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53 接近

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 珍しく神妙な面持ちで教官の孫公弘が教室に入ってきた。軍師見習いの三人が静かに学習していようが、討論していようが、いつもはお構いなく混じってくる。ところが今日は静かにこほんと咳払いをして「皆、こちらへ座るように」と指示する。
 星羅たちは顔を見合わせ、ちょっと変な表情を見せ黙って座った。

「えーと、今日から週に一度だけ聴講生がいらっしゃる」

 おかしな物言いに徐忠弘が「聴講生にいらっしゃるだってさ」と星羅に囁く。

「そこ、静かに。今紹介する、いやさせていただくので皆もちゃんと挨拶する様に」

 明らかに気を使っている様子に、三人はどんな人物がやってくるのか息をのんで待つ。孫教官が深く頭を下げ「どうぞ」と丁寧に椅子を出す。
 すっと入ってきた男は軍師見習いの着物と同じく空色の着物だが、頭にかぶっている冠が装飾が華美ではないものの、金細工の美しいものだった。落ち着いていて立ち振る舞いが美しいので、孫教官よりも年配にみえるが、艶のある漆黒の髪が若々しさを感じさせる。
 郭蒼樹は声を出さずに、あっと口を開けた。

「知ってるの?」

 星羅が尋ねると「あの方は……」と言いかけて口をつぐむ。 

「えーっと蒼樹はおそらく存じておろう。このお方は王太子の曹隆明殿下だ。粗相のないように」

 星羅と徐忠正はまた顔を見合わせて驚いていた。郭蒼樹は軍師の家柄であるので、王族のことを知っていたのだろう。それでも王太子が聴講生ということで驚きを隠せない。
 中年であろう曹隆明は透き通った低い声で「そのように緊張しないでほしい」と笑んで見せた。

「えーっと殿下は、これから即位するまでに、ご自身でももう少し勉強をしたいということだ。ご公務もあるので月に二度ほどここに通われるそうだ」
「よろしく頼む」

 ざわざわする三人だが、気さくな徐忠正が「教官」と挙手した。

「なんだ。忠正」
「殿下の歓迎会をするんですか? 俺んちで」
「ば、ばかもの! そのような品のないことはせぬ!」

 慌てて孫公弘は手を振った。それを見て曹隆明が「歓迎会とな? 私にはしてくれぬのか」と孫公弘に尋ねた。

「そんな、こんな庶民の歓迎会など殿下には不愉快なだけです。何か御身にあったら」

 顔を赤くさせたり青くさせたり忙しい孫公弘に「冗談だ」と隆明は優しく告げる。余計なことを言った徐忠弘をにらんだ後、「では、学習を続けるように、俺は教官室にいる。何かあればすぐに言いに来るんだぞ」と隆明に深く礼をした後教室から出ていった。
 軍師見習いの3人が顔を突き合わせていると、隆明が話しかける。

「私のことは気にするな。これまでの続きをするがいい」

 そういわれて、とりあえず三人でやっていた軍略の続きを始める。

「では俺からだったな」

 郭蒼樹は地図の上で、駒を動かし細い谷を通るだろう敵軍のために伏兵を設置し始める。それに対して、徐忠弘と星羅は自国の軍をあらゆる策で行軍する。
 三人三様の行軍の仕方や戦略に、曹隆明も感心して眺める。しかし彼の目線は主に星羅に注がれていた。仮想の行軍中に星羅は「あれはなんだったかな」と慌てて兵法書をとりに踵を返した。ちょうど砂がこぼれていたところで星羅は足を回転させたので滑ってしまった。
「きゃっ」

 転ぶかと思った矢先に、ふわっと隆明に抱きしめられ転ばずに済んだ。

「大事ないか?」

 目の前の王太子に星羅は慌てて身体を離し「殿下、申し訳ございません」と跪く。隆明は「よい。立ちなさい」と星羅の手を取った。
「お、畏れ多い」

 ますます恐縮する星羅に隆明は笑う。

「本当によいのだ。そなたたちは大事な軍師見習いでこの国の責を担うことになろう。精進するのだぞ」
「はい!」
「まあでも今日はこの辺で私は帰ろう。次はもっと緊張を解いてほしい」

 そういって衣擦れの音だけを残し隆明は教室を出ていった。すぐに孫公弘の「お帰りですか?」と大きな声が聞こえた。

「はあ、緊張した」

 星羅はほっと胸をなでおろした。

「まったく星雷はひやひやさせるよな」
「王族の身体に触れると本来、不敬罪あたりかねん」
「不敬罪?」
「冗談だ」
「悪い冗談はよしてくれ」

 ふっと笑う郭蒼樹に星羅は目を丸くする。

「でも殿下は気さくな方だな」

 徐忠弘は王太子である曹隆明が高圧的でも、傲慢そうでもない温和で寛容な態度に感心しているようだ。

「うん。僕もそう思う。王族とはそういう方が多いのかな」

 星羅の素朴な疑問に郭蒼樹は首を振る。

「いや、誰とは言わないが傲慢と高慢でできている王族も多い」
「さすが軍師家系だな。よく知ってるんだな」
「まあ親父や祖父から色々聞かされているしな」
「それでよく軍師になろうと思ったね」
「ほかに思いつかなかっただけだ」

 郭蒼樹にとって軍師になることは、普通に生活をすること変わりないことのようだ。

「僕はもっと精進して軍師になって殿下にお仕えしたい」
「そうだな。俺もそう思うよ」
「うん、殿下にならお仕えする甲斐があるというものだな」

 三人は同じ意見を持った。緊張が解けると「それにしても星雷は女みたいな悲鳴を上げるよな」とからかい始めた。
「そうだな。軍師たるもの些細なことで動揺しないほうがいい」
「ちょ、ちょっとびっくりしただけだって。大げさに言わないでくれよ」
「じゃ、続きやろうぜ」
「そうだな」

 また軍略の続きを練り戦うことを始めた。誰も戦争を望む者はいないが、戦うことを適当にないがしろにすることはしなかった。気づかないうちに三人は戦略だけでなく、心理の駆け引きにも長けていくようになっていった。 
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