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1巻
1-3
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「酸味があり、この国の人々にとっては慣れない味なので、父の店で提供していたときも苦手な方がいました。しかし、私はその酸味がさっぱりとしておいしく感じますし、ウメ粥は体調不良の時に食べると効果的だと父から教わっていたので、本日はこれにしてみました」
「そうか」
実際に今もエムルハルト様の顔色は悪いままだ。せっかくのイケメン顔も半減されているような状況だ。まずは謎の体調不良から回復してもらいたい。その気持ちだけで、いきなり慣れない食べ物を提供してしまったのだ。
果たして、食べてくれるだろうか。もっと馴染みのある料理にするべきだったかな。
エムルハルト様は不思議そうにウメを見ながら、しばらく考えているようだった。
「もしお気に召さないようでしたら、別のものをご用意しますよ」
「いや、キミが一生懸命作ってくれたのだろう。これで良い。いただこう」
エムルハルト様はゆっくりとウメ粥を口にした。ごくりと飲み込んだあと、無表情のままこう言う。
「……うまい」
「ありがとうございます」
そう言ったあと、ゆっくりとではあるがウメ粥を口の中へ次々と入れていった。皿に盛った分は全て食べてくださったのである。
「慣れない味ではあったが、うまかった」
「お気に召したようで良かったです」
「まだ残っているのか? 食べたい」
「はい。残っていますが、今日は倒れたばかりですし、このくらいにして明日にしておいたほうが……」
「ほう?」
しまった。またしても私は余計なおせっかいを……
料理が関わると、相手の身体のことを考えてなんでも口にしてしまう癖がある。
「でしゃばってしまい、大変申しわけ――」
「いや、キミの指示に従おう。明日またもらう」
「は……はぁ」
「ゼガルにはなにを用意したのだ?」
「ゼガルさんには水気が少なめの米と、野菜炒めとスープを用意しました」
「キミの分は?」
「本日の食事の残ったものをいただこうかと」
「なんだと!?」
エムルハルト様は、またしても怒りの表情に変わってしまった。
命令で三人分作れとは言われている。
だが、こういう場合の私の分というのは、雇い主の余りものだと教えられてきた。
間違ったことはしていないつもりだったのだが……
「キミに残飯処理をさせるつもりはない。明日からは、キミの分もゼガルや俺と同じものを用意しろ。良いな?」
「は……はい!」
エムルハルト様に怒られてしまった。
だが、その声色はソルドのような嫌味満載で理不尽な怒声とはまるで別物だ。むしろ私のことを心配してくださっているような怒りかたのように思えた。
私は、エムルハルト様に感謝の意をこめて深く一礼した。
「それにしても……俺用に別の料理を作るとは」
「それぞれに合った料理を作ったほうがよろしいかと。特に公爵様は病み上がりですから、ゼガルさんと同じものを用意するのは問題かと思いました」
「体調が戻ったら……明日からはゼガルやキミと同じメニューでかまわん」
「同じですか……?」
「あぁ、主従関係はあってないようなものだ。だからメニューも同じにしてくれ」
「承知しました」
「よし」
エムルハルト様は、そのあとしばらく無言になったが、空になった容器を見ながらため息をついた。
「ところで、ソルド=ゾイレ子爵と言ったか、キミの元婚約者は」
「はい、そうですが」
「惜しいことをした哀れなヤツだな」
「はい?」
「なんでもない、ただのひとりごとだ」
エムルハルト様は無表情のまま席を立ち上がり、食堂から退室した。
このあとはゼガルさんが食事をするから、そのときにでもエムルハルト様のことを聞いてみるとしよう。よくわからないところで怒ったり、なぜか私のことを信頼してくれていたり、まだまだわからないことだらけだ。
◇
「ほほう~、これはまた素晴らしい味ですな」
ゼガルさんは、私が用意した料理を勢いよく食べていく。彼の年齢は五十過ぎだと言っていた。
しかし、まだまだ若手には負けませぬといわんばかりの豪快な食べっぷりである。執事というよりも、肉体労働を終えた常連のおじ様のようなイメージと重なってしまう。見た目はしっかりと、黒を基調としたピシッとしたスーツを着こなしてはいるのだが。
「私の食事の時間はさほど構うことはありませんぞ。二人分別々の物を作られて、しかも初日とあってはさぞお疲れでしょう」
「いえ、そんなことはありませんよ。料理は好きですから」
「まさに天職というわけですな。この味なら納得ですがね」
「ところで、公爵様について聞きたいことがあるのですが」
「ほう……」
ゼガルさんは、やや困ったような表情を浮かべる。
そして、長い髭を手でいじってから首を左右に振った。
「申しわけありませんが、主人の話を私が無断で話すことはできません」
「そうですか……。聞こうとしてしまい申しわけありません」
「なにか気になることがあるようでしたら、ご自身で尋ねるのが一番良いかと思います」
