12 / 42
後漢末
11 続・美女連環の計
しおりを挟む
養父の王允は、丁寧に身支度を整えられた貂蝉を座らせ、これからの心構えを伝える。
「まこと忍びないが……。まずは相国に気に入られることだ……」
「あい。どのようにすればよいでしょう」
「何もしなくて良い。そのままのお前で良いのだ。歌えと言えば歌い。舞えと言えば舞うのだ」
「あい。わかりました」
素直な貂蝉は疑問も懸念もなく王允の言うことを聞く。
「そして、奉先殿ともよくお会いすることになるだろうから、ちゃんと微笑んで挨拶をするのだ」
「あい」
「それから……。うーむ。もし相国が奉先殿を叱ることがあれば、わしに会いたいと願うのだ」
「それだけでございますか?」
「うむ。とりあえずそこまでだ。できそうか?」
「あい」
目を輝かせて貂蝉は頷く。暗愚な彼女は養父の役に立てるのが嬉しくてたまらないのだ。王允はこの無垢な娘を、世の中の汚れを全て受け持っているような董卓の元へ向かわせる事に胸が張り裂けんばかりだった。
使用人が小走りにやってきて董卓の迎えが来たことを王允に告げる。
「わかった……」
もう一度、貂蝉を抱きしめ、董卓がこの娘をせめて大事に扱ってくれることを願うのだった。
馬車に揺られ貂蝉は、王允の思った通り董卓の屋敷に着く。門の前では方天画戟を手に持つ呂布が、泊まった馬車に近づいてきた。
「今時分、誰だ」
「へ、へえ。司徒、王さまのお嬢さんです」
「何? 貂蝉殿か?」
御者と話す声に反応して、馬車からつるりとした白い顔を貂蝉は出した。
「呂将軍」
「貂蝉殿……」
貂蝉は王允が言ったとおりに、花がこぼれるような笑みで呂布に挨拶をする。
「何という可憐さ……」
呂布にも、貂蝉が天子の元ではなく、董卓が彼女を欲してここへ連れてきたことぐらい分かっている。この可憐な一輪の花が董卓に手折られるのだと思うと、悔しくてならなかった。
「あの。馬車から降ろしていただけますか?」
「あ、ああ、これはすまない。気が利かなかった」
御者を制し、呂布自ら貂蝉の細くて白い手を取った。
「あっ!」
「おっと」
足を滑らせるところを呂布は抱きとめる。貂蝉は羽衣のように軽くしなやかな抱き心地だった。
「ああ、すみません。将軍を煩わせてしまいまして」
「とんでもない。どうぞ」
こうして呂布自ら、貂蝉を董卓の前に案内した。広い屋敷を貂蝉は楽しそうに見まわしている。無垢な彼女の様子に呂布は、逆らうことのできない董卓に対して怒りがふつふつと沸いてくる。
このまま彼女を連れて去ってしまおうかと一瞬思い立ったが、ちょうど目の間にそわそわしている董卓が目に入った。
「父上。ちょうど門の前でお会いしましたので」
「お、おう。奉先よ、そなたおったのか。手間をかけさせたの。ほれ、もうよいぞ、下がっておれ」
「……。御意」
「さてさて、良く参ったのお。ほれ、もっとこっちに」
「あい。相国」
にっこりと微笑み、貂蝉は長い袖で隠された細い腕を身体の前に重ね、やはりほっそりした腰を横にかがめ挨拶をする。相好を崩す董卓を横目に、呂布は唇を噛んで立ち去った。
朝議にまで董卓は貂蝉を伴う。天子、劉協と貂蝉を両脇に抱えたままどっかりと玉座に座る。
「さて、わしに反抗しておるものどもはどうなっておる」
じろりと頭を下げている臣下を見渡し、発言を待つが誰一人声を発することが出来ずにいる。そこへ董卓の軍師である李儒が静かに進言する。
「徐将軍が曹軍と孫軍共に撃破しましたので、心配はないでしょう」
「ほう。それはよい! 曹操と孫堅以外は小物ばかりだからのう。よし。今日はもうこれで解散じゃ」
機嫌よく董卓は劉協と貂蝉を伴い朝廷を去る。大臣たちもまだ残っている呂布をちらりと見て静かに去った。司徒、王允は呂布に恭しく頭を下げその場を去ろうとした。
「司徒殿」
呂布が声を掛ける。
「は、はい。なんでございましょうか。呂将軍」
