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後漢末
1 治世の能臣、乱世の姦雄
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四男坊である曹騰季興は年少の頃より漢王朝に宦官として、後漢の第六代皇帝、安帝から後漢の第十代皇帝、質帝まで四代に渡り三十年以上仕えた。曹騰は権力欲を持たず、勉学に励み素直に帝に仕えた結果、最高位を得たという、宦官の中でも稀有な存在である。腐敗していく朝廷にそれでも真摯に勤めていたが、質帝が臣下の梁冀に擁立されたにもかかわらず、彼の専横ぶりに不満を漏らしたため毒殺されたことをきっかけに引退を考える。
しかし次に梁冀よって擁立された桓帝を一目見ると、とても優れた皇帝になるでろうと予見し留まる。曹騰は宮廷の中で静かに人物を見極め続けていたため、鑑識眼があった。案の定、桓帝は梁冀一族三百人以上を謀殺し親政を始め、残った宦官たちは優遇され勿論、曹騰も恩恵を賜る。
これで一安心かと思えたが、今度は宦官が権力を持ち始めた。中でも曹騰の目を引いたのは若き張譲である。彼は穏やかさと品の良さで人々の中をうまく立ち回っているが時折見せる鋭い豹のような瞳が曹騰に梁冀を思い起こさせる。
「これはよくない。しかし、もう彼に対抗できるものはおらぬだろう」
漢王朝の断末魔の叫びが聞こえるようだ。生涯心を込めて仕えてきた王朝が汚され蹂躙されることは、わが身を斬られるよりも辛い事であった。彼はもう漢王朝の一部なのだ。
ちょうどよいことに桓帝は一部の貢献度の高い宦官たちに養子を持ち、財産を相続させることを許可している。こうして曹騰は漢王朝を守りたい一心で養子を求める。曹騰の養子になりたいと希望する者は多かった。権力はおろか財産も相当であったので、あわよくばと狙う輩は多い。曹騰としては野心のない平凡な男を養子にするつもりは勿論ないが、欲望だけを目的とする小人も避けた。
ある時、曹氏と姻戚関係のある夏侯氏一族のもので養子を希望する者がいるので面接を行った。勤勉で忠孝を重んじるというなかなか良い評判をもつ夏候嵩巨高だ。彼は末子で家督を継ぐことはなかったが、すでに結婚し一人の子供を設けていた。
「どうして養子になりたいと思ったのだ?」
曹騰は子をあやしながら面接に来た夏候嵩に尋ねる。
「それは、この子のためなのです。どうぞ見てやってください。あなた様ならこの子がどんな子かわかるでしょう」
立派な夏候嵩は柔らかい赤い布にくるまれた赤子を優しく丁寧に差し出す。
「ふ、む。赤子のためとな」
どれどれと布の中を覗き込む。中にはつやつやした豊かな髪とはっきりした眉、するどい目つきで指をしゃぶる、ふっくらした赤子がいた。曹騰に気づくと赤子はじっとこちらを逆に、興味津々とばかり覗き込む様に見入ってくる。数多の皇族の赤子を見てきたが、このような人を見透かすような赤子はいなかった。
「うーむ。このような赤子は確かにみたことがない。生まれたばかりでこのような貴人の相があるのも聞いたことがないわい」
「でしょう、でしょう!」
嬉しそうに夏候嵩は赤子を抱き上げる。
「ほうら、やはり褒められたぞ。いい子だ! いい子だ!」
赤子は嬉しそうに声を上げている。親ばかであると言えばそれまでだが夏候嵩自身も能力が高く、養子にならなくてもそれなりに出世していくであろう。しかし彼は自分自身の事を望んでいるのではなかった。
「わたしはこの子のためなら、出来る限りのことをしてやりたいのです」
「まあ、その気持ちはわからんでもないなあ」
優れた人物を見極めては推挙してきた曹騰にも理解できることである。
