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第二部
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1 女友達
芳香はパンティストッキングをするすると履いて足を眺めた。(キラキラしていいね)
ラメが混じった肌色のストッキングは生足よりも綺麗に見える。足の匂いが解消された彼女にとって、もう悪臭のもとになっていた合成繊維は怖くなかった。それでもいつ再発するかもしれないという思いもどこかにあり、見栄えの良いおしゃれを日常的に楽しむことはなかった。
しかし今日は友人の立花真菜とランチだ。まるで男と会うように気合を入れて芳香は身支度を終え、最後はお気に入りのエナメルのストラップシューズを履いた。
「真菜ちゃん、おまたせ!」
「ううん、今、来たとこだよ」
店の前の待ち合わせ用のベンチで真菜はにっこり笑いながら立ち上がる。真菜は柔らかい素材のブラウスとジーンズ姿でフェミニンだ。
「今日も真菜ちゃんは素敵だねえ」
「うふっ、芳香ちゃんもそのワンピよく似合ってるよ」
褒め合いながら店内に入り、静かな奥の席に案内してもらう。真菜とはもう何度も一緒に食事をしておしゃべりを楽しんでいるがまだまだ芳香には新鮮で嬉しい時間だ。また薫樹と芳香が恋人同士と知る唯一の人物でもある。薫樹との出会いを話すと一番、真菜の心を動かしたのは芳香の匂いコンプレックスのことだった。
彼女の『芳香ちゃんって辛かっただろうに頑張り屋だね』という言葉に芳香は訳も分からず嬉しくて涙が滲んだ。
「どう? 兵部さんとはうまくいってる?」
「うん、まあ、なんとか。ちょっと変わってる人だからよくわかんないけど」
「そっかあ。でも会社でたまに兵部さん見かけるけどなんか雰囲気かわったよ、なんか人当たり良くなったっていうか」
「へええ。そうなんだあ」
芳香の恋人、兵部薫樹は調香師としても勿論、仕事もよくできると評判だが、芳香が勤めているころは、そっけなく冷たい仕事人間の印象だった。
「この前『立花さん、おはよう』って名前付きで挨拶してくれるもんだから、その時側にいた、なんだっけあのイメージガールに睨まれちゃって……」
「えっ! 睨まれたの?」
オレンジジュースを一口啜って真菜は頷きながら続きを話す。
「そそ。『フォレストシリーズ』のモデルとは思えないよ、実際はきつくて怖いったら――」
イメージガールと言えば、一度、薫樹と一緒にカフェにいるところを見かけたことがある。年齢は恐らく二十代前半で、芳香と真菜より若いだろうが、堂々として迫力があり、しかもセクシーだった。その時の二人がとてもお似合いで、芳香はそっと淡い恋ごごろを胸の奥にしまい込んだ。
「そんな暗くならないでよ。大丈夫だよ、兵部さんはあの子に興味ないみたいだし」
「前はそう言ってくれたけどね」
「気にしない気にしない。ほんと入社してからずっとクールなイメージしかなかったけど、芳香ちゃんが兵部さんをいい感じに変えてるよ」
「そ、そうかな」
「うんうん」
「真菜ちゃんとこはどう?」
「えっとねえ――来年、入籍しようかなって」
「へええー! おめでとうー!」
「まだまだわかんないよ」
そういいながらも真菜は嬉しそうに頬を染めている。彼女の恋人は元々近所の幼馴染だそうだ。子供のころから姉弟のように育ち成人するまで恋愛感情を持たずに過ごしてきた。それが今は恋人なのだ。どこでどんな出会いがあるか本当にわからないものだと芳香は思う。
そして明るく優しい真菜がいつまでも仲良くしてくれますようにと芳香は願う。
2 イメージガール
今夜は薫樹のマンションに泊まる。彼は一緒に住もうと言ってくれているが、まだ芳香には決心がつかない。
無機質な彼の部屋が生活感にあふれると嫌になるのではないかと話すと、やってみないとわからないという返答でとりあえず、金曜日の夜を彼のマンションで過ごすところから始める。
料理を全くしない薫樹の台所はピカピカで使うのをためらう。とはいえ、料理をしないわけにはいかないだろう。
全て外食でも経済的に困ることはないという恐ろしく芳香と生活レベルの違う話をされると余計に一緒に暮らす自信がなくなる。
「芳香が作りたいなら食べるよ」
「あ、はあ……」
意外なのは好き嫌いが全くないことだ。味付けにもさほどうるさくはない。ただし合成香料が使われていると食事と思えなくなるらしい。
そして体臭にならないように食べ物に気を付けてきた芳香の手料理を喜んで食べた。
「美味しいよ」
「よかったあ……」
薫樹は仕事以外のことにはあまり頓着がない様で、思ったより細かくなかった。
家でも調香の仕事をするために匂いがこもらない様にしているが、芳香がやってくるときには仕事をしないつもりのようで料理が香り高くてもよいらしい。
食事を終え、片付けていると薫樹も手伝ってくれる。
「もっと亭主関白だと思ってました」
「ん? 作業はおっくうじゃないよ」
「さ、作業……」
「結婚したらマンションはやめて二件家を建てればよいかな。それとも隣を借りるか……」
「は、はあ……」
まだまだ馴染むまでに時間がかかりそうだが、嫌だと思う部分は今のところ出てこない。
風呂をため、今夜こそ、結ばれるのだろうかと芳香が緊張していると、インターフォンが鳴った。
「はい、どちら様?」
「兵部さーん、アタシでーす。美月でーす」
「え。美月さん? どうしてここに?」
「ちょっと仕事のことで悩んでてぇー。社長にここ教えてもらたんですぅーお部屋に入れてくださーい」
「会社じゃダメなの?」
「会社じゃあんまりお話できないじゃないですかあ」
「……。わかった」
インターフォンを切り、薫樹は振り返る。
「今から客が来る」
「えっ、あ、わ、私、どうすれば」
「ん? 何もしなくていいよ。仕事の話をしたいらしい」
「居ていいんですか?」
「いいに決まってる」
「はあ、じゃあ、お茶でも淹れますね」
「ん、すまない」
玄関に薫樹が迎えに行っている間に湯を沸かし、お茶の支度をする芳香は、ちょっと新妻気分に浸ったがすぐにかき消される。
「こちら、イメージガールの野島美月さんだ」
「野島、美月でーす」
美月は低いテンションで名前を告げてくる。
「か、柏木です……」
芳香も暗くなる。
薫樹だけマイペースに「ああ、彼女は僕のフィアンセだ」と付け加えた。
「フィアンセえええー?」
「ああそうだ。まだ一緒に暮らしてないけど、とりあえずそこに掛けて」
「はーい……」
芳香は真菜から話を聞いていたので、さすがにこの状況は分かった。美月は仕事の相談という理由をつけてはいるが薫樹を狙っているのだ。
薫樹と美月はテーブルで話をしている。お茶を出し、他にすることがないので、最近買った二人掛けのソファーに座り雑誌を読んだが、居心地が悪くなり、風呂にでも入ろうと浴室に向かうことにした。
3 浴室にて・1
「お似合いだったなあ……」
薫樹と美月が向かい合わせで座っている姿を思い出す。
ボディーシートのコマーシャルをテレビで見た。その時の美月はふわっとした長い薄茶色の髪に、グリーンのシフォンドレスを纏い伸びた長い手足をするっとシートで滑らかに拭きあげる森の妖精だった。まだ歳若く新人だが、今回のイメージガールに抜擢されたことで各界から注目を集めているらしい。
今日の美月はコマーシャルの印象とは全く違い、ツヤツヤしたピンクゴールドのワンピースでキュートな女の子だ。
薫樹はラフではあるが薄いブルーのドレスシャツで、相変わらずクールさを引き立たせている。
髪や肌の色素の薄さは彼の硬質な雰囲気を柔らかく品の良さに変えているようだ。
「お内裏様とフランス人形みたいだったなあー」
写真を撮りたいくらいに綺麗な二人を目の当たりにすると、嫉妬するよりも納得してしまうのだった。
薫樹が自分の事をフィアンセと紹介してくれていることが芳香にとって嬉しいと、今はまだ素直に思えない。
長らく湯船につかり、今夜のことを思いながら身体を撫でたが、気分が暗くなってきたので上がることにした。
芳香が身体を拭いていると、薫樹がやってきた。
「ああ、もう出るのか。一緒に入ろうかと思たんだが」
「あ、彼女、帰ったんですか?」
「うん、待たせて悪かった」
「いえ、仕事ならしょうがないですよね」
「ん。――冷えるといけないから早く服を着たほうがいい」
「そうします」
芳香はバスタオル一枚の半裸なのに薫樹は特に気にするふうでもなく、シャツのボタンを外し始める。
恋人同士でもまだ付き合いが浅いのだから裸を気にしたりはしないのだろうかと思いながら芳香は言われたとおりにパジャマを着る。
男だからなのか薫樹は恥じらうこともなくすっかりヌードになり浴室へ入っていった。
長身で細身の背中がまるで白い蛇のような怪しさを感じさせる。初めてのベッドで彼の身体が芳香の身体の上を這うように滑らかに動いたことを思い出す。
「見ちゃうと恥ずかしいな」
挙動不審になりながら芳香は浴室を後にした。
4 浴室にて・2
浴槽では珍しく薫樹が頭を悩ませていた。
「面倒だなあ」
野島美月が仕事のことでの相談というのは口実で実際は薫樹を口説きに来ていた。芳香がいたのでしつこく長居はしなかったが、「また来ます」という言葉には正直まいる。
ボディーシートのイメージガールを選ぶときに、モデルたちの宣材写真を眺めたが、シートの完成に満足していたので誰でも良く、周囲の有力者が美月を選んだ。美月に対して薫樹は何の感情も抱いていない。これからもないだろう。
今までもそうだったように迫られても心が動かなかったため全く相手にしなかった。たとえ、周囲が憶測し、勝手に噂を流されても、平常通りの薫樹にいつの間にか、噂も相手も消えている。
今回もそのように振舞えばよいのだが、問題は芳香だ。
彼女はこういう状況には勿論不慣れであるし、略奪に対して引いてしまう方だろう。強気に出て張り合うことはない。付き合ってそばにいて分かったことだが、芳香は感情の起伏と匂いのオンオフが揃っている。
勿論常人には感じられない程度ではあるが、喜んでいるときや嬉しいときは麝香の香りが強くなる。そして否定的な感情の時に香りが薄まるのだった。
「あの子のせいで、今夜はきっと芳香の匂いが楽しめないな……」
残念だが、これからいくらでも時間はあるという結論で薫樹は次の手を考え始めていた。
5 フィトンチッドの効果・1
寝室は広々としてベッドもキングサイズだ。気持ち良く潜って入るが芳香はこのベッドのサイズがどうして個人に必要なのかと思う。薫樹は女性と付き合ったことがないと言っていたが、この広さは一体何なのだろうか。
「まさか、えっちだけはするとか……」
以前、経験がないと言っていたがそれにしては、やけに触り慣れていて初めて触れられるのにあんなに気持ちがよかった事が芳香にあらぬ心配をさせる。美月のことや今まで聞いた噂などをごちゃごちゃ考えていると薫樹が寝室に入ってきた。
「遅くなったね。今夜はもう休もう」
「え、あ、はい」
覚悟を決めてきていたのに大人しく寝ようと言われまた芳香は動揺する。(美月さんの事考えてるのかな……)
シーツにするりと滑り込み、薫樹は隅にいる芳香を引き寄せると、自分の方を向かせ「上からだったな」と優しく口づけをする。
「ん……」
キスだけは何度か交わしていて、その度に芳香はこのまま強引に奪ってほしいと願うが薫樹は案外紳士なのだ。
「おやすみ」
「あ、おやすみなさい」
薫樹に腕枕をされ向かい合っているが、しばらくすると芳香はくるりと眠ったまま背を向け、薫樹のてのひらに頬を置き、指先を嗅ぎながら「うーん、いい匂いー」とむにゃむにゃ寝言を言った。
「幸せそうだな」
考え事をしている薫樹に眠気はまだ訪れておらず、芳香が自分の指先の匂いを嬉しそうに嗅いでいる様子に微笑んだ。
「今度逆さまになって眠るのはどうだろうか」
芳香の足の匂いを嗅ぎたいがこの体勢では難しい。試行錯誤が必要だと考えたが、芳香の幸せそうな寝顔を見ると満更でもない。
これまで調香師としてやってきた仕事は数々の成功をおさめ満足しているが、何も施さない自分の指先の香りがこのような効果を発揮したことに薫樹は不思議な感覚を覚える。
「香りには香りだな」
結論が出たので薫樹も安らかな眠りについた。
6 フィトンチッドの効果・2
芳香が目覚めるとベッドは空っぽだったが森の香りが残っている。
「すっごいよく寝た気がする……」
初めて他人と朝まで眠った。昨夜は何もしないで寝ることに、複雑な思いをしばらくしていたが気づくと深い眠りに落ちていて、今、もう朝だ。
薄まり始めた薫樹の残り香を胸いっぱいに吸い込む。真菜が言っていた薫樹の残り香を女子社員が残さず嗅ぐ話を思い出し、芳香も真似る。
「いい匂いだなあ」
しかしこの香りは彼のプライベートの香りで芳香しか知らないと思うと、少しだけ恋人だという実感が沸く。薫樹は家を出る前には必ず自作の香料を身に着ける。
季節や天候によってつけるものが違うので、これが薫樹の香りと言ったものはない。この森の香りだけが彼の持つ香りなのだ。
芳香は四つん這いになり、薫樹が寝ていた辺りに鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。まるで犯人の匂いを追っている警察犬のようにくんくん嗅いでいるところへ薫樹がやってきた。
「おはよ。何してるんだ」
「はっ、あ、おはようございます。ちょ、ちょっとシーツがしわくちゃだなっ、なんて」
慌てて正座し適当に言い訳すると薫樹は微笑んで「そうか、気にしなくていい。お茶を淹れたから起きておいで」と去った。
「あー、やばかったー」
流石に匂いを嗅いでましたとは言えず、軽く寝具を直して起き出す。
伸びをすると身体中が軽く気持ちが良い。彼の香りの効果のすごさに「自分の匂いの香水作ればいいのにな」と芳香は白いシーツを眺めて思った。
7 真菜の秘密・1
薫樹が出張でいない休日を、ちょうど同じく恋人が出掛けているという真菜と一緒に出掛けることにする。
二人は新しくできたシューズショップに向かうことにした。
「とにかく可愛い靴が欲しいなあ」
芳香の願いに真菜は「私は最近外反母趾気味だからちょっと痛くてさー」とラインストーンのついたまつ毛をしばしばさせた。Tストラップでヒールの太いピンクのパンプスは真菜に良く似合っている。