「貂蝉殿のことなのだが、天子の元ではなく父上の元にいるのをご存じか?」
「え? 貂蝉が相国のところにですと? まさか。さっきも陛下と一緒に貂蝉を連れておられたが、陛下が貂蝉を気にられたのではないのですか?」
王允は董卓の元に貂蝉がいることを知っていたがあえて、動揺するふりをする。
「違うのだ。天子の元へと言っておきながら……」
「ま、まさか。相国は貂蝉を……」
「あの可憐な貂蝉殿が、あの父に……」
「呂将軍……。あなたも貂蝉の事をそんなに心配してくださっていうのか。しかし、さきほどの貂蝉の様子では辛そうではなかった……」
「くっ!」
口惜しさと不甲斐なさで険しい顔をする呂布に王允は慰めるように、なだめるよう言う。
「どうか、将軍。時々で良いですから貂蝉の様子を見てやってはもらえまいか。何か辛い目にあってはいないか……」
「ええ。勿論です」
「お頼み申します」
王允は深々と頭を下げ呂布の前から去った。絶対的に従っていた董卓に対して、呂布は不満を持ち始めている。呂布は董卓から日に千里駆けるという名馬、赤兎馬を貰うということでそれまで従っていた丁原を討った。彼は董卓と違い全てを手中に収めたいという貪欲さはないが、これだというものには絶対的な欲求を持つ。普段無欲な分、一度ほしいと思うと我慢することは出来ないのだった。 王允は呂布が貂蝉を大人しく諦めることはないと、今の様子から伺えた。無垢で暗愚な貂蝉が二人の男の欲望を煽り、対立に向かわせる事は時間の問題だろう。
「すまぬ。貂蝉よ。もう少し辛抱しておくれ……」
神頼みならぬ、貂蝉頼みの己に無力さを感じながら、王允は寂しくなった屋敷へと戻った。
反董卓軍を一気につぶしてしまおうと、董卓は猛将、呂布と勇猛な武将、胡軫を孫堅軍討伐に向かわせる。しかし呂布と胡軫の仲違いのせいで上手くいかず、逆に孫堅軍に追い詰められてしまうのだった。大敗を喫した董卓は思い立ったように洛陽から長安に遷都とという名の逃亡をはかる。あっという間に都を焼き払い、数百万の民をも移動させる。突然の遷都に訳も分からず民は動揺するばかりである。
「黙って言う通りに長安についてこさせるのだ。逆らうものは斬って財産を没収するがよい」
こうして民は焼け落ちた洛陽を背に、長安へ移動するのだった。
董卓は天子と馬車を供にし、貂蝉は1人で馬車に揺られてぼんやりとしていた。ふっと外を眺めると呂布が見える。どうやら貂蝉の乗っている馬車の警護をしているようだった。
「奉先にいさま」
貂蝉は呂布に声を掛ける。董卓は貂蝉に己を父と呼ばせ、呂布を兄と呼ばせているのだった。
「貂蝉よ。疲れてはいないか」
「あい。にいさまは?」
「俺は平気だ」
「そう。よかった。お疲れならどうぞ馬車にお乗りくださいね」
何の思惑もなく、邪心もない気遣いに呂布は胸が熱くなる。敗色の濃いこの強行軍に呂布は不信感が募ってくる。自分が胡軫との仲違いによって敗戦を招いたとも言えるが、それ以前に董卓のために忠義を尽くす気はもはやなかった。
一度、董卓がいない間に貂蝉の様子を見に行くと彼女は庭でぼんやりと小さな橋の上に立っていた。池の蓮を眺める、穢れのない天女のような様子である。呂布は静かに彼女を眺めた。それだけで満たされるものがあったのだ。そこへ一匹の蝶が飛んできた。ひらひらと青い羽をもつ蝶は、そっと貂蝉の出した指先にまるで花に止まるように羽を休める。美しい光景に呂布はごくりと息を飲み、かちゃりと剣を鳴らす。すると蝶はぱっと飛び立った。
「あっ」
その刹那、貂蝉は橋の手摺から手を滑らせ、池にざぶりと落ちてしまう。
「貂蝉!」
慌てて呂布も池にむかい、鎧をつけたまま池に飛び込んだ。浅い池ではあったが小柄な貂蝉はすっかり沈んでしまい、呂布は急ぎ彼女の身体を抱き抱え池から出た。
「あ、奉先にいさま。ありがとうございます」
「い、や。大丈夫か」
「あい。にいさまのおかげで」
