浪漫的女英雄三国志

はぎわら歓

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晋の台頭

32 魏の末路

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32 魏の末路

 司馬懿の死後、司馬師は彼を朝廷から追放しようともくろむ李豊・夏侯玄・張緝を抹殺し、張緝の娘である張皇后も廃する。代わりの皇后を立てるが曹芳は皇帝としての責務を何ら果たさず、政そっちのけで新しい皇后と享楽にふけるばかりであった。そこで曹芳も廃することにした。
 司馬師は武帝、曹操の息子である曹據を次期皇帝に推したが、明帝、曹叡の皇后であった郭太后が反対し、曹叡に近い血筋である曹髦を推してきた。曹髦は曹操と曹植の才を良く受け継いでいると褒め称えられていたが司馬師にはそうは思えなかった。早熟であることは認めるが、若きときにその聡明さの評を得て成人した時にはたしてそのまま聡明さが維持できるか、曹髦の線の細さ、繊細であるが短気そうな様子に不安を感じる。
 司馬師の推す曹據は曹操を母に持ち、明らかにはされていないが亡き父、司馬懿の話によれば父親は曹操の軍師であった程昱だということである。程昱は八尺三寸の立派な体格を持ち、正直で、粘り強く、強情でよく他の家臣とぶつかっていたようだが、曹操、曹丕に愛され、曹操の死んだ年に後を追うように永眠した。
 曹據も聡明であるが、曹髦のような押しの強い派手さがない。その代わり確固たる意志を揺るがない芯の強さを感じられる。
結局、郭太后の強い主張と、司馬家に軍権を独占させることを恐れた家臣たちの反対により、第4代皇帝は曹髦に決定する。

 司馬師は屋敷に弟の司馬昭を呼び寄せ共に自棄酒をあおる。

「昭よ。もう魏国はだめかもしれぬな」
「うーむ。曹髦では先が見えているだろうに。傀儡ばかりであるなあ」
「ここだけの話、郭太后は幼い曹髦を明帝の代わりになさっておるのだ」
「ん? 代わりとな?」
「ああ、わしがこの目で見たので間違いはない。郭太后が足を割ってその間に曹髦を挟んでおった」
「なんと!? まだほんの子供ではないか!」
「明帝は華奢で女人のごとき美しい方であったからな。郭太后はそういったご趣味があるのであろう」
「うーむ。そのような理由で推されてもなあ」
「くさくさして叶わぬっ。今日はとことん飲むぞ」
「ああ。付き合おう」

 二人は甕を何個も開け酔いに酔い亡き父、司馬懿が帝位を簒奪し、己が天子となることを望んだことなど一度もなかったと嘆いた。司馬家は皇帝になるのではなく皇帝を補佐する一家であり、王佐であることが天命だと知っていた。


 第4代皇帝として即位した12歳の曹髦の寝台に郭太后も一緒に横たわり、まだ少年の細い身体を撫でまわす。

「陛下。これからはもっともっと楽しいことがお出来になりますわよ」
「楽しい事か」
「ええ、ええ。人を思うままに使い、指示し、あらゆることがお出来になるのです」
「ふむ」

 郭太后は明帝、曹叡の死後、彼の美しさが忘れられず毎夜己で慰めていた。それから10年経ち10歳に満たぬ曹髦を見たとき、明帝の生まれ変わりであると感じた。優美さ、繊細さ、華奢な骨格は生き写しである。彼を認めるまで、朝廷のことなどどうでもよく、日々を虚ろに過ごしていたが、曹芳が廃され次期皇帝の話が浮上した時に、是が非でも曹髦を帝位につけねばと郭太后は躍起になる。どうしてこのような心もちになるのか彼女自身分からなかった。しかし、曹髦を皇帝とすることが天命であると思い、司馬家にこれまでにないほどの反対をしたのであった。曹叡と郭太后の間には子供に恵まれなかった。他の夫人との子供も皆、早世しており、曹芳を養子として迎え跡継ぎにするしかなかった。
 郭太后は今度こそは空虚な子宮を満たすべく、幼い曹髦を貪るのであった。