「しかし、立派な息子よのお」
その言葉に子をあやす夏候嵩の手がぴたりと止まる。
「え? あ、あの、この子は女の子です」
「! なんと!? おなごとな? もう一度見せておくれ」
「あ、は、はい」
そっと赤子を受け取り、くるんだ布を緩めると確かに男児の印はついていない。股間を見つめている曹騰を赤子は意味ありげに「くひゅっ」と笑う。
「うーむ」
見れば見るほどこの赤子は素晴らしいと思えてくる。もう理由などなく、この子のためなら財産どころか命さえも惜しくない気がしてくる。たとえ、女児だとしてでもだ。
「そなたを養子に決めよう」
「おお! ありがたい! 生涯かけて父と仰ぎお仕えいたします!」
「うむ、うむ」
こうして夏候嵩は曹騰の養子となり、曹嵩巨高となる。そしてこの赤子が曹操孟徳である。彼女は曹騰のもとで健やかに何不自由なく育つ。曹騰も実の父、曹嵩も曹操が何をしても諫めることなく、溺愛して育てたおかげで彼女の器を小さくすることはなかった。
教育から、肌につける衣服まで手ずから選び、まるで天子に仕えるがごとく、曹騰は曹操に全てを与えていく。また彼女の方も全てを吸収していくのは海綿の如しである。曹騰にとっていつの間にか漢王朝ではなく、曹操孟徳が己の全てとなっていくのであった。
初春の麗らかな日の事である。
「おじい様、ちょっと出かけてきます」
そう言って年頃の娘になった曹操は礼儀正しく曹騰に一礼する。
「おうおう。気を付けるのじゃよ」
「はい!」
目を細め曹騰は曹操の小柄ではあるが、姿勢よく堂々とし麗しい後姿を見送った。
曹操は屋敷を出て、ふらふらと宦官の張譲の屋敷に向かう。もう時代は霊帝の時代になっていて曹騰が予見した通り、張譲が中常侍となり朝廷を牛耳っていた。
張譲のことは噂と曹騰の話でしか知らなかった。彼は天子の代わりに政を行い、逆らえるものは誰もいないらしい。天子ですら彼に意見することを遠慮するらしい。
曹操はなぜ一宦官がそのように権力を持てるのか、不思議でならなかった。彼女はまだ従兄弟の夏侯惇や曹仁たちなどの気心に知れた仲間たちとつるみ、利害関係のある人間関係を構築していなかったのでより理解に苦しんだ。そこで百の話を聞くよりも一度見たほうが早いであろうと、屋敷に戻っているであろう張譲を見に行くことにした。
屋敷は長い壁にぐるりと覆われている。
「わが屋敷の何倍であろうか」
曹騰の屋敷もまずまずの大きさであるが、彼自身住まいに執着はなく質素であった。曹嵩を養子とし、曹操を跡継ぎと決めてからはより一層、簡素な暮らしになる。彼女のために財産をできるだけ残したいがためである。
一段低い壁を見つけ、そばに生えている木の陰に入る。誰もいないことを確かめて、彼女はひらひらした下衣を脱いで木の根元に置き袴姿になった。
「さて、どんな人物であろうか」
権力者である張譲の屋敷に忍び込むことは興奮することではあるが恐れはなかった。壁に手をかけ、そっと覗き込むと家人が見当たらなかったのでそっと飛び越え屋敷内に入り込む。
広々とした庭は整えられており、見たことのない派手な花や変わった実をつけている木が植えてある。
「ほう。珍しいものがあるのだなあ」
好奇心の強い曹操であるが、目的は張譲を観察することであるので、植物はあきらめる。葉の多い木の陰に潜み、様子をうかがっていると、何やら話し声と足音が聞こえ始めた。数人の頭を下げ腰を曲げた取り巻きの中に黒い宦官帽が見える。
「あれが張譲か」
背が高いほうではないようだが、取り巻きが己の身を低くしているため、彼の顔が良く見えた。ほっそりとした薄い身体つきで表情が読みづらい。確か歳は四十くらいのはずだが若いのか老いているのかわからない。
