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1 バレリーナ
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薄暗い路地で男が女に覆いかぶさっている。暴れる女を抑え込もうとしている様子を見れば誰でも恋人同士の行為ではないとわかる。
「おい」
アンドレイの声が静かに響いたが、男は気づかなかった。もう一度声を掛けて肩をつかむと「邪魔すんじゃねえっ」と男は振り返った。その横顔をアンドレイは殴った。
脱ぎかけのズボンをたくし上げながら酒臭い荒くれた男が立ち上がった。長身のアンドレイよりも背は低かったが、ガタイは良かった。
「女を抱きたかったら娼館へ行け」
「うるせえっ」
腕を振り上げる男より先に、アンドレイは小さなナイフを男の喉元に当てている。
「殴ると同時に頸動脈が切れるな」
「うっ……」
男はナイフにも狼狽したが、アンドレイの静かで落ち着いて殴られても痛みを感じそうにないような雰囲気に不気味さを感じる。
「覚えてろっ」
よくある捨て台詞を吐いて男は去っていった。
「大丈夫か」
身体を抱えた女は頭を下げてじっとしていたが、アレクセイの声に顔をあげる。
「ありがとう。あたしはエレーナ」
「アンドレイだ。この町の者じゃないな」
「ええ」
エレーナはほっそりとした白い身体に白銀の髪とブルーの瞳を持つ。言葉からも北の国からやってきたのがわかった。転がった袋から白いドレープの多く入った衣装がはみ出ていた。アンドレイが拾って渡すと「この裏の舞台に立っているの」とエレーナは説明した。
「ああ、君はバレリーナか」
こくりとエレーナは頷いた。
「この町の裏通りは、もうわかったと思うがこんな状態だ。大通り以外歩くな」
エレーナは叱られたような表情で頷き、薄汚れたコートのポケットから一枚の紙きれを差し出した。
「あの、お礼に」
バレエのチケットだった。
「俺は舞台鑑賞の趣味はないんだ」
「そう……」
「まあ、知り合いが観たがるかもしれないからもらっておこう」
アンドレイがチケットを受け取るとエレーナは明るい笑顔を見せた。何度も何度もありがとうと言って軽やかな走る姿を見せて立ち去った。
パン屋に立ち寄ると店の娘が「今日は遅かったのね」とすでに紙袋に入れたパンを差し出す。そばかすを浮かせた人懐っこい笑顔を見せる。
「やあ、ミハエラ。店番かい? ちょっと足止めを食らってね」
「今、パパは市場なの」
「ああ、そうだ。バレエに興味があるか?」
「バレエ? やだ! あたしにバレエやれっていうの?」
「いや、チケットをもらったんだ」
「興味ないわ。あんな薄着で人の前にでて足を開いたりなんかして。アンドレイまさか見に行くの?」
「さあ、どうするかな」
「あーやだやだ。アンドレイはいやらしい人じゃないわよね?」
ミハエラはバレエを下品な女がやるものだと思い込んでいて、そこに行く人間も下劣だと言い放っている。アンドレイはさっき助けたエレーナがそれほど下品だとは思っていなかったが、議論するのも不要だと思い、金を払って店を出た。
もう一軒、ワインを売っている店に立ち寄り、そこの顔見知りにバレエのチケットを欲しがるかどうか尋ねて帰宅することにした。
ミハエラと同様に店員の若い男は顔を赤らめて辞退した。田舎に行けば行くほど、バレエは娼婦にちかい職業として認識されている。
一昔前は確かに貧しい少女たちがバレリーナとなってパトロンを得ていた。厳しい極寒の環境のため作物が育たない北国からの出稼ぎが特に多かった。それでも都会ではバレエの芸術性の高さを評価するものが増え、色物として見られることは皆無になっている。
アンドレイは関心がなくとも何度か観る機会があり、バレエを芸術性の高いものとして認識している。ただバレエ団の質がピンキリなので一概に評価はできなかった。