濡れた衣服がぴったりと貂蝉の身体にくっつき、華奢な身体をくっきりと見せる。この細い身体を董卓に捧げているのかと思うと呂布は胸の奥に黒いものが渦巻き始める。せき込む貂蝉にハッとして「はやく、着替えないと」と彼女を抱いたまま屋敷の中に入る。
下女を呼び着替えさせようとしたところに董卓が帰ってきた。
「奉先? ここで何をしておる」
「はっ! ち、父上、実は貂蝉が池に落ちまして……」
「何?」
「貂蝉! どこじゃ!」
「こちらでございます」
奥の方で貂蝉のか細い声に董卓はバタバタと向かう。薄い下着姿で寒そうにしている貂蝉に董卓は己の羽織ものをばさりとかける。
「ちちうえ。ありがとうございます」
「貂蝉よ。ほんとうに池に落ちただけかね?」
董卓は呂布も貂蝉の事を相当気に入っていることを知っている。
「あい。にいさまが助けてくれました」
「ふむ……」
下女が「お召し物でございます」とやってきたので董卓は「温かくするのじゃぞ」と貂蝉に優しく言い、呂布の目の前に立つ。
「奉先よ。ただ池に落ちただけか?」
「え、ええ。そうです」
『人中の呂布、馬中の赤兎』と呼ばれるほどの猛将、呂布でさえ董卓に圧倒される。一騎打ちすればおそらく呂布が勝つであろうが総合的な力で敵わないせいか、彼は董卓に膝を折るのだった。
「あまり貂蝉に近づく出ないぞ。天子のものなのだからな」
「御意」
拱手して呂布は頭を下げるが、「天子のものだなどと……」と董卓の白々しい嘘に反吐が出そうな思いだった。
可憐な貂蝉をいつか董卓の手から救い出すのだと、呂布はその機会をうかがっている。
長安に入った董卓は急ぎ宮殿を作らせる。逆らうものは全て首を刎ねられるので黙って従うしかなかった。董卓はこの自分のやり方を献帝、劉協に見せる。
「よいですかな。陛下。これぐらいの圧倒的な支配がありませんと臣下はいうことを聞きません」
「相父よ。しかし強引ではないですか」
「なんのなんの。今まで散々俸禄を貪って贅沢してきた輩ですぞ? こういう有意義な使い方をさせてやって自分が漢の臣下であるということを自覚させねば」
「ふむ……」
まだ若々しい献帝は素直に董卓の話に耳を傾ける。董卓は献帝から帝位を簒奪するつもりは毛頭なかった。そのことが献帝にもちゃんと伝わっているので、彼らの間には確執めいたものはなかった。しかし、王允はじめとする、勿論呂布を含めた臣下はそう思ってはいない。董卓は漢を凌辱し簒奪するものだと思っている。反董卓軍も勿論そうである。ただし曹操を除いて。
長安になんとか屋敷を構えた王允の元に貂蝉が訪ねてきた。
「貂蝉よ。よく帰ってきたな」
「あい。ちちうえが顔を見てきても良いと。天子のもとへ入る前に」
「天子の元へはいるだと? 今更……」
王允は董卓が散々、貂蝉を弄んだあと飽きて献帝の元へ宮女として送り込むのかと思い憤怒する。ぼんやりとした表情の貂蝉に、そのことを根掘り葉掘り聞くことは出来なかった。
「ちちうえ。奉先にいさまが最近よく叱られております」
「ん? そうなのか?」
「ええ。あたくしを助けたり、良いことをなさってもちちうえは叱るのです」
「ほうほう。そうか!」
董卓と呂布の間に亀裂が入ってきていることがよくわかった。朝廷でも呂布の表情は以前と違って、なにやら暗く複雑だ。そろそろ機会が来るだろうと王允は次に呂布に会ったときに声を掛けようと決めていた。
「まこと忍びないが……。まずは相国に気に入られることだ……」
「あい。どのようにすればよいでしょう」
「何もしなくて良い。そのままのお前で良いのだ。歌えと言えば歌い。舞えと言えば舞うのだ」
「あい。わかりました」
素直な貂蝉は疑問も懸念もなく王允の言うことを聞く。
「そして、奉先殿ともよくお会いすることになるだろうから、ちゃんと微笑んで挨拶をするのだ」
「あい」
「それから……。うーむ。もし相国が奉先殿を叱ることがあれば、わしに会いたいと願うのだ」