真菜はいつも可愛いパンプスを履いていて芳香はいつも憧れていた。足の匂いが改善したおかげで、消臭にそこまで力を入れる必要が無くなった今、欲しいものは何かと尋ねられたら『かわいい靴』なのだ。
それぞれ目的の靴の方へバラバラと向かい試し履きをすることにした。
芳香はウキウキと宝石を眺めるようにパンプスを眺める。
今履いているエナメルのストラップシューズも気に入っているが、もう少し大人っぽくて可愛いものを探す。
選び慣れていない芳香にはどのシューズも眩しく映りなかなか選択できないが、試し履きができることだけでも満足だ。
選び終えた真菜がやってくる。
「どう? 芳香ちゃん、いいのあった?」
「うーんとね、これとこれで迷ってるの」
どちらもアイボリーの革製でバックにリボンが付いているが、爪先の形がポインテッドトゥかオープントゥの違いがある。
「ああ、オープンいいじゃない」
「靴が空いてるって、平気かなあって思って……」
「ふふふっ。通気性がいい方がいいんじゃない?」
「そ、そっか。じゃ、こっちにしようかな」
「うんうん、芳香ちゃん、お手入れしてるだけあって足すごい綺麗じゃん。ペディキュアでも塗って爪先見せなよー」
「ええっ!? 爪先を見せるの?」
「うん。そうだよ?」
隠し続けてきたものを見せるという発想がなかったため真菜の発言にドキリとしたが、ペディキュアの魅力に芳香はうっとりした。
「ふふっ、買い物したらのんびりできるとこでランチしようよ」
「うんっ!」
新しい靴を購入し、二人はホクホクとランチに向かった。
長居のできるオープンテラスのあるスペイン料理屋でランチをとることにした。
少し町から離れているおかげで、人もまばらでゆったりできる。
「誰にも会わないし、ニンニクたっぷり食べちゃおっかなー」
「ニンニクたっぷり……」
ごくりと芳香は喉を鳴らす。
「二人で食べたら臭くないしさー」
「う、うん。食べよう!」
「パエリアは必須だよねえ。アヒージョも食べたいしー」
「うわ、生ハムとニンニクのスープだってえ」
「ああ、いいね。たのもたのも」
食事も随分と楽しめるようになり芳香は毎日が嬉しい。
ゆったりした気分で食事をしていると隣のカップルが野島美月の話をしているのが耳に入った。
「あのボディシートのモデル、この前、撮影してるの見たよ」
「へえー、やっぱり可愛かったの?」
「実物もよかったなあー」
「ちょっとぉーヘラヘラしないでよ」
「芸能人に怒んなよー。ああでも取り巻きができてた男がいたなあ。タレントじゃなさそうだけど」
「どんな人?」
「背が高くてスーツがなんかビシッと決まってさ、眼鏡かけてたけどあれは男から見てもイケメンだな」
「ええー、イケメンのメガネ男子ぃー。なんで呼んでくんないのよぉー」
「なんだよ、お前、自分の事棚に上げて」
ワイワイ盛り上がった後カップルはいちゃいちゃしながら席を立った。
ため息をつく芳香に真菜は首をかしげて尋ねる。
「どうかした? 匂宮さま、モテモテじゃん」
「んー、それがね……」
先日、野島美月が薫樹のマンションにやってきたことを話す。
「ええっー! イケイケだねー、そんな雰囲気だけどさ」
「兵部さんは、全然その気がないのは分かるけど、あんな可愛い子がライバルって……」
同情するように真菜は優しく見つめる。
「確かにモデルがライバルだと心が折れるよねえ」
「でしょう?」
「でもさ、兵部さんはさあ、今まで誰のことも好きじゃなくって芳香ちゃんが最高だと思ってくれてるんでしょ」
「う、うん。に、匂いがね……」
「ふふっ。そういうの大事だよ?」
「かなあ」
そうだといいなと思いながら芳香はふと思っていた疑問を真菜に投げかける。
「あのね、こんなこと言うと感じ悪いかと思われるかもしれないんだけど……」
「ん? いいよ、言って」
「あ、あの、私と兵部さんがお付き合いしてるって聞いたとき真菜ちゃんどう思った?」
「どうって、うーん、良かったねって思った」
「そうなんだ。あの、兵部さんってさ、モテモテじゃない。そんな人と一般人の私が付き合ってるってさ、周りの人が聞いたらどう思うのかなって……」
「ああ、妬みとかの心配してるのね」
「うん。モデルの野島さんなら兵部さんと付き合ってても納得できるっていうか」
「そうねえ、普通はそうかもしんないね」
「真菜ちゃんってそういう怖いとこないから話せたの」
「ふふっ、どうかなあ? 今の彼氏が居なかったらやっかんでたかもよ?」
「え、そうなの? じゃ、真菜ちゃんの彼氏さんはすっごいカッコイイんだね」
「普通だけどね。ただお互いに満足してるから、他の人のことを妬むことはないかな」
そろそろ結婚が近いだろう真菜は頬を染めとても幸せそうだ。
「芳香ちゃんたちは匂いがぴったりきてるんだと思う。うちもぴったりなんだ」
「へえー。何がぴったりなの」
「ふふっ。芳香ちゃんだけには言っちゃうかな」
一瞬きらりと真菜の瞳が光る。
芳香は興味津々で真菜の話を聞き入った。
8 真菜の秘密・2
――高校2年の夏の事。
夏期講習の帰り道、隣に住んでいる一つ年下の鳥居和也が泣きべそをかきながらサッカーボールを片手に汚れた足でとぼとぼ歩いてくるのが見えた。
「和也、どうしたの?」
泣き顔を見るのが初めてだった。幼いころから、明るく朗らかで更にはリーダーシップも発揮している和也は誰もが屈託も屈折もない好青年になるだろうと思っている。
「足、くじいて……。レギュラー外された」
真菜に気づき、目を腕でゴシゴシ擦ったが間に合っていなかった。
「まだ一年じゃん。元気出しなよ」
「んんっ」
長年サッカーをやり続けてきて、初めての挫折を味わう瞬間だ。普段の明るくまっすぐな表情を知っている真菜は、この泣き顔の幼気な様子に思わずときめいてしまう。いけないと思いつつ、こんな可愛い様子を見ていたいと思った。しかしその時はそれ以上何もすることはなく立ち去った。
この時に付き合っていた彼氏に真菜は不満を持っていた。俺様なのだ。真菜は外見が柔らかい雰囲気で顔立ちもぼんやりとしているせいか、従順にみられることが多く、交際を申し込んでくる男はいつも俺様タイプだ。
公園のベンチで二人座りながら話しているときだった。
「お前、もっとスカート履けよ」
「え、なんで」
真菜はジーンズが好きで制服以外の私服はほぼパンツスタイルだ。学校の制服と私服のギャップがあるせいか付き合うとまず言われるのが服のことだ。
毎度のことだと思いながらそろそろ我慢の限界を感じる。
男たちはいつもそうだ。スカートを履け、髪をもっと伸ばせ。
「ちっ、鬱陶しいな」
「え? なんか言ったか?」
「ううんーなにもー」
ムカムカし始めた真菜は足元に落ちていた小枝を拾い、ベンチの後ろの隙間のから彼氏の尻に枝を差してやる。
「いってええっっ! なんだっ! なんだ?」
立ち上がりキョロキョロとあたりを見まわす彼を見てほくそ笑んで知らんぷりをした。痛がる顔を見て少し興奮する。
イメージが違うということで別れてきた男たちにこっそり肉体的に痛みを与えて悦に入っていた。
そうやって過ごす高校生活はあっという間に終わり、受験も無事終わって地元の大学に入学した。
もう制服はないのでイメージを勝手にもたれることが無くなりほっとする。しばらく男はいいやと思い、女友達と行動することが多くなった。
ある時おしゃべりに花を咲かせていると、誰かが「あたしはどMだから~」と言い始め、それに他の友人たちも賛同し、次々「あたしもなんだー」と言い始めた。真菜は自分にはMの感覚はなかったので黙って聞いていたが、皆の話を聞くうちにどうやらS側だということを自覚する。
「この前さあ、彼氏にちょっと縛っていいかって言われちゃってさあー」
「ええー、SMじゃーん」
「ソフトならいいよねえー」
男の目を気にしないセックスの話はどんどん過激になっていく。共感を得たのは友人の彼氏の感覚だった。
「彼氏がどSでさあー、泣かせようとするんだよねえー」
「やっだー、イジワルゥー」
泣き顔を見ると興奮するという話にふと和也の顔が浮かぶ。あれは『萌え』なのかなと真菜は一人回想に耽っていた。
9 真菜の秘密・3
化粧品会社に就職も決まり、新人歓迎の飲み会に参加した帰りだった。
ほろ酔いで気持ちよく帰っていると和也が歩いている。
「あら、久しぶり春休み?」
「うん。コンビに行くとこ。そっちは飲み会帰りってやつ?」
「和也でっかくなったねー。大学でもサッカーやってるんだっけ? 高1のとき泣いてたの思い出すと感慨深いわねえ」
「なんだよー。先に社会人になったからって大人ぶって」
「ふふっ、まったく男臭くなっちゃってさあ」
アルコールでふらつき、グラッと真菜はよろけた。
「おっと、あぶねえ。そこ溝だぞ」
「あ、サンキュ。いい子いい子」
身体を支えてくれた和也の頬を思わず、つねってしまう。
「あ、い、痛たっ、な、なにすんだよぉ」
「ごめんごめん」
恋人たちにこっそり行ってきた行為をうっかり和也にしてしまい真菜はやばいと思ったが、次の言葉で酔いがさめる。
「子供のころから変わんないなあー。学校行ってる間は大人しそうにしてたのに」
「えっ」
「よく小っちゃい頃お仕置きごっこで尻叩かれたり、つねられたりしたよなあ」
「そ、そうだっけ……」
すっかり忘れていた幼児期のことを思い出す。
今でこそ和也は真菜の背丈を越しているが、小学校に入る前などは真菜の方が頭一つ大きかった。
隣同士で近隣に子供が少なくよくお互いの家を行き来して遊んでいた。
当時流行っていたアニメの影響だろうか。お仕置きごっこと称して和也の小さくて柔らかい尻を叩いたりつねったり、ある時には噛んだりしていたことを思い出した。
そしてその時の和也の表情も。
「そういや、喜んでたじゃん。お尻叩いてやると」
「えっ、変なこと言うなよ」
さっと目を逸らす和也に被虐的な要素があることを真菜はなんとなく勘付く。
自分がS系であることを自覚してから、Mっ気のある男性を探し当てる癖がついていた。いることはいるがどうもMの男は奉仕をしたがるのでそこが真菜の望むものと違っていた。
子供のころからの幼馴染に男としての意識を全くしたことがなかったが、今、ちょっとつついてやる程度の言葉攻めで和也から初々しい態度を見せられ、真菜は興奮し始めている。
「ねえ。今、彼女とかいるの?」
「ん? いない。あんまり、続かないんだ」
「なんで。和也は優しいから昔からよくモテてたし大事にするでしょ」
「うん。優しくしてるつもりだけど、相手からするとつまんないんだってさ」
「へえぇ。強気に出て言うこと聞かせようとか思わないの?」
「俺、そういうのダメなんだよな」
がっしりした体格なのに顔は幼げで小動物のような表情をする。
「和也ってかわいいね」
「か、かわいいってなんだよ」
「ふふっ。――あんたMなんでしょ」
「えっ、ち、ちが……」
「違わないでしょ?」
「誰にも言わないでよ? なんか、たぶん、俺――Mなんだと思う」
真っ赤になって下を向く和也を真菜は泣かしてみたくてたまらなくなる。
「内緒にしてあげるからさあ。――私の言うこと聞いてくれる?」
「え、何、すんの?」
「別に朝帰ったっていいんでしょ? 家」
「ああ、別にいいけど」
「じゃ、そこのラブホでお仕置きしてあげる」
「ええっ!?」
「黙ってついてきて」
「ん……」
やっと望む相手が見つかった気がして真菜は即行動に出る。和也も抵抗せずに真菜について歩いた。
10 真菜の秘密・4
目についたシンプルな部屋に入り、真菜はさっさとシャワーを浴びて髪を乾かす。
「あー、さっぱりした。和也も入っておいでよ」
「え、う、うん」
主導権を握るのはいつ振りだろうか。和也は真菜の言う通りに素直に浴室へ行く。
広いベッドに大の字で寝っ転がり鼻歌を歌っていると和也が半裸でやってきた。
「真菜、ほんとに――やんの?」
「うん? やだ?」
「だって、俺たち付き合ってないし。こういうことは気軽にしない方がいいと思うんだ。もっと自分のこと大事にした方がいいんじゃ」
「ぷっ! 和也ってば乙女みたいっ、あははっ」
生真面目な和也を見るとますますたまらない気分になり、真菜はタックルするように押し倒す。
「わあっ! あぶねえ」
「細かいこと言わないの。目をつぶって寝てなさいよ」
和也の上に跨いで乗り、目についた小さな乳首をつねる。
「い、痛っぅ」
「ふふっ」
やはり痛がる声の中にも甘さを感じる。唇を重ねると和也は優しく吸い付くので真菜はこじ開け、入るだけ全部の舌をねじ込む。
「う、ふっ、ま、な、くるしっ」
男のくせにそんな可愛い声を出すなんて反則だと思いながら真菜はどんどん興奮する。
服で隠れる見えない鎖骨やら肩周りやらを甘噛みしていると真菜の尻を和也の起立したものがノックする。
「ここも、こんなに大人になっちゃって。最後みたときってかわいいどんぐりみたいだったよねえ」
「そ、そんなこと、言うなよ」
恥じらいながらもますます起立は硬くなっていく。
「じっとしててね」
真菜は手を添えて自分の中へ和也の一部を導いていく。
「あ、うぅ」
「んんんっ、和也っておっきっい」
「ああ――真菜……。なんか、いけないことしてる、気がする……」
お互いに愛情を確かめ合ったのではない。幼い頃のお仕置きごっこの続きをしているような錯覚なのだろうか。成人に達しているのに、大人にばれたらまずい秘め事のような言い様だ。
「あ、ん。き、きもち、よくない、の?」
ゆるく腰を回転させ真菜は尋ねる。
「うっ、そりゃ、きもち、いいけどっ、あっ、そんな動かないでっ」
たまに乳首をつねると真菜の中の和也がビクンと跳ねる。
「きもち、いいけど、自分が動くばっかりだと、疲れる、わ、ね」
「お、俺も、動いていい?」
「ん、動いて」
「上になってもいい? このまま、動くの、ちょっと難しくて」
「しょうがないわね。いい、わよ」
和也は軽々と真菜を抱いたままくるりと上下入れ替わり、腰を前後に使い始めた。
上から自分を見下ろすような表情は和也には一切ない。哀願するような顔つきを見せる。
「ごめん、もう、イキそう」
「あ、ん、まだ、だ、めっ」
苦悶する和也の尻を強くつねると、真菜の中で硬度を増し膨張する。
「くあっ、ううぅぅっ」
「はっ、あぁあん、あ、んっ」
「あ、はっ、はっ、ごめっ、出ちゃった……」
「つねられてイクなんて……」
和也が達するときに実は真菜も絶頂感を得ていたが、そのことは黙っておくことにした。
「真菜……。すごく……良かった」
「ん。私も、こんなに良かったの初めて」