 李豊・夏侯玄・張緝を抹殺したのち、再び司馬師を討たんとするものが現れる。カン丘倹と文欽である。カン丘倹は過去に大いなる功績を上げていたが夏侯玄や李豊と親しかったため、このままでは転落も危ういと、司馬懿が倒した政敵の曹爽の寵臣であった文欽をそそのかし、ともに司馬師を討たんと挙兵する。しかし博識な将軍王粛の反乱の予想により、司馬師は迅速に反乱軍を討伐する。文欽は呉に逃れ、カン丘倹は斬首される。
 この戦いで司馬師は安静にするはずだった、こぶを除去したばかりの左目を突出させ、激痛とすでに身体中を侵している病魔によって命を失う。
 死の床に弟の司馬昭を呼び寄せ、家督を司馬昭に渡す。司馬師には男子は司馬昭からの養子、司馬攸しかおらず、司馬攸の兄の司馬炎いるため、弟の司馬昭に継がせることにした。この司馬師の死が司馬昭の心に大きな影を落とすことになる。

 司馬昭の妻である王元姫は父の王粛に似て、聡明で知識者であり、親孝行な娘であった。また慎ましく常に司馬昭を立て、舅である司馬懿にも、恐妻であった姑、張春華にも良く仕えた。そして司馬昭の息子、司馬炎を産んでいる。
司馬師が亡くなってから司馬昭は毎夜、嘆き悲しみながら王元姫を貪りながら抱く。
 司馬昭は精も根も尽き果てる状態にせねば安眠がやって来なかった。歳の近かった兄、司馬師を尊敬し、敬愛し、そして彼にずっとついて行きたいと思っていた。それがまさかこのように早く逝ってしまうとは予想だにしていなかった。司馬師は目の痛みをずっとこらえ、弟にも平気そうな顔を見せ、いつも心配性の司馬昭を安堵させてきたのだ。
 司馬師がなくなる寸前に、司馬昭は彼の眼球がポロリと落ちこぼれるのを見た。それはまるで彼自身の魂魄のようにも見え恐れおののく。
それからというもの、司馬昭の夢に、司馬師は片方の目が零れ落ち垂れ下がった状態で出てくる。その都度、司馬昭はうなされ汗をかき悪寒に震える。ちょうど水をもってきた王元姫にすがりつき、恐怖を取り除かんと強引に交わるとその日は安らかに眠れた。
 王元姫も司馬昭が兄の死の恐怖を乗り越えんとしていると思い、じっと耐えている。本来の司馬昭は、気が小さいが優しいからだ。このような交わりを19歳の息子、司馬炎が盗み見していることを彼らは知らなかった。

 二年ほど経ち司馬昭も落ち着いた頃、亡き、諸葛瑾、諸葛亮の遠縁にあたる諸葛誕により反乱がおきる。先ほど滅ぼされたカン丘倹と同じ立場であった諸葛誕は不安を覚え、また司馬家の専横ぶりに不満が募り、諸葛誕の乱を起こさせる。しかし司馬昭の腹心である賈充の素早い策により反乱は早々に見破られる。十数万の兵をもって挑み、呉から、カン丘倹の乱で逃げ延びていた文欽らの援軍が与えられたが、劣勢となり、もともと折り合いの悪かった文欽を斬ってしまう。その子らは憤り、司馬昭に投降する。諸葛誕は最後まで戦い抜いたが破れ、三族皆殺しとなりこの乱は幕を閉じる。

 その功績をたたえ、4代皇帝曹髦は司馬昭に、相国、晋公に封じようとしたが彼は辞退する。司馬昭は兄の司馬師にも、もちろん父の司馬懿にもまだまだ及ぼない己の力のなさ故の辞退であり、二年経ってやっと司馬昭はその地位を受ける。周囲からの勧めや、援助などによりようやく決心がついたためである。しかしこの行為を否定的にとらえるものがあった。それは郭太后であった。