「それだけでございますか?」
「うむ。とりあえずそこまでだ。できそうか?」
「あい」
目を輝かせて貂蝉は頷く。暗愚な彼女は養父の役に立てるのが嬉しくてたまらないのだ。王允はこの無垢な娘を、世の中の汚れを全て受け持っているような董卓の元へ向かわせる事に胸が張り裂けんばかりだった。
使用人が小走りにやってきて董卓の迎えが来たことを王允に告げる。
「わかった……」
もう一度、貂蝉を抱きしめ、董卓がこの娘をせめて大事に扱ってくれることを願うのだった。
馬車に揺られ貂蝉は、王允の思った通り董卓の屋敷に着く。門の前では方天画戟を手に持つ呂布が、泊まった馬車に近づいてきた。
「今時分、誰だ」
「へ、へえ。司徒、王さまのお嬢さんです」
「何? 貂蝉殿か?」
御者と話す声に反応して、馬車からつるりとした白い顔を貂蝉は出した。
「呂将軍」
「貂蝉殿……」
貂蝉は王允が言ったとおりに、花がこぼれるような笑みで呂布に挨拶をする。
「何という可憐さ……」
呂布にも、貂蝉が天子の元ではなく、董卓が彼女を欲してここへ連れてきたことぐらい分かっている。この可憐な一輪の花が董卓に手折られるのだと思うと、悔しくてならなかった。
「あの。馬車から降ろしていただけますか?」
「あ、ああ、これはすまない。気が利かなかった」
御者を制し、呂布自ら貂蝉の細くて白い手を取った。
「あっ!」
「おっと」
足を滑らせるところを呂布は抱きとめる。貂蝉は羽衣のように軽くしなやかな抱き心地だった。
「ああ、すみません。将軍を煩わせてしまいまして」
「とんでもない。どうぞ」
こうして呂布自ら、貂蝉を董卓の前に案内した。広い屋敷を貂蝉は楽しそうに見まわしている。無垢な彼女の様子に呂布は、逆らうことのできない董卓に対して怒りがふつふつと沸いてくる。
このまま彼女を連れて去ってしまおうかと一瞬思い立ったが、ちょうど目の間にそわそわしている董卓が目に入った。
「父上。ちょうど門の前でお会いしましたので」
「お、おう。奉先よ、そなたおったのか。手間をかけさせたの。ほれ、もうよいぞ、下がっておれ」
「……。御意」
「さてさて、良く参ったのお。ほれ、もっとこっちに」
「あい。相国」
にっこりと微笑み、貂蝉は長い袖で隠された細い腕を身体の前に重ね、やはりほっそりした腰を横にかがめ挨拶をする。相好を崩す董卓を横目に、呂布は唇を噛んで立ち去った。
朝議にまで董卓は貂蝉を伴う。天子、劉協と貂蝉を両脇に抱えたままどっかりと玉座に座る。
「さて、わしに反抗しておるものどもはどうなっておる」
じろりと頭を下げている臣下を見渡し、発言を待つが誰一人声を発することが出来ずにいる。そこへ董卓の軍師である李儒が静かに進言する。
「徐将軍が曹軍と孫軍共に撃破しましたので、心配はないでしょう」
「ほう。それはよい! 曹操と孫堅以外は小物ばかりだからのう。よし。今日はもうこれで解散じゃ」
機嫌よく董卓は劉協と貂蝉を伴い朝廷を去る。大臣たちもまだ残っている呂布をちらりと見て静かに去った。司徒、王允は呂布に恭しく頭を下げその場を去ろうとした。
「司徒殿」
呂布が声を掛ける。
「は、はい。なんでございましょうか。呂将軍」
「貂蝉殿のことなのだが、天子の元ではなく父上の元にいるのをご存じか?」
「え? 貂蝉が相国のところにですと? まさか。さっきも陛下と一緒に貂蝉を連れておられたが、陛下が貂蝉を気にられたのではないのですか?」
王允は董卓の元に貂蝉がいることを知っていたがあえて、動揺するふりをする。
「違うのだ。天子の元へと言っておきながら……」
「ま、まさか。相国は貂蝉を……」
「あの可憐な貂蝉殿が、あの父に……」
「呂将軍……。あなたも貂蝉の事をそんなに心配してくださっていうのか。しかし、さきほどの貂蝉の様子では辛そうではなかった……」
「くっ!」
口惜しさと不甲斐なさで険しい顔をする呂布に王允は慰めるように、なだめるよう言う。
