ちぐはぐ

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三、高瀬舟

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 地下鉄の車内は暑くもなく寒くもないが、音がひびいてうるさい。しかし、みょうな高音や低音は含まれていないので、本を読んでしばらくすれば意識の底に沈んでどうでもよくなる。

 私はその夜、『高瀬舟』をスマートフォンで読んでいた。最近は電子書籍ばかりだ。慣れるまで時間がかかったが、慣れてしまえば紙の本より便利でいい。とくに小説はもう紙の本には戻れない。
 森鴎外は好きな作家で、中学から高校の頃に全部読みつくした。それをまた読み返してみようと思った。いまの自分なら鴎外をどうとらえるだろうという試みのつもりだった。
 いくつか作品を読んでみると、感想が大きく変わるものもあれば、学生時分とさほど変わらないものもあった。また、読んだはずなのにはじめて触れるような気になるものもあった。それが思ったより楽しく、通勤の行き帰りは鴎外ばかりになっていた。

 同心が告白をきいているところで、脇腹になにかが当たったのに気づいた。となりの人の荷物だろうと思って放っておくと、また当たった。

「すみません」
 初老の男性だった。こざっぱりとしているが、いまの季節には厚すぎるように思える上着を着ていた。どうやら荷物の角ではなく、指で突っついていたらしい。
「はい?」
「いきなりお声をかけて申し訳ないのですが、そのお読みになっているのはなんという本でしょうか」
 小声で、ていねいな話し方だった。老人は、怪訝そうな私の顔を見て、さらに言葉を継いだ。
「いえ、どうも、私は時代物の小説が好きでして、ふとあなたがお読みなのが目に入りまして、なにやら同心とかそういう文字が目に入ったものですから」
「ああ、はい。『高瀬舟』ですよ。鴎外の」
「はあ、たかせぶね。おうがい、ですか。聞いたことがないですが、最近の方ですか」
「いいえ、明治頃です」
 そう言って、私は目次のメニューから略年表を出して見せた。なぜそこまでしたのかわからないが、鴎外を知らないと言う老人を興味深く感じたのだろう。
「ははあ、こんな字を書くのですか。『高、瀬、舟』『森、鴎、外』」
「『鴎』は本当は違う字です。『メ』じゃなくて口三つの『品』」
 その電子書籍は現代の仮名遣いに直してあり、著者名も簡略な字を使っていたのでそう教えた。ちょっとばかり知識をひけらかしたい気もあった。
「お詳しいですな」
 そう言われて私はわれに返った。これはからかわれているのだろうか。しかし、老人の目はじっと画面を見つめ、いつの間にか、裏紙を切って綴じたメモを取り出し、作品と著者名をさっと書きとめた。
「ありがとうございます。読んでみます」
 老人はお辞儀をして次の駅で降りた。そのお辞儀は浅くもなく、周囲の注目を集めるほど大げさに深くもないほどよい礼だった。

 私は続きを読もうとしたが、結局、その夜は気持ちが戻らなかった。あの年になるまで森鴎外を知らないなんてありえるのだろうか。時代物の小説が好きと言っていたので、読書の習慣はあるだろうに。

 もし、巧妙にからかわれたのではないのなら、あの老人は鴎外の名も、その作品にも触れないまま年を取り、これから始めて読むのだ。老境に達した目で、子供のときに教科書などで読まされた先入観なしに。

 自分の降車駅に着いた。あの老人と立場をとりかえられたらなあ、と降りるときにため息をついた。

(了)
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