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後漢末
11 続・美女連環の計
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養父の王允は、丁寧に身支度を整えられた貂蝉を座らせ、これからの心構えを伝える。
「まこと忍びないが……。まずは相国に気に入られることだ……」
「あい。どのようにすればよいでしょう」
「何もしなくて良い。そのままのお前で良いのだ。歌えと言えば歌い。舞えと言えば舞うのだ」
「あい。わかりました」
素直な貂蝉は疑問も懸念もなく王允の言うことを聞く。
「そして、奉先殿ともよくお会いすることになるだろうから、ちゃんと微笑んで挨拶をするのだ」
「あい」
「それから……。うーむ。もし相国が奉先殿を叱ることがあれば、わしに会いたいと願うのだ」
「それだけでございますか?」
「うむ。とりあえずそこまでだ。できそうか?」
「あい」
目を輝かせて貂蝉は頷く。暗愚な彼女は養父の役に立てるのが嬉しくてたまらないのだ。王允はこの無垢な娘を、世の中の汚れを全て受け持っているような董卓の元へ向かわせる事に胸が張り裂けんばかりだった。
使用人が小走りにやってきて董卓の迎えが来たことを王允に告げる。
「わかった……」
もう一度、貂蝉を抱きしめ、董卓がこの娘をせめて大事に扱ってくれることを願うのだった。
馬車に揺られ貂蝉は、王允の思った通り董卓の屋敷に着く。門の前では方天画戟を手に持つ呂布が、泊まった馬車に近づいてきた。
「今時分、誰だ」
「へ、へえ。司徒、王さまのお嬢さんです」
「何? 貂蝉殿か?」
御者と話す声に反応して、馬車からつるりとした白い顔を貂蝉は出した。
「呂将軍」
「貂蝉殿……」
貂蝉は王允が言ったとおりに、花がこぼれるような笑みで呂布に挨拶をする。
「何という可憐さ……」
呂布にも、貂蝉が天子の元ではなく、董卓が彼女を欲してここへ連れてきたことぐらい分かっている。この可憐な一輪の花が董卓に手折られるのだと思うと、悔しくてならなかった。
「あの。馬車から降ろしていただけますか?」
「あ、ああ、これはすまない。気が利かなかった」
御者を制し、呂布自ら貂蝉の細くて白い手を取った。
「あっ!」
「おっと」
足を滑らせるところを呂布は抱きとめる。貂蝉は羽衣のように軽くしなやかな抱き心地だった。
「ああ、すみません。将軍を煩わせてしまいまして」
「とんでもない。どうぞ」
こうして呂布自ら、貂蝉を董卓の前に案内した。広い屋敷を貂蝉は楽しそうに見まわしている。無垢な彼女の様子に呂布は、逆らうことのできない董卓に対して怒りがふつふつと沸いてくる。
このまま彼女を連れて去ってしまおうかと一瞬思い立ったが、ちょうど目の間にそわそわしている董卓が目に入った。
「父上。ちょうど門の前でお会いしましたので」
「お、おう。奉先よ、そなたおったのか。手間をかけさせたの。ほれ、もうよいぞ、下がっておれ」
「……。御意」
「さてさて、良く参ったのお。ほれ、もっとこっちに」
「あい。相国」
にっこりと微笑み、貂蝉は長い袖で隠された細い腕を身体の前に重ね、やはりほっそりした腰を横にかがめ挨拶をする。相好を崩す董卓を横目に、呂布は唇を噛んで立ち去った。
朝議にまで董卓は貂蝉を伴う。天子、劉協と貂蝉を両脇に抱えたままどっかりと玉座に座る。
「さて、わしに反抗しておるものどもはどうなっておる」
じろりと頭を下げている臣下を見渡し、発言を待つが誰一人声を発することが出来ずにいる。そこへ董卓の軍師である李儒が静かに進言する。
「徐将軍が曹軍と孫軍共に撃破しましたので、心配はないでしょう」