口づけを求めてくる和也の髪を撫でながら真菜は不思議と愛情が沸いてくる気がしていた。
「あのさ、こうなったら付き合わない?」
真面目な和也は神妙な口調で言う。
真菜は少し考えて「そうだね。いいかもね」と言いながら次を続ける。
「今度さあ、縛ってもいい?」
「ええっ!? ――い、いいよ」
和也は恥じらいと嬉しさを混同させた表情で承知した。
11 真菜の秘密・5
芳香は真菜がSであるということに驚いた。見た目はフェミニンだが実際は頼もしい姉御肌でリードしてくれる真菜を勿論Mだとも思わないが、そこまでSっ気が強いとも思っていなかった。
「こういうさあ、趣向っていうのかなあ。好き嫌いってことじゃないと思うの。ほんと合う合わないっていうか。今の彼以外に私が合う人ってたぶんいないんじゃないかな。これからもし出会ったとしても、もうその時には和也といろんなことを積み上げたあとだと思うしね」
「はぁー、なんかすごく説得力ある」
「ふふっ、だから兵部さんもきっとそうだよ。どっちかっていうと芳香ちゃんの方がわかんなくない?」
「え? なんで?」
「だって、兵部さんは初めて好きになった人が芳香ちゃんだけど、芳香ちゃんは今まで好きになった人いるでしょ?」
「え、うん、そうだけど」
「匂いのことが解消されたらさあ、芳香ちゃんはもういつだって恋ができちゃう状態じゃない」
「あ、そ、そっかあ」
「だから兵部さんのことより芳香ちゃんの方が実際は心配ってこと」
「うーん。そうかなあ」
「先のことは、わかんないけどね。でも無駄に心配しなくてもいいと思うよ」
「そうだね。ありがと」
「ふふっ」
珈琲をおかわりして店を出ると日が傾き始めていた。
「じゃあ、またね」
「うん。またねー」
真菜と話をしてすっきりした芳香は薫樹の帰りが待ち遠しくなる。
そして今度一緒にニンニクを食べてみたいと思った。
12 ルームフレグランスの調香
週末に芳香が薫樹のマンションを訪れるようになってから2ヶ月ほど過ぎたが一緒に眠るだけの朝を迎えている。
ここのところ夜遅くまで自室の研究室にこもっている薫樹は疲労気味だが、芳香に会うとほっとする自分を感じていた。
「さて、今回は天然精油だけ使ってみるか」
何本かの香料を選び出し机に並べる。薫樹が作ろうとしているのは芳香との初夜を彼女が安心して迎えられるためのルームフレグランスだ。
香りのイメージはもうすでに出来上がっている。控えめで奥ゆかしい生真面目な芳香にはリラックスが必要だが、薫樹の指先の香りだけではリラックスし過ぎて眠ってしまう。催淫効果も必要だろう。
芳香のムスクの香りと自分自身のフィトンチッドの香りを考慮して配合を考える。
トップノート(香りの第一印象)が自分の指先なら、ラストノート(残り香)は芳香の爪先だろう。つまりミドルノート(メインの香り)をうまく配合しなければならない。
トップノートは薫樹自身、自覚はできないが森の香りだと芳香が言うので、シルバーファーにクミンを加える。トップノートは30分もすれば消えてしまうので、まずはリラックスと刺激を感じさせることにする。ミドルノートは二時間近く香りを保持する。つまり行為の最中、香り続けているだろう。
クミンの催淫効果を引き継がせるべく、イランイランと安心感を得られるだろうジャスミンを使用することにした。
最後のラストノートはもう芳香の香りだけで薫樹には十分だが、芳香に不満を残さないようにバニラとサンダルウッドを処方する。これで最後まで不安感のない状態をキープできるだろう。
黙々と作業をしていると、ふっと先日食事をした時のことを思い出した。
芳香の手料理を褒めると、彼女はほっとした様子で「よかったぁ」と柴犬のような黒目がちな目を細めて笑んだ。
その笑顔を思い出した瞬間、薫樹は胸がドキリとし、イランイランの雫を多くビーカーに垂らしてしまった。
「あっ、量が倍になってしまったな……」
今まで、このようなミスを犯したことがない。初めて味わう『恋』というものに薫樹は気持ちが温かくなる。
「ふむ」
あっさりとした地味な顔立ちの芳香の顔を思い出す。いないときに彼女を思うことを「悪くない」と、嬉々として作業が捗った。
13 撮影現場
『ボディーシート イン フォレスト』のコマーシャルも第3弾目だ。今回は森の妖精に扮装した野島美月が仕事で汗だくになり疲れ切っているサラリーマンをそのシートで拭いてやるというものだ。
男性タレントは 芸歴は長いが小さな劇団員の、活動場所が主に舞台であるため、このコマーシャルがメジャー進出第1弾となるようだ。
外回りをして髪はぼさぼさ、汗だくでずれた眼鏡を直しながらとぼとぼ歩いているところへ、美月が登場し、森林浴へといざなう。
芳香は真菜にコマーシャルの撮影場所が真菜と薫樹が勤め、自分の前回の職場である会社『銀華堂化粧品』の付近で行われることを聞き、仕事の休憩時間に見に行くことにした。
今の職場は『銀華堂化粧品』から歩いて15分の場所にある。もしかしたら薫樹を見ることが出来るかもしれないと芳香は秘かに期待した。
休憩時間は一時間なので店の自転車を借り、昼食を速やかに済ませて現場に向かうと、もう人だかりが現場を覆い隠して、人の隙間からチラチラ美月が見えるだけだ。
「ああー。すっごい人だなあ。みんなどこから撮影の事知るんだろう」
真菜はいるだろうかと見まわしたが、あまり興味がないと言っていたのでやはりいそうにない。
「薫樹さんはいるのかなあ」
撮影をしている現場から少し離れたビルの陰にスーツ姿の長身の男が見えた。
「あっ、あんなとこにいた!」
どうやら女性記者から取材を受けているようで、メモを取っている女性に薫樹は腕組みをし、眼鏡を直しながら答えている。
記者はメモをとりながら少しずつ薫樹との距離を詰めていき、鼻先を回しながらうっとりした表情で、もはやペンは動いていない。そういった態度に慣れているのだろう薫樹は近づく女性に対して眉一つ動かさない。
「はあ……。薫樹さんっていい匂いのする花みたいだなあ……」
遠目から見ても素敵だと思う反面、女性を惹きつける様子は見ていて辛い。
これで薫樹が嬉しそうに笑顔で対応していたならば、彼のマンションへ訪れる足が遠のくだろうと芳香は考える。
気を取り直して撮影現場を見るともう撮り終わっていたようで、美月はにっこりと取り巻く人たちに笑顔を振りまいている。
「うわー。かっわいいなあー」
改めて芸能人を間近に見ると、恐ろしく一般人とは、もちろん自分とは違う生き物に見える。
「はあ……。ため息しか出ないや」
何をしに来たのかよく分からなくなったが時間が迫ってきたので急いで店に帰ることにした。
14 園芸ショップ『グリーンガーデン』
「戻りましたー」
「おかえり、どうだった? 撮影は」
店長の小田耕作が目じりを下げて尋ねる。
「人が多すぎてあんまり見えなかったです」
「ほお、そいつは残念だったねえ。彼氏には会ってきたのかい?」
「えっ、いえ。彼は仕事中だったかな。えっと水やってきます」
「うんうん。外のハーブに頼むよ」
「はーい」
――この園芸ショップ『グリーンガーデン』は真菜が仕事帰りに立ち寄るスーパーの店舗内にあり、小田耕作とその妻、木綿子の夫婦経営だ。アルバイト募集中の張り紙を真菜が見ていて芳香に情報をくれたのだった。
面接に来た時に初老の小田夫婦のおっとりした優しい様子と、販売している花が主に夫婦が大事に育てているものであることに芳香は感動し、是非ここで働かせてほしいと頼んだ。
小田夫婦としては芳香の熱心で誠実な態度に喜びを見せたが、反面、アルバイトであり、給与の低さで芳香を心配した。店の売れ行きは良いが実際のコストなどで高額の時給は払えずいつも学生のアルバイトでまかなっていた。更にサービス業であるため日曜日と祝日も勤務となる。
それでも生活はしていけそうであったし、何よりも香りのよい草花に囲まれるととても気持ちが良いということで勤めることとなった。
勤めてから耕作は主にハーブの知識を与えてくれ、木綿子は花束のアレンジを教えてくれる。
子供のいない小田夫婦は芳香をとても可愛がってくれており、芳香も二人を慕っている。とても良い職場だ。
また夫婦は芳香の恋人の兵部薫樹のことも知っている。なぜなら、薫樹がわざわざ「フィアンセをよろしくお願いします」とあいさつに来たからだ。
芳香も小田夫婦もその挨拶に驚いたが、薫樹は好印象だった。そのあとしばらく夫婦に芳香は冷やかされることになる。
小さなポットに入ったバジルを眺める。まだ小さい苗だが葉はツヤツヤとして芳しい香りを放っている。
先月、木綿子の手作りであるバジルソースをもらった。夏から秋にかけて収穫ができるバジルはいつもソースにして冷凍保存しておくらしい。店で売っているジェノベーゼと違い、木綿子のバジルソースには松の実もニンニクなども入っていなかったが、香りが高く濃厚だ。
そのソースを使って薫樹にバジルパスタを振舞うととても喜んで食べた。
「私ももっとハーブでお料理作ってみたいなあ」
今度は薫樹と一緒にお手製のフレッシュミントティーを飲ませてあげたいと思いながらハーブの世話をしていると、さっきまでの不安感がいつの間にか消えていた。
15 薫樹の香り
会社の研究室で薫樹は自分の指先を嗅いでみたが、匂いがわからない。
「本当に匂いがあるのだろうか?」
一度指先の香りを調べるため、識別装置にかけてみたがなんの成分も出てこなかった。
「匂いがわからないなんてことがあるのだろうか」
芳香がいい匂いだとうっとりするが、今まで誰にも指摘されたことがない。自分の体臭は自分ではよくわからないというが、どうなのだろう。
椅子に腰かけ、首をかしげているとノック音が聞こえたので「どうぞ」と招いた。
「失礼しまーすっ」
「ん? 野島さんか、何か用?」
「えー、用っていうかー、会いに来ただけです」
「勤務中なんだが……」
薫樹の話を聞かず、野島美月はきょろきょろ研究室を眺める。今、研究開発部は一つのプロジェクトを終えたところで、薫樹以外の開発スタッフは長期休暇中だった。
ボディシートの売れ行きが良く、会社は野島美月を優遇しているため、このように社内をぶらつくことを戒めるものが誰もいないのだ。
「ここでいろんな香りを作るんですねえー」
「うん、そうだ」
「ねえねえ、兵部さん。今度二人でどっか遊びに行きません?」
「ん? なぜ君と二人で行くんだ」
「もっと、ワタシのこと知って欲しいんです。仕事じゃなくて」
美月は薫樹をまだ諦めていなかったようだ。しばらく動きがなかったのですっかり薫樹は美月のことを忘れていた。
「僕には芳香がいるのを知っているだろう? 悪いが君を知る理由がない」
ぷうっと膨れながらも美月は食い下がる。
「別に、彼女と別れて、ワタシと付き合ってって言ってるんじゃありません。薫樹さんが好きなのでそばに居たいだけなんですぅー」
森の妖精の姿からコケットリーなフランス人形に変わって迫ってくる。
「簡単に好きだというが、君は僕のどこが好きなんだ?」
「えっとぉー、カッコよくてー、頭が良くて、とっても素敵です」
「格好良くて頭がいい男なんかいくらでもいるだろう」
「違うんですっ。兵部さんは、なんていうかワタシの周りにはいないタイプでぇ」
「周りにいないタイプか――」
「そうです、そうなんです。トクベツなんです」
「うーん。それはただ新鮮なだけじゃないだろうか。僕みたいなタイプは案外多いよ。大学時代、みんな僕と似たような感じだったしね」
「えー。だって兵部さんの彼女だって、他にない香りの持ち主なんでしょ?おんなじじゃないですかあ」
「確かに彼女の匂いは特別だった。だけど中身はごく平凡だと思う。彼女の香りには抗えない魅力があるがもし違う性格だったなら彼女自身を好きになっていないだろう。顔立ちの話をすれば、君の方が随分と美人だ。芳香は――地味で辛抱強そうな犬――みたいだな。プッ、フッ」
薫樹は嬉しそうに思い出し笑いをする。
「え? デレてる――のか、な……。ちょ、ちょっとイメージ狂ってきたかも……」
クールで大人っぽく紳士な薫樹がニヤニヤしているのを見ると美月の気持ちがいきなり冷めた。
「この前作ってくれたバジルのパスタは薫り高くてとても美味しかったな。わざわざパルミジャーノ・レッジャーノの塊をスライサーでスライスしてのせたんだ。粉チーズを買わないところを見ると案外、食にこだわりがあるのかもしれないな」
「はい? パスタ?」
「ああ、彼女は和食の方が得意みたいだな。薄味でね。だけどちゃんとだしをとっているんだ。野菜が中心で身体にも良さそうだよ」
「えっとぉ、なんか――わかりました。なんか違うなーって。しばらくお仕事頑張ることにします」
「ん? ああ、そう? それがいいよ。君にはもっと活躍の場がありそうだし、人気も出るだろう」
「あ、ありがとうございます」
今まで美月に迫られていたことなどすっかり忘れた様子の薫樹に、きもちの冷めた美月は呆気にとられるばかりだった。
「じゃー、この辺でぇ」
「あ、そうだ。ちょっと僕の指先を嗅いでもらえないか?」
「え? 匂うんですか?」
「うん」
美月の目の前に薫樹は白く骨ばった指先を差し出す。首をかしげながら美月は恐る恐る匂いをスンスン嗅ぐ。
「どうかな、何か匂いがするかな」
「うーん、別になんにも」
「そうか、ありがとう」
「はーい、失礼しましたあ」
何の未練もない様子で美月が立ち去った後、薫樹は自分の指先を眺めた。
「なるほど」
自分の指先のフィトンチッドを感じるのは芳香だけなのだと納得して、ルームフレグランスの完成に向かうことにした。
16 デート・1
お互いに長い労働時間のおかげでゆっくり会うのは薫樹のマンションで週末だけであったが、芳香の勤める園芸ショップがスーパーの棚卸のため二連休になり、それに合わせて薫樹が有給休暇をとり、外でデートをすることにした。
どこか行きたいところはあるかと尋ねられていた芳香は少し遠いがハーブ園と答えた。
タクシーで行こうとする薫樹を芳香は慌てて引き留める。
「ここからだと2時間近くかかるし、すっごいお金かかっちゃいますってば!」
「そうなのか? 公共機関を使うと仕事の電話が困るものだから僕は移動をタクシーにしてるんだ」
「はあ、なるほど。今日もお仕事の電話きたりします?」
「うーん。たぶんないだろうけどね」
公共機関を使わない理由をお金持ちの贅沢だと思っていたが、仕事のためなのだと芳香は納得した。しかし往復4時間近くの交通費は一ヶ月の食費になってしまうことを考えるとやはり賛成しかねる。たとえ薫樹が支払うと言ってくれていてもだ。
