異端の末裔

はぎわら歓

文字の大きさ
上 下
1 / 22

1 バレリーナ

しおりを挟む
 薄暗い路地で男が女に覆いかぶさっている。暴れる女を抑え込もうとしている様子を見れば誰でも恋人同士の行為ではないとわかる。

「おい」

 アンドレイの声が静かに響いたが、男は気づかなかった。もう一度声を掛けて肩をつかむと「邪魔すんじゃねえっ」と男は振り返った。その横顔をアンドレイは殴った。
 脱ぎかけのズボンをたくし上げながら酒臭い荒くれた男が立ち上がった。長身のアンドレイよりも背は低かったが、ガタイは良かった。

「女を抱きたかったら娼館へ行け」
「うるせえっ」

 腕を振り上げる男より先に、アンドレイは小さなナイフを男の喉元に当てている。

「殴ると同時に頸動脈が切れるな」
「うっ……」

 男はナイフにも狼狽したが、アンドレイの静かで落ち着いて殴られても痛みを感じそうにないような雰囲気に不気味さを感じる。

「覚えてろっ」

 よくある捨て台詞を吐いて男は去っていった。

「大丈夫か」

 身体を抱えた女は頭を下げてじっとしていたが、アレクセイの声に顔をあげる。

「ありがとう。あたしはエレーナ」
「アンドレイだ。この町の者じゃないな」
「ええ」

 エレーナはほっそりとした白い身体に白銀の髪とブルーの瞳を持つ。言葉からも北の国からやってきたのがわかった。転がった袋から白いドレープの多く入った衣装がはみ出ていた。アンドレイが拾って渡すと「この裏の舞台に立っているの」とエレーナは説明した。

「ああ、君はバレリーナか」

 こくりとエレーナは頷いた。

「この町の裏通りは、もうわかったと思うがこんな状態だ。大通り以外歩くな」

 エレーナは叱られたような表情で頷き、薄汚れたコートのポケットから一枚の紙きれを差し出した。

「あの、お礼に」

 バレエのチケットだった。

「俺は舞台鑑賞の趣味はないんだ」
「そう……」
「まあ、知り合いが観たがるかもしれないからもらっておこう」

 アンドレイがチケットを受け取るとエレーナは明るい笑顔を見せた。何度も何度もありがとうと言って軽やかな走る姿を見せて立ち去った。

 パン屋に立ち寄ると店の娘が「今日は遅かったのね」とすでに紙袋に入れたパンを差し出す。そばかすを浮かせた人懐っこい笑顔を見せる。

「やあ、ミハエラ。店番かい? ちょっと足止めを食らってね」
「今、パパは市場なの」
「ああ、そうだ。バレエに興味があるか?」
「バレエ? やだ! あたしにバレエやれっていうの?」
「いや、チケットをもらったんだ」
「興味ないわ。あんな薄着で人の前にでて足を開いたりなんかして。アンドレイまさか見に行くの?」
「さあ、どうするかな」
「あーやだやだ。アンドレイはいやらしい人じゃないわよね?」

 ミハエラはバレエを下品な女がやるものだと思い込んでいて、そこに行く人間も下劣だと言い放っている。アンドレイはさっき助けたエレーナがそれほど下品だとは思っていなかったが、議論するのも不要だと思い、金を払って店を出た。
 もう一軒、ワインを売っている店に立ち寄り、そこの顔見知りにバレエのチケットを欲しがるかどうか尋ねて帰宅することにした。
 ミハエラと同様に店員の若い男は顔を赤らめて辞退した。田舎に行けば行くほど、バレエは娼婦にちかい職業として認識されている。

 一昔前は確かに貧しい少女たちがバレリーナとなってパトロンを得ていた。厳しい極寒の環境のため作物が育たない北国からの出稼ぎが特に多かった。それでも都会ではバレエの芸術性の高さを評価するものが増え、色物として見られることは皆無になっている。
 アンドレイは関心がなくとも何度か観る機会があり、バレエを芸術性の高いものとして認識している。ただバレエ団の質がピンキリなので一概に評価はできなかった。

「この町からもそろそろ去る時期かもしれないな」

 数年住んでは町を転々とするアンドレイは、町の記念にでもとバレエを見に行くことにした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる

春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。 幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……? 幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。 2024.03.06 イラスト:雪緒さま

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

高級娼婦×騎士

歌龍吟伶
恋愛
娼婦と騎士の、体から始まるお話。 全3話の短編です。 全話に性的な表現、性描写あり。 他所で知人限定公開していましたが、サービス終了との事でこちらに移しました。

処理中です...