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焼き立てパンの香ばしい香りで目が覚めた。
重たい瞼をこじ開ける。
のろのろと視線を巡らせれば、すぐに早瀬と目が合った。
「あ、おはよう由良君」
「……お前……」
ぶり返した頭の鈍痛と、断片的に憶えている強姦への怒りとで、吐き出した声は地を這うように低い。
意に介した風もなく、早瀬はパンの盛られた皿をチェストに置いた。
「美味しいよ、多分。君の為に張り切って買ってきたんだ。由良君、パン好きでしょう?」
それはその通りなのだが、ほのぼのと口を利く気になれない。
鉛のように感じる四肢に鞭打って、身体を起こす。
すかさずクッションをあてがわれ、顔を顰めつつそれに凭れた。
気重な溜め息とともに、顔を覆う。
そういえば、一切の拘束が解かれている。
改心したのか、などと評価を改める気になるわけもない。
「お前……俺になに盛ったんだ。やばいほど効いたぞ」
「なにって、昨日も言ったじゃない。素直になるおクスリだって」
「そういう次元じゃないだろう、あれは!」
苛々と髪を掻き回す。
早瀬はすっとぼけているのか、飄々と小振りのフランスパンを手に取った。
壁際のスツールに腰掛けざま、端を齧る。
「そうだなぁ。そこそこやばいおクスリ、とだけ言っておくよ」
由良は眉を顰めた。
――まさか違法な類ではないだろうな?
我が身を見下ろす。
一体いつ着せられたのか全く記憶にないが、水色のパジャマを纏っていた。
今のところ、あの苛烈な発情の前兆はない。
「そのやばいおクスリは、依存性があったりしないんだろうな?」
「うん。そこだけは大丈夫。僕は君を、一生薬漬けにする気はないから。そんな由良君はちっとも可愛くないよ」
耳を疑いたくなる論拠はさておき、その言葉を信じるしかない。
再び嘆息をひとつ漏らし、
「そうか。……それで、俺をここから出してほしいんだが?」
「だめだよ、由良君。もし君が逃げ出すっていうなら、君をまた縛らなきゃいけなくなる」
声は穏やかだったが、早瀬の目は笑っていなかった。
本能的な恐れを抱き、そしてそんな自分が嫌になり、由良は目を逸らした。
その視線の先にパンがあり、視認した矢先くうっと腹が鳴る。
早瀬は、朗らかに笑って「どうぞ」と促したが、手を付ける気になれない。
提供主が早瀬というだけで、もう信用するに値しない。
それでも、このまま飢え死にしたくなければ、白旗を上げて食すしかなかった。
なにより早瀬が胸を張るように、そのパンは実に食欲をそそる香りを放っていたので。
どうにでもなれという気持ちで、クロワッサンを手に取る。
恐々と頬張る。
「……美味い」
大変不本意ながら、それは認めなければならなかった。
早瀬は嬉しそうに口許を緩めた。
「良かった。もっと食べてね」
どうして自分は、友人でもある監禁犯と、朝食だか昼食だか全く判らないひと時を過ごしているのか。
自暴自棄と諦観とが綯い交ぜになり、クロワッサンを完食する。
やはり今のところ、おかしな変調は感じられない。
メンチカツサンドもあんパンも二個目のクロワッサンも、歯がゆいことに確かに美味かった。
にこにこと見守られながら黙々と咀嚼する。
なんとも居心地の悪い時間だった。
由良が開き直って計六つのパンを胃に収める間に、早瀬は三つ食べ終えた。
まだ幾つか残っている皿を眺めるともなしに眺め、「お前はそれだけで足りるのか」などと、いつも通りの声を掛けそうになるのを堪える。
自分は意識が混濁した中、この男に貪られたのだ。
まっとうなやり取りを交わす意欲が湧いてこない。
普段より遥かに口数の少ない由良を気にした様子もなく、早瀬は立ち上がった。
「それじゃあ由良君、僕は仕事に行ってくるから」
「……ん、ああ」
不器用に目を背ける。
今から出勤するということは、時刻は朝らしい。
外を窺う術がない以上、早瀬の説明を信じるならだが。
「日中きっと暇だろうと思って、チェストの中に幾つか小説を用意してあるよ。あ、それから、水はそのペットボトルを――大丈夫、正真正銘、ただの水だから。今度こそ安心して」
皿の横に置かれていたミネラルウォーターのパッケージを指差し、早瀬は由良の懸念を先んじて笑った。
これもまた、信じるしかない。
由良は自棄っぱちで頷いた。
