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レッドシャドウ 田中赤斗(たなか せきと)編
1 まかない
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忙しいランチ時、厨房で赤斗は何種類もの料理を手掛けている。フライパンを振る姿、スプーンに口づけするような味見をする姿を見ると素敵だと思わない女性はいないだろう。
「桃香ちゃん、これ、黒彦んとこ」
「あ、はーい!」
黒曜書店の桃香にランチタイムだけ手伝ってもらっている。赤斗はもっと長い時間、桃香に手伝ってもらいたかったが同じく黒曜書店のオーナーで婚約者の黒彦が目を光らせ、ランチしに来るのだった。
桃香はいそいそとパスタセットを黒彦のところに運んでいく。
「お待たせしました。パスタセットです」
「ん。ありがと」
「ごゆっくりどうぞ」
一応店内で仕事中なので事務的なやり取りをしてまた厨房に戻ろうとすると、カラカランと店のベルが鳴る。一人の女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
桃香はすっと入口に客を迎えに行く。
「お一人様ですか?」
「は、はい」
「お好きな席にどうぞ。あ、暑そうですね。あそこが涼しいですよ」
「ありがとうございます!」
女性は汗を拭きながら桃香の示す席の方へ歩いて行った。
黒彦は桃香の様子を眺めながら(さすが俺の嫁。なかなかのホスピタリティだ)と満足していた。
「赤斗さん、お客様もう一人見えました」
「オッケー。その人で最後だな。外の黒板も下げといてくれる?」
「わかりました」
桃香は冷水を運び、「お決まりの頃に参ります」と女性に告げ、黒板を下げに行った。
外から戻ると黒彦も食べ終えていた。
「おさげしますね」
「ああ、ごちそうさま」
「あ、黒彦さん、ソースついてます」
「ん? どこだ」
「こっち、こっち」
「ここか?」
「ううん、そっち」
「こうか」
「もう。ここですってここですって」
桃香はすっとポケットからハンカチをとりだし黒彦の唇を拭う。
「はい、綺麗になりました」
「ん。会計頼む」
「はい。ありがとうございました」
黒彦を見送って桃香はまた最後の女性客のところへ注文を聞きに行った。
「お決まりですか?」
「はい。えっと、これと、これと、これかな」
「本日のパスタセット、パスタ大盛りと、アクアパッツァ、ラザニア、ティラミス。コーヒーは食後でよろしいですか?」
「はい。おねがいします」
「お待ちください」
厨房で赤斗に注文を告げると「あれ、一人じゃないの?」と驚いている。
「お一人です」
「結構な量あると思うけど」
「確かに一人の量じゃないですけど、『イタリアントマト』のお料理って美味しいですからね。ペロリですよ」
「そ、そう?」
赤斗は女性一人と聞いていたが黒彦よりも食べるなと思いながらも、作り始める。パスタはすぐに茹で上がり、サラダとスープをつけて完成だ。
桃香はいそいそと料理を運び、空いた皿を次々と片付ける。赤斗の母親のあつ子がふっとため息混じりに
「残念ね。桃香ちゃんは黒彦ちゃんのとこかあ」と呟く。父親の健一も「こればっかりは縁だからなあ」と同調して言った。
そんな両親のつぶやきを赤斗は知らないわけではないし、自分自身も桃香に惹かれている気持ちが無くなってしまったわけではない。しかし、親友の黒彦の幸せそうな姿を見る方が何倍も良いと思っている。
食後のコーヒーを持っていくと、女性は満足そうな表情を見せた。桃香はやっぱりここの料理は人を幸せにすると思って嬉しくなった。
「どうぞ。ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
「え、っと。あ、はい。あ、あの」
女性はちらっと壁を見て桃香に尋ねる。
「あのスタッフ募集っていうのは、まだやってます?」
「ええ。募集中です」
「まかない、ついてるんですね」
「ええ。まかないもすっごい美味しいんですよ」
「へえー。あ、あの、わ、私、応募したいんですけど」
「え、応募ですか。じゃ、あの、今、店長に話してきますね」
