ぼたん ~不器用な歌い手達が紡ぐ音~

雪見桜

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本編

47.会場入り

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つかの間の休息の後は、本番まであっという間に時間が流れた。
昼と夜が分からないほどに私達は事務所に缶詰めで曲を練り上げていく。
ああでもない、こうでもないと、そうやってお互い納得いくものにどうしても仕上げたくてついつい熱がこもったのだ。

千歳くんはこの短い間に明らかに変わった。
声量と声の伸び、表現力、どれをとってもグンとひとつ突き抜けた感じがする。
きっと、何かきっかけを探していたのだろう。
この間の萌ちゃんや真夏ちゃんとのやり取りで私以上に得るものがあったのかもしれない。
表情がスッと変わった。
私だけじゃない、千歳くんも必死に頑張っているんだ。
そうすぐに分かる。
だから、私も千歳くんの足を引っ張らないように、頑張りたい。
頑張りたい……のだけれど。

「き、気持ち悪い……」
「うわ、顔が土気色……ちー、大丈夫?」
「ほ、本番までには何とか……っ」
「おーい、千依。その前にメイクと挨拶回り忘れんなよ」
「……うぅ」
「大丈夫だって、ちー! 俺がついてるから!」

私が戦う相手は、極度の緊張のようだ。
胃が圧迫されて、身体が動かない。
こんな大事な時にも漏れなくぽんこつな体が恨めしい。
会場に入る車の中ですでにこんな状況。
大塚さんと千歳くんが2人がかりで励ましてくれているのに、本当に情けない……。

「ほら、ついたぞ。奏のリハは13時15分からだ。それまでに準備しとけよ」
「……ど、どこここ」
「……ちー、落ちつこう。芸音祭だよ? ここその会場」
「げ、げいおん祭……ここが、げいおん、祭……」
「……だめだこりゃ」

敷地内に入ってから関係者入口まで行くのですら車で数分。
現場は多くの車や警備の人がいて、どれほど規模が大きいのかを実感する。
テレビで見慣れた大きなドーム型の特徴ある屋根。
そうして「芸音祭スタッフ」のネームプレートを下げたスタッフさん達を目にすると否応なしに緊張してしまう。
何せ学校の教室で何か発言することさえ緊張する私なのだ。
そこよりもスケールがうんと大きく、そしてテレビカメラまで回るとなると、土気色にもなってしまう。
石のように固まった私を見かねた大塚さんが、深くため息をついて私の腕を取るのが分かる。
ただ私の記憶はそこらへんからかなり曖昧で。
ただ千歳くんが横で「おはようございます、今日はお願いします!」とスタッフさん達に挨拶するのを、壊れたレコードのごとく繰り返していた。
そんなことですら大塚さんが「上出来だ」と褒めてくれる程度に私の足取りはおぼつかなかったらしい。
意識がはっきりと戻ったのは、楽屋に通された時だ。

「おー、ちー久しぶりだなあ! 不規則生活してるわりに相っ変わらず綺麗な肌しやがって!」
「え? あ、あ、アイアイさん!」
「アイアイ、俺は無視なわけ?」
「お前は最近よく会ってんだろーが、千歳。チッ、お前も相変わらず綺麗な肌しやがって」
「ほんっと俺とちーで態度違うよね。この女ったらし」
「失礼なこと言うんじゃねえよ、フェミニストと呼べ」

耳に届いた明るい声に弾かれたように顔を上げた。
そこにいたのは、常日頃千歳くんのメイクを担当してくれている相川藍あいかわあいさん。
黒めで健康的な肌に短髪の真っ黒な髪、少し筋肉質で、見た目はサーファーさんのような人。
その名前から皆にアイアイと呼ばれている気さくなお兄さんだ。

「俺はなあ、今日という日を心待ちにしてたんだよ! ちー、お前を好きにいじれる日がくるとはな!」
「藍、あまり目立ち過ぎるのは止めろよ。一応主役は千歳なんだからよ」
「心配すんなって、大塚さん。俺の仕事を舐めてもらっちゃ困るね」

そんな軽快な会話をしながら、私を椅子に誘導するアイアイさん。
私の髪を解しながら、嬉しそうに笑って鏡越しに私を見つめる。

「コンタクト良いじゃん、お前目綺麗なんだからずっとそうしてりゃ良いのに」
「うう……で、でもコンタクトごろごろするし、目に指入れるの怖いし……」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと手清潔にして、説明書通りにやれば心配ねえって」
「う……ん……」
「さ、メイクすんぞ。学校の奴等に知られちゃまずいんだろ? 任せろ、お前もともとこの度のキツい眼鏡して髪1本縛り固定だったから、ちょっといじりゃすぐ別人になるぜ」