 彼女はかつて魏王朝、初代皇帝、文帝が漢王朝の最後の皇帝、献帝を廃するときに三度譲位を断ったと聞いている。おそらく司馬昭も殊勝な心構えを皇帝、他、家臣たちに訴えているに違いないと考えた。このままでは愛しい曹髦を廃されてしまうと急ぎ、密談を始める。
司馬昭の国家簒奪の陰謀を曹髦に訴えるが「司馬一族は代々、臣下として仕えておる。司馬昭は忠義者であるぞ」と笑って耳を貸さない。褥まで共にしているのに曹髦は己ではなく、司馬昭を信用するのかと郭太后憤り、側近の配下である王業・王沈・王経に打ち明ける。彼らは司馬家の専横に不満を抱いており、郭太后に賛同する。王業と王沈は言葉巧みに曹髦に司馬昭の悪行を並べ立て吹聴し、時間をかけて司馬家を廃するよう説得する。討論が好きで聡明であるが曹髦はまだ19歳の青年である。結局狭い世界で異論を戦わせることが出来ずにいた若き皇帝は、老獪な臣下と郭太后の意見に取り込まれてしまうことになる。

 まるで術にでもかかったように、曹髦は司馬昭を討たんとわずかな兵を集める。しかし土壇場になり、勝つ見込みがないと悟る王業と王沈は司馬昭に寝返り、密告する。司馬昭は苦々しい決断で曹髦を捉えるべく賈充に軍を率いさせた。曹髦のわずかな軍に対して、司馬昭はこれ以上ない大軍を用意する。これは皇帝陛下に対する礼儀でもあり、早く投降させんがためであった。
 黒々とした大軍を前に、寄せ集めの何百の兵は恐れおののきガタガタと震え出す。曹髦は情けない兵たちに舌打ちして馬に乗り城門を出、単騎で賈充の軍に斬り込んでいった。天子に手を出すことが出来ないと、剣を振り回す曹髦を皆、避けるだけでじっと耐える。曹髦は初めての戦に興奮し、わめき誰も己に手を出さないことをいい事に兵卒たちを切り刻もうとする。ただ武力のない彼は浅い傷を与えるだけであり、致命傷には至らない。そのうち、身動き一つしない軍に対して「腰抜けども!」とののしり始めるがやはり事態は変わらない。見かねた郭太后はもはやここまでと曹髦にたいして投降を促そうと城門に姿を現す。

「陛下。もう、投降いたしましょう。譲位なさい」
「ああ? 何を申すのか。おぬしが全て望んだことであろう!」
「そ、そういうつもりでは」
「この女狐めが! そなたを成敗してくれよう!」

 曹髦は馬面を賈充軍から郭太后に向けさせる。それを見ていた賈充は慌てて側に居た部下の成済に曹髦を追いかけさせ、郭太后を守るよう言いつける。
 成済は馬を激しく鞭打ち、舞起きる砂埃の中、曹髦よりも早く郭太后の元に駆け寄り馬を降りた。

「下郎め! どけ!」
「ひっ!」

 郭太后めがけて振り下ろされた剣を成済もまた剣で受け止めるが、ここで悲劇は起きる。馬上での均衡を崩した曹髦はまさかの落下先が成済の剣の上であった。

「きゃあああっ!」
「あ、あ、へ、陛下!」
「う、ぐぅっ、うぅ……」

 細い身体を貫いた剣は彼の心臓を押し破り、一気に暗闇へといざなった。成済は己の所業に恐れおののき震え、二度と正常に戻ることはなかった。成済の三族は皇帝陛下弑逆の汚名を未来永劫語り継がれることを憂い、自害して果てる。
 郭太后はこの日を境に呆けたようになり、亡くなるまでの三年間、曹叡と曹髦の冕冠(べんかん)についていた合わせて48本の宝玉のスダレを肌の上で愛でた。
「ああ、お二人の陛下に愛されているかのよう……」
冷たい玉はかさつき老いた肌をころころと所在なく転がった。