「ほう。それはよい! 曹操と孫堅以外は小物ばかりだからのう。よし。今日はもうこれで解散じゃ」
機嫌よく董卓は劉協と貂蝉を伴い朝廷を去る。大臣たちもまだ残っている呂布をちらりと見て静かに去った。司徒、王允は呂布に恭しく頭を下げその場を去ろうとした。
「司徒殿」
呂布が声を掛ける。
「は、はい。なんでございましょうか。呂将軍」
「貂蝉殿のことなのだが、天子の元ではなく父上の元にいるのをご存じか?」
「え? 貂蝉が相国のところにですと? まさか。さっきも陛下と一緒に貂蝉を連れておられたが、陛下が貂蝉を気にられたのではないのですか?」
王允は董卓の元に貂蝉がいることを知っていたがあえて、動揺するふりをする。
「違うのだ。天子の元へと言っておきながら……」
「ま、まさか。相国は貂蝉を……」
「あの可憐な貂蝉殿が、あの父に……」
「呂将軍……。あなたも貂蝉の事をそんなに心配してくださっていうのか。しかし、さきほどの貂蝉の様子では辛そうではなかった……」
「くっ!」
口惜しさと不甲斐なさで険しい顔をする呂布に王允は慰めるように、なだめるよう言う。
「どうか、将軍。時々で良いですから貂蝉の様子を見てやってはもらえまいか。何か辛い目にあってはいないか……」
「ええ。勿論です」
「お頼み申します」
王允は深々と頭を下げ呂布の前から去った。絶対的に従っていた董卓に対して、呂布は不満を持ち始めている。呂布は董卓から日に千里駆けるという名馬、赤兎馬を貰うということでそれまで従っていた丁原を討った。彼は董卓と違い全てを手中に収めたいという貪欲さはないが、これだというものには絶対的な欲求を持つ。普段無欲な分、一度ほしいと思うと我慢することは出来ないのだった。 王允は呂布が貂蝉を大人しく諦めることはないと、今の様子から伺えた。無垢で暗愚な貂蝉が二人の男の欲望を煽り、対立に向かわせる事は時間の問題だろう。
「すまぬ。貂蝉よ。もう少し辛抱しておくれ……」
神頼みならぬ、貂蝉頼みの己に無力さを感じながら、王允は寂しくなった屋敷へと戻った。
反董卓軍を一気につぶしてしまおうと、董卓は猛将、呂布と勇猛な武将、胡軫を孫堅軍討伐に向かわせる。しかし呂布と胡軫の仲違いのせいで上手くいかず、逆に孫堅軍に追い詰められてしまうのだった。大敗を喫した董卓は思い立ったように洛陽から長安に遷都とという名の逃亡をはかる。あっという間に都を焼き払い、数百万の民をも移動させる。突然の遷都に訳も分からず民は動揺するばかりである。
「黙って言う通りに長安についてこさせるのだ。逆らうものは斬って財産を没収するがよい」
こうして民は焼け落ちた洛陽を背に、長安へ移動するのだった。
董卓は天子と馬車を供にし、貂蝉は1人で馬車に揺られてぼんやりとしていた。ふっと外を眺めると呂布が見える。どうやら貂蝉の乗っている馬車の警護をしているようだった。
「奉先にいさま」
貂蝉は呂布に声を掛ける。董卓は貂蝉に己を父と呼ばせ、呂布を兄と呼ばせているのだった。
「貂蝉よ。疲れてはいないか」
「あい。にいさまは?」
「俺は平気だ」
「そう。よかった。お疲れならどうぞ馬車にお乗りくださいね」
何の思惑もなく、邪心もない気遣いに呂布は胸が熱くなる。敗色の濃いこの強行軍に呂布は不信感が募ってくる。自分が胡軫との仲違いによって敗戦を招いたとも言えるが、それ以前に董卓のために忠義を尽くす気はもはやなかった。
一度、董卓がいない間に貂蝉の様子を見に行くと彼女は庭でぼんやりと小さな橋の上に立っていた。池の蓮を眺める、穢れのない天女のような様子である。呂布は静かに彼女を眺めた。それだけで満たされるものがあったのだ。そこへ一匹の蝶が飛んできた。ひらひらと青い羽をもつ蝶は、そっと貂蝉の出した指先にまるで花に止まるように羽を休める。美しい光景に呂布はごくりと息を飲み、かちゃりと剣を鳴らす。すると蝶はぱっと飛び立った。