ここで私は少しばかり悩んでしまった。
エムルハルト様が噂に聞くような冷酷なお方でないことは、今までの言動を見ていて理解してきた。だが、想像もしないようなところで何度か怒らせてしまっている。今は体調が回復していない状態なのに、いろいろ尋ねて余計なストレスを与えてしまうのは悪いことだ。
「それよりも、シャイン様も一緒に食べなされ。同僚なのですから、私を待つ必要はありませんよ」
「はい、ではいただきます」
◇
後片付けを済ませ、部屋に戻った。
料理長生活の初日が終わったのだ。仕事モードを終えて素に戻り、ひとまずはベッドの上へと座る。
「はぁ~、嬉しかったなぁ~!」
ベッドに置いてあるクッションをギュッと胸に抱きながら、ニヤニヤが止まらなかった。仕事の最中は顔に出さないようにしていたが、実のところ、顔がくしゃくしゃになってしまいそうなほど情けない笑みを浮かべたくて仕方がなかったのだ。
今、ようやくそれができる。
エムルハルト様が何度もおいしいと言ってくれたことがとても嬉しかった。馴染みのないウメ粥をお出しして、少し残すかもと思っていたが、全部食べてくださったのも嬉しい。
お店の常連さんにおいしいと言ってもらうのももちろん嬉しいのだが、エムルハルト様においしいと言われたときはなぜか胸に突き刺さるものがある。
それに、嬉しいのは単純においしいと言われたことだけではなかった気がする。
「公爵様の笑顔、また見たいなぁ……」
貴族界広しと言えど、エムルハルト様の笑顔を見たことのある人はほとんどいないのではないだろうか。まるで、私だけという特別感を勝手に感じてしまう。
それくらい、エムルハルト様の笑顔は反則級にカッコ良かったのである。
もちろん、主従関係もあるし変な方向に気持ちが揺らぐことはない。
そもそもエムルハルト様がそういう目で私のことを見てくることはないだろう。確証がある。
だって、もしもエムルハルト様が私に恋愛感情を持つことがあるならば、とっくの昔に誰かと恋に落ちて結婚していたはずだ。
私の二つ年上で、現在十八歳のエムルハルト様。上位貴族や王族ともなれば、とっくに結婚している年頃である。私は特別美人ではないし、エムルハルト様みたいなイケメンならば、多くの令嬢たちからに思いを寄せられてきたはず。
それでもエムルハルト様が現時点で結婚していないということは、女性に興味がないのだろう。
それに、私のような未婚の貴族令嬢を住み込みで雇った時点で、結婚相手を捜すつもりもないのだろうと察することができる。
エムルハルト様のことはカッコ良いとは思うし、怒りかたも理不尽なものではないし、今のところ噂のような嫌なイメージは全くない。
それでも私の中では、エムルハルト様は『料理長として雇ってくれたイケメン公爵様』であり、見るだけで癒される観賞用のありがたい存在だ。
それに、私もソルドには婚約解消されてしまったが、スコーピン伯爵家のために早く新たな相手を見つけたいと思っているのだ。お父様からは焦るなと言われているし、急ぐことはないのだけど……。私にだって好きな人と結ばれることに憧れはある。
まあ、念願の料理の仕事に就くことができたのだし、今はもう少し、仕事を楽しみたい。公爵邸の料理人として励むことが、新たな縁談やスコーピン伯爵家の利益に繋がるとも思うから。
それにしても、エムルハルト様には不思議な点が多い。
これからの生活のためには、こっちを先に把握したほうが良い気がする。
「どうしてあんなに怒っていたのかなぁ……」
もう一度エムルハルト様のことを落ち着いて考えてみた。まだ会って間もない状態だ。詮索しすぎるのも問題だと思う。エムルハルト様のことを直接本人に聞くのはまだ早い。
まずは触れてはいけない話題を把握しておかなければ。
今のところ……
・『私など』と私自身を過小評価したら怒った
・前の料理長のことを怒っていた
・私自身の食事の用意を余りもので済ませようとしたら怒った
……う~ん、全然共通点が見つからない。数日間は様子を見ようかな。
ひとまずクッションとは一時期別れる。
水浴び場で身体を綺麗にして、寝る準備を整えて本格的にベッドに横になった。
「ふかふかだぁ……」
今までもそれなりに良いベッドを使っていたと思うが、これはさらにその上をいく。こんなに良いベッドを提供してくれるなんて本当に好待遇だ。
ゆっくりとまぶたを落としてグッスリと眠った。
◆
「ぶぅわっかもーーーーーーーんっ!!!!!!」
「ぐへぇぇぇぇえええええっ!?」
父上はここ数日、俺――ソルド=ゾイレへの引き継ぎ準備のために領地へ出かけていた。
ようやく領地から帰ってきたため、その間のできごとを報告した。幼馴染であり幼いころからの婚約者であるシャインとはきっぱりと婚約解消したことも。
『冗談か?』と言われ俺は、『事実です』と自信を持って告げた。
その瞬間、ぶっとばされた。頬を思いっきりグーパンされて、口の中からはほのかに鉄の味がする。これはこのあと口内炎確定だろう。
いくら父上とはいえ、あんまりだ。まだ理由も言っていないのに。
「痛いではありませんか!」
「あたりまえだ! 痛くなるように殴ったのだからな!」
