浪漫的女英雄三国志

はぎわら歓

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後漢末

22 社稷の臣

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 入蜀してから独り身である劉備は夫人を娶る様にと群臣に勧められる。立場上、形式として夫人が必要とはなったが、女人であるため妻を娶ることは難しく感じていた。息子の阿斗には自分が母親だとは知らせておらず、優しく抱きしめるよりも父親として毅然とした態度で接しているため、孫夫人が去ったのち彼は寂しそうな表情を良く見せる。
 あるとき劉備を入蜀させ、ホウ統の死後、軍師として仕える法正孝直が縁談の話を持ってきた。孫尚香のように敵方ではなく同じ蜀内の女人であったが、同じ劉姓の未亡人であるため、ためらわれた。

「法正よ、同姓婚は禁忌である。それに知っての通り私は女人だ。相手のお方も嫌であろう」
「いえ、我が君。晋の文公の前例がございます。それに呉氏は――気の毒なお人なのです。どうぞ一度だけでもお会いになってから決めていただきますよう」
「ふむ。では一応お会いしよう」

 劉備の返事ですぐさま未亡人である呉氏が呼ばれた。呉氏は小さくなり袖で顔を隠したまま額を床につけている。

「そのように畏まられなくてもよいのですよ。面を御上げなさい」
「はい」

 蚊の鳴くような声で顔をあげるがまだ袖で顔を覆う様子に、劉備は不審に思い、座を立ち彼女に近寄った。

「どうしたのですか? そのようにおびえて」
「す、すみません、すみません。お許しをっ」

 また呉氏はひれ伏す。劉備は袖の隙間から見える額に、あざと毟られて抜けた髪の毛の跡を見つける。

 彼女の後ろで法正が小さな咳ばらいをし、劉備に静かに彼女の事を話す。

「呉氏の夫であった劉瑁が、少し心を病んでしまいましてな。それでよく酒を飲み暴れておったのですよ」

 まるで自分が悪いと言わんばかりに呉氏は涙を流し震えている。劉瑁の暴力により、呉氏はすっかり生気をなくし、男を見れば小さくなり身体を固くし、身を守ろうとする癖がついていた。
さすがに劉備も彼女の行く末を案じ、法正が勧める通り婚姻を考え始める。

「法正。少し二人にしてもらいたい」
「はっ!」

 法正は手ごたえありとみてさっと立ち去った。


 劉備は震える呉氏の隣に座り、手を取った。

「呉氏よ。もう恐れないでください。私は女なのです。男のような仕打ちをすることはありますまい」
「玄徳様は女人なのですか」

 顔をあげ少しほっとしたような表情を見せる。目も鼻も口も小ぶりで幼い童女のような顔に、何カ所かうっすら青いあざがあった。

「幼い息子の阿斗に母親が必要なのです。いかがでしょうか」
「わたくしのようなもので良かったらお仕えさせてください」

 呉氏が阿斗の養育をすれば、彼が自分の後を継いだ時、女人を大切にするであろうと劉備は考えた。
 劉備が蜀皇帝になったとき、この最後の夫人は皇后となる。


 政務を終え、一人になっているときふわっと甘い桃の香りを感じ、劉備は振り向いた。

「ああ、雲長! いきなりどうしたのです」

 優しい微笑みを湛え関羽が立っている。

「兄者。もう一度桃の花を髪に差したあなたが見たかったですな」
「雲長……?」

 若き日の桃園の誓いを思い出し劉備はふっと甘い疼きを感じ、俯いてそっと関羽の立派な髭を撫でようとした。絹のような滑らかさを感じるはずであったのに手ごたえがない。はて、と顔を上げると関羽の姿は消えていた。

「雲長?」

 辺りを見まわしていると、諸葛亮が珍しく慌てた様子で兵卒を伴いやってくる。

「我が君! 我が君!」
「ああ、孔明。今しがた雲長が参ったのに、すぐにどこかに行ってしまった。どこであろうか」
「ああ……。我が君……。申し上げるのだ」

 薄汚れ、あちこち傷だらけの兵卒が恐る恐る告げるのは関羽の死だった。

「え?」

 劉備は真っ暗な闇の中に落ちるようにその場に崩れ落ちた。必死に呼びかける諸葛亮の声を聴きながら。



 荊州城を攻め、麦城、襄陽へと逃げる関羽雲長を追撃し、呂蒙子明はとうとう彼を追い詰めた。
もはやこれまでと関羽は自決する。
呂蒙はその首を取り、亡き周瑜公瑾と孫尚香に聞かせるべく歓びの声をあげた。しかしその関羽の首は玄徳の報復の的になるであろうと恐れた孫権が、荊州奪回に援軍をよこした曹操に献上する。

 贈られてきた関羽の首を前に曹操は懐かしい思いを蘇らせる。

「生きている間は私のものにならなかったな」

 そして冷たい唇に唇を重ねた。


 呂蒙は悲願の達成を尚香に報告したが、逆に叱咤されてしまう。

「関羽は生け捕りにせよと言っておったろうが」
「し、しかし関羽を倒せばこのまま蜀へ進軍しその地をわがものにできるではありませんか」
「関羽を人質にし、玄徳様を迎えようと思っておったのに」
「そんな……」
「子明よ。お前は公瑾のやり方と思いを受け継ぎ過ぎている。せっかく魯粛がお前を褒めていたのに。魯粛の三国鼎立の目的をちっともわかっておらぬ」
「尚香様……」
「もうよい。下がれ。しばらく養生しておれ」

