3 / 3
三、高瀬舟
しおりを挟む
地下鉄の車内は暑くもなく寒くもないが、音がひびいてうるさい。しかし、みょうな高音や低音は含まれていないので、本を読んでしばらくすれば意識の底に沈んでどうでもよくなる。
私はその夜、『高瀬舟』をスマートフォンで読んでいた。最近は電子書籍ばかりだ。慣れるまで時間がかかったが、慣れてしまえば紙の本より便利でいい。とくに小説はもう紙の本には戻れない。
森鴎外は好きな作家で、中学から高校の頃に全部読みつくした。それをまた読み返してみようと思った。いまの自分なら鴎外をどうとらえるだろうという試みのつもりだった。
いくつか作品を読んでみると、感想が大きく変わるものもあれば、学生時分とさほど変わらないものもあった。また、読んだはずなのにはじめて触れるような気になるものもあった。それが思ったより楽しく、通勤の行き帰りは鴎外ばかりになっていた。
同心が告白をきいているところで、脇腹になにかが当たったのに気づいた。となりの人の荷物だろうと思って放っておくと、また当たった。
「すみません」
初老の男性だった。こざっぱりとしているが、いまの季節には厚すぎるように思える上着を着ていた。どうやら荷物の角ではなく、指で突っついていたらしい。
「はい?」
「いきなりお声をかけて申し訳ないのですが、そのお読みになっているのはなんという本でしょうか」
小声で、ていねいな話し方だった。老人は、怪訝そうな私の顔を見て、さらに言葉を継いだ。
「いえ、どうも、私は時代物の小説が好きでして、ふとあなたがお読みなのが目に入りまして、なにやら同心とかそういう文字が目に入ったものですから」
「ああ、はい。『高瀬舟』ですよ。鴎外の」
「はあ、たかせぶね。おうがい、ですか。聞いたことがないですが、最近の方ですか」
「いいえ、明治頃です」
そう言って、私は目次のメニューから略年表を出して見せた。なぜそこまでしたのかわからないが、鴎外を知らないと言う老人を興味深く感じたのだろう。
「ははあ、こんな字を書くのですか。『高、瀬、舟』『森、鴎、外』」
「『鴎』は本当は違う字です。『メ』じゃなくて口三つの『品』」
その電子書籍は現代の仮名遣いに直してあり、著者名も簡略な字を使っていたのでそう教えた。ちょっとばかり知識をひけらかしたい気もあった。
「お詳しいですな」
そう言われて私はわれに返った。これはからかわれているのだろうか。しかし、老人の目はじっと画面を見つめ、いつの間にか、裏紙を切って綴じたメモを取り出し、作品と著者名をさっと書きとめた。
「ありがとうございます。読んでみます」
老人はお辞儀をして次の駅で降りた。そのお辞儀は浅くもなく、周囲の注目を集めるほど大げさに深くもないほどよい礼だった。
私は続きを読もうとしたが、結局、その夜は気持ちが戻らなかった。あの年になるまで森鴎外を知らないなんてありえるのだろうか。時代物の小説が好きと言っていたので、読書の習慣はあるだろうに。
もし、巧妙にからかわれたのではないのなら、あの老人は鴎外の名も、その作品にも触れないまま年を取り、これから始めて読むのだ。老境に達した目で、子供のときに教科書などで読まされた先入観なしに。
自分の降車駅に着いた。あの老人と立場をとりかえられたらなあ、と降りるときにため息をついた。
(了)
私はその夜、『高瀬舟』をスマートフォンで読んでいた。最近は電子書籍ばかりだ。慣れるまで時間がかかったが、慣れてしまえば紙の本より便利でいい。とくに小説はもう紙の本には戻れない。
森鴎外は好きな作家で、中学から高校の頃に全部読みつくした。それをまた読み返してみようと思った。いまの自分なら鴎外をどうとらえるだろうという試みのつもりだった。
いくつか作品を読んでみると、感想が大きく変わるものもあれば、学生時分とさほど変わらないものもあった。また、読んだはずなのにはじめて触れるような気になるものもあった。それが思ったより楽しく、通勤の行き帰りは鴎外ばかりになっていた。
同心が告白をきいているところで、脇腹になにかが当たったのに気づいた。となりの人の荷物だろうと思って放っておくと、また当たった。
「すみません」
初老の男性だった。こざっぱりとしているが、いまの季節には厚すぎるように思える上着を着ていた。どうやら荷物の角ではなく、指で突っついていたらしい。
「はい?」
「いきなりお声をかけて申し訳ないのですが、そのお読みになっているのはなんという本でしょうか」
小声で、ていねいな話し方だった。老人は、怪訝そうな私の顔を見て、さらに言葉を継いだ。
「いえ、どうも、私は時代物の小説が好きでして、ふとあなたがお読みなのが目に入りまして、なにやら同心とかそういう文字が目に入ったものですから」
「ああ、はい。『高瀬舟』ですよ。鴎外の」
「はあ、たかせぶね。おうがい、ですか。聞いたことがないですが、最近の方ですか」
「いいえ、明治頃です」
そう言って、私は目次のメニューから略年表を出して見せた。なぜそこまでしたのかわからないが、鴎外を知らないと言う老人を興味深く感じたのだろう。
「ははあ、こんな字を書くのですか。『高、瀬、舟』『森、鴎、外』」
「『鴎』は本当は違う字です。『メ』じゃなくて口三つの『品』」
その電子書籍は現代の仮名遣いに直してあり、著者名も簡略な字を使っていたのでそう教えた。ちょっとばかり知識をひけらかしたい気もあった。
「お詳しいですな」
そう言われて私はわれに返った。これはからかわれているのだろうか。しかし、老人の目はじっと画面を見つめ、いつの間にか、裏紙を切って綴じたメモを取り出し、作品と著者名をさっと書きとめた。
「ありがとうございます。読んでみます」
老人はお辞儀をして次の駅で降りた。そのお辞儀は浅くもなく、周囲の注目を集めるほど大げさに深くもないほどよい礼だった。
私は続きを読もうとしたが、結局、その夜は気持ちが戻らなかった。あの年になるまで森鴎外を知らないなんてありえるのだろうか。時代物の小説が好きと言っていたので、読書の習慣はあるだろうに。
もし、巧妙にからかわれたのではないのなら、あの老人は鴎外の名も、その作品にも触れないまま年を取り、これから始めて読むのだ。老境に達した目で、子供のときに教科書などで読まされた先入観なしに。
自分の降車駅に着いた。あの老人と立場をとりかえられたらなあ、と降りるときにため息をついた。
(了)
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【アーカイブ】 大好評短編集 後書き付き
Grisly
現代文学
1分で読めます!
これまで、投稿した作品の中から、
特にお気に入りの多かった物、
また感想の多かった物をまとめてみました。
是非⭐︎をつけ、何度もお楽しみ下さい。

ハレーション
ユウキ カノ
現代文学
地方都市の大学に通うひよりは、もやもやした思いを抱えながら、カメラを片手に街をひたすら歩いていた。
ある日ひよりは、日課である撮影の途中で、真一郎という少年に出会う。
ひよりはいつでも笑顔を絶やさない真一郎と過ごすようになり、お互いが似た状況にあることを打ち明け合う。
「まっすぐ息をしたい」。そう願うひよりが、真一郎と見つけたものとは――。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

未熟者の詩集
九丸(ひさまる)
現代文学
取って出しのさらけ出し。
詩の形式もなにも分かってません。
思ったままを。
以前投稿したもを連載にしました。
解釈は人それぞれ。
でも、たまに解説入ります。書いた時の心境とか。
よろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる