ぼたん ~不器用な歌い手達が紡ぐ音~

雪見桜

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番外編

シュンの事情2

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折れた手は左手だった。
幸い僕は右利きだったから、そこまで日常生活に影響があったわけではない。
ただピアノは弾けなくなった。
ピアノ奏者にとって1カ月という期間は長い。
1日弾かないだけでも調子が狂って戻すのに時間がかかるのだ。
それを考えると僕のキャリアにとって大きな痛手になるのは間違いない。
手の骨折で、いくつかコンクールへの参加が取りやめになった。
同じ年頃のライバル達はこの間にも1日何時間という練習を重ね成長している。
差は開くばかりで、下手をすれば僕はここでどんどん取り残されるという状況下。
危機感を抱いたのは、僕ではなく周りだ。

当の本人である僕は、ホッとしたのだ。
これでしばらくピアノを弾かなくて済むと。
ずっと治らなければ良いのにとすら思っていたことを知られれば、きっと多くから叱られていただろう。

「駿、大丈夫だ。お前はまだ若いんだから、いくらでも挽回できるからな」
「そうだよ、駿ちゃん。治ったらまたいっぱい練習すればいいんだから」

兄も姉もそう言って励ましてくれた。
父や母にはピアノを弾く者なら手を大事にしなさいと怒られたが。
そのどの言葉もすでに僕の心には響かなくなっていた。
ピアノから逃げられるとただその一心で、今思えばそれほど僕自身余裕がなかったのだろう。

はじめはそうして解放感に浸っていたのだ。
これでしばらくピアノを弾かなくて済む、ピアノの事を考えなくて良いのだと。
ピアノありきで関わって来た人ばかりだった僕の周りから人が引けるのは早かった。
「佐山駿はもうだめだ」と言う人すらいた。
それならそれで良いと、僕の方も思って目を閉ざした。

それでも少しずつ、雑音が僕の中に入り込んでいく。
ピアノ以外何も持たなかった僕、その唯一を失った僕。
……多くの声が届いた。
学校に行けば「あいつ今ピアノ弾けないんだって」「可哀想に」とどこか他人事の言葉。
近くの家のおばさんからは「早く治してピアノ弾ければ良いね」と励まされる。
音楽関係者からは「不注意にも程があるだろう」「天才か分からんが意識が低いな」と厳しい声が聞こえる。
ピアノから離れていても、僕はやはりピアノを通してしか評価されない。
分かっていたことだったが、ピアノが無ければ僕は空っぽなのだと実感してしまった。
あまりにピアノを弾くことが苦痛すぎて埋もれていた事実。
ピアノ無しで生きてはいけないだろう自分。
何も持たない自分を家族はどう思うだろうか。
周囲はどう感じるだろうか。
全てを跳ねのけ自分の思うがままに生きられるほど、自分が強くなかったことを知ったのもまたこの時だった。

あれほど逃げたかったピアノなのに、今度は自分勝手に焦ってしまう。
縋るようにピアノの椅子に座った。
まともに動く右手だけで、最近練習していた曲をなぞっていく。

「……なんだ、これ」

そうして響いた音に、僕は愕然とした。
初めて客観的に自分の音を耳にいれて、気付いてしまったのだ。
そのあまりに空っぽな音色に。
先生に言われた通り弾くことは、出来る。
確かに僕の弾く音の質自体は澄んでいて綺麗に聴こえるだろう。
しかし、それだけだ。
楽譜通りに、時には先人たちの素晴らしい演奏の通りに少し外して、そんな弾き方が出来たところでそこに厚みなどというものは存在しない。

なんだ、この音は。
こんな音で僕は評価されていたのか?
どんな音が素晴らしいのかなど僕には分からない。
しかしこんな音が素晴らしいとは僕には思えない。
ふと年齢が上がるにつれ僕の受賞数がわずかに減って来たことを思い出す。
そうだ、兆候ならあった。
そんなことすら、その時初めて気付いたほど僕は自分の音すら理解できていなかったのだ。