 この皇帝の死は司馬昭に汚名を着せることになる。皇位を簒奪ではなく皇帝を弑逆したものとしてである。

「まさか、私の代でこのようなことになってしまうとは……」

 先祖代々守ってきた司馬家の栄誉を穢してしまうことになろうとは、夢にも思っていなかったことだ。しかし頭を抱えている暇はない。蜀の諸葛亮の意志を継ぐ姜維がまた北伐を始め、魏に攻め入ってきたのだ。そろそろこの蜀との戦いにも決着をつけねばならない。
 三国鼎立したままでも良いかと考えていたが、姜維は魏を討たんと躍起になって攻めてくる。これ以上の戦は国力をそぐばかりである。国が疲弊すれば呉が漁夫の利とばかりに攻めてくるであろう。せめて一族の汚名を雪ぐためにもと司馬昭は今回で蜀を平定したいと考えている。
 第五代皇帝曹奐から勅令により、蜀を平定すべく鄧艾・鍾会・諸葛緒に大軍を率いさせ、蜀を攻め、そして蜀の皇帝、劉禅は大きな抵抗も見せることなく投降する。こうして司馬昭は蜀を滅ぼし魏のものとした。
蜀平定の功績をたたえられ司馬昭は晋王の地位を得る。やっと父や兄に近づけたであろうかと安堵すると身体に震えを感じ、やがて手足がしびれ始めた。口も痺れ、言葉が不自由になる前に息子の司馬炎を呼び心構えを話す。

「お、お、あ、炎、よ。わ、私のあと、を継ぎ、国を、陛下を、お支え、せよ」
「はいっ! 父上! お任せください!」
「うん、うん、炎は、良い、むす、子じゃ」

 右手を左手でくるみ、拱手する立派な司馬炎に、満足な笑みを浮かべ司馬昭は生涯を閉じる。

 慎ましい母、王元姫は父を亡くしたのち悲しみを振り払うように懸命に家の中を磨き、整え、忙しく過ごしていた。

「母上、少しお休みなってはいかがですか? そのような下仕事などなさって」
「いいのよ。身体を動かしている方が気持ちも楽になりますから」

 甲斐甲斐しく布切れで柱を拭いている王元姫は、玉の汗をかきながら頬を紅潮させている。司馬炎はその母の様子に昔覗き見た両親の情事を思い出す。この清楚で慎ましい母が父と抱き合っていた淫靡な彼女と、とても同一人物に思えず、司馬炎はついつい凝視してしまう。

「どうしたの?」
「え、あ、あの今から朝廷に参内して参ります」
「ええ。いってらっしゃい」

 司馬炎は慌てて屋敷を後にし、第五代皇帝曹奐の元へ向かった。
曹奐は司馬炎よりも6歳年下で彼が帝位についたとき、まだ14歳であどけなさを残し、不安でたまらぬと言う表情も見せていた。当時、20歳であった司馬炎は三歳で死んでしまった弟、司馬定国によく似た丸く赤い頬に親しみを覚え、秘かに弟のように大事に仕えようと思った。その気持ちが曹奐にも感じられたのか、何かあればすぐに「炎、炎を呼んで参れ」と呼びだした。
即位して5年経ち20歳前の曹奐は背丈も伸び青年らしくなったが、やはりあどけなさを残している。

「陛下。万歳、万々歳!」

 ひれ伏し拝礼する司馬炎に、曹奐は急ぎ、側により頭を上げさせる。

「炎よ。堅苦しいな」
「な、なりません、陛下。そのように臣下に触れては」
「ふうっ。よいではないか。朕とそなたの間柄で」

 司馬炎は声を押さえて周囲を伺い、お目付け役の賈充がいないことを確かめて「庭にでも参りましょう」と曹奐を誘った。
 
 庭には紅梅、白梅が競うように咲き乱れ、甘い香りを放っている。

「炎、そなたはどちらが好きじゃ? 朕は紅梅かのう」
「そうですねえ。私は白梅でしょうか」
「ほう。そなたは紅が良く似合うのに」
「ははっ。己と違うものがすきなのでしょうか」

 仲の良い兄弟のように二人は梅を愛でる。まるで司馬師と司馬昭のようである。

「のう、亡き武帝の梅の話を知っておるか?」
「ああ、『梅林止渇』ですかな。梅を望んで渇きを止むでしたか」
「そうだそうだ。武帝はまことご立派であることよ」
「ええ、陛下のご祖父であられます」
 
