10 / 36
キャンサーの女 母性の章
1 蟹座 蟹江 優香(かにえ ゆうか) 小料理屋の女将(保育士)
しおりを挟む
『カミノキ』と白抜きされた紺の暖簾をくぐりガラッと引き戸を開けると優しいだしの香りが漂った。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
白木のカウンターに座ると白い割烹着を着た女将の蟹江優香が水を運んできた。
「緋月さん、いらっしゃい」
黒い髪を一つにまとめ、たれ目がちな黒い目が昔の母親を思わせ安心させる。こういう印象の女性ではあるが実際はまだ三十代前半で僕よりも一回り以上年下だ。
「えっと。とりあえず牛筋の煮込みと生中もらえるかな」
「はあい」
こじんまりとしているこの小料理屋は元々彼女の母親が始めたものらしい。昔の厳めしいつくりのテーブルが年季と味わいを感じさせる。
「どうぞ」
熱々の煮込みとよく冷えたビールが届く。そしてもう一つ野菜の煮しめが入った小鉢が置かれた。
「お野菜も食べないとだめですよ」
「え、ああ。ありがとうございます」
本当に母親のような振る舞いに少し照れ臭くなったが有り難く頂戴した。この店を知ってから毎週一度は通い顔なじみになった。僕は料理はまあまあ好きな方で自分でもよく作るがこの女将の料理は心まで温める。特に何か会話があるわけではないが軽く食事をし安らぎほっとして家路につくのがここ半年ほどの日課になっている。
「ごちそうさま」
「もうお帰りですか」
「また来ます」
身も心も温もりに包まれて店を後にした。
半月ぶりに凍える手で『カミノキ』の引き戸を開けた。
「あら、緋月さん、しばらくお顔拝見してませんでしたね」
女将の優香は優しく声を掛けてき、僕をカウンターに促した。
「久しぶり。ちょっと忙しくてね。まだやってる?」
店内の座敷席もテーブル席も静かだ。
「さっきまで一組いたんですけど、このいきなりの冷え込みのせいかしらね。雪になるかもしれないって、さっきのお客さんも早めに切り上げちゃったの。もう仕舞おうかなと思ってたところなの」
「ああ、そう。じゃあ、今夜はよすよ」
「いえ、そんなつもりじゃ。緋月さんがいてくださるなら朝まで開けてますよ」
僕は笑って椅子に座りなおした。
「腹は減ってないんだ。熱燗つけてください」
「はい。すぐにお持ちしますね」
がらんとしているが店の雰囲気で温かい気がする。ぼんやりとかじかんだ手をこすり合わせていると優香が粉引きの白っぽい徳利とぐい飲みを運んできた。
「どうぞ」
白く滑らかな手で酌をしてくれる。
「ありがとう。女将さんもどう?一緒に飲まない?」
「そうねえ。いただこうかな」
隣に彼女がふわりと座った。近くで見ると肌はまだ若く張りもあるようだ。鼻先は丸くあどけなくさえ見える。案外童顔なのかもしれない。
「この店ってもう何年?」
「うーん。私が始めてからは五年だけど母からだと三十年になるかしら」
「年季が入ったいい店構えだよね」
「ええ。母がとても大事にしてきた店です」
懐かしそうに目を細める優香をぼんやり眺めていると、ハッとするように彼女は徳利を手に持ち酌をする。
「緋月さん、なんだか痩せました?元気がないように見えますよ」
僕は見透かされるような彼女の黒い瞳から目を逸らしてぐい飲みの酒をあおった。
「先々週に母が死んだんだ」
「え……」
「ああ、辛くならないで。母は兄夫婦のところで最後まで楽しく過ごしてたし、元々身体の弱い人だったんだけど、良く生きたんだ」
「そう……」
「まあ、そりゃ僕は覚悟してたとはいえ……なんだかね。ずっと独身でふらふらしてきたから母には心配かけてたろうなと」
優しく見つめながら優香はゆっくり頷いて僕の話を聞いている。
「あの……親孝行じゃなかったんだよね」
ふうっと胸のつかえを息と吐き出すように声に出した。酒を注ぎながら優香は言う。
「緋月さんが元気で自分の道を進んでいるだけできっとお母さまは満足なさってると思いますよ」
「そうかな……?」
「ええ。きっとそう」
呟きながら優香が寂しげな眼をして立ち上がり酒をツケに行った。ぐい飲みに入っている酒にはしょぼくれた中年男が映っている。流石に母の死はダメージが大きく、先週はなんとか仕事をこなしたが家に一人でいるといつもの気楽さよりも寂しさが勝ってしまい酒に逃げていた。
カウンターから座敷へ移りまた二人で酒盛りを始めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「今日はいっぱい飲みましょうよ」
「ん。ありがとう。まあほどほどにします。ごめんね。自分がこんなにマザコンだと思わなかったんだ」
「男の人は基本マザコンですよ。私だってマザコンです。母が大好きでこの店継いだんですもの」
「そうなんだ」
「ええ。ここやる前は私、保育士の仕事してたんです。でも母が店を閉めるって言い始めて。もう歳だし無理なのは分かってたからしょうがないんだけど、母も母の店も失うのかと思うと気が気じゃなくなって……。無理やり継いだんですよ。母が反対してたのに」
