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はぎわら歓

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8 仕事への誠実さ

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園児たちが給食を食べ、食器が下がってくるまで、調理員全員で小休止をとる。そのあとは片付けとおやつ作りがあり、ほぼ一日の重要な業務が終わりとなる。
星奈は今日の給食の出来栄えもなかなか良かったと思い、お茶を飲んでぼんやり空になった鍋を眺めた。
ホテルの厨房と同じく慌ただしく走り回っているような仕事内容だが決定的に違いがあった。そのことを想うたびに星奈の胸は温かくなり自分の仕事を誇らしく思うのだ。それは出てくる残飯量だ。ホテルの料理が、決して手を抜かれたものでもまずいものでもない。さすが高級ホテルだけあって上質で品良く美味しい料理が提供される。値段が高いと思ってもその対価に見合っていると星奈は思う。しかし、やはり残されるのだ。飾りにしか見えない食材はもちろんのこと、食べる側の意識もペロリと平らげるという感覚ではないのだろう。そのコンセプトを頭で理解ができていても星奈には料理を残してほしくはなかった。
「ごちそうさまでした!」
園児たちが食べ終えて口々に元気よく食器を下げに来た。
「おいしかった?」
リーダーの一色和江が尋ねる。
「うんっ!全部たべた!」
活発そうな年長の男の子がはきはき答える。
「ごちそうさまでした」
食物アレルギーを多々持つ、小柄な小松蓮が背伸びをしながら食器を下げる。星奈はちらっと彼の食器を見る。今日、彼が食べられないものはほぼ除去されているので、嫌いなもの以外は食べられるはずだ。
「あら、蓮くん、全部食べたの?」
和江が空っぽの食器を眺めて言う。
「うん。ピーマンとじゃこもたべれた。おいしかったよ」
「そう。えらいわね」
誇らしそうな笑顔で蓮は立ち去った。彼は最初アレルギーで食べられないものも多かったが、偏食もあり更に食べられないものが人一倍あった。しかしここで食べることの楽しみと同時に、食べることの意義を知り始めた。蓮の母親はそのことがとてもうれしくて堪らないらしい。そして母親自身も食に関する意識が高まったらしく、この給食のメニューとたまに配る子供にやさしいおやつのレシピを大事にとってあり、休日には一緒に作るようだ。そのことを園長から聞くたびに調理員たちのモチベーションは上がる。

他のベテラン調理員に今までの仕事の話を聞くと、この保育園は特別だと言う。
給食を作るのがこの園で初めての星奈には驚く話だったが、他の園や給食センターではこのように調理員同士が熱意をもって協力し合うことは少ないらしい。女性の職場らしく新参者へのいじめやグループの対立なども経験するらしい。確かに高校時代はグループが出来ていて、群れない同級生はいなかった。星奈は美優が居なければ孤独だったかもしれない。
この『おおぞら保育園』は園長の保育に対する考え方が明確であり、更に食育に力を注いでいるので、給食調理員の面接にも厳しかったらしい。ふつう経験と資格の有無のほうが優先されるのだが、ここでは食育に対する考え方と熱意、そして子供そのものに対してどう考えているかを採用基準としていたらしい。

――面接当日。小柄だが骨太でがっしりとした園長の中島登世子と一対一の面接を受ける。
「片桐さんは、ホテルでのお仕事はどうでした?」
「はい。大変なこともありましたけど技術を磨くことが出来ました」
「技術だけ?」
「……。そうですね。余裕もなかったんですが、食べる人があまり具体的に見えなかったので作業効率をあげることばかりでした」
「ふんふん。なるほどね。それじゃあ、保育園の給食ってどういうものだと思う?」
「給食は子供の身体を作るものだと思います。食事がちゃんと栄養と愛情のあるものなら、ちょっとした身体の不調とかは治せると思いますし、身体が落ち着いていれば心も曲がらないと思うんです」
「うんうん。台所は家の薬局とも言うからね」

星奈にしてみればその時に話した面接の内容は兄の修一に対する母の料理のことだった。今になれば、当時の意識はまだまだ低く理想的なことをぼんやりと語っただけだったように思う。一番年の近い、恋愛話ばかりふってくる小沢美沙は少し茶らけた印象だが、食に対する思いは一途だった。彼女には年の離れた弟がいたのだが、身体が弱く食も細かった。母親は料理に頓着のない人で、弟の病弱さと食の細さを嘆くばかりで、改善をしようとは考えられなかったようだ。結局、体力も免疫力も低いまま成人し、職についたが風邪をこじらせてあっという間に亡くなってしまった。
加工食品で育った美沙は母親と同じようになりたくない一心で調理師となった。そして母に代わって美味しい優しい料理を弟に振舞っていたのだ。
「優しくて責任感の強い子でさー」小さな園児を見て美沙はたまにつぶやいた。「ねーちゃんの料理は世界一っていっつも言ってた」
弟を亡くしぽっかりと空いた心の空虚を埋めたのが、この『おおぞら保育園』の給食調理員募集の案内だった。
今でも残る悲しみは、園児の食の喜びによって少しずつ昇華されているらしい。

毎日見る子供の笑顔は飽きることなく新鮮なものだ。美沙の作るおやつの『ニンジン餅』を味見する。可愛らしいオレンジ色で食欲をそそる。優しい甘さは身体に染み渡るようだ。みんながみんな作るものにいろんな思いが込められている。ここで食べるものは身体に良いだけの栄養食ではない。誰かの愛情も一緒にいただいているのだ。
手を合わせたり、「いただきます」と声に出したりリアクションは様々だが、調理員一同、食事の前には料理を見つめ黙とうの様な一瞬を感じる。星奈は食べ物そのものに対するものとそれぞれの想いに対する畏怖があるのだろうと、静粛な気持ちで一口一口ゆっくりと噛みしめた。

 一年ぶりに茶道家の池波静乃を美優と一緒に訪れた。静乃とは中学時代の茶道部を離れても、時たま作った和菓子などを携えて自宅を訪問することがしばしばあった。実は美優の祖母、梅子とは親友だったらしい。その関係もあり、池波静乃が指導する茶道部に美優は入部したのだった。
「いらっしゃい。今日は気持ちの良い日ね。お庭でお茶にしましょう」
とうとう百歳を目前に控えた静乃の歩みはおぼつかない。それでも言葉も動作もきちんとして品が良く凛としている。
「あたしお茶の用意してきます」
美優がさっと水屋に向かう。
五坪ほどの庭で一応小規模な野点ができる広さだが、星奈は静乃と一緒に縁側に座り、竹とくりぬいた岩でできた、ししおどしを眺めた。梅雨明けですっきりとした明るい庭に苔むした岩が落ち着きを感じさせる。
「星奈さん、今、充実してそうね。お仕事大変?」
「はい。忙しいですけどやりがいがあります」
「ふふ。結婚とかまだまだしないの?恋人いるんでしょう?」
「あ、ええ、まあ。でもまだ結婚のことなんかは考えたことないです」
「星奈さんや美優さんのことを『リア充』って言うんでしょ?」
思わぬ言葉が出てきて星奈は吹き出すところだったが「そ、そうですね。たぶんリア充です」と笑いそうになって答えた。

静乃は『若い子』を馬鹿にすることも蔑むこともなく丁寧に扱う。中学時代から身近な大人や教師よりもよっぽど寛容で理解があった。不思議なもので押さえつけようとする教師には反抗的なのに静乃の前では借りてきた猫のようにおとなしくなる生徒が多かった。そして教師よりも慕われていた。星奈と美優は、教わった教師には年賀状一枚書かないのに静乃にだけは年賀状を書き、何か状況が変われば報告をしに来、またお中元、お歳暮を渡すかのように、こうやって訪れている。

