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89 『美麻那』 

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 扉は開いていて、ひらひらと何枚もの鮮やかな荒い布が垂れ下がっている。手でくぐり中に入ると、やはり華夏国と違う明るい色合いの机と椅子が並んでいる。壁には極彩色で描かれた、象や孔雀、人物画などが飾られている。

「ちょっとおらは落ち着かねーぞ」

 腰掛ける許仲典は珍しく緊張気味だ。この西国の色合いが肌に合わないのだろう。

「そう。たぶん華夏国民なら慣れないかも。あたしは家族が西国人だから結構平気」
「目がチカチカするだ」

 客は他におらず二人きりだ。座ってしばらく経つと店の女がやってきた。年配のふくよかな女が「あら、こんな時間に珍しいわね」と星羅の肩に手をかける。

「ああ、すまない。営業時間じゃなかったか?」
「そういうわけじゃないんだけど、この時期、この時間にお客はめったにないのよ。ご注文は?」
「カリーとナンとチャイを」
「あら、珍しい」
「え、みんな何を食べるんだ?」
「いいえ。注文はみんなカリーとチャイだけど、華夏国の人はナンをあまり頼まないのよ」
「そうなのか」
「それと、発音が綺麗だわ」
「それはどうも。この店は開店して何年になる?」
「20年越したところよ。じゃ、お待ちになってて」

 長年開店しているこの店に、特に怪しいうわさなどない。新しくぽっと出の店などは、盗賊の根城になっていることもあるが、その場合すぐ噂に上るので店自体もすぐに解体される。
 運ばれてきた咖哩はふんだんにスパイスが使われ、食欲を刺激する。美しい輝くような黄金色のナンは香ばしい香りを放つ。

「おらあ、初めてだ!」
「さ、熱いうちにどうぞ」

 女は星羅の隣に腰掛け食べる様子を眺める。

「いや、隣につかなくていい」
「あら、最近そういう人が多いのねえ」
「そういう人?」
「ここは宿屋でも食堂でもあるけどね。男に楽しんでもらう店でもあるのよ? この前も食事だけの男が何回か来たわね」
「ふーん」

 その男はきっと明樹だろうと星羅は推定する。咖哩を一口頬張った許仲典が「んん?」と変な声を出す。

「お口に合わないかしら?」
「いや、そうじゃねえんだが」
「仲典さんには刺激が強い?」

 星羅も一口放り込む。確かに何か舌に違和感を感じる。許仲典は手を付けるのをやめている。なんだか食べ進めることに不安を感じる。

「あの、香辛料は何が使われてる?」

 こってり化粧を施した女に尋ねると「さあ、あたしが作ってるんじゃないからわからないけど」と立ち上がって後ずさり始める。
 星羅と許仲典も、怪しい女の動きを見て立ち上がる。

「二人を取り押さえて!」

 女が厨房のほうに怒鳴ると、ガタイの良い男が数人やってきた。男たちは半裸で曲刀を手にしている。髪を束ねることなく無造作に伸ばしている。

「星羅さん! 逃げるだ!」

 数人の男めがけて許仲典は腰から剣を抜き、飛び込むように切りかかった。彼が男たちと戦っている間に逃げるチャンスはあったが、許仲典を置いて逃げることはできなかった。自身も剣を抜き応戦する。
 腕っぷしと勢いのいい許仲典が半数の男をなぎ倒し、星羅たちが優勢に見えた。

「あんたの夫が死んでもいいのっ?」

 女の叫ぶ声で、星羅の動きは一瞬止まり、男によって剣を叩き落された。

「あっ!」

 一瞬で形勢は逆転してしまう。星羅の喉に曲刀を当てられては、許仲典も剣を置くしかなかった。

「仲典さん、ごめん」
「いや、おらはいい……」

 縛り上げられた二人は女の指示で、食堂から奥の部屋に連れていかれた。細い廊下は石畳で砂埃をかぶっている。黄砂がひどく掃いても掃いても入ってくるのだろう。
 大人しく歩いている星羅の耳に男の呻く声が聞こえた。聞き間違えることのない明樹の声だ。星羅が気づいたことに気付いた女が「心配しなくていい。とにかく大人しくしてね」とにやりと笑う。

「会わせて」
「いいわよ」

 女は明樹のいる部屋へ星羅を連れていく。

「どうぞ」

 部屋には扉はなく布一枚で廊下と隔てられている。すぐにも逃げ出すことができそうな部屋の作りに疑問を持ちながら星羅は中に入る。

「あなた!」

 寝台にはやせ細った明樹が横たわっている。髪はまとめられておらず、半裸の身体に流れている。身体を縛られたまま星羅は寝台に駆け寄り、明樹に何度も声を掛ける。

「あなた、あなた」

 閉じていた目を開いたが明樹の視線が定まっていない。

「う、うう」
「しっかりして、星羅です!」
「せい、ら?」
「ええ!」
「それより粥を……」
「粥?」
「うう……」

 何もまともに答えてくれず、星羅のこともよくわかっていないような明樹の様子にまさかと女を睨みつける。

「怖いわ。そんな顔して。命に別状はないのよ?」
「麻薬を使うなんて……」
「拷問なんかよりもいいと思わない?」

 さっきの咖哩もおそらく麻薬を盛られていただろう。許仲典の野性的な味覚が違和感を感じたのは偶然ではない。本能的に危機感を感じたに違いなかった。

「目的は何?」

 虚ろでやせこけた明樹を涙をこらえてみていたが、涙声になっている。

「安心して命でもお金でもないから」
「では何!?」
「ごめんなさいね。それはあたしもよく知らないの。とにかく上からの指示でずっとここに店を出してたのよ。あなたが来るまで」
「わたし?」

 女の狙いは星羅だったが、とらえる理由を知らない。彼女は指示されているだけのようだ。それでも明樹をこんな状態にした女を許せるわけもなく、憎しみが増していく。

「さて、もう一人の男に書状を持たせて解放するわ。しばらく夫婦の対面をしててね」 

 見張りの男を一人置いて女は出ていった。

「あなた……」

 星羅の呼びかけに明樹は壁を見たままぼんやりとしている。近寄って頬を彼の手の甲に乗せたが反応はない。痩せた手は筋張りかさつき、体温を感じない。自分の流す涙の熱さを星羅は初めて知った。
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