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68 恋心

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 きっと父親のことを知っているはずだと星羅は陸慶明に会いに行く。これまで母、胡晶鈴のことだけは常々気にしていたが、父親の存在については養父母の朱彰浩も京湖も知らないので関心を寄せてはいなかった。初めて恋をした相手が、曹隆明でなければ父親のことを知りたいと思わなかったかもしれない。
 陸家の屋敷の門に着くと固く閉ざされていて、白装束を着た門番が一人だけ立っている。屈強そうな若い男は陸家を何度も訪れてきた星羅の顔見知りだ。

「あの、何があったのですか?」
「星羅さま。実はご側室がおなくなりに……」
「え、春衣さんが……」

 喪中ののようで家人はみな白装束を着ているようだ。出直そうか、お悔やみを言おうか考えていると息子の陸明樹が小さな扉から出てきた。彼も白装束を着ている。

「あ、やあ星妹」
「明兄さま……。あの、この度は……。知らなくて……」
「春衣は側室だったということもあって、そんなに大きな葬儀はしていないのだ。何か用事か?」
「ええ、おじさまに。でも、また後日に」
「いや、星妹の顔を見ると元気が出るだろう。会ってほしい」

 星羅は明樹の勧めで慶明に会うことにする。屋敷の中はいつも以上に静かで使用人の数も少なかった。先に通りがかりにある夫人の絹枝の書斎を覗く。

「こんにちは。絹枝老師」
「あら、星羅さん」

 絹枝も白装束だ。ただ悲しんでいる様子はなく、事務処理に追われているようだ。

「おじさまにちょっとお聞きしたいことがあってきました」
「そう……。ちょっと気が滅入っているようだから、よかったら励ましてあげて。私はそういうことは、なんていうかあまり上手くなくて……」
「わたしでよければ」
「きっと顔を見ただけで気分転換にもなると思うから、ゆっくりしていって」

 春衣の死を悼んではいるだろうが、それよりも現実的な処理に追われていて絹枝は忙しそうだった。今はまた学舎の卒業シーズンでもあるので、仕事のほうも忙しいのだろう。感傷的になる暇はないといった風だった。

 風とともに線香の香りが漂ってくる。香りのほうに目をやると、広く開け放たれた部屋の一室に白装束の慶明が座っている。そこは春衣の部屋なのだろう。じっと彼が見つめる先には位牌がある。

「おじさま……」

 静かに声を掛けると、少しやつれた慶明が顔を向け優しく笑んだ。

「よくきたね」
「あの、お線香あげてもいいですか?」
「ああ、ありがとう」

 頭を下げ静かに部屋に入り、位牌を目の前にする。手を合わせ春衣のことを思う。星羅が知っている春衣は、使用人頭で家の中を取り仕切り、明樹に対して世話をよく焼いていた。直接話したこともなく、どんな人物だったかはよく知らない。

「春衣さんは、母に最初仕えていたそうですね」
「ああ、当時からよく気が利いててね。浮世離れしている晶鈴の世話を焼いていたよ」
「不自由なさいますね……」
「まったくだ。春衣ほど有能なものを探すのも難しいだろう」

 春衣は特に学問を修めているわけでもなく、何かに特化した才能があるわけでもない。それでも医局長の陸慶明に有能と言わしめる彼女は実務能力が抜群だったのだろう。

「あまりに采配が上手いので彼女の気持ちに気づいてやれなかった」
「気持ち、ですか?」
「うん。春衣は晶鈴がいたころから私を慕ってくれていたそうだ。もっと早く気づいてやればよかった」
「おじさまを慕って……」
「きっと私のためになると思って屋敷の中のことも頑張ってくれていたのだろうな。間抜けな私は、単純にそれを彼女の能力だと思っていたよ」

 慶明は遠い空に目をやった。

「あの、おじさま。そんなにご自身を責めないで。春衣さんは結果的におじさまのところに輿入れすることができましたし」
「結果的に、か。それでよかったのだろうかな。こんなに早く逝くことになろうとは」
「好きな人と結ばれるなら、きっと、命なんて。惜しくなかったと思います!」

 報われることもなく、想うことすら叶わない恋の終わりを思い出し、星羅は胸が痛くなった。語気が強い様子に慶明は「何かあったのかね?」と星羅に視線を戻す。

「あ、いえ」
「春衣のことは内内だけのことだから知らなかっただろう。私に用事があったのかね?」

 側室を亡くし意気消沈している慶明に、自分の父親のことを聞き出すのは気まずく感じ、星羅は口をつぐむ。

「気にしなくていい。聞きたいことがあれば、言いたいことがあれば早く言っておきなさい。手遅れにならないように」

 慶明はまた春衣の位牌に目をやる。線香の煙がゆらゆらと揺れ、星羅に流れてくる。まるで春衣がはやく話すよう促しているようだ。

「では、おじさま。教えてください。わたしの本当の父についてです」
「星羅の父親か。いきなりどうしたんだね。今までそんなこと気にしていなかったようだが」
「おじさまはわたしの父ではないのですよね?」

 わかり切っていることを改めて星羅は尋ねる。もし、彼がそうだと言ったら星羅はこの喪中の屋敷の中で喜びの声をあげてしまうかもしれない。

「残念ながら……」
「そうですよね」

 陸慶明が父であれば、胡晶鈴はたとえ占術の能力をなくしても、都を離れることなどなかっただろう。

「星羅の父上のことは公にできないお方なのだ。もしも誰かに知られることがあれば、その方はもちろん、星羅の身に危険があるのだよ」

 黙って星羅は聞く。禁忌の恋心はダメだとわかっていても、星羅の中をさまようばかりでどこにも立ち去ってくれない。

「おじさま。春衣さんはとても長い間気持ちをこらえていたんでしょうね」
「あ、ああ……」

 話がまた春衣に戻り、慶明は虚を突かれたような気になる。

「どうやって自分の気持ちを押さえてなだめていけばいいんでしょう」
「誰か好きな男がいるのかね?」

 慶明は星羅が恋をしているのだとわかった。そしていきなり父親の話を聞きたがる。先日、王太子、曹隆明と会ったばかりの彼は、星羅の苦しい恋の相手が誰だか想像がついた。

「星羅。娘というものは初めて恋する相手は父親になるのだよ。残念だな。私が君の初恋の相手になれなくて」

 できるだけ優しく慶明は話す。

「私も母が大好きだった。母の愛を一身に受けたくて頑張ったものだよ」
「おじさま……」
「実らない、告げられない、報われない。そんな恋は辛いだろう。しかし不思議なものでまた別の縁が出てくるのだよ」
「おじさまにも経験がおありですか?」
「うん。縁がないのだろうと思う。だけどその事に拘っていたら、ほかの良い機会を逃すだろうし、その苦しい思いは良い思い出に変わる」
「良い思い出……」
「今は信じられないと思うが」

 春衣は慶明に、慶明は晶鈴に報われない思いを抱いていたのだろうか。星羅はこの苦しい思いは自分だけが味わっているのではないと思い始めると、孤独感が減ってくる。

「恋した相手をどうにかしたいと望むのは欲望だが、相手の幸せを願うのは愛だろう」
「母は父に対してどうだったのでしょうか」
「そうだなあ。晶鈴はもともと欲の少ない人だったし、いつも皆の幸せを願っていると思うよ」

 養母の京湖も、晶鈴が自分の身代わりになったと言っていた。

「なんか、叶わないですね。母には……」
「はははっ。晶鈴と星羅は母子といっても違う人間だからね。良いところも悪いところも違うものだよ」
「おじさま、ありがとうございます。少し落ち着きました」
「いいんだよ。何かあればいつでもおいで」
「すみません。こんな時に」

 星羅は少しだけ軽くなった心を感じる。恋する気持ちをすぐに捨てることはできないが、時間とともに落ち着いていくかも入れない。もう一度春衣の位牌に手を合わせ、陸家を後にした。


 若い星羅を見送った後、慶明はまた春衣に線香をあげる。

「春衣。星羅は私たちの青春の象徴のようだな……」

 もう自分の出番は終わったと慶明は実感する。晶鈴に似た星羅を我が物にと思ったことがなくもない。しかし彼女の若くみずみずしい輝きを手の中に収めることはもう無理だった。王太子の曹隆明も、星羅の成長を父親として見守っていくことだろう。初恋の終焉と風化を感じると、慶明は心が鎮まる。不思議なもので鎮静化すると自由に広がっていくものを感じた。

「私もやっと晶鈴の域に達したかもしれぬな」

 後で、靴を脱いで息子の貴晶と庭を散歩しようと考えた。
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