美優がポットと抹茶椀をもってやってきた。本来このような簡易すぎるやり方を嫌う茶道家が多い中、面倒で飲まないんだったら簡単にでも飲んだ方がよいと、湯沸しポットや、やかんなどでお稽古以外のときに茶を点てることを静乃は『よし』としていた。星奈も昔、静乃から言われた「お抹茶は軽い風邪なら吹き飛ばしてしまいますからね」という言葉を忠実に守り、風邪薬よりも抹茶を常備している。静乃がこんなに元気なのはきっと抹茶のおかげだろうとも思っている。
「どうぞ」
美優が美しい扇形をしたピンクのグラデーションのネリキリを差し出す。
「まあ、綺麗ねえ」
「美優、また腕があがったんじゃないのー」
「へへー」
くるっと目を輝かせ美優はニヤッと笑う。
「しかもこれさ、紅麹使ったんだ。やさかい子供らにも安心や」
「へー。いいねえ。保育園で言ってみよ」
「美優さんも頑張ってるのねえ」
美優は照れて頬を染めた。黒文字でそっと一口切り分け口に入れる。美味しいと言うよりも、口の中に美しいという感覚が広がることに星奈は感動をおぼえる。
「美優。味もすごくいいよ」
「ありがとぉ」
不思議なイントネーションが混ざった言葉を使うようになった美優はもうすっかり一人前だ。
やがて茶筅のサラサラした音が聞こえ始める。そして白地に緑色の釉薬がかかった沓形の織部焼の茶碗が静乃の前に差し出される。星奈の前にはぽってりした白い志野茶碗。美優自身はマット調の黄色い黄瀬戸の茶碗を目の前に置いた。
「やっぱ茶碗は美濃焼がいいてー」
「そうなの?」
「うん。なんか京焼は派手すぎてさ」
「まあまあ、若いのに。渋いわねえ」
「あはは。渋いのかなあ」
「私でも、若い頃は乾山や仁清写しを練習で使ってましたからねえ。まあでも地元の土物は肌に合うと言うかしっくり馴染むわねえ」
「星奈は志野好きだよね、昔から」
「うん。口当たりが優しいしね。なんか持っても柔らかい気がする。とくに静乃先生のは」
三人でリラックスしながら甘い抹茶を口の中で転がした。



――ふふと静乃は微笑んだ。あまり生徒に気を使わせたくない静乃は、この三つの抹茶茶碗が今は亡き人間国宝の作であることは言わなかった。彼女は稽古を通して、道具の扱いと精神が伴ってきたころに自身の所有する最上のものを使わせることにしている。
星奈と美優の二人は若い生徒の中でも、特に茶の湯の精神を理解していると思い、こういう気兼ねない喫茶店の様な茶席でも、高価な道具を使わせることができた。例え、彼女たちが道具類を傷つけたとしても悔いは残らないだろう。
道具類は、好きで勉強をしているか、子供のころから馴染みがなければ目利きにはなれない。したがって機械生産のものと、若手作家のものと、国宝級のものを混ぜても大抵の人には区別がつかないようだ。その点、星奈はフィーリングでよいものを見分け、美優は機能でよいものを選び取る。好きな茶碗を選んでよいと言うと星奈は『柔らかい』といい、美優は『使いやすい』と言い上質なものを選んだ。
静乃は二人がゆっくりとでも成長しているさまを見て、目を細めた。特に美優は彼女の親友の梅子の孫である。梅子の美しさと気高さとはっきりとした気性を受け継いだ美優は、静乃にはまばゆく映るのだった。星奈は若い頃の静乃に似ている。この若い二人を見ると、かつての青春時代を思い出さずにはいられなかった。(あと何度この青春を見ていられるだろうか)
寄せる歳と老いていく自分の、次の行き先へのカウントダウンが始まっていることに静乃は気づいていた。十分長く生き人を育て教え伝えてきたことで満足のいく一生であった。今すぐ死んでも後悔はない。ただ目の前の力強い美しい花々をもう少し眺めていたいと思うのだった。
 珍しく母親の奈保子と星奈、二人きりの夕飯だ。兄の修一は夜勤が多くいないことも多いが、今日は父親の伸二も会社の歓迎会か何かのため遅くなるらしい。
「お母さんは座ってて」
星奈は一人で食事の支度をする。奈保子は静かに座ってパラパラと料理の本を斜め読みしながら星奈の後姿を見守った。
小気味いい包丁の規則正しい音がする。使い込まれた包丁も木のまな板も手入れがなされており使い心地も抜群だ。星奈が働き始めてから、週に一度ほど家族のために食事を作るのだがやはりこの場所は奈保子の場所だ実感する。天板までの高さは奈保子の背丈に合わされていて低く、長時間作業し続けるには腰が痛い。ホテルの厨房はやはり男性の職場だったのだろうか。背の高い星奈でも作業台の位置に高さを感じていた。保育園の調理台はホテルと家の中間ぐらいだろう。それでもベストな高さというほどでもない。高校の調理室、調理師専門学校と人よりも多く色々な場所の調理場を経験している星奈にとって作業台の高さというものが少し気になる。(自分のキッチンか)
ぼんやりと自分が自分の台所を持つことを想像した。(まだないな)
頭を振ってニンジンを刻むことに集中した。
「お待たせ」
「まあ。綺麗な色の味ご飯ね」
「うん。園児にも人気だよ。すごく食べるの。ニンジン嫌いな子でも美味しいみたい」
ほんのりオレンジ色のご飯の匂いを嗅ぎ奈保子は「ほんと匂いもわからない」と言って感心する。
「給食みたいでごめんね」
食卓には豆腐の肉団子と貝の味噌汁、キャベツとコーンのコールスローが並んだ。
「ううん。美味しそうね。丁寧に作られてて……」
目を細めて奈保子は並ばれている料理を眺める。
「食べて」