「レンタカー借りませんか? 融通きくし」
「レンタカー? 僕は免許持ってないよ」
「あ、そうですか。私、持ってます。今は車持ってないですけど、仕事でも良く乗ってますよ。鉢植えとか苗を運んだりするから」
「ほう。しかし何時間も平気なのか?」
「全然、平気ですよ。運転好きだし」
「ふ、む。じゃあ、芳香の運転でいこう。ゆっくり行っても昼には着くだろう」
「はいっ。楽しみですね。車なに借りようかな。薫樹さんって好みありますか?」
「なんでもいいよ。君の好きな車で」
「そうですか。じゃエコカー借りようかな。低燃費だし」
「ふむ。君はしっかり者だな」
芳香は恥じらいながらも嬉しそうにはにかんだ。こうして二人で少し長い距離をデートすることになった。
街中を30分も走らせると建物もまばらになり自然の景色が増えてきた。少し窓を開け風を入れると気持ちよさそうに薫樹が目を細める。
「芳香は運転が上手いな」
「んー、慣れですかね。うち、実家がこれくらいの田舎なので車必須なんですよ。免許とったらよく運転させられて」
「ふーむ。君はなんでも出来るんだな」
「え? なんでもって」
「出来ないことがないだろう。僕は調香する以外何も得手がないからね」
「えっ、そ、そんな。こんなの普通にみんなできることで、薫樹さんは誰にもできないこと出来てるんだから、全然違いますよ」
「フッ、謙虚だな」
「え、け、謙虚というわけじゃ……」
誰しもあこがれの的である薫樹に褒められ、芳香は戸惑うが本心からの肯定に嬉しくもある。
そして初めて助手席に乗る恋人の端正な横顔を眺め、恋愛中の喜びを噛みしめるのだった。
17 デート・2
ハーブ園に到着し、車から降りると風に乗ってラベンダーの香りが二人を出迎える。
空は高く青く広々として、空気も時間もゆっくりしているようだ。
「あー、気持ちいいー」
「うん、いいところだな」
並んで庭園をゆったり歩く。ラベンダーは一斉に紫の花を咲かせそよ風に揺れ、香りを漂わせている。普段、店で見慣れているハーブではあるが、広々とした場所に太陽の下で群をなす姿に芳香は圧倒される。
「ああ、カモミールも可愛いんだあ」
小さな白い花々の前にかがみこみ芳香は胸いっぱいに香りを吸い込む。
子犬のように駆け回りはしゃぐ彼女を薫樹は微笑ましく眺める。
「いいなあー。私、こんなにハーブが好きになるなんて思わなかったです」
「そうか。僕は元々ハーブは好きだよ」
「そうみたいですね。薫樹さん、よくハーブティー飲んでますもんね」
そう言うと芳香の腹がぐぅっと鳴った。
「あっ、やっ、やだぁ」
赤面する芳香の腕をとり、薫樹はエスコートする。
「そこでランチにしようか」
「は、はいっ」
二人はオープンテラスのレストランで食事をすることにした。
このハーブ園で収穫されたハーブを使ったスパゲッティを注文する。香りが高いうえにカラフルな花弁も散らされ美しい。
「綺麗っ! 食べるのもったいないなあ」
そういいながらも芳香はくるくるとフォークに麺を巻き付ける。
「美味しいーっ」
トマトソースにオレガノとタイムが利いている。
「うむ、なかなか香りが高くていい。でも君の作ったパスタの方が美味しいかな」
「え? そうですか?」
「うん。なんとなく気持ちも満たされるものがある」
「そ、そういってもらえると、作り甲斐があります」
「今度、僕が作ってみようかな」
「えっ? 作るんですか? 作ったことあるんですか?」
「んー。子供の頃、学校の家庭科で確か僕は味噌汁を担当したことがあったな」
「へー。どうでした?」
「だしの香りが気に入らなくてやり直していたら、時間切れになって僕の班だけ味噌汁がなかったよ」
「ええっ!? だ、大丈夫だったんですか?」
「うん。僕の班の子らは僕以外女子で、理由を言うと『しょうがないよね』って理解を示してくれたよ。優しい子たちだったな」
「あ、はあ、なんか、そうですか……。今とあんまり変わらないんですね……」
「ん? そう?」
「え、あ、あの、香りにこだわるってところが」
「フフ、そうだね」
子供のころからモテモテですねとは言わずに芳香は残りのパスタを平らげた。
18 デート・3
食事の後、体験コーナーというところに立ち寄った。ハーブを使った石鹸づくり、アロマオイルで香水作りなど色々な講座があるようだ。
「へー、色々体験できるんですねえ。自分の好きな香水かあ」
芳香はやっと自分の匂いを改善したばかりなので、まだ香水をつけることを考えるには至らなかった。
「興味があるかい? 香水に」
「そうですねえ。自分に香水をつけるっていうことはできなかったですからねえ」
「ふーむ。君は何もしなくても、いい香りだから必要にはないが、何か好きな香りがある?」
「好きな香りかあ。なんだろ、銀華堂化粧品にいたころは会社中が香料のいい匂いがしてて、今の職場も木とか花のいい匂いがしてて――。そういえばこれが好きっていうのがないかもしれない……」
「芳香はなかなか香りに偏見がないようだな。まあ僕もそういう意味では強い好みはないな。君の香りが一番好きだが」
「えっ、ちょっ――」
足に施される愛撫を思い出し、芳香はまた赤面する。そして言わないが自分も薫樹の香りが一番好きだと思った。
土産物を販売しているコーナーに立ち寄ると、薫樹が開発したボディシート『ボディーシート イン フォレスト』が置いてある。
「へー、こんなところで売られてるんですねえー」
「ああ、本当だな」
「このシートってほんと画期的ですよね。これのおかげで私の人生変わったよなあ」
感慨深そうに芳香はきちんと並べられたボディーシートを見つめる。
「今度、それに他の香りをつけることになったよ」
「ああ、そうなんですね」
「僕はそのままで、いいと思うんだが、まあ会社の意向だしね。フローラル系と柑橘系が加わると思う」
「そっかあ。じゃ、また新しいCMもできるんですね……」
「ん? ああ、たぶんね」
さっきまで明るくはしゃいでいた芳香がだんだんと暗く沈んでいく。
「芳香。野島さんのことを気にしているのか?」
「え、っと、少しだけ」
「心配ない。野島さんの件は片付いた」
「えっ?」
「彼女にははっきり断っているし、理解もしてくれたようだからもう心配しないで」
「ほんとに?」
「ん」
薫樹は芳香の手を取り、自分の指先を彼女の鼻先へ持っていく。
「いい香り……」
ハーブ園での香りも落ち着くが薫樹の指先を嗅ぐと更に芳香はリラックスする。
「この香りはどうやら君にしか感じられないらしい」
「え? うそ! こんなにいい匂いなのに?」
「うん。調べたがやはり香りの成分はないようだよ」
「えー」
芳香は信じられないという表情で薫樹の指先を嗅いでいる。
「フフ。つまりこの指先は君だけのものだ」
「あ、わ、私だけ……」
「うん。他に誰が現れても僕は揺れたりしない」
愛の告白と誓いをハーブの優しい香りに包まれながら聞く。
うっとりと酔いしれていると薫樹は耳元で囁いた。
「今夜は、君の香りを堪能させて」
芳香は甘い花の香りを感じた。
19 デート・4
薫樹のマンションに帰宅する。
シンプルで生活感のないモデルルームのようだった薫樹の部屋に少しずつ、色と香りが加わっている。
「疲れた?」
「いえ、楽しかったです」
「よかった。ゆっくり風呂に入るといいよ」
「さっき買った入浴剤入れてもいいですか?」
「いいよ」
「あ、あの。一緒に入るんですか?」
「うーん。僕は後にするよ。少しやることがあるから」
「そうですか、じゃお先に」
芳香は少し残念な気がしたが、今夜こそ、結ばれるかもしれないと思い念入りに身体を洗おうといそいそと浴室に入っていった。
「よし。準備するか」
薫樹は芳香が入浴している間に寝室を調整することにした。
室温も湿度もまずまずなのでエアコンを使う必要はなさそうだ。最近、芳香が持ってきた観葉植物のアレカヤシのおかげか湿度が安定し乾燥を免れている。細長い羽のような葉が噴水のように茂りヤシ科であるアレカヤシは空気を清浄する上に南国ムードを醸し出している。
「今日のハーブ園はなかなか良かったな」
アレカヤシの葉をスッと撫でハーブに囲まれた芳香を思い出す。
シーツはすでに新しいものに変えているので少し整えるだけで良い。
寝室の入り口の片隅に調合したルームフレグランスをセットすることにする。今回はリードディフューザーにしてみた。
小さな青い遮光瓶の蓋を開け、木のスティックを数本差して置いておく。
芳香が風呂から上がり、そして薫樹が入浴後に戻るころにちょうど香りが満ちているはずだ。
「さて狙い通りにいくだろうか」
かすかに感じられる立ち上る香りを確認し、ダイニングに向かった。
ちょうど芳香が出てきたようだ。
「薫樹さん、お先でした」
「ん、じゃ僕も入ってくるから、そのハーブティーでも飲んだらいい」
「あ、ありがとうございます」
少しだけ冷やされたローズヒップティーだ。透き通った赤い色が美しい。
「今夜……こそ」
芳香の心臓が早鐘を打つ。ローズヒップの酸味が少しだけ冷静さを促すが、一瞬でしかない。
自分のために淹れてくれたローズヒップティーを噛みしめるようにゆっくりと大事に飲み干し、芳香は寝室へ向かった。
20 香りに満ち満ちて
ほんのりと薄暗い寝室に入る。特に何をするわけでもなく広いベッドに潜り込んだ。
シーツは白く清潔で洗濯したての日向の香りがする。掛け布団は薄くフラットなのに手触りがよく温かい。
「うーん、すべすべしてる。シルクの寝具ってつるっつるだなあ」
初めて薫樹の寝具を見たときに布団の薄さが気になったが、眠ってみて温かさは重さではないのだと知った。
「これから……ここで……」
横たわり落ち着かずシーツを撫でていると、薫樹がそっと寝室の入ってきた。
すっとベッドに腰かける。
「芳香。寝てる?」
芳香は身体を起こし「いえ……」と言葉少なに答えた。
薫樹は芳香のボブの髪をそっと耳に掛け、頬に触れ唇を重ねてくる。ゆっくり時間をかけ、唇の温もりを確認したのち、またゆるゆると舌が唇を舐め、濡らし、そっと内部へ忍び込む。
優しく甘い口づけを交わしながら薫樹は芳香を横たわらせる。
芳香がはっと気づくと薫樹はすでに裸体を晒している。ぼんやりとした照明の下で薫樹の白い肌と眼鏡が光る。
薫樹は芳香のパジャマのボタンを一つ一つ外す。その下にはしっかりとブラジャーをつけていた。
背中のホックに手を掛けられたとき、芳香はぎゅっと目をつぶる。小さい膨らみを見られることが恥ずかしい。
「寒くない?」
上半身を脱がせてしまうと薫樹は気遣うように尋ねる。
「は、はい。寒くないです」
緊張と興奮で温度など芳香には分らなかった。パジャマのズボンとショーツをおろされた時には心臓の音しか分からなかった。
薫樹に服を脱がされただけで、やけに興奮し身体の内部が熱くなってくる。
肌と肌が重なり合う。薫樹の滑らかな肌が、汗ばみしっとりした芳香の肌を這う。
口づけと肌を触る大きな手の感触にいつもはリラックスすることもあるが、今日は違う。
両手で薫樹は両乳房を包み込み、揉みしだく。
彼は以前芳香が言ったように上から順番に下へ降りてくるようだ。
小さな乳房を揉まれながらやはり小さな突起を舐められ甘噛みされ芳香は呻く。
「あっ、あっ、うっ、ふっ」
舌はゆるゆると円を描き動く。芳香の香りが強くなってきた。
「いい香りがする。今日はたっぷりと楽しもう」
「あぁ、はぁ、や、だぁ」
羞恥心により言葉だけで抵抗を見せるが、ルームフレグランスの効果だろうか、いつもの彼女よりも声が甘くおねだりをする猫のようになっている。
早く強い芳香のもとへ薫樹は急ぎたかったが、ぐっと我慢をし、最後の楽しみのように太腿と膝に舌を這わせようとし、少し身体の向きを変えた。
「あっ、甘くて、え、えっちな匂いがする――」
上気した頬と潤んだ目で芳香は荒い息をしながら言う。
「ん? 甘さ? バニラはまだ香ってこないはずだが……」
今の時間はまだスパイシーな香りがしているはずだ。少しタイムラグがあるのだろうか考え、薫樹が動きを止めた瞬間だった。
「も、もう、だめ。我慢、できない」
のっそりと芳香は身体を起こし、息を荒くしている。
「どうしたんだ?」と言葉を発する前に彼女は薫樹のボクサーショーツに手をかけ、彼の起立したものを取り出した。
「い、いきなり、何を?」
「はぁ、はぁ、こ、ここから、いい、匂いがする」
そう言いながら芳香は股間に顔をうずめ、直立したモノをさすり、頬ずりし、匂いを嗅いで、口に含んだ。
「うっ、よ、芳香……」
まさかここまで大胆になるとは予想をしていなかった薫樹はためらったが、彼女の口淫に強い欲情を感じる。
芳香は夢中でしゃぶり舐めあげている。
「うっ、うっ、ま、さか。こんな……」
薫樹を愛撫する芳香からさらに強いムスクが漂い始める。
「これじゃあ、僕も我慢できない――」
吸い付いている芳香を離そうと試みたが難しい。
「こうなったら――」
身体をずらし芳香にされるままの状態でシックスナインの体勢を何とかとった。
「ああ、君もすごい――。なんて芳香だ」
足の付け根から香り立つ麝香に薫樹はごくりと喉を鳴らし、足を開かせ、茂みに顔をうずめた。
花芽を吸い、花弁をかき分け、舐めまわし、吸い上げ香りを嗅ぐ。
「あっ、やっあ、あんっ、だ、だめっ、あうっ、うっ」
芳香は高い声で喘ぎ始めた。しかし薫樹のモノを咥えて離そうとはしない。
お互いに夢中になって愛撫し続けるが、やはり快感の限界はやってきてしまう。
「ああ、もう、そんなにされたら、ダメだ!」
至上の香りを堪能しながら、肉体的な快感を得、もう二人ともどうなっているのかよく分からなくなっている。
限界に近い薫樹は思わず強く芳香の花芽を吸った。
「あっ、あ、あん、くぅうん」
「くっ、うっ、ふぅっ――」
同時に達する。
芳香の太腿がぶるっと震え、ガクッと力が抜けると、薫樹を咥える力も弱まり拘束から放たれた。
息を整え薫樹は身体を起こし、芳香の顔の方へ向きを変える。
「ああ、こんな――淫らな……」
「あ、はぁ、薫樹さん……」
うっとりと上気した頬に潤んだ目、そして半開の口元から白濁液が漏れている。
口元をぬぐって綺麗にしてやると力尽きたように芳香は目を閉じ眠ってしまった。
「うーん。これは成功なのだろうか……」
彼女はすやすやと幸せそうな寝顔を見せる。
「まあ、今回はこれで良かったのだろう」