「そういうことを言ってるんじゃなくて、どうして殴るんですか!」
「ソルドよ、婚約解消とは本気で言っているのか!?」
「はい!」
ここ数年、父上からはやたらと怒られてばかりだ。怒られすぎて慣れているとは言っても、こんなに勢いよく殴られたのは初めてである。
父上が深く深くため息をつき、哀れな視線を向けてきた。
「シャイン嬢との結婚が目前に迫っていたから、おまえに爵位を引き継いだのだぞ!」
「父上は俺のことを認めて、子爵位を譲ってくださったのですよね。その件は感謝してますが、別にシャインなどいなくても」
「なにもわかっとらんではないかぁぁぁぁあああ!」
いちいち怒声をあげないでほしい。父上がシャインのことを気に入っているのは理解している。
だが、それはあまり彼女と時を共にしていないから、その本性を知らないだけだ。
それに俺だって、シャインのことが嫌いというわけではない。シャインという女一人を手に入れることによって、他の女と関係を持てなくなると思うと悩むだけだ。
せっかく子爵という偉い存在になれたのだから、少しは遊びたい。俺は父上の秘密を知っているのだから、多少の自由は多めにみてもらいたい。
それに、いずれシャインよりも可愛い、俺になんでも従うような女が現れる、そんな予感もしていたのだ。
さて、父上には俺の心情をある程度隠しつつシャインの悪い部分だけを伝えないとな。
「彼女は趣味に没頭するようなダメダメ令嬢ですよ。しかも、俺が好きな物を食べようとするとガミガミうるさかったんです。子爵となった俺につき従うような女ではありません!」
「それはソルドが貴族として……いや、人としてしっかりしていれば、ただつき従うような女性を選んでもかまわん。だが、お前は貴族としての品位に欠ける点がある。シャイン嬢は明らかにおまえのことを思って言っていただろう!」
「おせっかいな……。そんなやつと長年一緒にいたらおかしくなりそうです」
「おまえというやつは……」
「とにかく、五日前に婚約解消の話が済んで、もう手続きも終わらせています。今さらどうすることもできません」
俺は言い切った。いくら父上でも、手続きが終わっているとなれば文句を言ってくることはない。そう俺は思っていた。
「今すぐシャイン嬢とやり直せるように最善を尽くせ! もはや手遅れかとは思うが、やれるだけのことはやるのだ」
「そんな勝手なこと……」
「勝手なことをしたのはソルドだ! もしもダメだったときは、特例措置の申請をし、お前の子爵位は私に戻させてもらう」
「は?」
「とてもじゃないが、おまえ一人に私の任務を引きつぐことなど不可能だ。このままならば、私が死ぬまで引き継ぎはしない。シャイン嬢がいたからこそ、早いほうが良いと思ったまでだ」
父上がとんでもないことを言いだした。
婚約解消のような、特殊な事例のあとでは特例措置が認められてしまう可能性が高い。子爵位を失うなんて話が違うではないか。
これでは、色々な女と遊んで、婚約者にふさわしい新たな女を見つけるという目的すらパァになってしまう。父上だって影では色々やっているくせに、なぜ今さら……
だが、俺は父上と違って真面目なんだ。いくらなんでも、幼馴染のシャインを傷つけてまで他の女と遊びたいとは思わなかった。
だからこそ、こうやって段取りを踏んだというのに……
「わかりましたよ。明日スコーピン家に行き、再び婚約してもらうよう頼んできます」
「……虫の良い話だ」
「父上がそうしろと言ったのではありませんか」
「そうじゃない。ソルドがあまりにも虫の良すぎる話を平然と言うことが情けないのだ」
虫が良いわけではない。これはシャインにとっても嬉しい話ではないか。
シャインは俺のことが小さいころから大好きだった。最近はガミガミうるさかったが、それでも俺のことを大好きなことに変わりはなかった。
婚約解消を宣告をしたときも、顔を下に向ける仕草をしていたし、きっと辛かったのだろう。俺が『気が変わった、もう一度婚約してくれ』と言えば、シャインも喜ぶに違いない。
ゆえに、これは虫の良い話ではなく、シャインにとっては有益な話だ。
もちろん、婚約してから他の女と遊ぶことになってしまうだろうから、多少の罪悪感はある。
だが、子爵位を戻すなど父上からの脅迫のような命令があったのだから仕方がないことだ。シャインも怒るとは思うが、ある程度は理解してくれることだろう。
俺は翌日、スコーピン家に行きシャインを呼び出した。
「ソルドおぼっちゃまでしたか。どうされましたか」
出てきたのはスコーピン家の使用人だ。俺とは何度も会ったことがある顔馴染みだ。
またお世話になるよ、仕方なくだけど。
「シャインはいるか?」
「お嬢様はさきほど、クノロス公爵邸に向かわれました」
「クノロス公爵邸!? ……そうか、今日は遅いのか?」
「いえ、しばらく帰宅はされません」
「は?」
「住み込みで働くことになりましたゆえ」
「はぁ!?」
シャインのやつ、いったいなんのためにクノロス公爵邸に行ったんだ。
なぜだか嫌な予感がする。
冷や汗を流しながら、この日は諦めて一旦家に帰ることにした。
父上に対してどう報告するか、シャインはなぜ公爵邸に働くことになったのかを考えながら。