「ありがとうございます!」
「どうぞ、冷めないうちに」
「はい!」
厨房に戻り赤斗に女性がスタッフに応募したい旨を伝える。
「ふーん。どんな人? 常連さんじゃないよね」
「ええ。初めての方です」
「いっぱい食べた人だよね」
「そうですそうです」
「どんな感じの人?」
「うーん。明るくて活発な感じかな」
「そっか。時間あるなら食後に面接できるって伝えてもらえる?」
「わかりました」
赤斗はこれまでも何度か面接をしてきたが、なかなかいいスタッフに恵まれなかった。待遇は悪くないと思うのだが、やってくるスタッフ希望がみんな赤斗狙いだった。面接で、片付けや掃除、食器洗いの事を告げると皆、表情を曇らせる。洗浄機では軽い汚れのものしか使わないので、手で洗うこともあり、長いネイルだと少し不便だ。
たいてい一週間でやめてしまう。厨房の暑さでメイクが崩れるという女性もいた。ホールで料理を運ぶだけなら出来ても、雑用を快く引き受けてくれる桃香のようなスタッフ希望がなかなかいなかった。
「今回も、同じかなあ」
あまり期待をしないでおこうと赤斗は鍋を片付け始めた。
「全部片付きましたよ」
「ありがと。じゃ、これまかないのピザね」
「いつもありがとうございます。じゃ私これで」
「うん。じゃ明日定休日だから明後日おねがいね」
「はーい」
明るく去って行く桃香を眺めて、またため息をついてしまった。まかないを前は厨房で一緒に食べたのに、今は黒彦の待つ書店へといそいそと帰ってしまうのだ。
「ふー。さて面接面接」
店内に入ると面接希望の女性が座っている。目が合った。女性が赤斗に気づきすっと立ち上がる。
「こ、これは」
「初めまして。私、伊藤茉莉です。よろしくお願いします」
「あ、よろしく。どうぞかけて」
「はい」
茉莉が座ると椅子がギシッと鳴った。
海外生活の長かった赤斗にとって大柄な女性は当時珍しくなかったが、久しぶりに大きいと思える女性だった。というよりもぽっちゃりだった。
(なるほど。これならあの食事量でおかしくない。だけど桃香ちゃん、彼女を見てなんとも思わなかったのかな……)
相変わらずのんびりとして細かいことを気にしない彼女に、デリケートな黒彦はよく合っていると思った。
「えっと、伊藤さん。ここのスタッフに希望したのはなぜですか?」
いつもの質問を投げかける。その質問に対する答えはいつも「赤斗さんと美味しいもの作りたいでーす」と言うことだった。
「はい。美味しいものを」
「うん」
「食べたいです!」
「え? 食べたい?」
「あっ、違った! 作れるようになりたいです!」
「えーっと。料理経験は?」
「一応、専門学校は出てるんです」
「へえー。ここバイトだけど。いいの?」
「ええ。実は専攻は和食で、旅館とかにも勤めてたんですけど……」
「どうしてやめたの? 雑用がきつかったとか、人間関係かな?」
茉莉は首を振り、ちょっとためらったが意を決して話す。
「足りなかったんです」
「足りないって? お給料?」
「いえ……まかないが……」
「まかない……」
こくりと頷き茉莉は続ける。
「お米の量で頑張ってカバーしてきたんですけど、駄目なんです。カロリーが低くて、もう、辛くて……」
「か、カロリー……」
普通、低カロリーがいいのではないかと赤斗は思った。
外国で研究に従事していた時も、女性の研究員はチキンはむね肉の方が好ましいと言っていた。
赤斗はもも肉の方が美味いと思っていたが。
「色々食べ歩いてきたんですが、ここのお店がすっごい美味しくて、量をそんなに食べなかったのに満足なんです」
「そ、それはどうも」
「是非、まかないを食べさせてください! じゃ、なかった。働かせてください!」
「あ、うん。じゃ、いつから来れる?」
「今からでも大丈夫です」
「そっか。うーん。じゃあディナータイムから来てもらってみようかな。ランチほど忙しくはないけど」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
茉莉は調理をしていたということだけあって、髪も爪も短く化粧っ気もない。