「このドレッシング、さっぱりしてて美味しいわね」
「うん。豆乳にしてある。マヨネーズじゃなくて。あっさりし過ぎてない?」
「ううん。年取ったせいもあるけどもうマヨネーズをかけて食べるのってあんまりね」
「これはね。卵アレルギーの子用に作ったマヨネーズなの。豆乳とオリーブオイルなんだ」
「なるほどねえ。でも、かわいそうねえ。卵が食べられないなんて」
「う、ん。なんか訓練で食べられるようになることもあるみたいだけどね」
「そう。あんたたちは食べ物にアレルギーがなくて良かったわ。お兄ちゃんは大変だったけど、星奈はなんでも食べられて元気だったからお母さん助かったわ」
「お母さんのご飯がいいものだったから元気でいられたんだよ」
「そう」
奈保子は箸を停めて、「ごめんね」と呟いた。
「え」
「あんたをあんまりかまってやれなくて。気にはもちろんしてたのよ。言い訳っぽいけど」
「お母さん……」
「今思うともっと上手いやり方があったと思うのに必死でとにかく修一をどうにかしなきゃって思ってて」
ため息混じりに話す奈保子が星奈には少し小さく見えた。
「しょうがないよ。お兄ちゃん病気だったし。でも元気になってお医者さんだよ?すごいよね。普通にでもお医者さんなんてなれないと思うのに」
「ううん。修一のことじゃなくてあなたの話。……ごめんね」
奈保子の頬に一筋の涙が伝う。
「やだっ。お母さん泣かないで」
慌ててティッシュペーパーを数枚抜き取って星奈は奈保子に渡した。
「ありがと」
「お母さん、お兄ちゃんはあたしにとっても見本なの。だから全然不満なんかないの。ちゃんとあたし、お母さんの気持ちはご飯とか洗濯ものとか掃除とかでわかってるんだから」
星奈にとって幼年期が寂しくなかったと言えば嘘になるかもしれないが不満ではなかった。毎日の身体を気遣われた食事が兄のためのものであったとしても、星奈にも同じように愛情をこめて作られたものであるし、星奈の洋服はいつも清潔で綺麗にたたまれていた。今ならわかる。修一の身体の変化に神経をすり減らしながらも星奈を無視することなく心には愛情を携えていたことを。気持ちの良い寝具をひと撫でしただけで今なら奈保子が想いがわかるのだ。
「食べて。お母さん。あたし、お母さんが大好きだよ」
「うっ、うぅ。美味しいわ。とっても優しい味がするわ。ありがとう星奈」
「ん」
星奈の視界も涙で滲んでいた。自分の料理を口に含みながら、奈保子の料理の優しい味を思う。二人の親子の想いが口の中で溶け合ってハーモニーを織りなす。そうして二人の協奏曲が奏でられ、星奈は自分の少女時代への哀愁が完全に消えることを感じた。これからは改めて家族と向き合うのだ。(もう子供じゃない)これからは保護される立場ではないのだと実感する。老いて小さくなった母を星奈は守りたいと思うのだった。
 和弘の実家の旅館『桔梗屋』がリニューアルオープンされた。旅館ではあるが宿泊なしで本格的な日本料理を堪能できる店としても宣伝されていたので星奈は少し混雑期を避け食事だけでもしに行こうと決めていた。恐らくこのリニューアルオープンは板前修業を終えた和弘と父親との世代交代が絡んでいるのだろう。星奈はさすがにカジュアルな服装ではまずいだろうと思い、調理師専門学校の卒業式に着たブルーグレイのツーピースを取り出した。スカートのウエストが何とか入ったことにほっとしながら、お祝いの品を何にしようかと考えた。無難にインターネットで花を注文し贈ることにし、当日に水まんじゅうでも持っていこうと思いついてから眠りについた。