◆
「昨日と味が違う……そしてうまい!」
「ありがとうございます」
今日のエムルハルト様の顔色は昨日よりかなり良くなっている。良いと言ってもまだ一晩しか経っておらず、油断はできそうにないが。
念のためにもう一度エムルハルト様の様子を眺めてみたが、食欲旺盛なようだ。これならば明日からはゼガルさんに用意するものと同じメニューでも良いかも。
それにしてもエムルハルト様は体系がスラリとしているし、青みがかった少し長めの髪の奥からうっすらと見えてくる瞳がとても凛々しい。
「なにか変えたのか?」
「はい。少しだけですが味つけを濃くして、ウメの風味をより楽しめるようにしました」
今日の朝食には、昨日のウメ粥をアレンジしたものと、早朝から仕込んだ野菜スープを用意した。
ところで昨晩、私は悩みに悩んでひとつの可能性に辿り着いていたのだ。主従関係はあるものの、これは聞いておいたほうが良いだろう。
「ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「今まで、食事はしっかり摂っていたのでしょうか?」
「あぁ」
あっさりと可能性を崩された。料理人もいないし、屋敷内にいるのは執事のゼガルさんだけだ。
もしかしたら、食事をおろそかにしていたからこその昨日の悲劇だったのかもしれないと考えていた。もしそうであれば、私を雇ったのも納得だし、今後少しずつ回復できるだろうと少し安心していたのに。
しかし……
「ゼガルに頼んで、パンを毎日食べていた」
「それだけですか?」
「あぁ」
「全然摂れていませんよねっ!」
私がここへ来ることもなく、今もまだパンだけの毎日だったらと思うとゾッとする。公爵様相手だろうが、私は怒った。
しかし、エムルハルト様は相変わらず表情を変えることはない。
「信頼できる店の物を食べていれば、それで事足りる」
「はぁ……もう!」
エムルハルト様は否定したが、私の予想は概ね当たっていたのだろう。大きくため息をつき、エムルハルト様に対してわかりやすく呆れ顔を披露した。
「なにか不満なのか?」
「はい、おもいっきり。お言葉ですが、パンだけの生活では栄養が不十分です。昨日倒れてしまったのも当然のことかと」
「あぁ、わかっている。だが、俺はそれでもパンしか食べることができなかったんだ」
私に多額の給金を払えるくらいだから、食べ物を選べないくらいお金がないということはありえない。パンしか食べることができないって、どういう意味だろう。好き嫌いもなさそうなのに。
なにかと無茶苦茶なエムルハルト様のことを、詮索する意味でじっと見つめた。
あぁダメだ。全然わからない。
「なぜです? ゼガルさんもですか?」
「いや、ゼガルは外で食事を摂るよう指示していた。彼なら危険はそうそうないだろうからな」
「それってどういう……」
「それよりも、温かいうちに食べたいのだが?」
「申しわけございません」
なにか深刻そうな理由があるように見えたし、これ以上追求するのはやめておこう。
エムルハルト様は、すぐに食べかけのウメ粥に口をつけた。昨日よりも食べるスピードがやや速くなっている。
「うまかった」
「良かったです」
「ひとつ、俺からもキミについて尋ねて良いか?」
「もちろん構いませんが……」
相変わらず表情を一切変えないエムルハルト様。
そんな彼から突然聞きたいことがあると言われて少し驚いた。私のことはもちろん、そもそも人に興味もなさそうだったから。
それでも、私とエムルハルト様は料理人と雇い主として長いつき合いになるかもしれないのだ。
なんとか会話できるようにと、今までは積極的に私から質問をするようにしていたが、今回初めて彼から質問された気がする。
ようやく、冷酷無愛想公爵様との関係の第一歩を踏み出せたような気がしたのだ。
「キミは長年の婚約者に、婚約を解消されてしまったばかりだろう。なぜそんなに機敏に動き、前向きに働くことができるのだ?」
思いもしなかったような質問だ。どうしてエムルハルト様がこのような質問をしてくるのかはさておき、私は正直に答えることにした。
「いくつか理由はありますが……一番は料理が生きがいだからです」
「ほう」
「私は、料理が上手な父のことを尊敬しています。いつか私も父のように料理を仕事にしたいという夢を抱いておりました。父もその夢には協力してくれていたのです」
エムルハルト様は、顔色一つ変えずに、じっと私の目をしっかりと見て話を聞いてくれている。
このように真剣に話を聞いてくださるのはお父様以外にいなかったため、私も徐々にしゃべりがヒートアップしてしまった。あぁ、料理の話は楽しいなぁ。
「――というわけで、私は毎日料理ができる今が幸せなんです。だから、前向きもなにも、ただ楽しいだけで……って、はっ! こんなに長々と語ってしまい申しわけございません!」
「別にかまわん。俺が聞いたことだ。キミはそれほど料理が好きなのだな」
「はい……熱くなりすぎてしまい、言葉遣いまで崩してしまい、大変失礼を……」
若干、幼馴染に対して話すような口調になってしまった。料理の話をしていたら夢中になりすぎてしまったのだ。
