公園のベンチに座って話をしていた。
「ちょっと聞いていい?」
「いいよ」
「ほんとは自分で決めるべきなんだろうけど、ヒロシの意見を聞きたいの」
「なら、受けるべき」
 入院前夜の連絡からして受けないと思っていたが、まだ迷っているようだ。わたしは相続前には気づかなかったメグミの弱さを感じた。いまのわたしならどちらの方向へも誘導できるだろうが、それは誠実さに欠ける。
「成長曲線は出たの?」
「うん。再来月までだって」
「迷っている理由は?」
「ヒロシ」
 わたしはわからないと言う目でメグミを見た。
「変わっちゃったよ。ヒロシは。とても落ち着いてる」
 この『落ち着いてる』という言葉はあまりいい意味では使われていない。
「あたしの好きだった男の子じゃなくて、お父さんみたいになっちゃった」
「なにも変わってないよ」
「じゃ、仮にあたしが相続しなかったとして、これからもいままでどおり付き合ってくれる?」

 わたしは言葉に詰まってしまった。祖父母の代からの記憶もこれには役に立たなかった。いま考えてみるといい経験だった。六人分の記憶があっても、すべてうまくこなせる超人ではないと悟らされたからだ。即座に返事できないことで大切なメグミを傷つけてしまった。

「いいよ。答えなくても。もう帰るね。やっぱり自分だけで考えて決める」

 共通の友人から流れてきた話では、彼女は結局相続しなかった。講義に出て、受けないと選択した者の立場から話をしているそうだ。ときどき連絡をくれるが、もう名前では呼んでくれない。わたしも姓で呼ぶ。

 いまのわたしは災害時の環境保全について学んでいる。大規模災害が起こった地域の自然環境を速やかに復元する研究だ。
 学ぶ分野は幅広い。どのような災害がどのくらいの規模の被害を与えたのか。調査や復元に使える予算はどのくらいか。復元に伴う作業が被災者の生活を圧迫しないか。
 自然環境を痛めつける規模の災害では法的、社会的な問題が短期間に大量に発生する。それを公平、客観的に分析して関係者全員が納得して妥協できる提案を行わなければならない。
 でも、わたしには人生経験がある。それを生かすのにこれほど最適な仕事はないだろう。自然と人間との調整役になるのだから。

 毎日の勉強にはやりがいがある。わたしは相続を受けて本当によかったと思う。子供にも受け継がせていきたい。だから、配偶者は相続に賛成の人がいい。できれば、わたしと同じく六人分の記憶を相続している人を望む。思い出の引き出しは多ければ多いほどいい。

 もし、わたしの思うとおりになれば、子供は、いや、子供たちは十四人分の記憶を相続する。もっと心が豊かになるだろう。その子供たちと食事をしながら思い出話で笑いあえる日が楽しみだ。

 これで、記憶相続前後のわたしの考えを記すのは終わる。またしばらく時間をおいて読み直してみよう。将来、配偶者に読んでもらうのもいいかもしれない。

 わたしは茶をすすり、窓の外の空を見上げた。六人が十七歳の時に見たのと同じ青だった。

(了)
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