「あっ」
その刹那、貂蝉は橋の手摺から手を滑らせ、池にざぶりと落ちてしまう。
「貂蝉!」
慌てて呂布も池にむかい、鎧をつけたまま池に飛び込んだ。浅い池ではあったが小柄な貂蝉はすっかり沈んでしまい、呂布は急ぎ彼女の身体を抱き抱え池から出た。
「あ、奉先にいさま。ありがとうございます」
「い、や。大丈夫か」
「あい。にいさまのおかげで」
濡れた衣服がぴったりと貂蝉の身体にくっつき、華奢な身体をくっきりと見せる。この細い身体を董卓に捧げているのかと思うと呂布は胸の奥に黒いものが渦巻き始める。せき込む貂蝉にハッとして「はやく、着替えないと」と彼女を抱いたまま屋敷の中に入る。
下女を呼び着替えさせようとしたところに董卓が帰ってきた。
「奉先? ここで何をしておる」
「はっ! ち、父上、実は貂蝉が池に落ちまして……」
「何?」
「貂蝉! どこじゃ!」
「こちらでございます」
奥の方で貂蝉のか細い声に董卓はバタバタと向かう。薄い下着姿で寒そうにしている貂蝉に董卓は己の羽織ものをばさりとかける。
「ちちうえ。ありがとうございます」
「貂蝉よ。ほんとうに池に落ちただけかね?」
董卓は呂布も貂蝉の事を相当気に入っていることを知っている。
「あい。にいさまが助けてくれました」
「ふむ……」
下女が「お召し物でございます」とやってきたので董卓は「温かくするのじゃぞ」と貂蝉に優しく言い、呂布の目の前に立つ。
「奉先よ。ただ池に落ちただけか?」
「え、ええ。そうです」
『人中の呂布、馬中の赤兎』と呼ばれるほどの猛将、呂布でさえ董卓に圧倒される。一騎打ちすればおそらく呂布が勝つであろうが総合的な力で敵わないせいか、彼は董卓に膝を折るのだった。
「あまり貂蝉に近づく出ないぞ。天子のものなのだからな」
「御意」
拱手して呂布は頭を下げるが、「天子のものだなどと……」と董卓の白々しい嘘に反吐が出そうな思いだった。
可憐な貂蝉をいつか董卓の手から救い出すのだと、呂布はその機会をうかがっている。
長安に入った董卓は急ぎ宮殿を作らせる。逆らうものは全て首を刎ねられるので黙って従うしかなかった。董卓はこの自分のやり方を献帝、劉協に見せる。
「よいですかな。陛下。これぐらいの圧倒的な支配がありませんと臣下はいうことを聞きません」
「相父よ。しかし強引ではないですか」
「なんのなんの。今まで散々俸禄を貪って贅沢してきた輩ですぞ? こういう有意義な使い方をさせてやって自分が漢の臣下であるということを自覚させねば」
「ふむ……」
まだ若々しい献帝は素直に董卓の話に耳を傾ける。董卓は献帝から帝位を簒奪するつもりは毛頭なかった。そのことが献帝にもちゃんと伝わっているので、彼らの間には確執めいたものはなかった。しかし、王允はじめとする、勿論呂布を含めた臣下はそう思ってはいない。董卓は漢を凌辱し簒奪するものだと思っている。反董卓軍も勿論そうである。ただし曹操を除いて。
長安になんとか屋敷を構えた王允の元に貂蝉が訪ねてきた。
「貂蝉よ。よく帰ってきたな」
「あい。ちちうえが顔を見てきても良いと。天子のもとへ入る前に」
「天子の元へはいるだと? 今更……」
王允は董卓が散々、貂蝉を弄んだあと飽きて献帝の元へ宮女として送り込むのかと思い憤怒する。ぼんやりとした表情の貂蝉に、そのことを根掘り葉掘り聞くことは出来なかった。
「ちちうえ。奉先にいさまが最近よく叱られております」
「ん? そうなのか?」
「ええ。あたくしを助けたり、良いことをなさってもちちうえは叱るのです」
「ほうほう。そうか!」