しっかりと謝罪をする。
「キミは元婚約者に対してなにも文句を言わないのだな」
「え?」
「俺も少しは見習うとしようか……」
エムルハルト様はなにか思い悩んでいるようにも見えた。
「そうか」
実際に今もエムルハルト様の顔色は悪いままだ。せっかくのイケメン顔も半減されているような状況だ。まずは謎の体調不良から回復してもらいたい。その気持ちだけで、いきなり慣れない食べ物を提供してしまったのだ。
果たして、食べてくれるだろうか。もっと馴染みのある料理にするべきだったかな。
エムルハルト様は不思議そうにウメを見ながら、しばらく考えているようだった。
「もしお気に召さないようでしたら、別のものをご用意しますよ」
「いや、キミが一生懸命作ってくれたのだろう。これで良い。いただこう」
エムルハルト様はゆっくりとウメ粥を口にした。ごくりと飲み込んだあと、無表情のままこう言う。
「……うまい」
「ありがとうございます」
そう言ったあと、ゆっくりとではあるがウメ粥を口の中へ次々と入れていった。皿に盛った分は全て食べてくださったのである。
「慣れない味ではあったが、うまかった」
「お気に召したようで良かったです」
「まだ残っているのか? 食べたい」
「はい。残っていますが、今日は倒れたばかりですし、このくらいにして明日にしておいたほうが……」
「ほう?」
しまった。またしても私は余計なおせっかいを……
料理が関わると、相手の身体のことを考えてなんでも口にしてしまう癖がある。
「でしゃばってしまい、大変申しわけ――」
「いや、キミの指示に従おう。明日またもらう」
「は……はぁ」
「ゼガルにはなにを用意したのだ?」
「ゼガルさんには水気が少なめの米と、野菜炒めとスープを用意しました」
「キミの分は?」
「本日の食事の残ったものをいただこうかと」
「なんだと!?」
エムルハルト様は、またしても怒りの表情に変わってしまった。
命令で三人分作れとは言われている。
だが、こういう場合の私の分というのは、雇い主の余りものだと教えられてきた。
間違ったことはしていないつもりだったのだが……
「キミに残飯処理をさせるつもりはない。明日からは、キミの分もゼガルや俺と同じものを用意しろ。良いな?」
「は……はい!」
エムルハルト様に怒られてしまった。
だが、その声色はソルドのような嫌味満載で理不尽な怒声とはまるで別物だ。むしろ私のことを心配してくださっているような怒りかたのように思えた。
私は、エムルハルト様に感謝の意をこめて深く一礼した。
「それにしても……俺用に別の料理を作るとは」
「それぞれに合った料理を作ったほうがよろしいかと。特に公爵様は病み上がりですから、ゼガルさんと同じものを用意するのは問題かと思いました」
「体調が戻ったら……明日からはゼガルやキミと同じメニューでかまわん」
「同じですか……?」
「あぁ、主従関係はあってないようなものだ。だからメニューも同じにしてくれ」
「承知しました」
「よし」
エムルハルト様は、そのあとしばらく無言になったが、空になった容器を見ながらため息をついた。
「ところで、ソルド=ゾイレ子爵と言ったか、キミの元婚約者は」
「はい、そうですが」
「惜しいことをした哀れなヤツだな」
「はい?」
「なんでもない、ただのひとりごとだ」
エムルハルト様は無表情のまま席を立ち上がり、食堂から退室した。
このあとはゼガルさんが食事をするから、そのときにでもエムルハルト様のことを聞いてみるとしよう。よくわからないところで怒ったり、なぜか私のことを信頼してくれていたり、まだまだわからないことだらけだ。
◇
「ほほう~、これはまた素晴らしい味ですな」
ゼガルさんは、私が用意した料理を勢いよく食べていく。彼の年齢は五十過ぎだと言っていた。
しかし、まだまだ若手には負けませぬといわんばかりの豪快な食べっぷりである。執事というよりも、肉体労働を終えた常連のおじ様のようなイメージと重なってしまう。見た目はしっかりと、黒を基調としたピシッとしたスーツを着こなしてはいるのだが。
「私の食事の時間はさほど構うことはありませんぞ。二人分別々の物を作られて、しかも初日とあってはさぞお疲れでしょう」
「いえ、そんなことはありませんよ。料理は好きですから」
「まさに天職というわけですな。この味なら納得ですがね」
「ところで、公爵様について聞きたいことがあるのですが」
「ほう……」
ゼガルさんは、やや困ったような表情を浮かべる。
そして、長い髭を手でいじってから首を左右に振った。
「申しわけありませんが、主人の話を私が無断で話すことはできません」
「そうですか……。聞こうとしてしまい申しわけありません」
「なにか気になることがあるようでしたら、ご自身で尋ねるのが一番良いかと思います」
ここで私は少しばかり悩んでしまった。
エムルハルト様が噂に聞くような冷酷なお方でないことは、今までの言動を見ていて理解してきた。だが、想像もしないようなところで何度か怒らせてしまっている。今は体調が回復していない状態なのに、いろいろ尋ねて余計なストレスを与えてしまうのは悪いことだ。