「どうか、将軍。時々で良いですから貂蝉の様子を見てやってはもらえまいか。何か辛い目にあってはいないか……」
「ええ。勿論です」
「お頼み申します」
王允は深々と頭を下げ呂布の前から去った。絶対的に従っていた董卓に対して、呂布は不満を持ち始めている。呂布は董卓から日に千里駆けるという名馬、赤兎馬を貰うということでそれまで従っていた丁原を討った。彼は董卓と違い全てを手中に収めたいという貪欲さはないが、これだというものには絶対的な欲求を持つ。普段無欲な分、一度ほしいと思うと我慢することは出来ないのだった。 王允は呂布が貂蝉を大人しく諦めることはないと、今の様子から伺えた。無垢で暗愚な貂蝉が二人の男の欲望を煽り、対立に向かわせる事は時間の問題だろう。
「すまぬ。貂蝉よ。もう少し辛抱しておくれ……」
神頼みならぬ、貂蝉頼みの己に無力さを感じながら、王允は寂しくなった屋敷へと戻った。
反董卓軍を一気につぶしてしまおうと、董卓は猛将、呂布と勇猛な武将、胡軫を孫堅軍討伐に向かわせる。しかし呂布と胡軫の仲違いのせいで上手くいかず、逆に孫堅軍に追い詰められてしまうのだった。大敗を喫した董卓は思い立ったように洛陽から長安に遷都とという名の逃亡をはかる。あっという間に都を焼き払い、数百万の民をも移動させる。突然の遷都に訳も分からず民は動揺するばかりである。
「黙って言う通りに長安についてこさせるのだ。逆らうものは斬って財産を没収するがよい」
こうして民は焼け落ちた洛陽を背に、長安へ移動するのだった。
董卓は天子と馬車を供にし、貂蝉は1人で馬車に揺られてぼんやりとしていた。ふっと外を眺めると呂布が見える。どうやら貂蝉の乗っている馬車の警護をしているようだった。
「奉先にいさま」
貂蝉は呂布に声を掛ける。董卓は貂蝉に己を父と呼ばせ、呂布を兄と呼ばせているのだった。
「貂蝉よ。疲れてはいないか」
「あい。にいさまは?」
「俺は平気だ」
「そう。よかった。お疲れならどうぞ馬車にお乗りくださいね」
何の思惑もなく、邪心もない気遣いに呂布は胸が熱くなる。敗色の濃いこの強行軍に呂布は不信感が募ってくる。自分が胡軫との仲違いによって敗戦を招いたとも言えるが、それ以前に董卓のために忠義を尽くす気はもはやなかった。
一度、董卓がいない間に貂蝉の様子を見に行くと彼女は庭でぼんやりと小さな橋の上に立っていた。池の蓮を眺める、穢れのない天女のような様子である。呂布は静かに彼女を眺めた。それだけで満たされるものがあったのだ。そこへ一匹の蝶が飛んできた。ひらひらと青い羽をもつ蝶は、そっと貂蝉の出した指先にまるで花に止まるように羽を休める。美しい光景に呂布はごくりと息を飲み、かちゃりと剣を鳴らす。すると蝶はぱっと飛び立った。
「あっ」
その刹那、貂蝉は橋の手摺から手を滑らせ、池にざぶりと落ちてしまう。
「貂蝉!」
慌てて呂布も池にむかい、鎧をつけたまま池に飛び込んだ。浅い池ではあったが小柄な貂蝉はすっかり沈んでしまい、呂布は急ぎ彼女の身体を抱き抱え池から出た。
「あ、奉先にいさま。ありがとうございます」
「い、や。大丈夫か」
「あい。にいさまのおかげで」
濡れた衣服がぴったりと貂蝉の身体にくっつき、華奢な身体をくっきりと見せる。この細い身体を董卓に捧げているのかと思うと呂布は胸の奥に黒いものが渦巻き始める。せき込む貂蝉にハッとして「はやく、着替えないと」と彼女を抱いたまま屋敷の中に入る。
下女を呼び着替えさせようとしたところに董卓が帰ってきた。
「奉先? ここで何をしておる」
「はっ! ち、父上、実は貂蝉が池に落ちまして……」
「何?」
「貂蝉! どこじゃ!」
「こちらでございます」
奥の方で貂蝉のか細い声に董卓はバタバタと向かう。薄い下着姿で寒そうにしている貂蝉に董卓は己の羽織ものをばさりとかける。
「ちちうえ。ありがとうございます」
「貂蝉よ。ほんとうに池に落ちただけかね?」