董卓と呂布の間に亀裂が入ってきていることがよくわかった。朝廷でも呂布の表情は以前と違って、なにやら暗く複雑だ。そろそろ機会が来るだろうと王允は次に呂布に会ったときに声を掛けようと決めていた。
「まこと忍びないが……。まずは相国に気に入られることだ……」
「あい。どのようにすればよいでしょう」
「何もしなくて良い。そのままのお前で良いのだ。歌えと言えば歌い。舞えと言えば舞うのだ」
「あい。わかりました」
素直な貂蝉は疑問も懸念もなく王允の言うことを聞く。
「そして、奉先殿ともよくお会いすることになるだろうから、ちゃんと微笑んで挨拶をするのだ」
「あい」
「それから……。うーむ。もし相国が奉先殿を叱ることがあれば、わしに会いたいと願うのだ」
「それだけでございますか?」
「うむ。とりあえずそこまでだ。できそうか?」
「あい」
目を輝かせて貂蝉は頷く。暗愚な彼女は養父の役に立てるのが嬉しくてたまらないのだ。王允はこの無垢な娘を、世の中の汚れを全て受け持っているような董卓の元へ向かわせる事に胸が張り裂けんばかりだった。
使用人が小走りにやってきて董卓の迎えが来たことを王允に告げる。
「わかった……」
もう一度、貂蝉を抱きしめ、董卓がこの娘をせめて大事に扱ってくれることを願うのだった。
馬車に揺られ貂蝉は、王允の思った通り董卓の屋敷に着く。門の前では方天画戟を手に持つ呂布が、泊まった馬車に近づいてきた。
「今時分、誰だ」
「へ、へえ。司徒、王さまのお嬢さんです」
「何? 貂蝉殿か?」
御者と話す声に反応して、馬車からつるりとした白い顔を貂蝉は出した。
「呂将軍」
「貂蝉殿……」
貂蝉は王允が言ったとおりに、花がこぼれるような笑みで呂布に挨拶をする。
「何という可憐さ……」
呂布にも、貂蝉が天子の元ではなく、董卓が彼女を欲してここへ連れてきたことぐらい分かっている。この可憐な一輪の花が董卓に手折られるのだと思うと、悔しくてならなかった。
「あの。馬車から降ろしていただけますか?」
「あ、ああ、これはすまない。気が利かなかった」
御者を制し、呂布自ら貂蝉の細くて白い手を取った。
「あっ!」
「おっと」
足を滑らせるところを呂布は抱きとめる。貂蝉は羽衣のように軽くしなやかな抱き心地だった。
「ああ、すみません。将軍を煩わせてしまいまして」
「とんでもない。どうぞ」
こうして呂布自ら、貂蝉を董卓の前に案内した。広い屋敷を貂蝉は楽しそうに見まわしている。無垢な彼女の様子に呂布は、逆らうことのできない董卓に対して怒りがふつふつと沸いてくる。
このまま彼女を連れて去ってしまおうかと一瞬思い立ったが、ちょうど目の間にそわそわしている董卓が目に入った。
「父上。ちょうど門の前でお会いしましたので」
「お、おう。奉先よ、そなたおったのか。手間をかけさせたの。ほれ、もうよいぞ、下がっておれ」
「……。御意」
「さてさて、良く参ったのお。ほれ、もっとこっちに」
「あい。相国」
にっこりと微笑み、貂蝉は長い袖で隠された細い腕を身体の前に重ね、やはりほっそりした腰を横にかがめ挨拶をする。相好を崩す董卓を横目に、呂布は唇を噛んで立ち去った。
朝議にまで董卓は貂蝉を伴う。天子、劉協と貂蝉を両脇に抱えたままどっかりと玉座に座る。
「さて、わしに反抗しておるものどもはどうなっておる」
じろりと頭を下げている臣下を見渡し、発言を待つが誰一人声を発することが出来ずにいる。そこへ董卓の軍師である李儒が静かに進言する。
「徐将軍が曹軍と孫軍共に撃破しましたので、心配はないでしょう」
「ほう。それはよい! 曹操と孫堅以外は小物ばかりだからのう。よし。今日はもうこれで解散じゃ」
機嫌よく董卓は劉協と貂蝉を伴い朝廷を去る。大臣たちもまだ残っている呂布をちらりと見て静かに去った。司徒、王允は呂布に恭しく頭を下げその場を去ろうとした。