「それよりも、シャイン様も一緒に食べなされ。同僚なのですから、私を待つ必要はありませんよ」
「はい、ではいただきます」
◇
後片付けを済ませ、部屋に戻った。
料理長生活の初日が終わったのだ。仕事モードを終えて素に戻り、ひとまずはベッドの上へと座る。
「はぁ~、嬉しかったなぁ~!」
ベッドに置いてあるクッションをギュッと胸に抱きながら、ニヤニヤが止まらなかった。仕事の最中は顔に出さないようにしていたが、実のところ、顔がくしゃくしゃになってしまいそうなほど情けない笑みを浮かべたくて仕方がなかったのだ。
今、ようやくそれができる。
エムルハルト様が何度もおいしいと言ってくれたことがとても嬉しかった。馴染みのないウメ粥をお出しして、少し残すかもと思っていたが、全部食べてくださったのも嬉しい。
お店の常連さんにおいしいと言ってもらうのももちろん嬉しいのだが、エムルハルト様においしいと言われたときはなぜか胸に突き刺さるものがある。
それに、嬉しいのは単純においしいと言われたことだけではなかった気がする。
「公爵様の笑顔、また見たいなぁ……」
貴族界広しと言えど、エムルハルト様の笑顔を見たことのある人はほとんどいないのではないだろうか。まるで、私だけという特別感を勝手に感じてしまう。
それくらい、エムルハルト様の笑顔は反則級にカッコ良かったのである。
もちろん、主従関係もあるし変な方向に気持ちが揺らぐことはない。
そもそもエムルハルト様がそういう目で私のことを見てくることはないだろう。確証がある。
だって、もしもエムルハルト様が私に恋愛感情を持つことがあるならば、とっくの昔に誰かと恋に落ちて結婚していたはずだ。
私の二つ年上で、現在十八歳のエムルハルト様。上位貴族や王族ともなれば、とっくに結婚している年頃である。私は特別美人ではないし、エムルハルト様みたいなイケメンならば、多くの令嬢たちからに思いを寄せられてきたはず。
それでもエムルハルト様が現時点で結婚していないということは、女性に興味がないのだろう。
それに、私のような未婚の貴族令嬢を住み込みで雇った時点で、結婚相手を捜すつもりもないのだろうと察することができる。
エムルハルト様のことはカッコ良いとは思うし、怒りかたも理不尽なものではないし、今のところ噂のような嫌なイメージは全くない。
それでも私の中では、エムルハルト様は『料理長として雇ってくれたイケメン公爵様』であり、見るだけで癒される観賞用のありがたい存在だ。
それに、私もソルドには婚約解消されてしまったが、スコーピン伯爵家のために早く新たな相手を見つけたいと思っているのだ。お父様からは焦るなと言われているし、急ぐことはないのだけど……。私にだって好きな人と結ばれることに憧れはある。
まあ、念願の料理の仕事に就くことができたのだし、今はもう少し、仕事を楽しみたい。公爵邸の料理人として励むことが、新たな縁談やスコーピン伯爵家の利益に繋がるとも思うから。
それにしても、エムルハルト様には不思議な点が多い。
これからの生活のためには、こっちを先に把握したほうが良い気がする。
「どうしてあんなに怒っていたのかなぁ……」
もう一度エムルハルト様のことを落ち着いて考えてみた。まだ会って間もない状態だ。詮索しすぎるのも問題だと思う。エムルハルト様のことを直接本人に聞くのはまだ早い。
まずは触れてはいけない話題を把握しておかなければ。
今のところ……
・『私など』と私自身を過小評価したら怒った
・前の料理長のことを怒っていた
・私自身の食事の用意を余りもので済ませようとしたら怒った
……う~ん、全然共通点が見つからない。数日間は様子を見ようかな。
ひとまずクッションとは一時期別れる。
水浴び場で身体を綺麗にして、寝る準備を整えて本格的にベッドに横になった。
「ふかふかだぁ……」
今までもそれなりに良いベッドを使っていたと思うが、これはさらにその上をいく。こんなに良いベッドを提供してくれるなんて本当に好待遇だ。
ゆっくりとまぶたを落としてグッスリと眠った。
◆
「ぶぅわっかもーーーーーーーんっ!!!!!!」
「ぐへぇぇぇぇえええええっ!?」
父上はここ数日、俺――ソルド=ゾイレへの引き継ぎ準備のために領地へ出かけていた。
ようやく領地から帰ってきたため、その間のできごとを報告した。幼馴染であり幼いころからの婚約者であるシャインとはきっぱりと婚約解消したことも。
『冗談か?』と言われ俺は、『事実です』と自信を持って告げた。
その瞬間、ぶっとばされた。頬を思いっきりグーパンされて、口の中からはほのかに鉄の味がする。これはこのあと口内炎確定だろう。
いくら父上とはいえ、あんまりだ。まだ理由も言っていないのに。
「痛いではありませんか!」
「あたりまえだ! 痛くなるように殴ったのだからな!」
「そういうことを言ってるんじゃなくて、どうして殴るんですか!」
「ソルドよ、婚約解消とは本気で言っているのか!?」
「はい!」
ここ数年、父上からはやたらと怒られてばかりだ。怒られすぎて慣れているとは言っても、こんなに勢いよく殴られたのは初めてである。
父上が深く深くため息をつき、哀れな視線を向けてきた。
