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75 懐妊

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 夫の陸明樹が辺境の地に赴任してしばらくすると、星羅は体調不良に見舞われる。胸がムカムカし、吐き気はあるが実際に嘔吐することはない。軍師省で吐き気を抑えるために手ぬぐいを口に当てていると、郭蒼樹が町医者でいいから行けと言う。

「おじさま、じゃなくて、来月にでもお義父さまに診察してもらうから平気よ」
「医局長じゃなくても、すぐに診てもらったほうがいい」
「そう? ここのところ蒸し暑いからそのせいだと思うけど」
「自分で気づかないのか……。とにかく早く医者に行くといい。薬局でもいい」
「何? なんだか思わせぶりね」

 いつもはっきり言う彼がやけに言葉を濁す。

「俺は専門ではないからな」
「そんなに言うなら、すぐにでも行ってくる」
「ああ、そうしろ」

 星羅は休憩がてら、外に出る。軍師省は都の中心部にあるので、どんな店でもすぐに探すことができた。薬局も少し歩けばぶつかる。薬を買う人々で賑わっているが、星羅の空色の着物を見るとすぐに店員がやってきた。

「これはどうも軍師さま。何がお入り用ですか?」
「あ、あのちょっと胸がムカムカするので診察とその薬でももらおうかな」
「は、はあ。胸がムカムカと。こちらにどうぞ」

 じろじろと星羅の顔を見て、店員は納得したような表情をし、薬の処方箋を書いている薬師のまえに座らせた。

「こちらの方の診察をお願いします」
「よしよし。手首を出してみなさい」

 年配の人の良さそうな薬師がニコニコと星羅の脈を測る。星羅は陸慶明以外に診察をされるのは初めてだ。自分を抱き寄せるほど近くで診察する彼と違って、この年配の薬師は伸ばした手でそのまま診察する。薬師によって診察の仕方に違いがあるものだなと感想を持つ。
 手を離した薬師がもっと笑顔で話す。

「おめでたじゃなあ」
「おめでた? なにがおめでたいんです?」
「そりゃあ、子供ができたことだ」
「え? 子供?」
「そうじゃよ。気づかなかったのかの?」
「子供……」

 仲の良い星羅と明樹だったが、無邪気な子供同士のような夫婦だったのでまさか妊娠しているとは全く予想していなかった。

「身体を冷やさんことと、根を詰め過ぎんようにな。腹がもっと出てくるまであまり動いてはならんぞ」
「あの、馬にも乗ったらだめですか?」
「馬に乗る!? だめじゃだめじゃ。馬車でもよろしくない。ゆっくり歩くか輿に乗るんじゃな」

 妊婦のための薬草をもらって星羅は薬局を後にし、また軍師省に戻る。

「どうだった?」

 落ち着かない様子を郭蒼樹が見せる。

「子供ができていた」
「やはりそうか」
「よくわかったね」
「それはそうだろう。結婚してしばらくして体調不良と言えば定番の出来事ではないか」
「はあ、なるほど」
「しばらく休むか?」
「いや、別に今のところ平気だろう。薬師も仕事をするなとは言わなかったし」
「まあでもあまり無理はするな」
「ありがとう」

 郭蒼樹は星羅の妊娠がわかってから、軽るかろうが物を運ぶことをさせなかった。仕事のサポートも大きく星羅はいつか彼に恩返しをしなければと考えていた。

 厩舎に行き、馬の優々のところへ行く。

「優々、しばらくあなたに乗れないみたい」

 優々は言っていることがわかるのかブヒンと寂しそうに顔を振った。

「おーい。星雷さーん」

 馬の世話係の許仲典が大きな体を揺らしながら走ってきた。

「こんにちは。仲典さん、いつも優々をお世話してくれてありがとう」
「いやあ、おらにできることってそれくらいだし」
「ううん。馬たちはみんな仲典さんが好きだもの。すごいことだわ」
「いやあ」

 嬉しそうな許仲典をみると星羅は気分が和む、しかし悪阻がなくなるわけでなかった。

「う、うぐっ」
「ど、どうしただ?」
「だいじょう、うぶっ、ちょっと気持ち悪くて」
「おら、薬師呼んでくるだよ」
「まって、平気。これ、あの悪阻なの」
「つわり? それってなんだったべか」
「子供ができたようなの」
「子供! それはめでてえ!」
「う、ぷ。ありがとう。だから平気なの」
「そうかそうか。そりゃあ大事にせねばなあ」
「だけど、しばらく優々に乗れなくなるみたいなの」

 星羅が優々の首筋を撫でると、優々は恨めしそうな目で許仲典に目をやる。

「おやまあ、それは優々がつまらないこった。よし。おらが時々、乗って散歩させてやっとくよ」
「そんな。ほかの馬の世話もあって忙しいだろうからいいわ」
「うんにゃ。ちょこっと走らせてやるだけだよ。重たいおらを長い時間乗せて疲れさせてもいけないし。なあ優々」

 優々は嬉しそうに前足で地面をかく。

「まあ! 優々ったら嬉しそうね。じゃあ無理のない程度でお願いします」
「うんうん。星雷さんは丈夫な子を産むんだぞ」
「ありがとう。まだまだ先だけどね」

 星羅は優々を連れてゆっくり歩いて屋敷に戻った。あいにく屋敷は、実家よりもずいぶん軍師省に近いので馬に乗らなくても歩きで十分ではある。
 明樹が僻地に赴任し一人になった屋敷は寂しいと思ったが、腹に子供がいると思うと明るい気持ちになる。

「明日、みんなに知らせに行かなくちゃ」

 陸家と朱家に子供ができたことを告げて回ることにする。

「驚くかなあ」

 星羅は明樹に文をしたためる。一言、子供ができましたとだけ。その一文をかくとより星羅に子供ができた実感がわいた。

「晶鈴かあさまは、わたしを身ごもった時どう思ったのかしら」

 珍しく京湖ではなく実母の胡晶鈴のことを考える。同時に初めて不安というものを感じる。もう自分一人の身体ではないのだと思うと不思議な責任感が沸き上がる。

「酒は飲まないほうがいいかしら」

 ふつふつと湧いてくる喜びと不安に高揚感がある。胸の上に手を置き、自身の鼓動を聞く。もう片方の手を腹の上に置く。自分の体の中に二つの命があるのだと思うと、改めて命の不思議さを実感するのだった。
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