「トイレはあっち、あのドアの向こうだよ。好きに使ってね。それと言うまでもないかもしれないけど、逃げようなんて思わないでね。外から鍵を掛けていくから。がっちゃがっちゃ叩いたり体当たりするのは自由だけど、とびきり頑丈なドアと鍵だから、体力の無駄遣いになると思うとだけ言っておくね」
それじゃあ、と至って自然体で、早瀬は部屋を後にした。
すぐに施錠する音が静かな室内に響く。
しばらく耳を澄ませてみても、聞こえてきた音はそれきりだった。
遠ざかる足音すら届かない。
まさかドアの向こうで延々と突っ立っているつもりでもないだろうから、防音もしっかりしているのか。
そうでなければ――ここが周囲から孤立した一軒家なら話は別だが――、昨日散々に声を嗄らして喘いでしまったから、近所迷惑どころではないに違いない。
嫌なことまで思い出し、由良は何度目かの溜め息を吐いた。
(なんでこんなことに……)
早瀬とは、良好な友達関係を築いていると思っていたのに。
そう思っていたのは、自分だけだったらしい。
緩慢にミネラルウォーターを手繰り寄せ、キャップを捻る。
未開封時特有の淡い抵抗があり、それに幾らか救われた。
しかし、だからといって油断はできない。
包装は見慣れた商品のものだが、巧みな偽装でも施されている可能性は皆無ではない。
由良はしばらくそのパッケージを睨むと、グラスを手に立ち上がった。
躊躇いがないわけではないが、背に腹は変えられない。
教えられたドアを潜った先にはトイレ、更にその横の引き戸を引くと、脱衣所および風呂場があった。
目当ての洗面台を見付け、一抹の安堵を覚える。蛇口を捻れば豊かな水が溢れ出した。
それをグラスに汲み、一気に呷る。この蛇口にさえ細工がしてあるようなら、もうお手上げである。
数分ほど身を硬くしながら待ってみたが、特に異変はない。
追加でもう一杯飲み干し、新たに汲んでからベッドまで戻る。
全身がべたついている感触はないので、大方気を失っている間に風呂に入れられたのだろう。
かけらも憶えていないのが本当に腹立たしいが。
早瀬が言う通りに今が『翌日』ならば、平日も平日の筈だ。
仕事だの、冷蔵庫に残っている食材だの、気掛かりは次から次へ思い浮かぶ。
そもそも由良は火曜の夜、相変わらず残業してくたびれた身体を引きずり、マンションに帰宅した。
日曜に作り置きしてあったしょうが焼きをよく冷えたビールとともに掻き込み、風呂に浸かり、だらだらとテレビを眺めながら風呂上がりのアイスを食べ、それから――ここへ連れ込まれるまでの記憶が欠落している。
それから、寝落ちでもしたのだろうか?
それとも、夢遊病の如く、自ずから早瀬を家に招き上げた?
(……全く憶えてない)
もどかしさに前髪を掻き上げる。
早瀬の言を借りるならば、『昨日』自分は強引に肌を重ねられた。
つまり今日は、木曜なのだろう。
そう推測を立てたところで、なんの役にも立たない。
そもそも、スマートフォンもテレビも新聞もない今、確認すらできない。
外界と完全に遮断されている。
数日ならまだしも、数ヶ月もこんな状況に囲われていては、早晩狂ってしまう。
由良は目を閉じると、深呼吸に努めた。
形ばかりの冷静さを手繰ると、立ち上がってドアと対峙する。
叩いたり体当たりするつもりはなかったが、念の為にドアノブを捻ってみる。
案の定、施錠されていた。
試しにノックしてみれば、反響する音からして木の板ではなく鉄板でできているのが判る。
なるほど、これでは力任せにぶち破るのも厳しそうだ。
それを再認識すると、由良は深く息を吐いてベッドに腰掛けた。
チェストの引き出しを開ける。
由良は読書好きである。
日常を盗み見るまでもなく、大学時代から交友のあった早瀬なら知っていて当然だった。
しかしここ最近はとみに仕事に追われ、満足に読書に耽る時間も取れていなかったのだ。
とことん開き直って、せめてこの監禁生活を楽しむ努力をしなければ、なにより精神的に参ってしまう。
「……うわ」
そう思って覗くと、そこには由良の家からそっくりそのまま運んできたと思しき、積ん読の本がぎっしり詰まっていた。
まったく、その気遣いに涙が出てくるというものだ。
由良はもはや溜め息を吐くのにも飽き、とりわけ分厚い単行本――しかも上下巻構成で、しっかりどちらも揃っている――を手に取った。