「もっと良く見てみたいな」
そう思い身を乗り出したときに、ガサッと茂みの音を立ててしまう。その瞬間に曹操の方へ向けた張譲の視線の強さが彼女に納得を得させる。
「ああ、あれは貪欲な者の目だ」
瞬く間に現れた張譲の護衛たちに取り囲まれそうになった曹操は、向かってきた護衛に砂を投げつけ、こぶしほどの石を槍を持つ手にぶつけた。うまく命中し、護衛は目をこすり、武器を落とす。それをすかさず拾ってから「はあっ!」と円を描くように槍で自分の周りに弧を描く。
「とらえよ!」
張譲の細く高い男とも女とも分からぬ声が曹操の頭に響き、これは戦うべきではないと、逃亡に尽力をそそぐ。向かってきた護衛に槍を投げつけ、もと来た低い壁を飛び越え、一目散にわが家へと逃げ帰った。
素早さのおかげで彼女は護衛を撒くことが出来た。顔も布を覆っていたので誰だかわかるまいと、屋敷の近くの川のほとりで一息つく。
そこで改めて張譲の事を思い返す。特に外見の特徴は感じられない。どこにでも紛れ込めそうな容姿である。しかしあの獰猛で貪欲な目つきと粘っこい媚びたような、男にあらぬ甲高い声が耳の奥に残る。祖父の曹騰は宦官と言えども声は落ち着いて低く温かい。
「うーん。なんだか気色の悪い者であるなあ」
張譲が最高権力を有していることをやはり曹操には納得がいかなかった。無能だとは思わぬが、人間性が祖父と比べて全く低く見えてしまう。しかし聡明な彼女は他にも様々な要因、つまり時代、天子などとの因果関係があるのだろうと、張譲という人物を決めつけることや結論を出すことはやめた。ただ、自分の周りの人間達と違い彼に濁りを感じていた。
こうして曹操はいつの間にか人々が持つ人生の目的の透明度によってその人物を推し量る様になっていく。
後日、張譲の屋敷に忍び込んだ者として、よく似た体格の若い男が処罰されたとこと知った時には、すでに張譲の事に関心を無くしており何も感じなかった。その時にはもう孫子の兵法書を読み漁り、注釈を付け加えているところであった。
息抜きに散策していると、曹操は見慣れない大きな男が周囲を伺いながら町を抜けようとしているのが見えた。凡庸な人物なら無視するが、その大きな男は何か心惹かれるものがあり、気になって後をつけることにした。少し距離をとり、店先の品物を物色しながらついて行く。男が右に曲がった後、かんざしを一つ買い同じように曲がった。一本道なので見失うことはないはずであったが男はいなかった。
「うーん。まかれたか。私は尾行は下手であるな」
己の地面の影が大きくなったのを見て、曹操は先ほど買ったかんざしを手に握りしめ構える。
「なぜ後をつける」
「別に。そちらこそ何をしているのだ」
大きな手の影が伸びてきたのが見え、曹操はかんざしをさっと振り上げたが、すぐに男に手首をつかまれた。
「放せ」
「お嬢さん。かんざしは髪に挿すものですよ」
そう言って男はかんざしを取り上げ曹操の漆黒の髪に挿す。振り返って男を見ると大柄で堂々とした美丈夫だ。誠実そうな黒い瞳をじっと覗き込むように見つめていると、男は顔を赤らめ視線を逸らした。
「どうしてこそこそしている」
「お嬢さんが気にすることではありません」
「ふふっ、お嬢さんか。私は曹孟徳だ」
「あ、あなたがあの月担評で評価されたという……」
「ふふっ。許劭殿のおかげで名が売れたな」
曹操は高宦官、曹騰の孫娘であるということとで幼いころから奔放に育ってきた。四世三公の名門出身である袁紹、袁術に引けを取らず若い頃から注目を集めており、官職のある者のみならず、庶民にもその名は知れ渡っていた。
