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42 不調

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 京湖の優しく置かれた肩の手に気づき、星羅はハッと目を覚ました。

「どうしたの? うたた寝なんかして。なんだか顔色が悪いわ。もう寝台で寝なさい」
「あ、ん。なんか眠くなっちゃって」
「書物の読みすぎで目が疲れてるんじゃないの?」
「そんなことないわ。今日も馬に――」
「馬? 馬に乗ってるの?」
「あの、ちょっと後ろに乗せてもらっただけ」
「本当? 危ないことはしないでね」
「大丈夫よ」

 心配そうな京湖に星羅は明るく返す。本当は馬で軽く遠乗りをしてきた。最近、陸家の息子の陸明樹に乗馬を教わっているのだった。京湖は、友人の胡晶鈴の忘れ形見のように星羅を大事に保守的に扱っている。そのため星羅は学問以外の、乗馬や剣術などのことを内緒にしていた。

「じゃあもう寝るわ」
「ええ、早くおやすみなさい」

 彫の深い顔立ちの京湖は、心配そうな表情の陰影を深く落としながら部屋を去った。

「ごめんなさい。かあさま」

 内緒にしていることを謝り、罪悪感のため、言われるとおりに眠ることにした。寝台で横たわり、うたた寝なのどしたのは初めてだと思った。ここのところなぜだか身体がだるくて、眠気がある。睡眠は足りているはずなのに疲れがとれない。絹枝老師も同じように倦怠感と頭痛が最近多いと愚痴をこぼしていた。

「季節のせいかしらね」

 自分の体調よりも、書物の中のほうに気が向いてしまう二人は体調の異変を深く気にすることはなかった。



 春衣は陸慶明から処方された睡眠薬を数滴、絹枝と星羅に出す茶に落とす。半年前に慶明に、不眠を訴えたところもらった薬だ。陸家にとって大事にな春衣だからと、特別に与えられた。医局長直々に脈をはかられ、診察されるのは王族や高官僚くらいだ。その身分の高い慶明に診察されることよりも、手首や、目の中を覗かれたりする際の頬への接触のほうが春衣にとって特別なことだった。
 簡単に薬をもらうことなどできないと思っていたので、春衣はあらかじめ一週間以上わざと夜更かしをして睡眠時間を削っていた。触れられるときの動悸もいい塩梅に働き、慶明は睡眠薬を処方してくれたのだ。

 服用は寝る前だけに限るとされている。日中は眠気のせいで事故を起こしやすく危険だからだ。春衣は日中に飲むことも、もちろん夜、寝る前に飲むこともない。
この睡眠薬は星羅に飲ませるためだ。本当は毒薬で一気に抹殺したいところであったが、毒薬など使おうものなら確実に慶明にばれてしまうだろう。毒薬でうまく星羅を抹殺し、自分だけが罪をかぶるのならまだ良いほうだ。このことが公に明るみになるならば、使用人が毒薬を持ちだしたとして、主人の慶明も罰せられる。医局長である彼の身分であれば罪は軽くないだろう。薬師の身分剥奪か、何年も刑に服すことになるかもしれない。
 そんなことを春衣は望んでいない。慶明にはいつまでも手の届かなかった胡晶鈴を想い、そのことを知っている自分と秘密の共有者でいてほしかった。彼を、晶鈴を愛している彼ごと愛している自分に、いつか気づいてくれるようにと願う。

 薬の使用量は大さじ一杯だ。それで数十秒以内に眠りにつくことができる。これを数滴にすれば、すぐに効果はあらわさず数刻後に現れる。つまり陸家の屋敷で飲ませると、星羅がここを出て、家路につくころから効果が出るということだ。
絹枝は規則正しく、決まった時間に星羅を帰し、自分はまた書斎に戻る。その書斎に戻る前に庭の小川にかかっている、太鼓橋を渡る。 普段でもその半円に張った橋が苦手で転びそうになっている。眠気のあるまま小川にでも落ちれば、そのまま亡き者にできるかもしれない。その時には薬の効果は切れていて、身体に残っていない。ただの事故死となるだろう。

 星羅がこの屋敷から家に帰るまでに、早馬や馬車が行きかう交通量の多いことがある。ふらふらしているところを、そっと肩でも押してやれば事故死は免れまい。
 絹枝はついでなので、星羅についていき、機会を伺い、より薬の効果が出ているときにそっと計画を実行するつもりだ。

「慶明さまは、晶鈴さまと、あたしのもの……」

 一番楽しかった若いころの下女時代を思い出す。胡晶鈴は、春衣にはきっといい人生が開けるからと明るく優しく諭してくれていた。時折訪れる陸慶明は、今よりも随分親し気で春衣とも気軽な口をきいた。優しい主人に仕え、あこがれの男に声を掛けられる日々は、欲望も妬みもわかない清らかで幸せな時期だった。
 失われた時間を取り戻すことなどできない。それを春衣は気づいていない。そしてその過ぎた時間よって変わってしまったものが合ったことにも、気づいていなかった。
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