司馬炎の言葉を聞きながら曹奐は表情を曇らせ、ため息をつく。

「どうされたのですか?」
「ん……。朕はなぜ皇帝なのであろうか」
「……」
「朕は孤独である」
「陛下……」
「じっと玉座に座り、家臣の話を聞き、意見を言おうにも何もわからぬ。今、世の中はどうなっているのであろうか。何も知らない朕が皇帝であることに何の意味があろうか」

 若き皇帝は自分が何かを望む前に与えられてきたせいで、何を望むべきか、為すべきか考えつかないかった。

「なあ、炎。このまま朕はじっと座って生涯を終えるかなあ」
「! 陛下! 私は陛下にお仕えすることを心から望んでおります。どうぞ遊びでもなんでも言いつけてください」
「遊びか……。朕が楽しいと思うのは、そちとこのようにゆるりと外の世界を眺めることじゃ」

 あどけなさと諦めを同居させる、生きる屍のような曹奐を司馬炎は見るのが忍びなかった。父、司馬昭からの遺言を思い返す。『皇帝陛下に仕えること』それが司馬家の天命である。
 鬱々とした曹奐は突然、雷にでも打たれたような突拍子でもないことをいい始める。

「朕を廃してくれ! 皇位を誰かに譲ろう。炎が良いと思うものをつかせるがよい」
「な、なりません! どうしてそのようなことを!」
「だめなのか。政は家臣たちが行うのであろう。誰でもよいではないか」
「陛下、どうか、どうかそのようなことをおっしゃらないでください。あなた様以外に皇帝となり得る方がいらっしゃらないのです。せめて御世継ぎをどうか早く」
「世継ぎか……。朕の子にもこのような思いをさせるのか……」

 曹奐は聡明で繊細であるがゆえに、この飼い殺しのような皇帝の地位にしがみつくことはなかった。先代の曹髦のように享楽にふけることもなく野心家でもなく、また己を井の中の蛙と知っている。父、司馬昭の目の高さにはやはり感心する。4代皇帝を曹髦ではなく、伯父の司馬師が推した曹據であればもっと良い治世であっただろうことが悔やまれてならない。
曹奐の暗い表情と生気が失われていく様を司馬炎は黙って見続けるしかなかった。

 早朝、朝廷からの使者が馬を走らせ、屋敷の門を激しく叩き「相国! 相国! 」と大声で喚き散らす。司馬炎は反乱でも起きたのかと、急ぎ、履物を何とか履き表に出た。

「どうした! 何事だ!」
「陛下が、陛下のご様子が!」
「どうした! 」
「ここ3日ほど何もお口になさらず、とうとう臥されてしまったのです。相国と呟いたきり……」
「なんと! すぐに参る」

 司馬炎は最低限の支度を急ぎし、曹奐の元へ馬を走らせる。宦官が青白い顔で寝室に案内し、そしてすぐに立ち去った。

「へ、陛下。こ、れは」

 丸い頬はしぼみ、痩せ、眼窩が窪み青黒い顔は青年と思えない。

「ああ、炎か。よく来てくれたな」
「どうしたのですか。このようなお姿は、先日お会いした時はお元気でしたのに」
「朕は、もう、何もしたくないのだ」
「どうして、どうしてお食事をなされないのですか」
「突然、味がしなくなったのだ」

 精神的にここまで己を追い詰めてしまった曹奐は元々乏しい欲をさらに減少させ、食事を拒み横たわる。無理やりにでもと医師が羹(スープ)を飲ませようとしたが、嘔吐してしまい、余計に体力を奪ってしまった。
 このままでは曹奐を死なせてしまう。司馬炎は力なく笑い、亡き、父、司馬昭、伯父、司馬師、祖父、司馬懿、全ての司馬家の祖先に詫び、曹奐に告げる。

「魏王朝を終わらせましょう。禅譲を望みます」
「え、炎、ありがとう……。そなたはきっと名君になる」

 夭折した弟たちのように彼を失わずに済んだことが幸いであろうかと、そこは司馬炎は放心状態で魏王朝、最後の皇帝、曹奐を見つめ続ける。こうして45年間続いた魏王朝は幕を閉じ、司馬炎が新王朝、晋を建てる。
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