「シャイン嬢との結婚が目前に迫っていたから、おまえに爵位を引き継いだのだぞ!」
「父上は俺のことを認めて、子爵位を譲ってくださったのですよね。その件は感謝してますが、別にシャインなどいなくても」
「なにもわかっとらんではないかぁぁぁぁあああ!」
いちいち怒声をあげないでほしい。父上がシャインのことを気に入っているのは理解している。
だが、それはあまり彼女と時を共にしていないから、その本性を知らないだけだ。
それに俺だって、シャインのことが嫌いというわけではない。シャインという女一人を手に入れることによって、他の女と関係を持てなくなると思うと悩むだけだ。
せっかく子爵という偉い存在になれたのだから、少しは遊びたい。俺は父上の秘密を知っているのだから、多少の自由は多めにみてもらいたい。
それに、いずれシャインよりも可愛い、俺になんでも従うような女が現れる、そんな予感もしていたのだ。
さて、父上には俺の心情をある程度隠しつつシャインの悪い部分だけを伝えないとな。
「彼女は趣味に没頭するようなダメダメ令嬢ですよ。しかも、俺が好きな物を食べようとするとガミガミうるさかったんです。子爵となった俺につき従うような女ではありません!」
「それはソルドが貴族として……いや、人としてしっかりしていれば、ただつき従うような女性を選んでもかまわん。だが、お前は貴族としての品位に欠ける点がある。シャイン嬢は明らかにおまえのことを思って言っていただろう!」
「おせっかいな……。そんなやつと長年一緒にいたらおかしくなりそうです」
「おまえというやつは……」
「とにかく、五日前に婚約解消の話が済んで、もう手続きも終わらせています。今さらどうすることもできません」
俺は言い切った。いくら父上でも、手続きが終わっているとなれば文句を言ってくることはない。そう俺は思っていた。
「今すぐシャイン嬢とやり直せるように最善を尽くせ! もはや手遅れかとは思うが、やれるだけのことはやるのだ」
「そんな勝手なこと……」
「勝手なことをしたのはソルドだ! もしもダメだったときは、特例措置の申請をし、お前の子爵位は私に戻させてもらう」
「は?」
「とてもじゃないが、おまえ一人に私の任務を引きつぐことなど不可能だ。このままならば、私が死ぬまで引き継ぎはしない。シャイン嬢がいたからこそ、早いほうが良いと思ったまでだ」
父上がとんでもないことを言いだした。
婚約解消のような、特殊な事例のあとでは特例措置が認められてしまう可能性が高い。子爵位を失うなんて話が違うではないか。
これでは、色々な女と遊んで、婚約者にふさわしい新たな女を見つけるという目的すらパァになってしまう。父上だって影では色々やっているくせに、なぜ今さら……
だが、俺は父上と違って真面目なんだ。いくらなんでも、幼馴染のシャインを傷つけてまで他の女と遊びたいとは思わなかった。
だからこそ、こうやって段取りを踏んだというのに……
「わかりましたよ。明日スコーピン家に行き、再び婚約してもらうよう頼んできます」
「……虫の良い話だ」
「父上がそうしろと言ったのではありませんか」
「そうじゃない。ソルドがあまりにも虫の良すぎる話を平然と言うことが情けないのだ」
虫が良いわけではない。これはシャインにとっても嬉しい話ではないか。
シャインは俺のことが小さいころから大好きだった。最近はガミガミうるさかったが、それでも俺のことを大好きなことに変わりはなかった。
婚約解消を宣告をしたときも、顔を下に向ける仕草をしていたし、きっと辛かったのだろう。俺が『気が変わった、もう一度婚約してくれ』と言えば、シャインも喜ぶに違いない。
ゆえに、これは虫の良い話ではなく、シャインにとっては有益な話だ。
もちろん、婚約してから他の女と遊ぶことになってしまうだろうから、多少の罪悪感はある。
だが、子爵位を戻すなど父上からの脅迫のような命令があったのだから仕方がないことだ。シャインも怒るとは思うが、ある程度は理解してくれることだろう。
俺は翌日、スコーピン家に行きシャインを呼び出した。
「ソルドおぼっちゃまでしたか。どうされましたか」
出てきたのはスコーピン家の使用人だ。俺とは何度も会ったことがある顔馴染みだ。
またお世話になるよ、仕方なくだけど。
「シャインはいるか?」
「お嬢様はさきほど、クノロス公爵邸に向かわれました」
「クノロス公爵邸!? ……そうか、今日は遅いのか?」
「いえ、しばらく帰宅はされません」
「は?」
「住み込みで働くことになりましたゆえ」
「はぁ!?」
シャインのやつ、いったいなんのためにクノロス公爵邸に行ったんだ。
なぜだか嫌な予感がする。
冷や汗を流しながら、この日は諦めて一旦家に帰ることにした。
父上に対してどう報告するか、シャインはなぜ公爵邸に働くことになったのかを考えながら。
◆
「昨日と味が違う……そしてうまい!」
「ありがとうございます」
今日のエムルハルト様の顔色は昨日よりかなり良くなっている。良いと言ってもまだ一晩しか経っておらず、油断はできそうにないが。
念のためにもう一度エムルハルト様の様子を眺めてみたが、食欲旺盛なようだ。これならば明日からはゼガルさんに用意するものと同じメニューでも良いかも。