モダンな和風建築と言ったふうの『桔梗屋』の前に立つ。改装前に来たときはどっしりとした瓦屋根の伝統的な日本建築で若者には入り辛い雰囲気だったが、今では多少カジュアル感が増しボックス型の平屋に白木の柱がふんだんに使われた明るい軽やかな店構えになっている。若いカップルが何組か出入りしている。この雰囲気ならデートにぴったりかもしれない。星奈は今度月姫を連れてきたいと思いながら暖簾をくぐり店内のレストランのほうへ向かった。

受付の和服を着た女性スタッフに予約をしていた旨を伝え席に案内された。白木が明るい店内は日本料理店にしては珍しくテーブル席がメインだった。ほぼ若いカップルで埋まっている。星奈は個室の座敷へ案内された。そこも畳敷きではあるが掘り炬燵のようになっていて正座をすることはないようだ。
スタッフが「お決まりでしたら、ボタンを押してください」と言い、襖を締めた。星奈は和紙で出来たメニューを広げて墨の文字を目で追った。
お祝いの気持ちもあるので奮発して料理長のおすすめコースにすることにした。注文し、障子を少し開け庭を眺める。外からは見えなかったが庭は以前のまま、くねった樹齢の高い松がどっしりと存在をアピールしていた。恐らくテーブル席よりも和室を好む年配者のためにこの景観は残しているのだろう。さすがに星奈もここで明るい花々を見るよりも松を見るほうが合っていると思った。

しばらくするとコース料理が運ばれてき始めた。
先付が目の前に置かれた。初々しい女性スタッフが緊張しながら料理を差し出し、料理名を言うが星奈には聞き取れなかった。
少しだけ地酒に口をつけ、生湯葉と蒸し海老が品よく瀬戸黒の小さな小鉢に入っている。海老の味噌の味だろうか。さっぱりとしているのに後味が濃厚だ。形だけで頼んだ日本酒が進んでしまいそうだ。そのあとも順々にコース料理が運ばれてくる。(京都で修行したのは伊達じゃないな)
星奈は専門学校時代に食べた和弘の料理が当時もダントツに素晴らしいと思っていたが、この料理はさらに上をいくものだ。料理に感動を覚えると言うのはこのことかもしれないと思いながら目を見張る。地元の器に料理が良く映えている。個性の強い器たちが料理に主役の座を譲る。織部焼などはあくが強い器で下手をすると料理に負けてしまいがちだが、和弘は器たちを征服しているかのようだった。迫力に気圧されながら星奈は最後のデザートにたどり着いた。柿ゼリーに少し安堵を覚えながらのんびり食べていると「失礼します」と元気の良い男の声がかかった。
「ご来店ありがとうございます。料理長の内田和弘です」
「おめでとうございます」
和弘だった。形式的なあいさつを交わし、二人は吹き出した。
「久しぶり。星奈。元気そうだな」
「うん。和弘も元気そうね。おめでと、ほんと素敵な店だよー」
「ありがと、まあここまで来るのにも色々あったけどな」
「まあ、あるだろねえ。――そだ。これ、お土産。帰りに受付に渡そうと思たけど」
「おお。懐かしいな。水まんじゅう」
「うちの近所のだけどさ」
「星奈の作ったのでも美味いけどな」
「いやあ、さすがに買ってくるよ」
「今日、これから時間あるか?少し話でもしない?」
「えっ。あたしはいいけど。和弘なんか忙しいでしょ」
「いや。今日はこれで引ける予定なんだ」
「それなら。ほんと久しぶりだしね」
「じゃ、ここで待って、すぐ着替えてくるから」
「うん、急がなくていいよ」