「司徒殿」
呂布が声を掛ける。
「は、はい。なんでございましょうか。呂将軍」
「貂蝉殿のことなのだが、天子の元ではなく父上の元にいるのをご存じか?」
「え? 貂蝉が相国のところにですと? まさか。さっきも陛下と一緒に貂蝉を連れておられたが、陛下が貂蝉を気にられたのではないのですか?」
王允は董卓の元に貂蝉がいることを知っていたがあえて、動揺するふりをする。
「違うのだ。天子の元へと言っておきながら……」
「ま、まさか。相国は貂蝉を……」
「あの可憐な貂蝉殿が、あの父に……」
「呂将軍……。あなたも貂蝉の事をそんなに心配してくださっていうのか。しかし、さきほどの貂蝉の様子では辛そうではなかった……」
「くっ!」
口惜しさと不甲斐なさで険しい顔をする呂布に王允は慰めるように、なだめるよう言う。
「どうか、将軍。時々で良いですから貂蝉の様子を見てやってはもらえまいか。何か辛い目にあってはいないか……」
「ええ。勿論です」
「お頼み申します」
王允は深々と頭を下げ呂布の前から去った。絶対的に従っていた董卓に対して、呂布は不満を持ち始めている。呂布は董卓から日に千里駆けるという名馬、赤兎馬を貰うということでそれまで従っていた丁原を討った。彼は董卓と違い全てを手中に収めたいという貪欲さはないが、これだというものには絶対的な欲求を持つ。普段無欲な分、一度ほしいと思うと我慢することは出来ないのだった。 王允は呂布が貂蝉を大人しく諦めることはないと、今の様子から伺えた。無垢で暗愚な貂蝉が二人の男の欲望を煽り、対立に向かわせる事は時間の問題だろう。
「すまぬ。貂蝉よ。もう少し辛抱しておくれ……」
神頼みならぬ、貂蝉頼みの己に無力さを感じながら、王允は寂しくなった屋敷へと戻った。
反董卓軍を一気につぶしてしまおうと、董卓は猛将、呂布と勇猛な武将、胡軫を孫堅軍討伐に向かわせる。しかし呂布と胡軫の仲違いのせいで上手くいかず、逆に孫堅軍に追い詰められてしまうのだった。大敗を喫した董卓は思い立ったように洛陽から長安に遷都とという名の逃亡をはかる。あっという間に都を焼き払い、数百万の民をも移動させる。突然の遷都に訳も分からず民は動揺するばかりである。
「黙って言う通りに長安についてこさせるのだ。逆らうものは斬って財産を没収するがよい」
こうして民は焼け落ちた洛陽を背に、長安へ移動するのだった。
董卓は天子と馬車を供にし、貂蝉は1人で馬車に揺られてぼんやりとしていた。ふっと外を眺めると呂布が見える。どうやら貂蝉の乗っている馬車の警護をしているようだった。
「奉先にいさま」
貂蝉は呂布に声を掛ける。董卓は貂蝉に己を父と呼ばせ、呂布を兄と呼ばせているのだった。
「貂蝉よ。疲れてはいないか」
「あい。にいさまは?」
「俺は平気だ」
「そう。よかった。お疲れならどうぞ馬車にお乗りくださいね」
何の思惑もなく、邪心もない気遣いに呂布は胸が熱くなる。敗色の濃いこの強行軍に呂布は不信感が募ってくる。自分が胡軫との仲違いによって敗戦を招いたとも言えるが、それ以前に董卓のために忠義を尽くす気はもはやなかった。
一度、董卓がいない間に貂蝉の様子を見に行くと彼女は庭でぼんやりと小さな橋の上に立っていた。池の蓮を眺める、穢れのない天女のような様子である。呂布は静かに彼女を眺めた。それだけで満たされるものがあったのだ。そこへ一匹の蝶が飛んできた。ひらひらと青い羽をもつ蝶は、そっと貂蝉の出した指先にまるで花に止まるように羽を休める。美しい光景に呂布はごくりと息を飲み、かちゃりと剣を鳴らす。すると蝶はぱっと飛び立った。
「あっ」
その刹那、貂蝉は橋の手摺から手を滑らせ、池にざぶりと落ちてしまう。
「貂蝉!」