「この町からもそろそろ去る時期かもしれないな」
数年住んでは町を転々とするアンドレイは、町の記念にでもとバレエを見に行くことにした。
「おい」
アンドレイの声が静かに響いたが、男は気づかなかった。もう一度声を掛けて肩をつかむと「邪魔すんじゃねえっ」と男は振り返った。その横顔をアンドレイは殴った。
脱ぎかけのズボンをたくし上げながら酒臭い荒くれた男が立ち上がった。長身のアンドレイよりも背は低かったが、ガタイは良かった。
「女を抱きたかったら娼館へ行け」
「うるせえっ」
腕を振り上げる男より先に、アンドレイは小さなナイフを男の喉元に当てている。
「殴ると同時に頸動脈が切れるな」
「うっ……」
男はナイフにも狼狽したが、アンドレイの静かで落ち着いて殴られても痛みを感じそうにないような雰囲気に不気味さを感じる。
「覚えてろっ」
よくある捨て台詞を吐いて男は去っていった。
「大丈夫か」
身体を抱えた女は頭を下げてじっとしていたが、アレクセイの声に顔をあげる。
「ありがとう。あたしはエレーナ」
「アンドレイだ。この町の者じゃないな」
「ええ」
エレーナはほっそりとした白い身体に白銀の髪とブルーの瞳を持つ。言葉からも北の国からやってきたのがわかった。転がった袋から白いドレープの多く入った衣装がはみ出ていた。アンドレイが拾って渡すと「この裏の舞台に立っているの」とエレーナは説明した。
「ああ、君はバレリーナか」
こくりとエレーナは頷いた。
「この町の裏通りは、もうわかったと思うがこんな状態だ。大通り以外歩くな」
エレーナは叱られたような表情で頷き、薄汚れたコートのポケットから一枚の紙きれを差し出した。
「あの、お礼に」
バレエのチケットだった。
「俺は舞台鑑賞の趣味はないんだ」
「そう……」
「まあ、知り合いが観たがるかもしれないからもらっておこう」
アンドレイがチケットを受け取るとエレーナは明るい笑顔を見せた。何度も何度もありがとうと言って軽やかな走る姿を見せて立ち去った。
パン屋に立ち寄ると店の娘が「今日は遅かったのね」とすでに紙袋に入れたパンを差し出す。そばかすを浮かせた人懐っこい笑顔を見せる。
「やあ、ミハエラ。店番かい? ちょっと足止めを食らってね」
「今、パパは市場なの」
「ああ、そうだ。バレエに興味があるか?」
「バレエ? やだ! あたしにバレエやれっていうの?」
「いや、チケットをもらったんだ」
「興味ないわ。あんな薄着で人の前にでて足を開いたりなんかして。アンドレイまさか見に行くの?」
「さあ、どうするかな」
「あーやだやだ。アンドレイはいやらしい人じゃないわよね?」
ミハエラはバレエを下品な女がやるものだと思い込んでいて、そこに行く人間も下劣だと言い放っている。アンドレイはさっき助けたエレーナがそれほど下品だとは思っていなかったが、議論するのも不要だと思い、金を払って店を出た。
もう一軒、ワインを売っている店に立ち寄り、そこの顔見知りにバレエのチケットを欲しがるかどうか尋ねて帰宅することにした。
ミハエラと同様に店員の若い男は顔を赤らめて辞退した。田舎に行けば行くほど、バレエは娼婦にちかい職業として認識されている。
一昔前は確かに貧しい少女たちがバレリーナとなってパトロンを得ていた。厳しい極寒の環境のため作物が育たない北国からの出稼ぎが特に多かった。それでも都会ではバレエの芸術性の高さを評価するものが増え、色物として見られることは皆無になっている。
アンドレイは関心がなくとも何度か観る機会があり、バレエを芸術性の高いものとして認識している。ただバレエ団の質がピンキリなので一概に評価はできなかった。
「この町からもそろそろ去る時期かもしれないな」
数年住んでは町を転々とするアンドレイは、町の記念にでもとバレエを見に行くことにした。
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