角刈りになった和弘と肩を並べて歩くと学生時代に戻った気がする。ぶらぶら歩いて駅付近の喫茶店に入った。
「美味しかったよ。さすが京都で修行しただけあるねー。美優はもう来た?」
「え、ああ」
和弘は言葉を濁す。
「実はさ、別れたんだ。俺たち」
「えっ。全然聞いてないんだけど」
どうやらほんの数日のうちに別れたらしく、その間美優とも連絡を取り合っていなかった。星奈も美優も自分の仕事の話がメインであまり恋愛の話をすることがなかったせいでお互いの恋人との関係がどうなっているのか把握してはいない。星奈からすると美優も和弘も知っている二人なので何かあれば話すだろうし、上手くいっているものだと信じて疑わなかった。
「俺たちあんまり上手くいってなくてさ。美優って俺が居なくても平気だろ?」
「うーん。平気って言うことでもないんじゃないのかなあ」
「いや。平気なんだよ。俺が東京に行くって言っても『頑張ってね』って言うだけだったし」
「東京?」
和弘は京都で数年修業したのち、その店の分店である東京支店でも働いていたらしい。
「日本料理だと関西から関東に修業に行くと「都落ち」だって珍しがられるんだぜ」
「へー。そんなものなのか」

ふーっと大きなため息のあと和弘は「あーあ」と芝居がかったような様子で声を出す。
「美優は旅館の女将は嫌だってさ」
「別れた理由ってそれだけ?後で美優、気が変わるかもしれないじゃない」
「ん。んんー。今、嫌ならもう、俺さあ、待てないよ」
「なんで?もしかしてお父さんが危ないの?」
一度会ったことのある和弘によく似た大柄で愛想のよい赤ら顔を思い出した。
「いや、オヤジはぴんぴんしてる」
「じゃあ、なんでよ」
やけに和弘は気まずそうな表情をする。
「美優には言わないでほしいんだ」
「え、う、うん」
「東京でさ。働いてて、仲良くなったこがいるんだ」
「ちょ、ちょっと。二股あ?」
「ち、ちがう、ちがう。最後まで聞いてくれ」
「う、う、ん」

――東京の店で和弘は接客のバイトをしている大学生の糸井芽衣と出会った。彼女は両親の言う通りの大学に進学し、将来はそれなりのところに勤めて、それなりの人と結婚する予定だった。ところが突然、両親に敷かれたレールから抜け出したくなり、やったことのないアルバイトを大学の付近で始めた。それが和弘の勤める店だった。選んだ職種ではなかったようだが接客業が合ったらしい。人へのサービスと細やかな気遣いが活かせるサービス業は芽衣の天職のようだ。職場の飲み会で隣同士に座り、その気遣いを目の当たりにした和弘は芽衣にとても感心し好感を持った。彼女も和弘が職人肌で誠実で評判の良い好青年であると言うこと、そして志の高さに惹かれたようだ。ただ和弘には美優がいる。芽衣にも恋人がいることを告げていた。二人とも美優の存在を無視して付き合うことなどできる性格ではない。和弘は揺れながらどうにかしなければと思い悩んで実家へ戻る日が近づいたとき美優に旅館を継ぐ事を話した。結果、美優は「頑張ってね。あたしは京都で頑張るね」ということだった。

「そうだったんだ。うーん。なんか。それはしょうがないって感じだね」
「まあ美優は何も悪くないんだけどさ」
「そうねえ。誰も悪くないと思うよ。たんに歩く道が違うんだよね」
「でも、美優がきてくれてたら、芽衣の事すっぱりできるかっていうとそこもなあ」
「もう、いいじゃん。なかったことにぐずぐず考えなくてもさ」
「んー、まあ、なあ」
複雑な心境なのだろう。結論が出たのは各々の気持ちではなく状況によってなのだ。
「で、芽衣さんはどうするの」
「今、都内のホテルで働いてるんだよ。もし、俺がいいって言うならついて行きたいって言われてる」
「へえええー」
照れ臭そうに下を向いた和弘は鼻の頭をかいている。
「うちが軌道に乗りそうなら。――呼ぶよ」
「そっか」

和弘と別れて電車に乗り、薄暗い窓の景色を見ながら月姫に思いを馳せた。友人たちの出会いと別れは他人事ではない気がする。今はまだ変化がない月姫との付き合いがいつか和弘と美優のように変わることがあるのだろうか。薄闇が胸に忍び込んできそうになり星奈は少し不安を感じる。しかし細い三日月が目に入った時、月姫と心が繋がったような気がして心に明かりが灯るような温かさを感じた。
 梅雨明けの爽やかな風を感じるころ、中学時代の茶道部の顧問だった岸谷京香から訃報の知らせが届く。池波静乃、享年百二だった。
中学時代の茶道部員一同で彼女を偲び泣いた。星奈は今まで生きてきて一番悲しい気持ちで泣いた。美優も同様だった。
静乃の希望で簡素な葬儀が行われた後、再び岸谷京香から連絡があり、静乃からの形見分けがあるから京香の自宅まで取りに来るようにと言われ美優と一緒に訪れることにした。