慌てて呂布も池にむかい、鎧をつけたまま池に飛び込んだ。浅い池ではあったが小柄な貂蝉はすっかり沈んでしまい、呂布は急ぎ彼女の身体を抱き抱え池から出た。
「あ、奉先にいさま。ありがとうございます」
「い、や。大丈夫か」
「あい。にいさまのおかげで」
濡れた衣服がぴったりと貂蝉の身体にくっつき、華奢な身体をくっきりと見せる。この細い身体を董卓に捧げているのかと思うと呂布は胸の奥に黒いものが渦巻き始める。せき込む貂蝉にハッとして「はやく、着替えないと」と彼女を抱いたまま屋敷の中に入る。
下女を呼び着替えさせようとしたところに董卓が帰ってきた。
「奉先? ここで何をしておる」
「はっ! ち、父上、実は貂蝉が池に落ちまして……」
「何?」
「貂蝉! どこじゃ!」
「こちらでございます」
奥の方で貂蝉のか細い声に董卓はバタバタと向かう。薄い下着姿で寒そうにしている貂蝉に董卓は己の羽織ものをばさりとかける。
「ちちうえ。ありがとうございます」
「貂蝉よ。ほんとうに池に落ちただけかね?」
董卓は呂布も貂蝉の事を相当気に入っていることを知っている。
「あい。にいさまが助けてくれました」
「ふむ……」
下女が「お召し物でございます」とやってきたので董卓は「温かくするのじゃぞ」と貂蝉に優しく言い、呂布の目の前に立つ。
「奉先よ。ただ池に落ちただけか?」
「え、ええ。そうです」
『人中の呂布、馬中の赤兎』と呼ばれるほどの猛将、呂布でさえ董卓に圧倒される。一騎打ちすればおそらく呂布が勝つであろうが総合的な力で敵わないせいか、彼は董卓に膝を折るのだった。
「あまり貂蝉に近づく出ないぞ。天子のものなのだからな」
「御意」
拱手して呂布は頭を下げるが、「天子のものだなどと……」と董卓の白々しい嘘に反吐が出そうな思いだった。
可憐な貂蝉をいつか董卓の手から救い出すのだと、呂布はその機会をうかがっている。
長安に入った董卓は急ぎ宮殿を作らせる。逆らうものは全て首を刎ねられるので黙って従うしかなかった。董卓はこの自分のやり方を献帝、劉協に見せる。
「よいですかな。陛下。これぐらいの圧倒的な支配がありませんと臣下はいうことを聞きません」
「相父よ。しかし強引ではないですか」
「なんのなんの。今まで散々俸禄を貪って贅沢してきた輩ですぞ? こういう有意義な使い方をさせてやって自分が漢の臣下であるということを自覚させねば」
「ふむ……」
まだ若々しい献帝は素直に董卓の話に耳を傾ける。董卓は献帝から帝位を簒奪するつもりは毛頭なかった。そのことが献帝にもちゃんと伝わっているので、彼らの間には確執めいたものはなかった。しかし、王允はじめとする、勿論呂布を含めた臣下はそう思ってはいない。董卓は漢を凌辱し簒奪するものだと思っている。反董卓軍も勿論そうである。ただし曹操を除いて。
長安になんとか屋敷を構えた王允の元に貂蝉が訪ねてきた。
「貂蝉よ。よく帰ってきたな」
「あい。ちちうえが顔を見てきても良いと。天子のもとへ入る前に」
「天子の元へはいるだと? 今更……」
王允は董卓が散々、貂蝉を弄んだあと飽きて献帝の元へ宮女として送り込むのかと思い憤怒する。ぼんやりとした表情の貂蝉に、そのことを根掘り葉掘り聞くことは出来なかった。
「ちちうえ。奉先にいさまが最近よく叱られております」
「ん? そうなのか?」
「ええ。あたくしを助けたり、良いことをなさってもちちうえは叱るのです」
「ほうほう。そうか!」
董卓と呂布の間に亀裂が入ってきていることがよくわかった。朝廷でも呂布の表情は以前と違って、なにやら暗く複雑だ。そろそろ機会が来るだろうと王允は次に呂布に会ったときに声を掛けようと決めていた。
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