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59 懺悔

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 久しぶりに陸家にやってきた星羅は、まず恩師の絹枝にあいさつをする。相変わらず書籍だらけで素っ気ない部屋だ。

「老師、ご無沙汰してます」
「元気そうね」
「今日は老師ではなく、慶明おじさまにお話したいことがあるのですがもうお帰りになります?」
「ああ、あの人ならもう帰ってきてるわ。貴晶の相手をしていると思うの」
「貴晶?」
「あら、聞いてない? 春衣が生んだ息子よ。ちょっと身体が弱くてね。おまけに春衣もあまり具合が良くなくて……」

 絹枝は、心配そうに眉をひそめる。春衣はもう若くなかったので難産だった。産後の具合も良くなく、起き上がることができない。
 今まで陸家を回していたのは、ほぼ春衣だったといっても過言はなくその彼女が臥せっているので、いろいろなことが滞っている。経済的には困窮することはないが、屋敷の内部のこまごまとしたことが上手く回っていない。何人か使用人も雇ったが、春衣のような有能なものはなかなかおらず、無駄に給金を払うばかりだった。

「今日は天気がいいから、夫が貴晶を日光浴させてると思うわ」

 絹枝はそう言いながら目の前の竹簡に目をやる。今まで春衣に任せていた、使用人の給金や役割を確認している。

「どうもこれからは、私が家のことをやらなければならないかも……」
「春衣さん、よくなるといいですね」
「ええ……」

 星羅はこれ以上絹枝の邪魔をしないように、庭のほうへ向かった。その前に春衣の部屋がある。一応見舞ったほうがいいかと、春衣の部屋付きの下女に声を掛ける。

「あの、春衣さんにお会いできるか聞いてみてくれる?」

 若い下女はすぐに春衣のもとに行って帰ってきた。

「お会いになるそうです」

 下女は静かに春衣の寝台へ案内する。使用人頭から側室になった彼女の部屋は、調度品が上等な物に変わっており、白檀の香が焚かれ重厚な雰囲気になっている。正室の絹枝の部屋より、夫人の部屋らしい感じがした。
 しっかりした寝台のまえに来ると春衣が身体を起こして星羅を待っていた。

「いらっしゃい……」
「こんにちは。お加減は……」

 そう言いかけて、春衣を見ると言葉が続かなかった。髪も肌も艶がなく、目は落ちくぼみ明らかに良くないことがわかる。

「こっちにきてもらえる?」
「え、ええ」

 春衣は星羅を寝台に腰かけさせる。

「今の私を見たら、晶鈴様はなんと言われるかしら」
「きっと早く元気になるようにって言うと思います」
「そうかしら。そうなるのは当たり前よって言わないかしら」

 星羅には春衣が何を話しているのかわからなかった。

「自分の欲望のために……。だから貴晶は身弱なのかしら……」

 春衣は疲れたのか目を閉じた。星羅はそっと下女に目配せし、二人で春衣を横たわらせる。

「おやすみなさい」

 静かに寝台を離れ、部屋を出た。すぐに庭が見え、柔らかい草の上に陸慶明が座っていて、膝に赤ん坊を乗せてあやしている。

「おじさま」
「やあ、星羅きてたのか」
「ええ、少しお話があったのだけど」

 慶明も少しやつれているように見えた。

「何かな。ここでもいいかね」
「もちろん。あの、おめでとうございます。知らなくて」
「ああ、いいんだよ。貴晶、星羅だ。そなたの姉上のようなものだな」
「こんにちは」
「あうぅうむぅっ」

 小柄な貴晶は声のほうに応じる。

「賢いですね。もう言ってることがわかるのかしら」
「どうだろうな。でも明樹と違って言葉が早そうだ。この子は少し虚弱だから、考えることのほうに長けているかもしれないね」

 貴晶は赤ん坊にしては肉付きがあまり良くない。春衣が体調を悪くし、乳も出ないので乳母を迎えてたっぷり与えているということだが、そもそも量を飲まないらしい。
 星羅は春衣がなぜか自分自身を責めている様子に理解ができず、慶明に聞いてみた。

「春衣さんが、自分のせいで赤ん坊が身弱と言ってましたけど、どうしてですか?」
「春衣がそんなことを? さあ、なぜだろうな。確かに子を産むには若くはないが……」

 慶明も春衣の言葉の真意を知らない。今も寝台でぶつぶつと晶鈴に懺悔のような言葉をつぶやいている。

「私の後を継ぐのは、明樹ではなく貴晶のようだ。身体こそ強くないが、それが逆に薬師として適正になると思う」
「そうかもしれませんね」

 春衣の欲望と独占欲は直接的には満たされなかったが、貴晶が慶明の跡継ぎになるという方向で叶う。残念ながらそうなったときの貴晶の姿を春衣は見ることが叶わないだろう。死の床で晶鈴に、星羅を亡き者にしようとしたことを懺悔し続ける。

「それで、話とは?」

 星羅は母の京湖と西国のキャラバンによる市に行った時の話をした。

「晶鈴が浪漫国に……」
「その夜、父とも話したのですが、西国も浪漫国もいまだに奴隷制度があるらしいですね」
「ああ、わが華夏国ではすっかり解放された奴隷も、隣国にはまだある。宦官すらまだ廃止されてないところも多いだろう」

 曹王朝の高祖が求賢令を発布したときに、まったく身分を問われなかった。さすがに犯罪者の登用だけはなされなかったらしい。その時から、奴隷の身分が解放され、宦官も廃止される。
宦官がいなくなっただけでも朝廷の腐敗はなくなり、奴隷解放によって国家の生産性は上がった。他国に比べて思い切った政策は華夏国の誇りでもあった。

「母がもしや奴隷にでもなっていたら」

 まだ見ぬ母の身を案じ星羅は胸を痛めている。

「いや、晶鈴のことだ。奴隷になどなるまい。太極府でも晶鈴は心配ないと言われただろう?」
「ええ……」
「とにかくこちらからは動けまい。京湖どののこともあるし。外交官として西国に行けるのは軍師助手以上だったな」
「そうです。見習いから上がらなければ……」
「うん。やみくもに一人で西国に行っても、ましてや浪漫国行っても何も成果が得られないだろうな。とにかく星羅は精進するしかない」
「ですね」

 十数年ぶりに得たと思った母の情報は、もっと遠くの国にいるかもしれないということだけだった。華夏国内であれば、晶鈴の行方を把握できていたが、国外はさすがに難しい。

「希望を捨ててはいけないよ。晶鈴はきっと無事だ」
「外国で漢民族は目立つかもしれませんね」
「ああ……」

 慶明は図書館長の張秘書監に紹介状を書いてくれた。本来なら軍師見習いの身分では会えることが叶わない人物である。国家の図書館であれば、浪漫国のことをもっと詳しく調べられるだろうということだった。

 西国出身の朱彰浩と朱京湖から、浪漫国は言葉も習慣も全く違うと聞いている。全然違う民族に思えるが、まだ漢民族と紅紗那族のほうが近しいということだ。

 星羅は忙しくなってきた。国家への献策を考えると同時に、浪漫国の言語獲得にもいそしむことになる。あえて忙しいほうが星羅にとって、悲しくならなくて済む分ありがたかった。
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