こうして『イタリアントマト』は新しくスタッフを迎えることになった。今までのスタッフ希望と違って、目的が赤斗ではなく『まかない』のようなので、続くかもしれないと赤斗は少し期待した。
と同時に狭い厨房なので彼女が身動きが取れなかったら、どうしようかとも心配した。
「桃香ちゃん、これ、黒彦んとこ」
「あ、はーい!」
黒曜書店の桃香にランチタイムだけ手伝ってもらっている。赤斗はもっと長い時間、桃香に手伝ってもらいたかったが同じく黒曜書店のオーナーで婚約者の黒彦が目を光らせ、ランチしに来るのだった。
桃香はいそいそとパスタセットを黒彦のところに運んでいく。
「お待たせしました。パスタセットです」
「ん。ありがと」
「ごゆっくりどうぞ」
一応店内で仕事中なので事務的なやり取りをしてまた厨房に戻ろうとすると、カラカランと店のベルが鳴る。一人の女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
桃香はすっと入口に客を迎えに行く。
「お一人様ですか?」
「は、はい」
「お好きな席にどうぞ。あ、暑そうですね。あそこが涼しいですよ」
「ありがとうございます!」
女性は汗を拭きながら桃香の示す席の方へ歩いて行った。
黒彦は桃香の様子を眺めながら(さすが俺の嫁。なかなかのホスピタリティだ)と満足していた。
「赤斗さん、お客様もう一人見えました」
「オッケー。その人で最後だな。外の黒板も下げといてくれる?」
「わかりました」
桃香は冷水を運び、「お決まりの頃に参ります」と女性に告げ、黒板を下げに行った。
外から戻ると黒彦も食べ終えていた。
「おさげしますね」
「ああ、ごちそうさま」
「あ、黒彦さん、ソースついてます」
「ん? どこだ」
「こっち、こっち」
「ここか?」
「ううん、そっち」
「こうか」
「もう。ここですってここですって」
桃香はすっとポケットからハンカチをとりだし黒彦の唇を拭う。
「はい、綺麗になりました」
「ん。会計頼む」
「はい。ありがとうございました」
黒彦を見送って桃香はまた最後の女性客のところへ注文を聞きに行った。
「お決まりですか?」
「はい。えっと、これと、これと、これかな」
「本日のパスタセット、パスタ大盛りと、アクアパッツァ、ラザニア、ティラミス。コーヒーは食後でよろしいですか?」
「はい。おねがいします」
「お待ちください」
厨房で赤斗に注文を告げると「あれ、一人じゃないの?」と驚いている。
「お一人です」
「結構な量あると思うけど」
「確かに一人の量じゃないですけど、『イタリアントマト』のお料理って美味しいですからね。ペロリですよ」
「そ、そう?」
赤斗は女性一人と聞いていたが黒彦よりも食べるなと思いながらも、作り始める。パスタはすぐに茹で上がり、サラダとスープをつけて完成だ。
桃香はいそいそと料理を運び、空いた皿を次々と片付ける。赤斗の母親のあつ子がふっとため息混じりに
「残念ね。桃香ちゃんは黒彦ちゃんのとこかあ」と呟く。父親の健一も「こればっかりは縁だからなあ」と同調して言った。
そんな両親のつぶやきを赤斗は知らないわけではないし、自分自身も桃香に惹かれている気持ちが無くなってしまったわけではない。しかし、親友の黒彦の幸せそうな姿を見る方が何倍も良いと思っている。
食後のコーヒーを持っていくと、女性は満足そうな表情を見せた。桃香はやっぱりここの料理は人を幸せにすると思って嬉しくなった。
「どうぞ。ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
「え、っと。あ、はい。あ、あの」
女性はちらっと壁を見て桃香に尋ねる。
「あのスタッフ募集っていうのは、まだやってます?」
「ええ。募集中です」
「まかない、ついてるんですね」
「ええ。まかないもすっごい美味しいんですよ」
「へえー。あ、あの、わ、私、応募したいんですけど」
「え、応募ですか。じゃ、あの、今、店長に話してきますね」
「ありがとうございます!」
「どうぞ、冷めないうちに」
「はい!」
厨房に戻り赤斗に女性がスタッフに応募したい旨を伝える。
「ふーん。どんな人? 常連さんじゃないよね」
「ええ。初めての方です」