今夜一晩中、この部屋はムスクとフィトンチッドが絶妙なハーモニーを奏でている。
第二部 終わり
芳香はパンティストッキングをするすると履いて足を眺めた。(キラキラしていいね)
ラメが混じった肌色のストッキングは生足よりも綺麗に見える。足の匂いが解消された彼女にとって、もう悪臭のもとになっていた合成繊維は怖くなかった。それでもいつ再発するかもしれないという思いもどこかにあり、見栄えの良いおしゃれを日常的に楽しむことはなかった。
しかし今日は友人の立花真菜とランチだ。まるで男と会うように気合を入れて芳香は身支度を終え、最後はお気に入りのエナメルのストラップシューズを履いた。
「真菜ちゃん、おまたせ!」
「ううん、今、来たとこだよ」
店の前の待ち合わせ用のベンチで真菜はにっこり笑いながら立ち上がる。真菜は柔らかい素材のブラウスとジーンズ姿でフェミニンだ。
「今日も真菜ちゃんは素敵だねえ」
「うふっ、芳香ちゃんもそのワンピよく似合ってるよ」
褒め合いながら店内に入り、静かな奥の席に案内してもらう。真菜とはもう何度も一緒に食事をしておしゃべりを楽しんでいるがまだまだ芳香には新鮮で嬉しい時間だ。また薫樹と芳香が恋人同士と知る唯一の人物でもある。薫樹との出会いを話すと一番、真菜の心を動かしたのは芳香の匂いコンプレックスのことだった。
彼女の『芳香ちゃんって辛かっただろうに頑張り屋だね』という言葉に芳香は訳も分からず嬉しくて涙が滲んだ。
「どう? 兵部さんとはうまくいってる?」
「うん、まあ、なんとか。ちょっと変わってる人だからよくわかんないけど」
「そっかあ。でも会社でたまに兵部さん見かけるけどなんか雰囲気かわったよ、なんか人当たり良くなったっていうか」
「へええ。そうなんだあ」
芳香の恋人、兵部薫樹は調香師としても勿論、仕事もよくできると評判だが、芳香が勤めているころは、そっけなく冷たい仕事人間の印象だった。
「この前『立花さん、おはよう』って名前付きで挨拶してくれるもんだから、その時側にいた、なんだっけあのイメージガールに睨まれちゃって……」
「えっ! 睨まれたの?」
オレンジジュースを一口啜って真菜は頷きながら続きを話す。
「そそ。『フォレストシリーズ』のモデルとは思えないよ、実際はきつくて怖いったら――」
イメージガールと言えば、一度、薫樹と一緒にカフェにいるところを見かけたことがある。年齢は恐らく二十代前半で、芳香と真菜より若いだろうが、堂々として迫力があり、しかもセクシーだった。その時の二人がとてもお似合いで、芳香はそっと淡い恋ごごろを胸の奥にしまい込んだ。
「そんな暗くならないでよ。大丈夫だよ、兵部さんはあの子に興味ないみたいだし」
「前はそう言ってくれたけどね」
「気にしない気にしない。ほんと入社してからずっとクールなイメージしかなかったけど、芳香ちゃんが兵部さんをいい感じに変えてるよ」
「そ、そうかな」
「うんうん」
「真菜ちゃんとこはどう?」
「えっとねえ――来年、入籍しようかなって」
「へええー! おめでとうー!」
「まだまだわかんないよ」
そういいながらも真菜は嬉しそうに頬を染めている。彼女の恋人は元々近所の幼馴染だそうだ。子供のころから姉弟のように育ち成人するまで恋愛感情を持たずに過ごしてきた。それが今は恋人なのだ。どこでどんな出会いがあるか本当にわからないものだと芳香は思う。
そして明るく優しい真菜がいつまでも仲良くしてくれますようにと芳香は願う。
2 イメージガール
今夜は薫樹のマンションに泊まる。彼は一緒に住もうと言ってくれているが、まだ芳香には決心がつかない。
無機質な彼の部屋が生活感にあふれると嫌になるのではないかと話すと、やってみないとわからないという返答でとりあえず、金曜日の夜を彼のマンションで過ごすところから始める。
料理を全くしない薫樹の台所はピカピカで使うのをためらう。とはいえ、料理をしないわけにはいかないだろう。
全て外食でも経済的に困ることはないという恐ろしく芳香と生活レベルの違う話をされると余計に一緒に暮らす自信がなくなる。
「芳香が作りたいなら食べるよ」
「あ、はあ……」
意外なのは好き嫌いが全くないことだ。味付けにもさほどうるさくはない。ただし合成香料が使われていると食事と思えなくなるらしい。
そして体臭にならないように食べ物に気を付けてきた芳香の手料理を喜んで食べた。
「美味しいよ」
「よかったあ……」
薫樹は仕事以外のことにはあまり頓着がない様で、思ったより細かくなかった。
家でも調香の仕事をするために匂いがこもらない様にしているが、芳香がやってくるときには仕事をしないつもりのようで料理が香り高くてもよいらしい。
食事を終え、片付けていると薫樹も手伝ってくれる。
「もっと亭主関白だと思ってました」
「ん? 作業はおっくうじゃないよ」
「さ、作業……」
「結婚したらマンションはやめて二件家を建てればよいかな。それとも隣を借りるか……」
「は、はあ……」
まだまだ馴染むまでに時間がかかりそうだが、嫌だと思う部分は今のところ出てこない。
風呂をため、今夜こそ、結ばれるのだろうかと芳香が緊張していると、インターフォンが鳴った。
「はい、どちら様?」
「兵部さーん、アタシでーす。美月でーす」
「え。美月さん? どうしてここに?」
「ちょっと仕事のことで悩んでてぇー。社長にここ教えてもらたんですぅーお部屋に入れてくださーい」
「会社じゃダメなの?」
「会社じゃあんまりお話できないじゃないですかあ」
「……。わかった」
インターフォンを切り、薫樹は振り返る。
「今から客が来る」
「えっ、あ、わ、私、どうすれば」
「ん? 何もしなくていいよ。仕事の話をしたいらしい」
「居ていいんですか?」
「いいに決まってる」
「はあ、じゃあ、お茶でも淹れますね」
「ん、すまない」
玄関に薫樹が迎えに行っている間に湯を沸かし、お茶の支度をする芳香は、ちょっと新妻気分に浸ったがすぐにかき消される。
「こちら、イメージガールの野島美月さんだ」
「野島、美月でーす」
美月は低いテンションで名前を告げてくる。
「か、柏木です……」
芳香も暗くなる。
薫樹だけマイペースに「ああ、彼女は僕のフィアンセだ」と付け加えた。
「フィアンセえええー?」
「ああそうだ。まだ一緒に暮らしてないけど、とりあえずそこに掛けて」
「はーい……」
芳香は真菜から話を聞いていたので、さすがにこの状況は分かった。美月は仕事の相談という理由をつけてはいるが薫樹を狙っているのだ。
薫樹と美月はテーブルで話をしている。お茶を出し、他にすることがないので、最近買った二人掛けのソファーに座り雑誌を読んだが、居心地が悪くなり、風呂にでも入ろうと浴室に向かうことにした。
3 浴室にて・1
「お似合いだったなあ……」
薫樹と美月が向かい合わせで座っている姿を思い出す。
ボディーシートのコマーシャルをテレビで見た。その時の美月はふわっとした長い薄茶色の髪に、グリーンのシフォンドレスを纏い伸びた長い手足をするっとシートで滑らかに拭きあげる森の妖精だった。まだ歳若く新人だが、今回のイメージガールに抜擢されたことで各界から注目を集めているらしい。
今日の美月はコマーシャルの印象とは全く違い、ツヤツヤしたピンクゴールドのワンピースでキュートな女の子だ。
薫樹はラフではあるが薄いブルーのドレスシャツで、相変わらずクールさを引き立たせている。
髪や肌の色素の薄さは彼の硬質な雰囲気を柔らかく品の良さに変えているようだ。
「お内裏様とフランス人形みたいだったなあー」
写真を撮りたいくらいに綺麗な二人を目の当たりにすると、嫉妬するよりも納得してしまうのだった。
薫樹が自分の事をフィアンセと紹介してくれていることが芳香にとって嬉しいと、今はまだ素直に思えない。
長らく湯船につかり、今夜のことを思いながら身体を撫でたが、気分が暗くなってきたので上がることにした。
芳香が身体を拭いていると、薫樹がやってきた。
「ああ、もう出るのか。一緒に入ろうかと思たんだが」
「あ、彼女、帰ったんですか?」
「うん、待たせて悪かった」
「いえ、仕事ならしょうがないですよね」
「ん。――冷えるといけないから早く服を着たほうがいい」
「そうします」
芳香はバスタオル一枚の半裸なのに薫樹は特に気にするふうでもなく、シャツのボタンを外し始める。
恋人同士でもまだ付き合いが浅いのだから裸を気にしたりはしないのだろうかと思いながら芳香は言われたとおりにパジャマを着る。
男だからなのか薫樹は恥じらうこともなくすっかりヌードになり浴室へ入っていった。
長身で細身の背中がまるで白い蛇のような怪しさを感じさせる。初めてのベッドで彼の身体が芳香の身体の上を這うように滑らかに動いたことを思い出す。
「見ちゃうと恥ずかしいな」
挙動不審になりながら芳香は浴室を後にした。
4 浴室にて・2
浴槽では珍しく薫樹が頭を悩ませていた。
「面倒だなあ」
野島美月が仕事のことでの相談というのは口実で実際は薫樹を口説きに来ていた。芳香がいたのでしつこく長居はしなかったが、「また来ます」という言葉には正直まいる。
ボディーシートのイメージガールを選ぶときに、モデルたちの宣材写真を眺めたが、シートの完成に満足していたので誰でも良く、周囲の有力者が美月を選んだ。美月に対して薫樹は何の感情も抱いていない。これからもないだろう。
今までもそうだったように迫られても心が動かなかったため全く相手にしなかった。たとえ、周囲が憶測し、勝手に噂を流されても、平常通りの薫樹にいつの間にか、噂も相手も消えている。
今回もそのように振舞えばよいのだが、問題は芳香だ。
彼女はこういう状況には勿論不慣れであるし、略奪に対して引いてしまう方だろう。強気に出て張り合うことはない。付き合ってそばにいて分かったことだが、芳香は感情の起伏と匂いのオンオフが揃っている。
勿論常人には感じられない程度ではあるが、喜んでいるときや嬉しいときは麝香の香りが強くなる。そして否定的な感情の時に香りが薄まるのだった。
「あの子のせいで、今夜はきっと芳香の匂いが楽しめないな……」
残念だが、これからいくらでも時間はあるという結論で薫樹は次の手を考え始めていた。
5 フィトンチッドの効果・1
寝室は広々としてベッドもキングサイズだ。気持ち良く潜って入るが芳香はこのベッドのサイズがどうして個人に必要なのかと思う。薫樹は女性と付き合ったことがないと言っていたが、この広さは一体何なのだろうか。
「まさか、えっちだけはするとか……」
以前、経験がないと言っていたがそれにしては、やけに触り慣れていて初めて触れられるのにあんなに気持ちがよかった事が芳香にあらぬ心配をさせる。美月のことや今まで聞いた噂などをごちゃごちゃ考えていると薫樹が寝室に入ってきた。
「遅くなったね。今夜はもう休もう」
「え、あ、はい」
覚悟を決めてきていたのに大人しく寝ようと言われまた芳香は動揺する。(美月さんの事考えてるのかな……)
シーツにするりと滑り込み、薫樹は隅にいる芳香を引き寄せると、自分の方を向かせ「上からだったな」と優しく口づけをする。
「ん……」
キスだけは何度か交わしていて、その度に芳香はこのまま強引に奪ってほしいと願うが薫樹は案外紳士なのだ。
「おやすみ」
「あ、おやすみなさい」
薫樹に腕枕をされ向かい合っているが、しばらくすると芳香はくるりと眠ったまま背を向け、薫樹のてのひらに頬を置き、指先を嗅ぎながら「うーん、いい匂いー」とむにゃむにゃ寝言を言った。
「幸せそうだな」
考え事をしている薫樹に眠気はまだ訪れておらず、芳香が自分の指先の匂いを嬉しそうに嗅いでいる様子に微笑んだ。
「今度逆さまになって眠るのはどうだろうか」
芳香の足の匂いを嗅ぎたいがこの体勢では難しい。試行錯誤が必要だと考えたが、芳香の幸せそうな寝顔を見ると満更でもない。
これまで調香師としてやってきた仕事は数々の成功をおさめ満足しているが、何も施さない自分の指先の香りがこのような効果を発揮したことに薫樹は不思議な感覚を覚える。
「香りには香りだな」
結論が出たので薫樹も安らかな眠りについた。
6 フィトンチッドの効果・2
芳香が目覚めるとベッドは空っぽだったが森の香りが残っている。
「すっごいよく寝た気がする……」
初めて他人と朝まで眠った。昨夜は何もしないで寝ることに、複雑な思いをしばらくしていたが気づくと深い眠りに落ちていて、今、もう朝だ。
薄まり始めた薫樹の残り香を胸いっぱいに吸い込む。真菜が言っていた薫樹の残り香を女子社員が残さず嗅ぐ話を思い出し、芳香も真似る。
「いい匂いだなあ」
しかしこの香りは彼のプライベートの香りで芳香しか知らないと思うと、少しだけ恋人だという実感が沸く。薫樹は家を出る前には必ず自作の香料を身に着ける。
季節や天候によってつけるものが違うので、これが薫樹の香りと言ったものはない。この森の香りだけが彼の持つ香りなのだ。
芳香は四つん這いになり、薫樹が寝ていた辺りに鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。まるで犯人の匂いを追っている警察犬のようにくんくん嗅いでいるところへ薫樹がやってきた。
「おはよ。何してるんだ」
「はっ、あ、おはようございます。ちょ、ちょっとシーツがしわくちゃだなっ、なんて」
慌てて正座し適当に言い訳すると薫樹は微笑んで「そうか、気にしなくていい。お茶を淹れたから起きておいで」と去った。
「あー、やばかったー」
流石に匂いを嗅いでましたとは言えず、軽く寝具を直して起き出す。
伸びをすると身体中が軽く気持ちが良い。彼の香りの効果のすごさに「自分の匂いの香水作ればいいのにな」と芳香は白いシーツを眺めて思った。
7 真菜の秘密・1
薫樹が出張でいない休日を、ちょうど同じく恋人が出掛けているという真菜と一緒に出掛けることにする。
二人は新しくできたシューズショップに向かうことにした。
「とにかく可愛い靴が欲しいなあ」
芳香の願いに真菜は「私は最近外反母趾気味だからちょっと痛くてさー」とラインストーンのついたまつ毛をしばしばさせた。Tストラップでヒールの太いピンクのパンプスは真菜に良く似合っている。
真菜はいつも可愛いパンプスを履いていて芳香はいつも憧れていた。足の匂いが改善したおかげで、消臭にそこまで力を入れる必要が無くなった今、欲しいものは何かと尋ねられたら『かわいい靴』なのだ。
それぞれ目的の靴の方へバラバラと向かい試し履きをすることにした。