重たい瞼をこじ開ける。
のろのろと視線を巡らせれば、すぐに早瀬と目が合った。
「あ、おはよう由良君」
「……お前……」
ぶり返した頭の鈍痛と、断片的に憶えている強姦への怒りとで、吐き出した声は地を這うように低い。
意に介した風もなく、早瀬はパンの盛られた皿をチェストに置いた。
「美味しいよ、多分。君の為に張り切って買ってきたんだ。由良君、パン好きでしょう?」
それはその通りなのだが、ほのぼのと口を利く気になれない。
鉛のように感じる四肢に鞭打って、身体を起こす。
すかさずクッションをあてがわれ、顔を顰めつつそれに凭れた。
気重な溜め息とともに、顔を覆う。
そういえば、一切の拘束が解かれている。
改心したのか、などと評価を改める気になるわけもない。
「お前……俺になに盛ったんだ。やばいほど効いたぞ」
「なにって、昨日も言ったじゃない。素直になるおクスリだって」
「そういう次元じゃないだろう、あれは!」
苛々と髪を掻き回す。
早瀬はすっとぼけているのか、飄々と小振りのフランスパンを手に取った。
壁際のスツールに腰掛けざま、端を齧る。
「そうだなぁ。そこそこやばいおクスリ、とだけ言っておくよ」
由良は眉を顰めた。
――まさか違法な類ではないだろうな?
我が身を見下ろす。
一体いつ着せられたのか全く記憶にないが、水色のパジャマを纏っていた。
今のところ、あの苛烈な発情の前兆はない。
「そのやばいおクスリは、依存性があったりしないんだろうな?」
「うん。そこだけは大丈夫。僕は君を、一生薬漬けにする気はないから。そんな由良君はちっとも可愛くないよ」
耳を疑いたくなる論拠はさておき、その言葉を信じるしかない。
再び嘆息をひとつ漏らし、
「そうか。……それで、俺をここから出してほしいんだが?」
「だめだよ、由良君。もし君が逃げ出すっていうなら、君をまた縛らなきゃいけなくなる」
声は穏やかだったが、早瀬の目は笑っていなかった。
本能的な恐れを抱き、そしてそんな自分が嫌になり、由良は目を逸らした。
その視線の先にパンがあり、視認した矢先くうっと腹が鳴る。
早瀬は、朗らかに笑って「どうぞ」と促したが、手を付ける気になれない。
提供主が早瀬というだけで、もう信用するに値しない。
それでも、このまま飢え死にしたくなければ、白旗を上げて食すしかなかった。
なにより早瀬が胸を張るように、そのパンは実に食欲をそそる香りを放っていたので。
どうにでもなれという気持ちで、クロワッサンを手に取る。
恐々と頬張る。
「……美味い」
大変不本意ながら、それは認めなければならなかった。
早瀬は嬉しそうに口許を緩めた。
「良かった。もっと食べてね」
どうして自分は、友人でもある監禁犯と、朝食だか昼食だか全く判らないひと時を過ごしているのか。
自暴自棄と諦観とが綯い交ぜになり、クロワッサンを完食する。
やはり今のところ、おかしな変調は感じられない。
メンチカツサンドもあんパンも二個目のクロワッサンも、歯がゆいことに確かに美味かった。
にこにこと見守られながら黙々と咀嚼する。
なんとも居心地の悪い時間だった。
由良が開き直って計六つのパンを胃に収める間に、早瀬は三つ食べ終えた。
まだ幾つか残っている皿を眺めるともなしに眺め、「お前はそれだけで足りるのか」などと、いつも通りの声を掛けそうになるのを堪える。
自分は意識が混濁した中、この男に貪られたのだ。
まっとうなやり取りを交わす意欲が湧いてこない。
普段より遥かに口数の少ない由良を気にした様子もなく、早瀬は立ち上がった。
「それじゃあ由良君、僕は仕事に行ってくるから」
「……ん、ああ」
不器用に目を背ける。
今から出勤するということは、時刻は朝らしい。
外を窺う術がない以上、早瀬の説明を信じるならだが。
「日中きっと暇だろうと思って、チェストの中に幾つか小説を用意してあるよ。あ、それから、水はそのペットボトルを――大丈夫、正真正銘、ただの水だから。今度こそ安心して」
皿の横に置かれていたミネラルウォーターのパッケージを指差し、早瀬は由良の懸念を先んじて笑った。
これもまた、信じるしかない。
由良は自棄っぱちで頷いた。