張譲の屋敷に忍び込んだ件も、曹操の仕業であると皆わかっていた。高宦官である曹騰の手前、張譲ですら手が出せずいた。おかげで人物評価で名高い許劭による月に一度の『月担評』にて名が挙がる。ここで高評価を得ると、その人物は皆高い地位を得ており、彼の評価は正確で世間に影響が大きかった。
「典韋と申す。友人の仇を討ち、追手から逃れているところです」
「ほう。これからどこへ行く?」
「このようなわしでも仕えられる方を探しておりましたが、見つかったところです」
「ふむ。それは良かった」
「どうかわしをそばに置いてください」
「ん? 私のところにか? 会ったばかりの『お嬢さん』に仕えたいというのはいかがなものか」
「何度も会えば良いものとも限りません。わしは一目であなた様に仕えたいと思いました」
本能と義侠心で生きてきた典韋にとって直感的に曹操を自分の人生の主だと悟っている。曹操は何人も観察し考察した結果、一目でその人物がどういう者なのかわかる。
ただこの大らかで力強い男振りに心を乱されるような思いを感じ戸惑ってもいる。
「うーん。そなたを雇う金がない」
「金などいりません」
「そうはいくまい。そうだ私の友人の張バクのところにでも身を寄せるがいい。あやつは気前がいいし、そなたのような仁侠溢れる男が好きだからな」
「はあ」
「さっそく連れて行ってやろう」
典韋は残念な素振りを見せたが、もう心から曹操に仕える気であったので、その勧めすら断ることをしなかった。曹操自身も彼をそばに置いておきたかったが今はその時ではないと思った。
張バクの屋敷に着くとすぐに通され、屋敷の警護をすることに話がついた。
「私がそなたに金と地位を与えられるようになるまで待っておれ」
「御意」
「また会いに来る」
「はい。待っています」
別れてから曹操は典韋に恋をしたのだと気づいた。それでもその恋心をどうにかしたいと衝動的に行動することはなかった。ただしばらくは従兄の夏侯惇によくぼんやりしていると心配されていた。曹操はそれを自嘲する。
しかし典韋を失ったわけではなく、確実に手に入れられることがわかっていたので痛みにはならなかった。
彼女は名と実力があれば欲しいものは全て手に入ると知っている。そして手に入ったものは決して手放すことはないだろうと思っていた。
しかし次に梁冀よって擁立された桓帝を一目見ると、とても優れた皇帝になるでろうと予見し留まる。曹騰は宮廷の中で静かに人物を見極め続けていたため、鑑識眼があった。案の定、桓帝は梁冀一族三百人以上を謀殺し親政を始め、残った宦官たちは優遇され勿論、曹騰も恩恵を賜る。
これで一安心かと思えたが、今度は宦官が権力を持ち始めた。中でも曹騰の目を引いたのは若き張譲である。彼は穏やかさと品の良さで人々の中をうまく立ち回っているが時折見せる鋭い豹のような瞳が曹騰に梁冀を思い起こさせる。
「これはよくない。しかし、もう彼に対抗できるものはおらぬだろう」
漢王朝の断末魔の叫びが聞こえるようだ。生涯心を込めて仕えてきた王朝が汚され蹂躙されることは、わが身を斬られるよりも辛い事であった。彼はもう漢王朝の一部なのだ。
ちょうどよいことに桓帝は一部の貢献度の高い宦官たちに養子を持ち、財産を相続させることを許可している。こうして曹騰は漢王朝を守りたい一心で養子を求める。曹騰の養子になりたいと希望する者は多かった。権力はおろか財産も相当であったので、あわよくばと狙う輩は多い。曹騰としては野心のない平凡な男を養子にするつもりは勿論ないが、欲望だけを目的とする小人も避けた。
ある時、曹氏と姻戚関係のある夏侯氏一族のもので養子を希望する者がいるので面接を行った。勤勉で忠孝を重んじるというなかなか良い評判をもつ夏候嵩巨高だ。彼は末子で家督を継ぐことはなかったが、すでに結婚し一人の子供を設けていた。