芳香はウキウキと宝石を眺めるようにパンプスを眺める。
今履いているエナメルのストラップシューズも気に入っているが、もう少し大人っぽくて可愛いものを探す。
選び慣れていない芳香にはどのシューズも眩しく映りなかなか選択できないが、試し履きができることだけでも満足だ。
選び終えた真菜がやってくる。
「どう? 芳香ちゃん、いいのあった?」
「うーんとね、これとこれで迷ってるの」
どちらもアイボリーの革製でバックにリボンが付いているが、爪先の形がポインテッドトゥかオープントゥの違いがある。
「ああ、オープンいいじゃない」
「靴が空いてるって、平気かなあって思って……」
「ふふふっ。通気性がいい方がいいんじゃない?」
「そ、そっか。じゃ、こっちにしようかな」
「うんうん、芳香ちゃん、お手入れしてるだけあって足すごい綺麗じゃん。ペディキュアでも塗って爪先見せなよー」
「ええっ!? 爪先を見せるの?」
「うん。そうだよ?」
隠し続けてきたものを見せるという発想がなかったため真菜の発言にドキリとしたが、ペディキュアの魅力に芳香はうっとりした。
「ふふっ、買い物したらのんびりできるとこでランチしようよ」
「うんっ!」
新しい靴を購入し、二人はホクホクとランチに向かった。
長居のできるオープンテラスのあるスペイン料理屋でランチをとることにした。
少し町から離れているおかげで、人もまばらでゆったりできる。
「誰にも会わないし、ニンニクたっぷり食べちゃおっかなー」
「ニンニクたっぷり……」
ごくりと芳香は喉を鳴らす。
「二人で食べたら臭くないしさー」
「う、うん。食べよう!」
「パエリアは必須だよねえ。アヒージョも食べたいしー」
「うわ、生ハムとニンニクのスープだってえ」
「ああ、いいね。たのもたのも」
食事も随分と楽しめるようになり芳香は毎日が嬉しい。
ゆったりした気分で食事をしていると隣のカップルが野島美月の話をしているのが耳に入った。
「あのボディシートのモデル、この前、撮影してるの見たよ」
「へえー、やっぱり可愛かったの?」
「実物もよかったなあー」
「ちょっとぉーヘラヘラしないでよ」
「芸能人に怒んなよー。ああでも取り巻きができてた男がいたなあ。タレントじゃなさそうだけど」
「どんな人?」
「背が高くてスーツがなんかビシッと決まってさ、眼鏡かけてたけどあれは男から見てもイケメンだな」
「ええー、イケメンのメガネ男子ぃー。なんで呼んでくんないのよぉー」
「なんだよ、お前、自分の事棚に上げて」
ワイワイ盛り上がった後カップルはいちゃいちゃしながら席を立った。
ため息をつく芳香に真菜は首をかしげて尋ねる。
「どうかした? 匂宮さま、モテモテじゃん」
「んー、それがね……」
先日、野島美月が薫樹のマンションにやってきたことを話す。
「ええっー! イケイケだねー、そんな雰囲気だけどさ」
「兵部さんは、全然その気がないのは分かるけど、あんな可愛い子がライバルって……」
同情するように真菜は優しく見つめる。
「確かにモデルがライバルだと心が折れるよねえ」
「でしょう?」
「でもさ、兵部さんはさあ、今まで誰のことも好きじゃなくって芳香ちゃんが最高だと思ってくれてるんでしょ」
「う、うん。に、匂いがね……」
「ふふっ。そういうの大事だよ?」
「かなあ」
そうだといいなと思いながら芳香はふと思っていた疑問を真菜に投げかける。
「あのね、こんなこと言うと感じ悪いかと思われるかもしれないんだけど……」
「ん? いいよ、言って」
「あ、あの、私と兵部さんがお付き合いしてるって聞いたとき真菜ちゃんどう思った?」
「どうって、うーん、良かったねって思った」
「そうなんだ。あの、兵部さんってさ、モテモテじゃない。そんな人と一般人の私が付き合ってるってさ、周りの人が聞いたらどう思うのかなって……」
「ああ、妬みとかの心配してるのね」
「うん。モデルの野島さんなら兵部さんと付き合ってても納得できるっていうか」
「そうねえ、普通はそうかもしんないね」
「真菜ちゃんってそういう怖いとこないから話せたの」
「ふふっ、どうかなあ? 今の彼氏が居なかったらやっかんでたかもよ?」
「え、そうなの? じゃ、真菜ちゃんの彼氏さんはすっごいカッコイイんだね」
「普通だけどね。ただお互いに満足してるから、他の人のことを妬むことはないかな」
そろそろ結婚が近いだろう真菜は頬を染めとても幸せそうだ。
「芳香ちゃんたちは匂いがぴったりきてるんだと思う。うちもぴったりなんだ」
「へえー。何がぴったりなの」
「ふふっ。芳香ちゃんだけには言っちゃうかな」
一瞬きらりと真菜の瞳が光る。
芳香は興味津々で真菜の話を聞き入った。
8 真菜の秘密・2
――高校2年の夏の事。
夏期講習の帰り道、隣に住んでいる一つ年下の鳥居和也が泣きべそをかきながらサッカーボールを片手に汚れた足でとぼとぼ歩いてくるのが見えた。
「和也、どうしたの?」
泣き顔を見るのが初めてだった。幼いころから、明るく朗らかで更にはリーダーシップも発揮している和也は誰もが屈託も屈折もない好青年になるだろうと思っている。
「足、くじいて……。レギュラー外された」
真菜に気づき、目を腕でゴシゴシ擦ったが間に合っていなかった。
「まだ一年じゃん。元気出しなよ」
「んんっ」
長年サッカーをやり続けてきて、初めての挫折を味わう瞬間だ。普段の明るくまっすぐな表情を知っている真菜は、この泣き顔の幼気な様子に思わずときめいてしまう。いけないと思いつつ、こんな可愛い様子を見ていたいと思った。しかしその時はそれ以上何もすることはなく立ち去った。
この時に付き合っていた彼氏に真菜は不満を持っていた。俺様なのだ。真菜は外見が柔らかい雰囲気で顔立ちもぼんやりとしているせいか、従順にみられることが多く、交際を申し込んでくる男はいつも俺様タイプだ。
公園のベンチで二人座りながら話しているときだった。
「お前、もっとスカート履けよ」
「え、なんで」
真菜はジーンズが好きで制服以外の私服はほぼパンツスタイルだ。学校の制服と私服のギャップがあるせいか付き合うとまず言われるのが服のことだ。
毎度のことだと思いながらそろそろ我慢の限界を感じる。
男たちはいつもそうだ。スカートを履け、髪をもっと伸ばせ。
「ちっ、鬱陶しいな」
「え? なんか言ったか?」
「ううんーなにもー」
ムカムカし始めた真菜は足元に落ちていた小枝を拾い、ベンチの後ろの隙間のから彼氏の尻に枝を差してやる。
「いってええっっ! なんだっ! なんだ?」
立ち上がりキョロキョロとあたりを見まわす彼を見てほくそ笑んで知らんぷりをした。痛がる顔を見て少し興奮する。
イメージが違うということで別れてきた男たちにこっそり肉体的に痛みを与えて悦に入っていた。
そうやって過ごす高校生活はあっという間に終わり、受験も無事終わって地元の大学に入学した。
もう制服はないのでイメージを勝手にもたれることが無くなりほっとする。しばらく男はいいやと思い、女友達と行動することが多くなった。
ある時おしゃべりに花を咲かせていると、誰かが「あたしはどMだから~」と言い始め、それに他の友人たちも賛同し、次々「あたしもなんだー」と言い始めた。真菜は自分にはMの感覚はなかったので黙って聞いていたが、皆の話を聞くうちにどうやらS側だということを自覚する。
「この前さあ、彼氏にちょっと縛っていいかって言われちゃってさあー」
「ええー、SMじゃーん」
「ソフトならいいよねえー」
男の目を気にしないセックスの話はどんどん過激になっていく。共感を得たのは友人の彼氏の感覚だった。
「彼氏がどSでさあー、泣かせようとするんだよねえー」
「やっだー、イジワルゥー」
泣き顔を見ると興奮するという話にふと和也の顔が浮かぶ。あれは『萌え』なのかなと真菜は一人回想に耽っていた。
9 真菜の秘密・3
化粧品会社に就職も決まり、新人歓迎の飲み会に参加した帰りだった。
ほろ酔いで気持ちよく帰っていると和也が歩いている。
「あら、久しぶり春休み?」
「うん。コンビに行くとこ。そっちは飲み会帰りってやつ?」
「和也でっかくなったねー。大学でもサッカーやってるんだっけ? 高1のとき泣いてたの思い出すと感慨深いわねえ」
「なんだよー。先に社会人になったからって大人ぶって」
「ふふっ、まったく男臭くなっちゃってさあ」
アルコールでふらつき、グラッと真菜はよろけた。
「おっと、あぶねえ。そこ溝だぞ」
「あ、サンキュ。いい子いい子」
身体を支えてくれた和也の頬を思わず、つねってしまう。
「あ、い、痛たっ、な、なにすんだよぉ」
「ごめんごめん」
恋人たちにこっそり行ってきた行為をうっかり和也にしてしまい真菜はやばいと思ったが、次の言葉で酔いがさめる。
「子供のころから変わんないなあー。学校行ってる間は大人しそうにしてたのに」
「えっ」
「よく小っちゃい頃お仕置きごっこで尻叩かれたり、つねられたりしたよなあ」
「そ、そうだっけ……」
すっかり忘れていた幼児期のことを思い出す。
今でこそ和也は真菜の背丈を越しているが、小学校に入る前などは真菜の方が頭一つ大きかった。
隣同士で近隣に子供が少なくよくお互いの家を行き来して遊んでいた。
当時流行っていたアニメの影響だろうか。お仕置きごっこと称して和也の小さくて柔らかい尻を叩いたりつねったり、ある時には噛んだりしていたことを思い出した。
そしてその時の和也の表情も。
「そういや、喜んでたじゃん。お尻叩いてやると」
「えっ、変なこと言うなよ」
さっと目を逸らす和也に被虐的な要素があることを真菜はなんとなく勘付く。
自分がS系であることを自覚してから、Mっ気のある男性を探し当てる癖がついていた。いることはいるがどうもMの男は奉仕をしたがるのでそこが真菜の望むものと違っていた。
子供のころからの幼馴染に男としての意識を全くしたことがなかったが、今、ちょっとつついてやる程度の言葉攻めで和也から初々しい態度を見せられ、真菜は興奮し始めている。
「ねえ。今、彼女とかいるの?」
「ん? いない。あんまり、続かないんだ」
「なんで。和也は優しいから昔からよくモテてたし大事にするでしょ」
「うん。優しくしてるつもりだけど、相手からするとつまんないんだってさ」
「へえぇ。強気に出て言うこと聞かせようとか思わないの?」
「俺、そういうのダメなんだよな」
がっしりした体格なのに顔は幼げで小動物のような表情をする。
「和也ってかわいいね」
「か、かわいいってなんだよ」
「ふふっ。――あんたMなんでしょ」
「えっ、ち、ちが……」
「違わないでしょ?」
「誰にも言わないでよ? なんか、たぶん、俺――Mなんだと思う」
真っ赤になって下を向く和也を真菜は泣かしてみたくてたまらなくなる。
「内緒にしてあげるからさあ。――私の言うこと聞いてくれる?」
「え、何、すんの?」
「別に朝帰ったっていいんでしょ? 家」
「ああ、別にいいけど」
「じゃ、そこのラブホでお仕置きしてあげる」
「ええっ!?」
「黙ってついてきて」
「ん……」
やっと望む相手が見つかった気がして真菜は即行動に出る。和也も抵抗せずに真菜について歩いた。
10 真菜の秘密・4
目についたシンプルな部屋に入り、真菜はさっさとシャワーを浴びて髪を乾かす。
「あー、さっぱりした。和也も入っておいでよ」
「え、う、うん」
主導権を握るのはいつ振りだろうか。和也は真菜の言う通りに素直に浴室へ行く。
広いベッドに大の字で寝っ転がり鼻歌を歌っていると和也が半裸でやってきた。
「真菜、ほんとに――やんの?」
「うん? やだ?」
「だって、俺たち付き合ってないし。こういうことは気軽にしない方がいいと思うんだ。もっと自分のこと大事にした方がいいんじゃ」
「ぷっ! 和也ってば乙女みたいっ、あははっ」
生真面目な和也を見るとますますたまらない気分になり、真菜はタックルするように押し倒す。
「わあっ! あぶねえ」
「細かいこと言わないの。目をつぶって寝てなさいよ」
和也の上に跨いで乗り、目についた小さな乳首をつねる。
「い、痛っぅ」
「ふふっ」
やはり痛がる声の中にも甘さを感じる。唇を重ねると和也は優しく吸い付くので真菜はこじ開け、入るだけ全部の舌をねじ込む。
「う、ふっ、ま、な、くるしっ」
男のくせにそんな可愛い声を出すなんて反則だと思いながら真菜はどんどん興奮する。
服で隠れる見えない鎖骨やら肩周りやらを甘噛みしていると真菜の尻を和也の起立したものがノックする。
「ここも、こんなに大人になっちゃって。最後みたときってかわいいどんぐりみたいだったよねえ」
「そ、そんなこと、言うなよ」
恥じらいながらもますます起立は硬くなっていく。
「じっとしててね」
真菜は手を添えて自分の中へ和也の一部を導いていく。
「あ、うぅ」
「んんんっ、和也っておっきっい」
「ああ――真菜……。なんか、いけないことしてる、気がする……」
お互いに愛情を確かめ合ったのではない。幼い頃のお仕置きごっこの続きをしているような錯覚なのだろうか。成人に達しているのに、大人にばれたらまずい秘め事のような言い様だ。
「あ、ん。き、きもち、よくない、の?」
ゆるく腰を回転させ真菜は尋ねる。
「うっ、そりゃ、きもち、いいけどっ、あっ、そんな動かないでっ」
たまに乳首をつねると真菜の中の和也がビクンと跳ねる。
「きもち、いいけど、自分が動くばっかりだと、疲れる、わ、ね」
「お、俺も、動いていい?」
「ん、動いて」
「上になってもいい? このまま、動くの、ちょっと難しくて」
「しょうがないわね。いい、わよ」
和也は軽々と真菜を抱いたままくるりと上下入れ替わり、腰を前後に使い始めた。
上から自分を見下ろすような表情は和也には一切ない。哀願するような顔つきを見せる。
「ごめん、もう、イキそう」
「あ、ん、まだ、だ、めっ」
苦悶する和也の尻を強くつねると、真菜の中で硬度を増し膨張する。
「くあっ、ううぅぅっ」
「はっ、あぁあん、あ、んっ」
「あ、はっ、はっ、ごめっ、出ちゃった……」
「つねられてイクなんて……」
和也が達するときに実は真菜も絶頂感を得ていたが、そのことは黙っておくことにした。
「真菜……。すごく……良かった」
「ん。私も、こんなに良かったの初めて」
口づけを求めてくる和也の髪を撫でながら真菜は不思議と愛情が沸いてくる気がしていた。
「あのさ、こうなったら付き合わない?」
真面目な和也は神妙な口調で言う。
真菜は少し考えて「そうだね。いいかもね」と言いながら次を続ける。