京香の自宅は池波静乃の家から車で十五分の少し山深い標高の高い位置にあった。京香はすでに定年退職をしており、今は夫と二人で家庭菜園を楽しみながらのんびりと暮らしているらしい。
「せんせー、素敵なところに住んでますねえ」
「ありがと。中古であちこちガタが来てたんだけど夫と直しながらここまでいい感じにしたのよ」
「なんかゆっくりできるとこですね」
京香は教員だったころの真黒なストレートボブから白髪交じりのベリーショートになっていて、理知的な厳しさから健康的で温和な雰囲気になっている。

いろんな花が混じったハーブ園を眺めながら、美優は背伸びをしてあくびをした。
「現役時代はこんなにゆっくり何かを眺めることなんてなかったわ。いつも走っていて。唯一、静乃先生とのお茶の時間が休む時だった気がするわねえ」
京香は懐かしむ様に目を細める。
京香のいれた香り高い自家製のミントティーを口に含むと清涼感を感じスッキリする。ミントの香りを吐き出すとなんだか青い中学時代に帰ったような気が一瞬だけした。
「さてと。これ、あなたたちに。静乃先生は生徒みんなにお道具やら器やらを残してくださったようでね。亡くなる前の年から用意なさってたみたい」
しんみりとした空気が風に乗って漂う。三人で少し鼻を鳴らしながらミントティーを啜る。
それぞれ手渡された小さな紙包みを開けると、星奈には志野焼の小鉢、美優には総織部の銘々皿が入っていた。
「まあ、二人によく似合ってるわねえ」
「かわいい」
「きれいー」
志野焼はぽってりと白い厚みのある釉薬があたたかな雰囲気を醸し出している。側面を見ると小さなウサギとススキが鉄絵で描かれていた。(なんて可愛いウサギ)
「新田さんの銘々皿はきっと綺麗な色の和菓子が似合うでしょうね」
きらめく深い緑色の四角い小さな皿は、美優の美しいネリキリを待ち望んでいるように見えた。
「先生もいただいたんですか?」
星奈が尋ねると京香は頷いて、そっと黒っぽい筒形の二〇センチばかりの花瓶を出してきた。
「どこのですか?この花瓶」
美濃焼き以外には疎くどこの産地のものかは分からない。
「これはね。岡山県の備前焼。渋いでしょ」
「うん。しぶい」
「ワビサビってやつですか?」
「そうね。私にも今一つワビサビはわからないんだけど、適当に摘んで投げ入れた花がとても素敵なのよ、この花瓶」
「先生もお茶、教えたら?」
「うーん。茶の湯を教えるのはきついなあ」
京香も茶道歴は長く、一応人に教えることが出来る資格は持っている。しかし彼女にとって教師という職業で長年教え続けてきていても『茶道の精神』を教える自信がないらしく資格を持っているだけになっている。
「まだまだ教わりたい事があったのになあ」
一番付き合いの長かった京香はまだまだ悲しみが深く、ことあるごとに涙ぐんでいる。星奈と美優もそのたびに目が潤んだ。
丸い木のテーブルに並んだ三種類の陶器を眺めると、生き方も感性も三人三様なのだと星奈は感じる。美優は真摯に銘々皿を貫かれそうな強い視線で見つめている。想いも三人三様なのだ。
「よし!」
美優は気合を入れた声を発した。
「ん?」
「なに?美優」
「今ね、勤め先で新商品の開発を考えてるん。社内でコンクールがあってさ。けっこー怖い先輩たちも出品するからやめとこうかいなって思ったんだけど、頑張って出すことにした」
「へー。そんなのあるんだ」
「新田さんチャンスじゃない」
「この皿に載せながら色々試作してみるて」
「いいのできたら食べさせてね」
「きっと素敵なお菓子が出来るわよ」
「ん。やるよ、あたし」
燃えてきた美優の熱気に当てられて星奈もとにかく頑張ろうと思った。そして小鉢のウサギの可愛らしさに和まされていた。
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