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side2.高井戸純(たかいどじゅん)の場合

ジムの先生 第六話

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何でだろう。俺は今、空前絶後の疑問にさらされている。

先日食事に行った時から、米原先生が俺に対して冷たいのである。

訳がわからない。俺は、何もした記憶がないのだ。

そうは思えど、先生は今日も俺に他人行儀に接している。
授業中の教え方はいつもと変わらない、真面目で丁寧な感じ。
ただ、火曜のクラスが一歩終わってしまえば、先生はつれないのだ。
ジム終わりに食事に誘っても、
「すみません。今日は予定が……」
ジムに行く前に連絡をしてみても、既読のまま返事は遅かったり……スルーされたり……。
待ちに待った挙句、返事が来て、俺がドキドキしながら画面を見ると、
「すみません。しばらくずっと忙しくて……」
という淋しい文字が書かれてあった。
俺は、会社のデスクでがっくりと肩を落とした。それを見た近くの同僚が話しかけてくる。

「高井戸、どうしたー? 彼女にでも振られたか?」
ちげーわ。でも何だろう、この吐きそうな感じ。
今まで何度も彼女に振られてきた感じに、似てなくもない、かもしれない。

「昼、一緒に食べよーぜ。地下に、うまい定食屋が出来たんだぜ。かつ丼が特に美味い」
「うわ、かつ丼、無理無理無理……」
シャツ姿で肩を組んでくる同僚に、俺はしかめっ面で手を振る。



この状態になってから、早3週間が過ぎようとしている。
これはおかしいだろう。どう見たって。やっぱりおかしいのだ。

俺は嫌われた?

その一言が、疾風のように一瞬で俺の胸をひやっとさせる。
しかし、理由が解らないのだ。


えーと整理してみよう。
こういう時に大事なのは、冷静になって思い当たることを箇条書きのようにリストアップし、分析してみることだ。
いち、俺は米原先生を無理に? 買い物に付き合わせて、食事に誘った……。
に、俺は米原先生が嫌がるのに? 高い店に連れて行き、食事を敢行かんこうした……。
さん、俺は米原先生が困っているのに? これからも仲良くすることを迫った……。

…………駄目だ。思い当たる節が多すぎだ。俺はジムバッグを抱きながら、へなへなと階段に崩れ落ちた。その俺の頭の中に、また新たな考えがぎる。

もしかして、ジムの会員はお客様だから、米原先生は俺に誘われて嫌なのに、断れなかったのだろうか。
これは一種のモラルハラスメントに合致するのだろうか。

でも、米原先生はあんなに可愛い顔をして笑ってくれていたじゃないか。
あ、でも待て。冷たい(?)顔をした時も、困っている顔をした時もあった。真っ赤な顔をした時だって……。

俺は柄にもなく涙ぐみそうになった。そんな考え、嫌だ。嫌だけど、そうでも考えなければ物事がぴったり合わない。
米原先生が、そんなに嫌だったなんて思わなかった……。

俺は、階段でしゃがみ込んでいたんだけど、後ろから人の物音がして、焦って立ち上がった。
ここは、ジムの階段だ。いつも階段を上がり、着替えのロッカールームへ行く。
今日は以前なら、心待ちにしていた火曜日だ。米原先生の水泳のクラスだ。
俺はどうにか自分を奮い立たせて、階段を一段ずつ上って行く。


先生は、生徒たちに背中を向け、授業の準備をしている。先生はどうやら前にもクラスを持っているようで、いつもすでに着替えているから、授業の前に着替えが一緒になることはない。
先生は俺たちに振り向かない。
先生と一緒に買った水着姿に着替えた俺は思う。先生を困らせちゃいけない。
先生は真面目にジムの仕事に取り組んでいるだけで、例えばこのクラスで何か問題が起きて他の人と担当が交換、なんてことになったら、立場上ジムでやりにくいのかもしれないのだ。
出来たら、きっと問題なんて起こしたくないのだ。

だから、俺が先生の仕事を邪魔しちゃいけない。

俺は、短い間に、「そうしようかなぁ」と心に決めかけていたことがあった。これからは、ただのいち生徒として先生のクラスを取るのだ。

俺がもしこのクラスを止めたとしたら、先生、きっと気にするよね?
それとも、鈍感者がやっと気づいたとほっと胸を撫で下ろすだろうか? ……いやいや、そこまで考えると俺の胸がちくりと痛い。

だから俺は思うのだ、これからはただの生徒としてこのクラスを受けるのだと。
先生と友達なんて、おこがましかった。先生は仕事上、俺に優しくしてくれるだけ。それを俺が勘違いしていただけだと……。

俺はこの数か月で大分水泳も上達し、バタフライを教えてもらうようになっていた。一応泳げるのだが、足と手のタイミングが難しいのだ。
25メートルを何とか泳ぎ切ると、先生が嬉しそうな顔で言うのだ。

「高井戸さん! すごく上手になったじゃないですかー!!」

振り返れば、先生が満面の笑みで俺にそう告げた。
相変わらずのいい身体をしている。水の粒が玉のように米原先生の肌を転がる。
俺はつい、ぼそっと言ってしまった。

「……プールだと、遠慮なくそんな顔……」
「え?」
「あ、いえ、何でも。」

俺はそそくさと逃げるようにコースをくぐった。
言いかけたことは、こうだ。



――プールだと、遠慮なくそんな顔、してくれるじゃないですか。
それで何で、外だと駄目なんですか?



――ダメだダメだ、俺は、ただのいち生徒になるって決めたんじゃないか。
それなのに何で、こんな未練たらたらなこと思ってるんだ?

俺の心は弱い。こんなことなら本当にいっそ、このクラスを受けるのをやめるしかないじゃないか。

先生が、後ろからこっちを見ているかもしれない。
いや、黙れ俺の心。
先生はきっと、俺のことなんか見ちゃいない。

俺はそう自分に言い聞かせ、無言でプールから上がった。
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