「トイレはあっち、あのドアの向こうだよ。好きに使ってね。それと言うまでもないかもしれないけど、逃げようなんて思わないでね。外から鍵を掛けていくから。がっちゃがっちゃ叩いたり体当たりするのは自由だけど、とびきり頑丈なドアと鍵だから、体力の無駄遣いになると思うとだけ言っておくね」
それじゃあ、と至って自然体で、早瀬は部屋を後にした。
すぐに施錠する音が静かな室内に響く。
しばらく耳を澄ませてみても、聞こえてきた音はそれきりだった。
遠ざかる足音すら届かない。
まさかドアの向こうで延々と突っ立っているつもりでもないだろうから、防音もしっかりしているのか。
そうでなければ――ここが周囲から孤立した一軒家なら話は別だが――、昨日散々に声を嗄らして喘いでしまったから、近所迷惑どころではないに違いない。
嫌なことまで思い出し、由良は何度目かの溜め息を吐いた。
(なんでこんなことに……)
早瀬とは、良好な友達関係を築いていると思っていたのに。
そう思っていたのは、自分だけだったらしい。
緩慢にミネラルウォーターを手繰り寄せ、キャップを捻る。
未開封時特有の淡い抵抗があり、それに幾らか救われた。
しかし、だからといって油断はできない。
包装は見慣れた商品のものだが、巧みな偽装でも施されている可能性は皆無ではない。
由良はしばらくそのパッケージを睨むと、グラスを手に立ち上がった。
躊躇いがないわけではないが、背に腹は変えられない。
教えられたドアを潜った先にはトイレ、更にその横の引き戸を引くと、脱衣所および風呂場があった。
目当ての洗面台を見付け、一抹の安堵を覚える。蛇口を捻れば豊かな水が溢れ出した。
それをグラスに汲み、一気に呷る。この蛇口にさえ細工がしてあるようなら、もうお手上げである。
数分ほど身を硬くしながら待ってみたが、特に異変はない。
追加でもう一杯飲み干し、新たに汲んでからベッドまで戻る。
全身がべたついている感触はないので、大方気を失っている間に風呂に入れられたのだろう。
かけらも憶えていないのが本当に腹立たしいが。
早瀬が言う通りに今が『翌日』ならば、平日も平日の筈だ。
仕事だの、冷蔵庫に残っている食材だの、気掛かりは次から次へ思い浮かぶ。
そもそも由良は火曜の夜、相変わらず残業してくたびれた身体を引きずり、マンションに帰宅した。
日曜に作り置きしてあったしょうが焼きをよく冷えたビールとともに掻き込み、風呂に浸かり、だらだらとテレビを眺めながら風呂上がりのアイスを食べ、それから――ここへ連れ込まれるまでの記憶が欠落している。
それから、寝落ちでもしたのだろうか?
それとも、夢遊病の如く、自ずから早瀬を家に招き上げた?
(……全く憶えてない)
もどかしさに前髪を掻き上げる。
早瀬の言を借りるならば、『昨日』自分は強引に肌を重ねられた。
つまり今日は、木曜なのだろう。
そう推測を立てたところで、なんの役にも立たない。
そもそも、スマートフォンもテレビも新聞もない今、確認すらできない。
外界と完全に遮断されている。
数日ならまだしも、数ヶ月もこんな状況に囲われていては、早晩狂ってしまう。
由良は目を閉じると、深呼吸に努めた。
形ばかりの冷静さを手繰ると、立ち上がってドアと対峙する。
叩いたり体当たりするつもりはなかったが、念の為にドアノブを捻ってみる。
案の定、施錠されていた。
試しにノックしてみれば、反響する音からして木の板ではなく鉄板でできているのが判る。
なるほど、これでは力任せにぶち破るのも厳しそうだ。
それを再認識すると、由良は深く息を吐いてベッドに腰掛けた。
チェストの引き出しを開ける。
由良は読書好きである。
日常を盗み見るまでもなく、大学時代から交友のあった早瀬なら知っていて当然だった。
しかしここ最近はとみに仕事に追われ、満足に読書に耽る時間も取れていなかったのだ。
とことん開き直って、せめてこの監禁生活を楽しむ努力をしなければ、なにより精神的に参ってしまう。
「……うわ」
そう思って覗くと、そこには由良の家からそっくりそのまま運んできたと思しき、積ん読の本がぎっしり詰まっていた。
まったく、その気遣いに涙が出てくるというものだ。
由良はもはや溜め息を吐くのにも飽き、とりわけ分厚い単行本――しかも上下巻構成で、しっかりどちらも揃っている――を手に取った。
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