「いっぱい食べた人だよね」
「そうですそうです」
「どんな感じの人?」
「うーん。明るくて活発な感じかな」
「そっか。時間あるなら食後に面接できるって伝えてもらえる?」
「わかりました」
赤斗はこれまでも何度か面接をしてきたが、なかなかいいスタッフに恵まれなかった。待遇は悪くないと思うのだが、やってくるスタッフ希望がみんな赤斗狙いだった。面接で、片付けや掃除、食器洗いの事を告げると皆、表情を曇らせる。洗浄機では軽い汚れのものしか使わないので、手で洗うこともあり、長いネイルだと少し不便だ。
たいてい一週間でやめてしまう。厨房の暑さでメイクが崩れるという女性もいた。ホールで料理を運ぶだけなら出来ても、雑用を快く引き受けてくれる桃香のようなスタッフ希望がなかなかいなかった。
「今回も、同じかなあ」
あまり期待をしないでおこうと赤斗は鍋を片付け始めた。
「全部片付きましたよ」
「ありがと。じゃ、これまかないのピザね」
「いつもありがとうございます。じゃ私これで」
「うん。じゃ明日定休日だから明後日おねがいね」
「はーい」
明るく去って行く桃香を眺めて、またため息をついてしまった。まかないを前は厨房で一緒に食べたのに、今は黒彦の待つ書店へといそいそと帰ってしまうのだ。
「ふー。さて面接面接」
店内に入ると面接希望の女性が座っている。目が合った。女性が赤斗に気づきすっと立ち上がる。
「こ、これは」
「初めまして。私、伊藤茉莉です。よろしくお願いします」
「あ、よろしく。どうぞかけて」
「はい」
茉莉が座ると椅子がギシッと鳴った。
海外生活の長かった赤斗にとって大柄な女性は当時珍しくなかったが、久しぶりに大きいと思える女性だった。というよりもぽっちゃりだった。
(なるほど。これならあの食事量でおかしくない。だけど桃香ちゃん、彼女を見てなんとも思わなかったのかな……)
相変わらずのんびりとして細かいことを気にしない彼女に、デリケートな黒彦はよく合っていると思った。
「えっと、伊藤さん。ここのスタッフに希望したのはなぜですか?」
いつもの質問を投げかける。その質問に対する答えはいつも「赤斗さんと美味しいもの作りたいでーす」と言うことだった。
「はい。美味しいものを」
「うん」
「食べたいです!」
「え? 食べたい?」
「あっ、違った! 作れるようになりたいです!」
「えーっと。料理経験は?」
「一応、専門学校は出てるんです」
「へえー。ここバイトだけど。いいの?」
「ええ。実は専攻は和食で、旅館とかにも勤めてたんですけど……」
「どうしてやめたの? 雑用がきつかったとか、人間関係かな?」
茉莉は首を振り、ちょっとためらったが意を決して話す。
「足りなかったんです」
「足りないって? お給料?」
「いえ……まかないが……」
「まかない……」
こくりと頷き茉莉は続ける。
「お米の量で頑張ってカバーしてきたんですけど、駄目なんです。カロリーが低くて、もう、辛くて……」
「か、カロリー……」
普通、低カロリーがいいのではないかと赤斗は思った。
外国で研究に従事していた時も、女性の研究員はチキンはむね肉の方が好ましいと言っていた。
赤斗はもも肉の方が美味いと思っていたが。
「色々食べ歩いてきたんですが、ここのお店がすっごい美味しくて、量をそんなに食べなかったのに満足なんです」
「そ、それはどうも」
「是非、まかないを食べさせてください! じゃ、なかった。働かせてください!」
「あ、うん。じゃ、いつから来れる?」
「今からでも大丈夫です」
「そっか。うーん。じゃあディナータイムから来てもらってみようかな。ランチほど忙しくはないけど」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
茉莉は調理をしていたということだけあって、髪も爪も短く化粧っ気もない。
こうして『イタリアントマト』は新しくスタッフを迎えることになった。今までのスタッフ希望と違って、目的が赤斗ではなく『まかない』のようなので、続くかもしれないと赤斗は少し期待した。
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