年齢にしてはありすぎる技術力と、生まれ持った綺麗な音。
僕が持っていたのはその2つの武器だけ。
けれど年齢を重ねれば技術のある奏者は現れる。
そして表現力という分野で頭角を現す奏者だって出てくるはずだ。
……このままでは僕は必ず落ちていく。
だってこれ以上どうすればいいのか分からない。
技術力は高いが、その技術を活かしていけるだけの理解力が僕にはない。
情熱もなければ伝えたいものだって分からない。

ああ、そうか。
僕は本当に空っぽなのだ。
何にもない。
唯一だと思っていたピアノだって、1人じゃ何もできない。
気付いたことがきっかけだったのか、ただ単にタイミングが悪かったからなのか分からない。
絶望に染まったまま時間だけが流れ、手の怪我が完治する頃にはもう人前でピアノを弾くということが怖くなってしまった。
あんな音を聴いたら、聴く人間はがっかりする。
まだ年齢だけで将来性を買って聴く人はいるだろうが、これからどんどんとその色は失望に変わっていくだろう。
そしてそんな中で、何が良い音なのかも分からないまま評価され続けるんだろうか僕は。
そんなことを思い始めると、恐怖で仕方ない。
本当に僕は何も持たない空っぽな人間になってしまう。
そうして、そんな恐怖は体の方にまで影響を及ぼした。

「どうしました、佐山くん。……佐山くん?」

僕のピアノの腕を知って担任が持ってきた合唱コンクールの伴奏。
いよいよ時期が来て、コンクールの練習をしようとクラスメイト達の前でピアノに向き合った時が初めだった。
家でピアノは弾いていたが、人前でピアノを弾くのはこの時が久々のこと。
人前と言ってもたかだか3,40人だ。コンクールの時はもっと人がいる。
というのに、僕の手は動かない。

初めは何が起きたのか、理解できなかった。
まず息がつまった。
本当は吸えていたのだろうが、空気が喉から先に入らなくなったのだ。
そして急激に耳の感覚が遠のき、心臓の音だけがやたらと大きく早く聞こえるようになる。
そのうち息ができない気持ち悪さで吐き気に襲われ、吐き気で視界が反転していく。
そうなると自分が今どこにいてどういう状態なのかも分からない。
自分の体が制御できない感覚。
自分の体がどうにかなってしまうのではないかという強烈な恐怖。

「佐山くん!? だ、大丈夫ですか!?」

そんな声も聞こえてはいなかった。
いや、聞こえてはいたのかもしれない。
頭の理解が追い付かなかっただけで。
その日はそのまま意識を落とし、その後どうしたのか今でも思い出すことは出来ない。

それ以降僕は人前と感じる場所に行くと何度も同様の発作が起きるようになった。
次第に人前じゃなくとも、人を多く感じる場所でも発作が起きる。
たとえば、学校の授業。
たとえば、電車やバスの中。
スーパーのレジや、ショッピングモール。
そんな閉鎖的で人が多くいる場所が、行けなくなる。

パニック障害。
その言葉を知ったのは、僕が本格的に学校に行けなくなって半年経った頃か。
とにもかくにも、ピアノのコンクールなどとても出られる状況じゃなくなったのだ。
ピアノは半ば強制的に辞めることとなった。
通った病院から「ピアノが強いストレスになっている」と、初めてそこで客観的な診断が下される。
距離を置かなければ駄目だと、そう諭された時の親の蒼白になった顔を僕は忘れられない。

そうして僕は、当時持っていたものを全て失った。
自分が何を得ていたのか、それすら分からないまま。
先の展望など何も見えずにただただ絶望の中で、自分の殻に引き籠る以外どうすればいいのか分からずに。
皮肉なことに家族との会話が増えたのは、僕がそんな状況に陥ってからだったが。





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