「今度さあ、縛ってもいい?」
「ええっ!? ――い、いいよ」
和也は恥じらいと嬉しさを混同させた表情で承知した。
11 真菜の秘密・5
芳香は真菜がSであるということに驚いた。見た目はフェミニンだが実際は頼もしい姉御肌でリードしてくれる真菜を勿論Mだとも思わないが、そこまでSっ気が強いとも思っていなかった。
「こういうさあ、趣向っていうのかなあ。好き嫌いってことじゃないと思うの。ほんと合う合わないっていうか。今の彼以外に私が合う人ってたぶんいないんじゃないかな。これからもし出会ったとしても、もうその時には和也といろんなことを積み上げたあとだと思うしね」
「はぁー、なんかすごく説得力ある」
「ふふっ、だから兵部さんもきっとそうだよ。どっちかっていうと芳香ちゃんの方がわかんなくない?」
「え? なんで?」
「だって、兵部さんは初めて好きになった人が芳香ちゃんだけど、芳香ちゃんは今まで好きになった人いるでしょ?」
「え、うん、そうだけど」
「匂いのことが解消されたらさあ、芳香ちゃんはもういつだって恋ができちゃう状態じゃない」
「あ、そ、そっかあ」
「だから兵部さんのことより芳香ちゃんの方が実際は心配ってこと」
「うーん。そうかなあ」
「先のことは、わかんないけどね。でも無駄に心配しなくてもいいと思うよ」
「そうだね。ありがと」
「ふふっ」
珈琲をおかわりして店を出ると日が傾き始めていた。
「じゃあ、またね」
「うん。またねー」
真菜と話をしてすっきりした芳香は薫樹の帰りが待ち遠しくなる。
そして今度一緒にニンニクを食べてみたいと思った。
12 ルームフレグランスの調香
週末に芳香が薫樹のマンションを訪れるようになってから2ヶ月ほど過ぎたが一緒に眠るだけの朝を迎えている。
ここのところ夜遅くまで自室の研究室にこもっている薫樹は疲労気味だが、芳香に会うとほっとする自分を感じていた。
「さて、今回は天然精油だけ使ってみるか」
何本かの香料を選び出し机に並べる。薫樹が作ろうとしているのは芳香との初夜を彼女が安心して迎えられるためのルームフレグランスだ。
香りのイメージはもうすでに出来上がっている。控えめで奥ゆかしい生真面目な芳香にはリラックスが必要だが、薫樹の指先の香りだけではリラックスし過ぎて眠ってしまう。催淫効果も必要だろう。
芳香のムスクの香りと自分自身のフィトンチッドの香りを考慮して配合を考える。
トップノート(香りの第一印象)が自分の指先なら、ラストノート(残り香)は芳香の爪先だろう。つまりミドルノート(メインの香り)をうまく配合しなければならない。
トップノートは薫樹自身、自覚はできないが森の香りだと芳香が言うので、シルバーファーにクミンを加える。トップノートは30分もすれば消えてしまうので、まずはリラックスと刺激を感じさせることにする。ミドルノートは二時間近く香りを保持する。つまり行為の最中、香り続けているだろう。
クミンの催淫効果を引き継がせるべく、イランイランと安心感を得られるだろうジャスミンを使用することにした。
最後のラストノートはもう芳香の香りだけで薫樹には十分だが、芳香に不満を残さないようにバニラとサンダルウッドを処方する。これで最後まで不安感のない状態をキープできるだろう。
黙々と作業をしていると、ふっと先日食事をした時のことを思い出した。
芳香の手料理を褒めると、彼女はほっとした様子で「よかったぁ」と柴犬のような黒目がちな目を細めて笑んだ。
その笑顔を思い出した瞬間、薫樹は胸がドキリとし、イランイランの雫を多くビーカーに垂らしてしまった。
「あっ、量が倍になってしまったな……」
今まで、このようなミスを犯したことがない。初めて味わう『恋』というものに薫樹は気持ちが温かくなる。
「ふむ」
あっさりとした地味な顔立ちの芳香の顔を思い出す。いないときに彼女を思うことを「悪くない」と、嬉々として作業が捗った。
13 撮影現場
『ボディーシート イン フォレスト』のコマーシャルも第3弾目だ。今回は森の妖精に扮装した野島美月が仕事で汗だくになり疲れ切っているサラリーマンをそのシートで拭いてやるというものだ。
男性タレントは 芸歴は長いが小さな劇団員の、活動場所が主に舞台であるため、このコマーシャルがメジャー進出第1弾となるようだ。
外回りをして髪はぼさぼさ、汗だくでずれた眼鏡を直しながらとぼとぼ歩いているところへ、美月が登場し、森林浴へといざなう。
芳香は真菜にコマーシャルの撮影場所が真菜と薫樹が勤め、自分の前回の職場である会社『銀華堂化粧品』の付近で行われることを聞き、仕事の休憩時間に見に行くことにした。
今の職場は『銀華堂化粧品』から歩いて15分の場所にある。もしかしたら薫樹を見ることが出来るかもしれないと芳香は秘かに期待した。
休憩時間は一時間なので店の自転車を借り、昼食を速やかに済ませて現場に向かうと、もう人だかりが現場を覆い隠して、人の隙間からチラチラ美月が見えるだけだ。
「ああー。すっごい人だなあ。みんなどこから撮影の事知るんだろう」
真菜はいるだろうかと見まわしたが、あまり興味がないと言っていたのでやはりいそうにない。
「薫樹さんはいるのかなあ」
撮影をしている現場から少し離れたビルの陰にスーツ姿の長身の男が見えた。
「あっ、あんなとこにいた!」
どうやら女性記者から取材を受けているようで、メモを取っている女性に薫樹は腕組みをし、眼鏡を直しながら答えている。
記者はメモをとりながら少しずつ薫樹との距離を詰めていき、鼻先を回しながらうっとりした表情で、もはやペンは動いていない。そういった態度に慣れているのだろう薫樹は近づく女性に対して眉一つ動かさない。
「はあ……。薫樹さんっていい匂いのする花みたいだなあ……」
遠目から見ても素敵だと思う反面、女性を惹きつける様子は見ていて辛い。
これで薫樹が嬉しそうに笑顔で対応していたならば、彼のマンションへ訪れる足が遠のくだろうと芳香は考える。
気を取り直して撮影現場を見るともう撮り終わっていたようで、美月はにっこりと取り巻く人たちに笑顔を振りまいている。
「うわー。かっわいいなあー」
改めて芸能人を間近に見ると、恐ろしく一般人とは、もちろん自分とは違う生き物に見える。
「はあ……。ため息しか出ないや」
何をしに来たのかよく分からなくなったが時間が迫ってきたので急いで店に帰ることにした。
14 園芸ショップ『グリーンガーデン』
「戻りましたー」
「おかえり、どうだった? 撮影は」
店長の小田耕作が目じりを下げて尋ねる。
「人が多すぎてあんまり見えなかったです」
「ほお、そいつは残念だったねえ。彼氏には会ってきたのかい?」
「えっ、いえ。彼は仕事中だったかな。えっと水やってきます」
「うんうん。外のハーブに頼むよ」
「はーい」
――この園芸ショップ『グリーンガーデン』は真菜が仕事帰りに立ち寄るスーパーの店舗内にあり、小田耕作とその妻、木綿子の夫婦経営だ。アルバイト募集中の張り紙を真菜が見ていて芳香に情報をくれたのだった。
面接に来た時に初老の小田夫婦のおっとりした優しい様子と、販売している花が主に夫婦が大事に育てているものであることに芳香は感動し、是非ここで働かせてほしいと頼んだ。
小田夫婦としては芳香の熱心で誠実な態度に喜びを見せたが、反面、アルバイトであり、給与の低さで芳香を心配した。店の売れ行きは良いが実際のコストなどで高額の時給は払えずいつも学生のアルバイトでまかなっていた。更にサービス業であるため日曜日と祝日も勤務となる。
それでも生活はしていけそうであったし、何よりも香りのよい草花に囲まれるととても気持ちが良いということで勤めることとなった。
勤めてから耕作は主にハーブの知識を与えてくれ、木綿子は花束のアレンジを教えてくれる。
子供のいない小田夫婦は芳香をとても可愛がってくれており、芳香も二人を慕っている。とても良い職場だ。
また夫婦は芳香の恋人の兵部薫樹のことも知っている。なぜなら、薫樹がわざわざ「フィアンセをよろしくお願いします」とあいさつに来たからだ。
芳香も小田夫婦もその挨拶に驚いたが、薫樹は好印象だった。そのあとしばらく夫婦に芳香は冷やかされることになる。
小さなポットに入ったバジルを眺める。まだ小さい苗だが葉はツヤツヤとして芳しい香りを放っている。
先月、木綿子の手作りであるバジルソースをもらった。夏から秋にかけて収穫ができるバジルはいつもソースにして冷凍保存しておくらしい。店で売っているジェノベーゼと違い、木綿子のバジルソースには松の実もニンニクなども入っていなかったが、香りが高く濃厚だ。
そのソースを使って薫樹にバジルパスタを振舞うととても喜んで食べた。
「私ももっとハーブでお料理作ってみたいなあ」
今度は薫樹と一緒にお手製のフレッシュミントティーを飲ませてあげたいと思いながらハーブの世話をしていると、さっきまでの不安感がいつの間にか消えていた。
15 薫樹の香り
会社の研究室で薫樹は自分の指先を嗅いでみたが、匂いがわからない。
「本当に匂いがあるのだろうか?」
一度指先の香りを調べるため、識別装置にかけてみたがなんの成分も出てこなかった。
「匂いがわからないなんてことがあるのだろうか」
芳香がいい匂いだとうっとりするが、今まで誰にも指摘されたことがない。自分の体臭は自分ではよくわからないというが、どうなのだろう。
椅子に腰かけ、首をかしげているとノック音が聞こえたので「どうぞ」と招いた。
「失礼しまーすっ」
「ん? 野島さんか、何か用?」
「えー、用っていうかー、会いに来ただけです」
「勤務中なんだが……」
薫樹の話を聞かず、野島美月はきょろきょろ研究室を眺める。今、研究開発部は一つのプロジェクトを終えたところで、薫樹以外の開発スタッフは長期休暇中だった。
ボディシートの売れ行きが良く、会社は野島美月を優遇しているため、このように社内をぶらつくことを戒めるものが誰もいないのだ。
「ここでいろんな香りを作るんですねえー」
「うん、そうだ」
「ねえねえ、兵部さん。今度二人でどっか遊びに行きません?」
「ん? なぜ君と二人で行くんだ」
「もっと、ワタシのこと知って欲しいんです。仕事じゃなくて」
美月は薫樹をまだ諦めていなかったようだ。しばらく動きがなかったのですっかり薫樹は美月のことを忘れていた。
「僕には芳香がいるのを知っているだろう? 悪いが君を知る理由がない」
ぷうっと膨れながらも美月は食い下がる。
「別に、彼女と別れて、ワタシと付き合ってって言ってるんじゃありません。薫樹さんが好きなのでそばに居たいだけなんですぅー」
森の妖精の姿からコケットリーなフランス人形に変わって迫ってくる。
「簡単に好きだというが、君は僕のどこが好きなんだ?」
「えっとぉー、カッコよくてー、頭が良くて、とっても素敵です」
「格好良くて頭がいい男なんかいくらでもいるだろう」
「違うんですっ。兵部さんは、なんていうかワタシの周りにはいないタイプでぇ」
「周りにいないタイプか――」
「そうです、そうなんです。トクベツなんです」
「うーん。それはただ新鮮なだけじゃないだろうか。僕みたいなタイプは案外多いよ。大学時代、みんな僕と似たような感じだったしね」
「えー。だって兵部さんの彼女だって、他にない香りの持ち主なんでしょ?おんなじじゃないですかあ」
「確かに彼女の匂いは特別だった。だけど中身はごく平凡だと思う。彼女の香りには抗えない魅力があるがもし違う性格だったなら彼女自身を好きになっていないだろう。顔立ちの話をすれば、君の方が随分と美人だ。芳香は――地味で辛抱強そうな犬――みたいだな。プッ、フッ」
薫樹は嬉しそうに思い出し笑いをする。
「え? デレてる――のか、な……。ちょ、ちょっとイメージ狂ってきたかも……」
クールで大人っぽく紳士な薫樹がニヤニヤしているのを見ると美月の気持ちがいきなり冷めた。
「この前作ってくれたバジルのパスタは薫り高くてとても美味しかったな。わざわざパルミジャーノ・レッジャーノの塊をスライサーでスライスしてのせたんだ。粉チーズを買わないところを見ると案外、食にこだわりがあるのかもしれないな」
「はい? パスタ?」
「ああ、彼女は和食の方が得意みたいだな。薄味でね。だけどちゃんとだしをとっているんだ。野菜が中心で身体にも良さそうだよ」
「えっとぉ、なんか――わかりました。なんか違うなーって。しばらくお仕事頑張ることにします」
「ん? ああ、そう? それがいいよ。君にはもっと活躍の場がありそうだし、人気も出るだろう」
「あ、ありがとうございます」
今まで美月に迫られていたことなどすっかり忘れた様子の薫樹に、きもちの冷めた美月は呆気にとられるばかりだった。
「じゃー、この辺でぇ」
「あ、そうだ。ちょっと僕の指先を嗅いでもらえないか?」
「え? 匂うんですか?」
「うん」
美月の目の前に薫樹は白く骨ばった指先を差し出す。首をかしげながら美月は恐る恐る匂いをスンスン嗅ぐ。
「どうかな、何か匂いがするかな」
「うーん、別になんにも」
「そうか、ありがとう」
「はーい、失礼しましたあ」
何の未練もない様子で美月が立ち去った後、薫樹は自分の指先を眺めた。
「なるほど」
自分の指先のフィトンチッドを感じるのは芳香だけなのだと納得して、ルームフレグランスの完成に向かうことにした。
16 デート・1
お互いに長い労働時間のおかげでゆっくり会うのは薫樹のマンションで週末だけであったが、芳香の勤める園芸ショップがスーパーの棚卸のため二連休になり、それに合わせて薫樹が有給休暇をとり、外でデートをすることにした。
どこか行きたいところはあるかと尋ねられていた芳香は少し遠いがハーブ園と答えた。
タクシーで行こうとする薫樹を芳香は慌てて引き留める。
「ここからだと2時間近くかかるし、すっごいお金かかっちゃいますってば!」
「そうなのか? 公共機関を使うと仕事の電話が困るものだから僕は移動をタクシーにしてるんだ」
「はあ、なるほど。今日もお仕事の電話きたりします?」
「うーん。たぶんないだろうけどね」
公共機関を使わない理由をお金持ちの贅沢だと思っていたが、仕事のためなのだと芳香は納得した。しかし往復4時間近くの交通費は一ヶ月の食費になってしまうことを考えるとやはり賛成しかねる。たとえ薫樹が支払うと言ってくれていてもだ。
「レンタカー借りませんか? 融通きくし」
「レンタカー? 僕は免許持ってないよ」
「あ、そうですか。私、持ってます。今は車持ってないですけど、仕事でも良く乗ってますよ。鉢植えとか苗を運んだりするから」
「ほう。しかし何時間も平気なのか?」
「全然、平気ですよ。運転好きだし」
「ふ、む。じゃあ、芳香の運転でいこう。ゆっくり行っても昼には着くだろう」
「はいっ。楽しみですね。車なに借りようかな。薫樹さんって好みありますか?」
「なんでもいいよ。君の好きな車で」
「そうですか。じゃエコカー借りようかな。低燃費だし」
「ふむ。君はしっかり者だな」
芳香は恥じらいながらも嬉しそうにはにかんだ。こうして二人で少し長い距離をデートすることになった。
街中を30分も走らせると建物もまばらになり自然の景色が増えてきた。少し窓を開け風を入れると気持ちよさそうに薫樹が目を細める。
「芳香は運転が上手いな」
「んー、慣れですかね。うち、実家がこれくらいの田舎なので車必須なんですよ。免許とったらよく運転させられて」
「ふーむ。君はなんでも出来るんだな」
「え? なんでもって」
「出来ないことがないだろう。僕は調香する以外何も得手がないからね」
「えっ、そ、そんな。こんなの普通にみんなできることで、薫樹さんは誰にもできないこと出来てるんだから、全然違いますよ」
「フッ、謙虚だな」
「え、け、謙虚というわけじゃ……」
誰しもあこがれの的である薫樹に褒められ、芳香は戸惑うが本心からの肯定に嬉しくもある。
そして初めて助手席に乗る恋人の端正な横顔を眺め、恋愛中の喜びを噛みしめるのだった。
17 デート・2
ハーブ園に到着し、車から降りると風に乗ってラベンダーの香りが二人を出迎える。
空は高く青く広々として、空気も時間もゆっくりしているようだ。
「あー、気持ちいいー」
「うん、いいところだな」
並んで庭園をゆったり歩く。ラベンダーは一斉に紫の花を咲かせそよ風に揺れ、香りを漂わせている。普段、店で見慣れているハーブではあるが、広々とした場所に太陽の下で群をなす姿に芳香は圧倒される。
「ああ、カモミールも可愛いんだあ」
小さな白い花々の前にかがみこみ芳香は胸いっぱいに香りを吸い込む。
子犬のように駆け回りはしゃぐ彼女を薫樹は微笑ましく眺める。
「いいなあー。私、こんなにハーブが好きになるなんて思わなかったです」
「そうか。僕は元々ハーブは好きだよ」
「そうみたいですね。薫樹さん、よくハーブティー飲んでますもんね」
そう言うと芳香の腹がぐぅっと鳴った。
「あっ、やっ、やだぁ」
赤面する芳香の腕をとり、薫樹はエスコートする。
「そこでランチにしようか」
「は、はいっ」
二人はオープンテラスのレストランで食事をすることにした。
このハーブ園で収穫されたハーブを使ったスパゲッティを注文する。香りが高いうえにカラフルな花弁も散らされ美しい。
「綺麗っ! 食べるのもったいないなあ」
そういいながらも芳香はくるくるとフォークに麺を巻き付ける。
「美味しいーっ」
トマトソースにオレガノとタイムが利いている。
「うむ、なかなか香りが高くていい。でも君の作ったパスタの方が美味しいかな」
「え? そうですか?」
「うん。なんとなく気持ちも満たされるものがある」
「そ、そういってもらえると、作り甲斐があります」
「今度、僕が作ってみようかな」
「えっ? 作るんですか? 作ったことあるんですか?」
「んー。子供の頃、学校の家庭科で確か僕は味噌汁を担当したことがあったな」
「へー。どうでした?」
「だしの香りが気に入らなくてやり直していたら、時間切れになって僕の班だけ味噌汁がなかったよ」
「ええっ!? だ、大丈夫だったんですか?」
「うん。僕の班の子らは僕以外女子で、理由を言うと『しょうがないよね』って理解を示してくれたよ。優しい子たちだったな」
「あ、はあ、なんか、そうですか……。今とあんまり変わらないんですね……」
「ん? そう?」
「え、あ、あの、香りにこだわるってところが」
「フフ、そうだね」
子供のころからモテモテですねとは言わずに芳香は残りのパスタを平らげた。
18 デート・3
食事の後、体験コーナーというところに立ち寄った。ハーブを使った石鹸づくり、アロマオイルで香水作りなど色々な講座があるようだ。
「へー、色々体験できるんですねえ。自分の好きな香水かあ」
芳香はやっと自分の匂いを改善したばかりなので、まだ香水をつけることを考えるには至らなかった。
「興味があるかい? 香水に」
「そうですねえ。自分に香水をつけるっていうことはできなかったですからねえ」
「ふーむ。君は何もしなくても、いい香りだから必要にはないが、何か好きな香りがある?」
「好きな香りかあ。なんだろ、銀華堂化粧品にいたころは会社中が香料のいい匂いがしてて、今の職場も木とか花のいい匂いがしてて――。そういえばこれが好きっていうのがないかもしれない……」
「芳香はなかなか香りに偏見がないようだな。まあ僕もそういう意味では強い好みはないな。君の香りが一番好きだが」
「えっ、ちょっ――」
足に施される愛撫を思い出し、芳香はまた赤面する。そして言わないが自分も薫樹の香りが一番好きだと思った。
土産物を販売しているコーナーに立ち寄ると、薫樹が開発したボディシート『ボディーシート イン フォレスト』が置いてある。
「へー、こんなところで売られてるんですねえー」
「ああ、本当だな」
「このシートってほんと画期的ですよね。これのおかげで私の人生変わったよなあ」
感慨深そうに芳香はきちんと並べられたボディーシートを見つめる。
「今度、それに他の香りをつけることになったよ」
「ああ、そうなんですね」
「僕はそのままで、いいと思うんだが、まあ会社の意向だしね。フローラル系と柑橘系が加わると思う」
「そっかあ。じゃ、また新しいCMもできるんですね……」
「ん? ああ、たぶんね」
さっきまで明るくはしゃいでいた芳香がだんだんと暗く沈んでいく。
「芳香。野島さんのことを気にしているのか?」
「え、っと、少しだけ」
「心配ない。野島さんの件は片付いた」
「えっ?」
「彼女にははっきり断っているし、理解もしてくれたようだからもう心配しないで」
「ほんとに?」
「ん」
薫樹は芳香の手を取り、自分の指先を彼女の鼻先へ持っていく。
「いい香り……」
ハーブ園での香りも落ち着くが薫樹の指先を嗅ぐと更に芳香はリラックスする。
「この香りはどうやら君にしか感じられないらしい」
「え? うそ! こんなにいい匂いなのに?」
「うん。調べたがやはり香りの成分はないようだよ」
「えー」
芳香は信じられないという表情で薫樹の指先を嗅いでいる。
「フフ。つまりこの指先は君だけのものだ」
「あ、わ、私だけ……」
「うん。他に誰が現れても僕は揺れたりしない」
愛の告白と誓いをハーブの優しい香りに包まれながら聞く。
うっとりと酔いしれていると薫樹は耳元で囁いた。
「今夜は、君の香りを堪能させて」
芳香は甘い花の香りを感じた。
19 デート・4
薫樹のマンションに帰宅する。
シンプルで生活感のないモデルルームのようだった薫樹の部屋に少しずつ、色と香りが加わっている。
「疲れた?」
「いえ、楽しかったです」
「よかった。ゆっくり風呂に入るといいよ」
「さっき買った入浴剤入れてもいいですか?」
「いいよ」
「あ、あの。一緒に入るんですか?」
「うーん。僕は後にするよ。少しやることがあるから」
「そうですか、じゃお先に」
芳香は少し残念な気がしたが、今夜こそ、結ばれるかもしれないと思い念入りに身体を洗おうといそいそと浴室に入っていった。
「よし。準備するか」
薫樹は芳香が入浴している間に寝室を調整することにした。
室温も湿度もまずまずなのでエアコンを使う必要はなさそうだ。最近、芳香が持ってきた観葉植物のアレカヤシのおかげか湿度が安定し乾燥を免れている。細長い羽のような葉が噴水のように茂りヤシ科であるアレカヤシは空気を清浄する上に南国ムードを醸し出している。
「今日のハーブ園はなかなか良かったな」
アレカヤシの葉をスッと撫でハーブに囲まれた芳香を思い出す。
シーツはすでに新しいものに変えているので少し整えるだけで良い。
寝室の入り口の片隅に調合したルームフレグランスをセットすることにする。今回はリードディフューザーにしてみた。
小さな青い遮光瓶の蓋を開け、木のスティックを数本差して置いておく。
芳香が風呂から上がり、そして薫樹が入浴後に戻るころにちょうど香りが満ちているはずだ。
「さて狙い通りにいくだろうか」
かすかに感じられる立ち上る香りを確認し、ダイニングに向かった。
ちょうど芳香が出てきたようだ。
「薫樹さん、お先でした」
「ん、じゃ僕も入ってくるから、そのハーブティーでも飲んだらいい」
「あ、ありがとうございます」
少しだけ冷やされたローズヒップティーだ。透き通った赤い色が美しい。
「今夜……こそ」
芳香の心臓が早鐘を打つ。ローズヒップの酸味が少しだけ冷静さを促すが、一瞬でしかない。
自分のために淹れてくれたローズヒップティーを噛みしめるようにゆっくりと大事に飲み干し、芳香は寝室へ向かった。
20 香りに満ち満ちて
ほんのりと薄暗い寝室に入る。特に何をするわけでもなく広いベッドに潜り込んだ。
シーツは白く清潔で洗濯したての日向の香りがする。掛け布団は薄くフラットなのに手触りがよく温かい。
「うーん、すべすべしてる。シルクの寝具ってつるっつるだなあ」
初めて薫樹の寝具を見たときに布団の薄さが気になったが、眠ってみて温かさは重さではないのだと知った。
「これから……ここで……」
横たわり落ち着かずシーツを撫でていると、薫樹がそっと寝室の入ってきた。
すっとベッドに腰かける。
「芳香。寝てる?」
芳香は身体を起こし「いえ……」と言葉少なに答えた。
薫樹は芳香のボブの髪をそっと耳に掛け、頬に触れ唇を重ねてくる。ゆっくり時間をかけ、唇の温もりを確認したのち、またゆるゆると舌が唇を舐め、濡らし、そっと内部へ忍び込む。
優しく甘い口づけを交わしながら薫樹は芳香を横たわらせる。
芳香がはっと気づくと薫樹はすでに裸体を晒している。ぼんやりとした照明の下で薫樹の白い肌と眼鏡が光る。
薫樹は芳香のパジャマのボタンを一つ一つ外す。その下にはしっかりとブラジャーをつけていた。
背中のホックに手を掛けられたとき、芳香はぎゅっと目をつぶる。小さい膨らみを見られることが恥ずかしい。
「寒くない?」
上半身を脱がせてしまうと薫樹は気遣うように尋ねる。
「は、はい。寒くないです」
緊張と興奮で温度など芳香には分らなかった。パジャマのズボンとショーツをおろされた時には心臓の音しか分からなかった。
薫樹に服を脱がされただけで、やけに興奮し身体の内部が熱くなってくる。
肌と肌が重なり合う。薫樹の滑らかな肌が、汗ばみしっとりした芳香の肌を這う。
口づけと肌を触る大きな手の感触にいつもはリラックスすることもあるが、今日は違う。
両手で薫樹は両乳房を包み込み、揉みしだく。
彼は以前芳香が言ったように上から順番に下へ降りてくるようだ。
小さな乳房を揉まれながらやはり小さな突起を舐められ甘噛みされ芳香は呻く。
「あっ、あっ、うっ、ふっ」
舌はゆるゆると円を描き動く。芳香の香りが強くなってきた。
「いい香りがする。今日はたっぷりと楽しもう」
「あぁ、はぁ、や、だぁ」
羞恥心により言葉だけで抵抗を見せるが、ルームフレグランスの効果だろうか、いつもの彼女よりも声が甘くおねだりをする猫のようになっている。
早く強い芳香のもとへ薫樹は急ぎたかったが、ぐっと我慢をし、最後の楽しみのように太腿と膝に舌を這わせようとし、少し身体の向きを変えた。
「あっ、甘くて、え、えっちな匂いがする――」
上気した頬と潤んだ目で芳香は荒い息をしながら言う。
「ん? 甘さ? バニラはまだ香ってこないはずだが……」
今の時間はまだスパイシーな香りがしているはずだ。少しタイムラグがあるのだろうか考え、薫樹が動きを止めた瞬間だった。
「も、もう、だめ。我慢、できない」
のっそりと芳香は身体を起こし、息を荒くしている。
「どうしたんだ?」と言葉を発する前に彼女は薫樹のボクサーショーツに手をかけ、彼の起立したものを取り出した。
「い、いきなり、何を?」
「はぁ、はぁ、こ、ここから、いい、匂いがする」
そう言いながら芳香は股間に顔をうずめ、直立したモノをさすり、頬ずりし、匂いを嗅いで、口に含んだ。
「うっ、よ、芳香……」
まさかここまで大胆になるとは予想をしていなかった薫樹はためらったが、彼女の口淫に強い欲情を感じる。
芳香は夢中でしゃぶり舐めあげている。
「うっ、うっ、ま、さか。こんな……」
薫樹を愛撫する芳香からさらに強いムスクが漂い始める。
「これじゃあ、僕も我慢できない――」
吸い付いている芳香を離そうと試みたが難しい。
「こうなったら――」
身体をずらし芳香にされるままの状態でシックスナインの体勢を何とかとった。
「ああ、君もすごい――。なんて芳香だ」
足の付け根から香り立つ麝香に薫樹はごくりと喉を鳴らし、足を開かせ、茂みに顔をうずめた。
花芽を吸い、花弁をかき分け、舐めまわし、吸い上げ香りを嗅ぐ。
「あっ、やっあ、あんっ、だ、だめっ、あうっ、うっ」
芳香は高い声で喘ぎ始めた。しかし薫樹のモノを咥えて離そうとはしない。
お互いに夢中になって愛撫し続けるが、やはり快感の限界はやってきてしまう。
「ああ、もう、そんなにされたら、ダメだ!」
至上の香りを堪能しながら、肉体的な快感を得、もう二人ともどうなっているのかよく分からなくなっている。
限界に近い薫樹は思わず強く芳香の花芽を吸った。
「あっ、あ、あん、くぅうん」
「くっ、うっ、ふぅっ――」
同時に達する。
芳香の太腿がぶるっと震え、ガクッと力が抜けると、薫樹を咥える力も弱まり拘束から放たれた。
息を整え薫樹は身体を起こし、芳香の顔の方へ向きを変える。
「ああ、こんな――淫らな……」
「あ、はぁ、薫樹さん……」
うっとりと上気した頬に潤んだ目、そして半開の口元から白濁液が漏れている。
口元をぬぐって綺麗にしてやると力尽きたように芳香は目を閉じ眠ってしまった。
「うーん。これは成功なのだろうか……」
彼女はすやすやと幸せそうな寝顔を見せる。
「まあ、今回はこれで良かったのだろう」
今夜一晩中、この部屋はムスクとフィトンチッドが絶妙なハーモニーを奏でている。
第二部 終わり
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