それにしてもエムルハルト様は体系がスラリとしているし、青みがかった少し長めの髪の奥からうっすらと見えてくる瞳がとても凛々しい。
「なにか変えたのか?」
「はい。少しだけですが味つけを濃くして、ウメの風味をより楽しめるようにしました」
今日の朝食には、昨日のウメ粥をアレンジしたものと、早朝から仕込んだ野菜スープを用意した。
ところで昨晩、私は悩みに悩んでひとつの可能性に辿り着いていたのだ。主従関係はあるものの、これは聞いておいたほうが良いだろう。
「ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「今まで、食事はしっかり摂っていたのでしょうか?」
「あぁ」
あっさりと可能性を崩された。料理人もいないし、屋敷内にいるのは執事のゼガルさんだけだ。
もしかしたら、食事をおろそかにしていたからこその昨日の悲劇だったのかもしれないと考えていた。もしそうであれば、私を雇ったのも納得だし、今後少しずつ回復できるだろうと少し安心していたのに。
しかし……
「ゼガルに頼んで、パンを毎日食べていた」
「それだけですか?」
「あぁ」
「全然摂れていませんよねっ!」
私がここへ来ることもなく、今もまだパンだけの毎日だったらと思うとゾッとする。公爵様相手だろうが、私は怒った。
しかし、エムルハルト様は相変わらず表情を変えることはない。
「信頼できる店の物を食べていれば、それで事足りる」
「はぁ……もう!」
エムルハルト様は否定したが、私の予想は概ね当たっていたのだろう。大きくため息をつき、エムルハルト様に対してわかりやすく呆れ顔を披露した。
「なにか不満なのか?」
「はい、おもいっきり。お言葉ですが、パンだけの生活では栄養が不十分です。昨日倒れてしまったのも当然のことかと」
「あぁ、わかっている。だが、俺はそれでもパンしか食べることができなかったんだ」
私に多額の給金を払えるくらいだから、食べ物を選べないくらいお金がないということはありえない。パンしか食べることができないって、どういう意味だろう。好き嫌いもなさそうなのに。
なにかと無茶苦茶なエムルハルト様のことを、詮索する意味でじっと見つめた。
あぁダメだ。全然わからない。
「なぜです? ゼガルさんもですか?」
「いや、ゼガルは外で食事を摂るよう指示していた。彼なら危険はそうそうないだろうからな」
「それってどういう……」
「それよりも、温かいうちに食べたいのだが?」
「申しわけございません」
なにか深刻そうな理由があるように見えたし、これ以上追求するのはやめておこう。
エムルハルト様は、すぐに食べかけのウメ粥に口をつけた。昨日よりも食べるスピードがやや速くなっている。
「うまかった」
「良かったです」
「ひとつ、俺からもキミについて尋ねて良いか?」
「もちろん構いませんが……」
相変わらず表情を一切変えないエムルハルト様。
そんな彼から突然聞きたいことがあると言われて少し驚いた。私のことはもちろん、そもそも人に興味もなさそうだったから。
それでも、私とエムルハルト様は料理人と雇い主として長いつき合いになるかもしれないのだ。
なんとか会話できるようにと、今までは積極的に私から質問をするようにしていたが、今回初めて彼から質問された気がする。
ようやく、冷酷無愛想公爵様との関係の第一歩を踏み出せたような気がしたのだ。
「キミは長年の婚約者に、婚約を解消されてしまったばかりだろう。なぜそんなに機敏に動き、前向きに働くことができるのだ?」
思いもしなかったような質問だ。どうしてエムルハルト様がこのような質問をしてくるのかはさておき、私は正直に答えることにした。
「いくつか理由はありますが……一番は料理が生きがいだからです」
「ほう」
「私は、料理が上手な父のことを尊敬しています。いつか私も父のように料理を仕事にしたいという夢を抱いておりました。父もその夢には協力してくれていたのです」
エムルハルト様は、顔色一つ変えずに、じっと私の目をしっかりと見て話を聞いてくれている。
このように真剣に話を聞いてくださるのはお父様以外にいなかったため、私も徐々にしゃべりがヒートアップしてしまった。あぁ、料理の話は楽しいなぁ。
「――というわけで、私は毎日料理ができる今が幸せなんです。だから、前向きもなにも、ただ楽しいだけで……って、はっ! こんなに長々と語ってしまい申しわけございません!」
「別にかまわん。俺が聞いたことだ。キミはそれほど料理が好きなのだな」
「はい……熱くなりすぎてしまい、言葉遣いまで崩してしまい、大変失礼を……」
若干、幼馴染に対して話すような口調になってしまった。料理の話をしていたら夢中になりすぎてしまったのだ。
しっかりと謝罪をする。
「キミは元婚約者に対してなにも文句を言わないのだな」
「え?」
「俺も少しは見習うとしようか……」
エムルハルト様はなにか思い悩んでいるようにも見えた。
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