董卓は呂布も貂蝉の事を相当気に入っていることを知っている。
「あい。にいさまが助けてくれました」
「ふむ……」
下女が「お召し物でございます」とやってきたので董卓は「温かくするのじゃぞ」と貂蝉に優しく言い、呂布の目の前に立つ。
「奉先よ。ただ池に落ちただけか?」
「え、ええ。そうです」
『人中の呂布、馬中の赤兎』と呼ばれるほどの猛将、呂布でさえ董卓に圧倒される。一騎打ちすればおそらく呂布が勝つであろうが総合的な力で敵わないせいか、彼は董卓に膝を折るのだった。
「あまり貂蝉に近づく出ないぞ。天子のものなのだからな」
「御意」
拱手して呂布は頭を下げるが、「天子のものだなどと……」と董卓の白々しい嘘に反吐が出そうな思いだった。
可憐な貂蝉をいつか董卓の手から救い出すのだと、呂布はその機会をうかがっている。
長安に入った董卓は急ぎ宮殿を作らせる。逆らうものは全て首を刎ねられるので黙って従うしかなかった。董卓はこの自分のやり方を献帝、劉協に見せる。
「よいですかな。陛下。これぐらいの圧倒的な支配がありませんと臣下はいうことを聞きません」
「相父よ。しかし強引ではないですか」
「なんのなんの。今まで散々俸禄を貪って贅沢してきた輩ですぞ? こういう有意義な使い方をさせてやって自分が漢の臣下であるということを自覚させねば」
「ふむ……」
まだ若々しい献帝は素直に董卓の話に耳を傾ける。董卓は献帝から帝位を簒奪するつもりは毛頭なかった。そのことが献帝にもちゃんと伝わっているので、彼らの間には確執めいたものはなかった。しかし、王允はじめとする、勿論呂布を含めた臣下はそう思ってはいない。董卓は漢を凌辱し簒奪するものだと思っている。反董卓軍も勿論そうである。ただし曹操を除いて。
長安になんとか屋敷を構えた王允の元に貂蝉が訪ねてきた。
「貂蝉よ。よく帰ってきたな」
「あい。ちちうえが顔を見てきても良いと。天子のもとへ入る前に」
「天子の元へはいるだと? 今更……」
王允は董卓が散々、貂蝉を弄んだあと飽きて献帝の元へ宮女として送り込むのかと思い憤怒する。ぼんやりとした表情の貂蝉に、そのことを根掘り葉掘り聞くことは出来なかった。
「ちちうえ。奉先にいさまが最近よく叱られております」
「ん? そうなのか?」
「ええ。あたくしを助けたり、良いことをなさってもちちうえは叱るのです」
「ほうほう。そうか!」
董卓と呂布の間に亀裂が入ってきていることがよくわかった。朝廷でも呂布の表情は以前と違って、なにやら暗く複雑だ。そろそろ機会が来るだろうと王允は次に呂布に会ったときに声を掛けようと決めていた。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
鷹の翼
那月
歴史・時代
時は江戸時代幕末。
新選組を目の敵にする、というほどでもないが日頃から敵対する1つの組織があった。
鷹の翼
これは、幕末を戦い抜いた新選組の史実とは全く関係ない鷹の翼との日々。
鷹の翼の日常。日課となっている嫌がらせ、思い出したかのようにやって来る不定期な新選組の奇襲、アホな理由で勃発する喧嘩騒動、町の騒ぎへの介入、それから恋愛事情。
そんな毎日を見届けた、とある少女のお話。
少女が鷹の翼の門扉を、めっちゃ叩いたその日から日常は一変。
新選組の屯所への侵入は失敗。鷹の翼に曲者疑惑。崩れる家族。鷹の翼崩壊の危機。そして――
複雑な秘密を抱え隠す少女は、鷹の翼で何を見た?
なお、本当に史実とは別次元の話なので容姿、性格、年齢、話の流れ等は完全オリジナルなのでそこはご了承ください。
よろしくお願いします。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?



体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる