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 樹の下に腰を下ろし、珠子はため息をつき甘い香りに癒されていると、ガサッと茂みが鳴った。

(何か動物かしら?)

見上げると一樹が立っていた。



「珠子。こんなところで何をしてるんだ」

「お兄さまこそ……」

「僕は銀木犀の香りが好きでね。嗅ぎに来てるんだ。花は数日しか咲かないから」

「そうね。とてもいい香りなのにあっという間に無くなってしまうわね」

 珠子はまるで自分の少女期が花の咲く期間のように投影された。



「あちらでは不自由してないのか?」

「ええ。文弘さんは優しいわ」

愛されていないと口に出しそうになったのを堪えた。

「なら、いいんだ」



「兄さまは結婚しないの?お好きな人は?」

「僕にはそんな人いないよ」

「そう」



 一樹の返答に寂しいような嬉しいような複雑な気持ちが沸いたが、すぐに打ち消すように「兄さまにいい人が現れるといいわね」と続けた。

ふっと微笑む一樹は少年の時と同じで優しい木陰のようだ。



「もう冷えてきたから、お帰り」

「え、ええ。そうね」

 珠子の手を取り立たせ、裏の扉まで送る。

閂はかかっておらず葉子と浩一はまだ小屋にいるようだ。



「せっかく帰ってきたんだからのんびりすればいいよ。ばあやが若返ったようだし」

「ぷっ。やだ兄さまったら」

「僕は明日下宿に戻るよ。しばらくは帰ってこれないと思うけど、身体を大事にするんだぞ」

「はい」



 次に会えるのはいつのことだろうか。

「あの……、兄さま……」

「ん?」

「いえ。おやすみなさい」

「おやすみ」



 言いたいことがあるが思うように言葉にできない。

言葉にできたとしても、それを伝えたとしても、何の意味もなさないかもしれない。



 珠子はそっと襖を締め、暗闇の中で一樹の漆黒の髪と黒曜石の様な瞳を思い出す。

(そばにいるのに)

手が触れられるほど近くいたのに、とても遠いのだと初めて恋を失くしたことを知った。
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