 人生の最大の目的であった大仕事が彼にとって亡き周瑜が果たせなかった荊州奪回であった。目的を遂行することが出来た達成感と、尚香の叱咤によって、緊張の糸はほぐれ、静かに息を潜めていた病魔がまた呂蒙の身体を侵食始めた。

 もう起き上がることが出来ない呂蒙を陸遜伯言が見舞う。

「伯言か。そなただけがよく見舞ってくれるな」
「呂大都督のおかげで今の私がありますから」
「なあ伯言。わたしのやり方は間違っていたのだろうか」
「いいえ。私も同じことをしたでしょう」
「そうか……」
「尚香様は女人故、我々とは手段が異なりましょう」

 ふうっとため息をつき、青ざめた顔にもう赤みがさすことはない。

「伯言よ、わたしのようになるな。ちゃんと欲するものを得よ」
「大都督……」
「わたしは知っておる。そなたは尚香様を慕っておるのだろう。今回の褒美でねだるのだ。きっと孫権様はお許しになる」
「それで――大都督はよろしいのですか? 尚香様を私が賜っても。あなたと尚香様は――」
「わたしはあの方に教わっていただけのことだ。伯言。後は頼む。そして尚香様に伝えてほしい。わたしは大都督を愛していましたが、我が主はあなたでした、と」
「わかりました」
「良かった。心残りはない。何一つ悔やんでいない。これから公瑾様のもとに向かうのだからな……」

 一瞬だけ頬に赤みがさしたように見えたのは陸遜の錯覚であった。

 呂蒙は死に陸遜は副都督から大都督となった。今回の荊州奪回は陸遜の立てた作戦による功が大きく、大都督に任命されることと別に彼は孫権から褒賞を受けることとなった。

「なんなりと申してみよ」
「では、我が君。妹君の尚香様をいただきたく存じます」
「尚香を? うーん。それは構わぬが。あやつが承知するであろうか。そなたも妹の気性は知っておろう」
「勿論存じております」
「まあ、よい。荒馬を乗りこなすのはそちに任せるとして。ただ、文官がうるさいかもしれぬ故、尚香を孫策兄の娘としてそなたに嫁がせることにするぞ」
「はい。私は決してこれ以上の地位を望んではおりません。生涯、孫呉のために尽くす次第であります」
「よし、よいぞ。では三日後に尚香の元を訪れるがよい。あやつも呉の女。婚礼自体は拒否すまい」
「ありがとうございます」

 陸遜は屋敷に戻り、尚香への贈り物を使用人に用意させたのち、髭をひと撫でしはっと思いついたように自室へ籠っていった。


 寝台の上で孫尚香は花婿を待つ。赤い婚礼衣装を着、仏頂面が赤い布で覆われている。孫権の言うように、彼女は婚礼を拒むことはなかった。関羽が死んでしまい、玄徳を心から得ることはもう叶わないという思いもあり半ば捨て鉢である。陸遜という若者がよくもこのような年増の寡婦を娶りたいと思うのもだと呆れてもいた。尚香は陸遜の事は呉郡四姓の名門の出であるということと、呂蒙がその才を認めて、後を任せたという事だけだった。顔は一度だけ見た気がする程度だ。男の割に白い顔と細い身体を持っていたような気がする。
ぼんやりしていると、陸遜が到着したらしく、屋敷を守らせている女兵士がやけに騒めいている。

「一体何をそんなに騒いでおるのだか」

 すぐに理由は分かった。陸遜は花嫁の衣装でやってきたのである。

「な、その恰好は……」

 男が女物の着物を着ることは屈辱でしかないであろうに、彼はご丁寧に顔も赤い布で覆い静かに尚香の隣に座る。そっと陸遜の手は尚香の顔の布を取り唖然としている瞳を見て微笑み、自分の布もあげた。

「あ……」

布をあげた陸遜の顔を見て、更に尚香は驚く。

「あなたが女人がお好きだと聞きまして」

 身体を傷つけることが例え、髪であろうと禁忌なのに髭をそり、化粧をし、すっかり女人のようになっている。そして声まで高く澄み切っていた。

「そ、そなたは、そのような恰好をして……」
「声は薬で変えております故、もうしばらくしましたら元に戻ってしまいますがお許しください」

 陸遜の怪しい倒錯めいた装いとなにやら漂う香に尚香は少しめまいを覚えた。

「婚礼を受け入れてくださってありがとうございます。もう劉備を思うことはおやめください。私がお仕えいたします故」
「それは、あたくしの勝手でしょう。心までそなたに嫁ぐ気はない」
「そうですか。確かにそれはすぐにどうにかなるものではありませんからね」

 陸遜が動くたびに粉っぽい甘い香りが漂う。尚香は劉備の男装と陸遜の女装が脳裏に浮かび混乱するような心持である。その中で自分自身がどこを漂いどうなっているのかが見つからない。相手が男なのか女人なのか、自分がどっちなのか曖昧なまま陸遜の執拗な愛撫を受ける。
 尚香も女丈夫で剛力の持ち主であるが、文官の出身であると言えども大都督である武人の陸遜の手をはねのけることは出来なかった。

「お許しくださいますか。私はずっと、劉備に嫁がれる前からあなたを欲してたのですよ」
「玄徳様……」
「いいでしょう。いつか私の名前を呼ばせてみせます」

 空が白むころ尚香は、陸遜のかすれ始めた低い囁くような声を聞いていた。
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