アイアイさんと話していくうちに不思議と緊張がとけていく。
人をリラックスさせるその人間性と、話し下手な私でも気まずさを感じない話のテンポ。
この人にとって接客の必要な仕事は天職なんだと思う。
そしてこんな気さくで親しみやすい人だけれど、腕は確かだ。
勉強熱心で、器用で、いつも千歳くんをカッコ良く仕上げているところを何度も見てきた。
だから、私はアイアイさんにメイクの全てをお任せする。

「……だ、だれ、これ」
「奏のちぃ様でございますよ。どうだ、これならバレねえだろ。さっすがだな、俺」
「おー、千依良いじゃねえか。藍、お前本当腕だけは良いな」
「腕だけはって、相変わらず大塚さんは手厳しい」
「ちー、すごい可愛い。完璧だね」

出来あがった完全装備は、私の予想をはるかに超えていた。
ナチュラルメイクにしか見えないのに普段の私とは明らかに別人で、よく愛されメイクなんて書かれている広告の可愛いモデルさんのようだ。いや、元が違いすぎるからそこからはだいぶ離れてはいるけれど。イメージとして。
髪はシャンプーのCMのようにつやつやで、ゆるくウェーブのかかった黒髪をゆるく結いあげられている。横から見たら軽く顔が隠れるくらいの髪を残して、あとは後ろで編み込まれながらきゅっとまとまっている感じだ。その絶妙さが清楚さと可愛さを出している、私には絶対出来ない髪型。
確かにこれなら学校の人達にもバレないだろう。
思わずまじまじと鏡を見つめてしまう私。

「メイクすると気合入んだろ、ちー。自信持っていけ、俺が気合入れて可愛い顔作ってやったんだから」
「す、すごい! ありがとう、アイアイさん!」
「おう、どういたしまして。あー、ちーは本当に可愛いなあ、純真で」
「……アイアイ、それ以上セクハラしたら怒るから」
「……本当千歳は可愛くねえな、生意気で」

そうしてほどなくして、千歳くんも軽いメイクを済ませる。
普通メイクをがっちりするのなんて本番前だ。
リハーサル前にメイクなんてしない人が大抵。
けれど、今回に限っては私が“ちぃ”として心を入れ替えられるようにという配慮のもと、メイクを一番にやってもらっていた。
千歳くんも合わせてくれている。

私の為に早く会場入りしてくれて、文句も言わずに協力してくれるアイアイさん。
少しでも心に余裕を持てるよう気を配ってくれている大塚さん。
私の納得いく演奏ができるようにと、最後の最後まで譜面を見てくれている楽器隊の人達。
私の周りには優しい人でいっぱいだ。
それに応えるには、やっぱり良い仕事をするしかない。
緊張で吐き気が強い私はまだいる。
けれど、メイクをして本当に奏として表に立つんだという気持ちが入った気がする。

「さ、ちー。挨拶いこっか」
「う、うん!」
「そうだな。おい、千依。とりあえずお前は“おはようございます”と“よろしくお願いします”だけはちゃんと言え。いいな?」
「は、はい!」
「メイク崩れたらすぐ言いに来いよー、今日はずっとここいるから。いつでも最高の状態にしてやる」
「あ、ありがとう、アイアイさん!」

そうしてまた一つ一つ。
音楽もそれ以外も、全て一つ一つ。
新しい世界に向かって私は積み上げていく。
何度も見て知っているはずの世界は、経験となるとまるで違う。
そんな発見と共に、私はテンパりながらも名だたる出演者の皆さまに挨拶をしていく。
千歳くんの後ろにひっつき虫な私。
大塚さんに言われた2つの言葉しか発せない自分。
千歳くんはそんな私をフォローしながら、私を紹介し、挨拶し、会話を広げている。
ある人は「お、初めて見るなあ。これからよろしく」と言ってくれるし、ある人は「相方なんていたのかよ千歳!」なんて率直な反応だったりするし、もちろん「へー、そう」と気のない返事をいただくこともある。

それでも、今まで遠くからでしか見なかった人達と実際声を掛け合うというのは初めての経験で、自分が芸能人なんだということを私は今さら理解する。
気を張り続けてすでにぐったりしてきている体。それでも何とか気持ちを強くもって挨拶を済ませていく。
そうして回る途中。
十数組回った後、次の挨拶先はと資料を見て目に入った字に、コクリと喉が鳴る。
その扉の前に立つと自然に背筋が伸びていた。

フォレスト様
そこに書かれた文字は、一度だって忘れたことのないグループ名。
タツがかつていた場所であり、いつか越えたいと思っている先のひとつ。

「行くよ、ちー」
「うん……!」

千歳くんも同じ様に気合を入れている様子だ。
私達はグッと一度手を握りしめて、それからその扉に手を伸ばす。
コンコンと、千歳くんが鳴らした音は心なしかよく響いた気がした。


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