「どうして養子になりたいと思ったのだ?」
曹騰は子をあやしながら面接に来た夏候嵩に尋ねる。
「それは、この子のためなのです。どうぞ見てやってください。あなた様ならこの子がどんな子かわかるでしょう」
立派な夏候嵩は柔らかい赤い布にくるまれた赤子を優しく丁寧に差し出す。
「ふ、む。赤子のためとな」
どれどれと布の中を覗き込む。中にはつやつやした豊かな髪とはっきりした眉、するどい目つきで指をしゃぶる、ふっくらした赤子がいた。曹騰に気づくと赤子はじっとこちらを逆に、興味津々とばかり覗き込む様に見入ってくる。数多の皇族の赤子を見てきたが、このような人を見透かすような赤子はいなかった。
「うーむ。このような赤子は確かにみたことがない。生まれたばかりでこのような貴人の相があるのも聞いたことがないわい」
「でしょう、でしょう!」
嬉しそうに夏候嵩は赤子を抱き上げる。
「ほうら、やはり褒められたぞ。いい子だ! いい子だ!」
赤子は嬉しそうに声を上げている。親ばかであると言えばそれまでだが夏候嵩自身も能力が高く、養子にならなくてもそれなりに出世していくであろう。しかし彼は自分自身の事を望んでいるのではなかった。
「わたしはこの子のためなら、出来る限りのことをしてやりたいのです」
「まあ、その気持ちはわからんでもないなあ」
優れた人物を見極めては推挙してきた曹騰にも理解できることである。
「しかし、立派な息子よのお」
その言葉に子をあやす夏候嵩の手がぴたりと止まる。
「え? あ、あの、この子は女の子です」
「! なんと!? おなごとな? もう一度見せておくれ」
「あ、は、はい」
そっと赤子を受け取り、くるんだ布を緩めると確かに男児の印はついていない。股間を見つめている曹騰を赤子は意味ありげに「くひゅっ」と笑う。
「うーむ」
見れば見るほどこの赤子は素晴らしいと思えてくる。もう理由などなく、この子のためなら財産どころか命さえも惜しくない気がしてくる。たとえ、女児だとしてでもだ。
「そなたを養子に決めよう」
「おお! ありがたい! 生涯かけて父と仰ぎお仕えいたします!」
「うむ、うむ」
こうして夏候嵩は曹騰の養子となり、曹嵩巨高となる。そしてこの赤子が曹操孟徳である。彼女は曹騰のもとで健やかに何不自由なく育つ。曹騰も実の父、曹嵩も曹操が何をしても諫めることなく、溺愛して育てたおかげで彼女の器を小さくすることはなかった。
教育から、肌につける衣服まで手ずから選び、まるで天子に仕えるがごとく、曹騰は曹操に全てを与えていく。また彼女の方も全てを吸収していくのは海綿の如しである。曹騰にとっていつの間にか漢王朝ではなく、曹操孟徳が己の全てとなっていくのであった。
初春の麗らかな日の事である。
「おじい様、ちょっと出かけてきます」
そう言って年頃の娘になった曹操は礼儀正しく曹騰に一礼する。
「おうおう。気を付けるのじゃよ」
「はい!」
目を細め曹騰は曹操の小柄ではあるが、姿勢よく堂々とし麗しい後姿を見送った。
曹操は屋敷を出て、ふらふらと宦官の張譲の屋敷に向かう。もう時代は霊帝の時代になっていて曹騰が予見した通り、張譲が中常侍となり朝廷を牛耳っていた。
張譲のことは噂と曹騰の話でしか知らなかった。彼は天子の代わりに政を行い、逆らえるものは誰もいないらしい。天子ですら彼に意見することを遠慮するらしい。
曹操はなぜ一宦官がそのように権力を持てるのか、不思議でならなかった。彼女はまだ従兄弟の夏侯惇や曹仁たちなどの気心に知れた仲間たちとつるみ、利害関係のある人間関係を構築していなかったのでより理解に苦しんだ。そこで百の話を聞くよりも一度見たほうが早いであろうと、屋敷に戻っているであろう張譲を見に行くことにした。
