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本編
27.温かな声
しおりを挟む何分経ったのか分からない。
けれど次第に息の吸い方を思い出してく。
そうすると視界がクリアになってきて耳の膜が薄れていく。
汗で全身びっしょりな感覚を思い出していくと、声がクリアに響いてきた。
「戻って来たな、大丈夫か」
「チエ大丈夫? 落ちついたか?」
目に映ったのは、タツとシュンさん。
タツは心配そうに覗きこんできて、シュンさんはいつも通りだ。
「ご、ごめんなさ……っ」
慌てて周囲を見渡して、奇異な目で見られているのを確認するとまた汗がどっと噴き出て、すぐに離れなければと脳が命じる。
けれどそれを留めたのはシュンさんだ。
「チエ。周り気にしなくて良い」
「そうだって。無理しちゃ駄目だろ。ウチ寄ってきな?」
同調するようにタツが頭を撫でてくれる。
耳に届いた2人の声はあまりに温かくて、泣きそうになる。
……甘えちゃいけない。
そう思うのに、勝手に出てくる涙に邪魔されて言葉がでてきてくれない。
こんな情緒不安定な私を2人はどう思っただろうか。
けれど次の瞬間、予想外のことが起きて私は頭が真っ白になった。
「っ!?」
「とりあえず落ち着く場所に移動しようか。チエ、落とさないからジッとしてなね」
「……タツ、目立つ。チエが可哀想」
「んなこと言ってる場合か。チエ第一」
そう、タツにお姫様抱っこで抱えられたのだ。
誰かに、それも異性に抱き上げられたことなんて勿論ない。
先ほどとは別の意味で固まってしまって動けない。
タツはそんな私に気付く様子もなく、どこかへと一直線だ。
シュンさんは私に同情した視線をくれたけれど、結局それ以上タツに何かを言うことはなく後に続いた。
どうやらタツは車へ私を連れていくつもりだったらしく、駐車場の後部座席に私をゆっくり下ろしてくれる。
助手席に座ったシュンさんを確認するとゆっくり発進して、辿り着いた先は例の居酒屋だ。
まだ開店には早い時間帯。
また抱き上げられそうになったけれど、何とか震える足を酷使して阻止する。
あくまで心配そうにするタツは腕を取り支えてくれた。
今度は反対側からシュンさんも支えてくれる。
……迷惑ばかりかけて申し訳なくて、情けなくなった。
オーナーさんと奥さんは相変わらずのんびりと迎え入れてくれる。
明らかに様子のおかしかった私を見ても動じずに、見て見ぬふりをしてくれた。
本当に温かい人達だと、そう思う。
「ご、ごめんなさい。ご迷惑を」
「全然迷惑じゃないから気にしない。ね、シュン」
「ああ」
部屋に連れ込まれて慌てて謝る私。
2人は苦笑してそう返してくれた。
そうしてシュンさんがそっと私と目線を合わせて眺めてくる。
「もう大丈夫そうだな」
「は、はい! ご迷惑をっ」
「それは聞いた。……過呼吸は突発的に来るもんだ、気にしなくて良い」
その言葉を聞いて対応を見て、私は目を瞬く。
まるで過呼吸のことを詳しく知っているようだったから。
私の反応に悟ったのか、小さく息を吐いて彼は声をあげる。
「昔、経験してる。パニック障害だったんだ」
簡潔な答え。
けれど、それは決して軽いものじゃない。
パニック障害は私がまさに今、抱えているものだったからだ。
過呼吸、めまい、手足の痺れ、動悸、息切れ、様々な症状が一気に襲われる。
場所を問わずに色んな場所でいきなり発作が起こるから、外が怖くなり外に出られなくなる人もいる厄介な病気だ。
心因性の場合もそうじゃない場合もあるけれど、私の場合はおそらく心因性。
パニック発作が起こる状況もある程度決まっていて、対処のしようもある。
幸い私の周りには理解ある人が多くて、そのおかげもあってまだ軽い症状で済んでいた。
それでも辛いことには変わりない。
発作の度に体力は根こそぎ奪われて、恐怖で涙が止まらなくなる。
人の多い場所に行けば発作が起きてしまうんじゃないかという恐怖に襲われる。
一歩間違えれば私だって今も家から出られない生活だったかもしれない。
シュンさんも私と同じパニック障害。
その背景は分からない。
けれど経験しているからこそ、その苦しみは誰よりも分かる。
『昔、ピアノの世界で随分騒がれてた天才少年だよ。』
ふと大塚さんの言葉が頭をよぎった。
手を痛めて突然ピアノを辞めたと聞いた彼の過去。
関係があるのかは分からない。
けれど、才能があるのにピアノを辞めざるを得なくなって、おまけにパニック障害まで抱えたとなると苦労していないわけがない。
思わず黙り込んでしまった。
「今は大丈夫。だから、気を遣わなくて良い」
そんな私を察したのか、シュンさんは何でもないようにそう言って私の頭をポンポンと軽く叩いた。
苦労も苦悩も見せず、シュンさんは表情のひとつも変えずに私を庇う。
私の苦しみを理解しながら、それでも淡々と大丈夫だと言えてしまえる人。
……強い、人。
未だに乗り越えられていない私には、とても眩しく映った。
「……大丈夫だ。チエもきっと乗り越えられる」
私を見透かしたようにシュンさんが言う。
見上げれば真っすぐに見つめ返され、思わず頷く自分がいた。
……そう、なれれば良いな。
そう思うのが今の精一杯ではあったけれど。
「ちょっと、シュン。チエと距離近くない?」
と、そこで唐突に場違いなほど明るい声が響く。
驚いて顔を上げれば、心配そうな顔をしたタツがこちらの様子をうかがっていた。
腕を組み、まるでお兄さんのような表情で私達を見つめている。
「……嫉妬か?」
からかうようにシュンさんが笑った。
シュンさんの笑顔なんてあまりに珍しくて、目を丸くする私。
シュンさんとタツの視線が絡む。
目で何かを会話しているようにも見えるけれど、私からは何が何だか分からない。
そうして少しの後、タツの方から深いため息のようなものが聞こえた。
「違うっつの。あのなあ、チエはまだ高校生だぞ? 一応お前成人してるんだから気を付けろ」
「気を付けるって何にだ」
「今の時代厳しいんだから。散々人の事からかっておいて自分はスルーか、おい」
「……僕はタツとは違う」
「俺を犯罪者に仕立て上げようとすんな。年頃の女の子相手にそういうことすると思われてんのも腹立つ」
いつもの言い争いを始めた2人に、なぜだか胸がツキンと痛んだ。
一瞬だけすごく苦しくなったのだ。
また過呼吸?
そう思って構えるけれど、それとも何だか違う気がする。
訳が分からず頭を傾げる私。
「僕は、怪しいと思う。タツ、せめてチエが高校卒業するまでは我慢しろ」
「しつこいわ、ボケ。お前は俺を何だと思ってるんだ」
「……お前は、自分で思っているより自分のことに疎い」
「は? ちょっとチエ、君からも何か言ってやってよ。俺、そんなに変態くさい?」
「え、へ!?」
「……あ、なんかグサッときた。否定されず挙動不審になられるのも辛いもんだな」
「日頃の行い」
「うるさい、シュン」
それでも、この場所は温かい。
弱くて情けなくて、そんな私を当たり前のように受け入れてくれる。
大塚さんや千歳くん、家族のいない場所で初めて息を抜ける場所。
穏やかに流れる時間に、私は感謝した。
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