屋敷は長い壁にぐるりと覆われている。
「わが屋敷の何倍であろうか」
曹騰の屋敷もまずまずの大きさであるが、彼自身住まいに執着はなく質素であった。曹嵩を養子とし、曹操を跡継ぎと決めてからはより一層、簡素な暮らしになる。彼女のために財産をできるだけ残したいがためである。
一段低い壁を見つけ、そばに生えている木の陰に入る。誰もいないことを確かめて、彼女はひらひらした下衣を脱いで木の根元に置き袴姿になった。
「さて、どんな人物であろうか」
権力者である張譲の屋敷に忍び込むことは興奮することではあるが恐れはなかった。壁に手をかけ、そっと覗き込むと家人が見当たらなかったのでそっと飛び越え屋敷内に入り込む。
広々とした庭は整えられており、見たことのない派手な花や変わった実をつけている木が植えてある。
「ほう。珍しいものがあるのだなあ」
好奇心の強い曹操であるが、目的は張譲を観察することであるので、植物はあきらめる。葉の多い木の陰に潜み、様子をうかがっていると、何やら話し声と足音が聞こえ始めた。数人の頭を下げ腰を曲げた取り巻きの中に黒い宦官帽が見える。
「あれが張譲か」
背が高いほうではないようだが、取り巻きが己の身を低くしているため、彼の顔が良く見えた。ほっそりとした薄い身体つきで表情が読みづらい。確か歳は四十くらいのはずだが若いのか老いているのかわからない。
「もっと良く見てみたいな」
そう思い身を乗り出したときに、ガサッと茂みの音を立ててしまう。その瞬間に曹操の方へ向けた張譲の視線の強さが彼女に納得を得させる。
「ああ、あれは貪欲な者の目だ」
瞬く間に現れた張譲の護衛たちに取り囲まれそうになった曹操は、向かってきた護衛に砂を投げつけ、こぶしほどの石を槍を持つ手にぶつけた。うまく命中し、護衛は目をこすり、武器を落とす。それをすかさず拾ってから「はあっ!」と円を描くように槍で自分の周りに弧を描く。
「とらえよ!」
張譲の細く高い男とも女とも分からぬ声が曹操の頭に響き、これは戦うべきではないと、逃亡に尽力をそそぐ。向かってきた護衛に槍を投げつけ、もと来た低い壁を飛び越え、一目散にわが家へと逃げ帰った。
素早さのおかげで彼女は護衛を撒くことが出来た。顔も布を覆っていたので誰だかわかるまいと、屋敷の近くの川のほとりで一息つく。
そこで改めて張譲の事を思い返す。特に外見の特徴は感じられない。どこにでも紛れ込めそうな容姿である。しかしあの獰猛で貪欲な目つきと粘っこい媚びたような、男にあらぬ甲高い声が耳の奥に残る。祖父の曹騰は宦官と言えども声は落ち着いて低く温かい。
「うーん。なんだか気色の悪い者であるなあ」
張譲が最高権力を有していることをやはり曹操には納得がいかなかった。無能だとは思わぬが、人間性が祖父と比べて全く低く見えてしまう。しかし聡明な彼女は他にも様々な要因、つまり時代、天子などとの因果関係があるのだろうと、張譲という人物を決めつけることや結論を出すことはやめた。ただ、自分の周りの人間達と違い彼に濁りを感じていた。
こうして曹操はいつの間にか人々が持つ人生の目的の透明度によってその人物を推し量る様になっていく。
後日、張譲の屋敷に忍び込んだ者として、よく似た体格の若い男が処罰されたとこと知った時には、すでに張譲の事に関心を無くしており何も感じなかった。その時にはもう孫子の兵法書を読み漁り、注釈を付け加えているところであった。
息抜きに散策していると、曹操は見慣れない大きな男が周囲を伺いながら町を抜けようとしているのが見えた。凡庸な人物なら無視するが、その大きな男は何か心惹かれるものがあり、気になって後をつけることにした。少し距離をとり、店先の品物を物色しながらついて行く。男が右に曲がった後、かんざしを一つ買い同じように曲がった。一本道なので見失うことはないはずであったが男はいなかった。
「うーん。まかれたか。私は尾行は下手であるな」
己の地面の影が大きくなったのを見て、曹操は先ほど買ったかんざしを手に握りしめ構える。
「なぜ後をつける」
「別に。そちらこそ何をしているのだ」
大きな手の影が伸びてきたのが見え、曹操はかんざしをさっと振り上げたが、すぐに男に手首をつかまれた。
「放せ」
「お嬢さん。かんざしは髪に挿すものですよ」
そう言って男はかんざしを取り上げ曹操の漆黒の髪に挿す。振り返って男を見ると大柄で堂々とした美丈夫だ。誠実そうな黒い瞳をじっと覗き込むように見つめていると、男は顔を赤らめ視線を逸らした。
「どうしてこそこそしている」
「お嬢さんが気にすることではありません」
「ふふっ、お嬢さんか。私は曹孟徳だ」
「あ、あなたがあの月担評で評価されたという……」
「ふふっ。許劭殿のおかげで名が売れたな」
曹操は高宦官、曹騰の孫娘であるということとで幼いころから奔放に育ってきた。四世三公の名門出身である袁紹、袁術に引けを取らず若い頃から注目を集めており、官職のある者のみならず、庶民にもその名は知れ渡っていた。
張譲の屋敷に忍び込んだ件も、曹操の仕業であると皆わかっていた。高宦官である曹騰の手前、張譲ですら手が出せずいた。おかげで人物評価で名高い許劭による月に一度の『月担評』にて名が挙がる。ここで高評価を得ると、その人物は皆高い地位を得ており、彼の評価は正確で世間に影響が大きかった。
「典韋と申す。友人の仇を討ち、追手から逃れているところです」
「ほう。これからどこへ行く?」
「このようなわしでも仕えられる方を探しておりましたが、見つかったところです」
「ふむ。それは良かった」
「どうかわしをそばに置いてください」
「ん? 私のところにか? 会ったばかりの『お嬢さん』に仕えたいというのはいかがなものか」
「何度も会えば良いものとも限りません。わしは一目であなた様に仕えたいと思いました」
本能と義侠心で生きてきた典韋にとって直感的に曹操を自分の人生の主だと悟っている。曹操は何人も観察し考察した結果、一目でその人物がどういう者なのかわかる。
ただこの大らかで力強い男振りに心を乱されるような思いを感じ戸惑ってもいる。
「うーん。そなたを雇う金がない」
「金などいりません」
「そうはいくまい。そうだ私の友人の張バクのところにでも身を寄せるがいい。あやつは気前がいいし、そなたのような仁侠溢れる男が好きだからな」
「はあ」
「さっそく連れて行ってやろう」
典韋は残念な素振りを見せたが、もう心から曹操に仕える気であったので、その勧めすら断ることをしなかった。曹操自身も彼をそばに置いておきたかったが今はその時ではないと思った。
張バクの屋敷に着くとすぐに通され、屋敷の警護をすることに話がついた。
「私がそなたに金と地位を与えられるようになるまで待っておれ」
「御意」
「また会いに来る」
「はい。待っています」
別れてから曹操は典韋に恋をしたのだと気づいた。それでもその恋心をどうにかしたいと衝動的に行動することはなかった。ただしばらくは従兄の夏侯惇によくぼんやりしていると心配されていた。曹操はそれを自嘲する。
しかし典韋を失ったわけではなく、確実に手に入れられることがわかっていたので痛みにはならなかった。
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