「お母さん、嬉しかったんじゃなくて反対だったの?」
「母は店よりも私が好きな仕事を続けてほしかったみたいで。だから緋月さんのお母様は安心してあちらに逝かれたと思いますよ」
優香は顔を天井に向け和紙でできた丸い照明を虚ろに見つめた。
「そうなんだね。僕たち逆みたいだけど気持ちは同じなんだろうね」
母の最期の言葉を思い出す。『あなたらしく生きてね』――母は自分らしく生きたのだろうか……。
占い師としての自分のスキルを母に対しては活かしていなかった。母は永遠に自分の母で自分を包む存在なのだと当たり前のように甘えてきてしまい、細く小さくなった彼女は思い出の中の母とは違っていた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
白木のカウンターに座ると白い割烹着を着た女将の蟹江優香が水を運んできた。
「緋月さん、いらっしゃい」
黒い髪を一つにまとめ、たれ目がちな黒い目が昔の母親を思わせ安心させる。こういう印象の女性ではあるが実際はまだ三十代前半で僕よりも一回り以上年下だ。
「えっと。とりあえず牛筋の煮込みと生中もらえるかな」
「はあい」
こじんまりとしているこの小料理屋は元々彼女の母親が始めたものらしい。昔の厳めしいつくりのテーブルが年季と味わいを感じさせる。
「どうぞ」
熱々の煮込みとよく冷えたビールが届く。そしてもう一つ野菜の煮しめが入った小鉢が置かれた。
「お野菜も食べないとだめですよ」
「え、ああ。ありがとうございます」
本当に母親のような振る舞いに少し照れ臭くなったが有り難く頂戴した。この店を知ってから毎週一度は通い顔なじみになった。僕は料理はまあまあ好きな方で自分でもよく作るがこの女将の料理は心まで温める。特に何か会話があるわけではないが軽く食事をし安らぎほっとして家路につくのがここ半年ほどの日課になっている。
「ごちそうさま」
「もうお帰りですか」
「また来ます」
身も心も温もりに包まれて店を後にした。
半月ぶりに凍える手で『カミノキ』の引き戸を開けた。
「あら、緋月さん、しばらくお顔拝見してませんでしたね」
女将の優香は優しく声を掛けてき、僕をカウンターに促した。
「久しぶり。ちょっと忙しくてね。まだやってる?」
店内の座敷席もテーブル席も静かだ。
「さっきまで一組いたんですけど、このいきなりの冷え込みのせいかしらね。雪になるかもしれないって、さっきのお客さんも早めに切り上げちゃったの。もう仕舞おうかなと思ってたところなの」
「ああ、そう。じゃあ、今夜はよすよ」
「いえ、そんなつもりじゃ。緋月さんがいてくださるなら朝まで開けてますよ」
僕は笑って椅子に座りなおした。
「腹は減ってないんだ。熱燗つけてください」
「はい。すぐにお持ちしますね」
がらんとしているが店の雰囲気で温かい気がする。ぼんやりとかじかんだ手をこすり合わせていると優香が粉引きの白っぽい徳利とぐい飲みを運んできた。
「どうぞ」
白く滑らかな手で酌をしてくれる。
「ありがとう。女将さんもどう?一緒に飲まない?」
「そうねえ。いただこうかな」
隣に彼女がふわりと座った。近くで見ると肌はまだ若く張りもあるようだ。鼻先は丸くあどけなくさえ見える。案外童顔なのかもしれない。
「この店ってもう何年?」
「うーん。私が始めてからは五年だけど母からだと三十年になるかしら」
「年季が入ったいい店構えだよね」
「ええ。母がとても大事にしてきた店です」
懐かしそうに目を細める優香をぼんやり眺めていると、ハッとするように彼女は徳利を手に持ち酌をする。
「緋月さん、なんだか痩せました?元気がないように見えますよ」
僕は見透かされるような彼女の黒い瞳から目を逸らしてぐい飲みの酒をあおった。
「先々週に母が死んだんだ」
「え……」
「ああ、辛くならないで。母は兄夫婦のところで最後まで楽しく過ごしてたし、元々身体の弱い人だったんだけど、良く生きたんだ」
「そう……」
「まあ、そりゃ僕は覚悟してたとはいえ……なんだかね。ずっと独身でふらふらしてきたから母には心配かけてたろうなと」
優しく見つめながら優香はゆっくり頷いて僕の話を聞いている。
「あの……親孝行じゃなかったんだよね」
ふうっと胸のつかえを息と吐き出すように声に出した。酒を注ぎながら優香は言う。
「緋月さんが元気で自分の道を進んでいるだけできっとお母さまは満足なさってると思いますよ」
「そうかな……?」
「ええ。きっとそう」
呟きながら優香が寂しげな眼をして立ち上がり酒をツケに行った。ぐい飲みに入っている酒にはしょぼくれた中年男が映っている。流石に母の死はダメージが大きく、先週はなんとか仕事をこなしたが家に一人でいるといつもの気楽さよりも寂しさが勝ってしまい酒に逃げていた。
カウンターから座敷へ移りまた二人で酒盛りを始めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「今日はいっぱい飲みましょうよ」
「ん。ありがとう。まあほどほどにします。ごめんね。自分がこんなにマザコンだと思わなかったんだ」
「男の人は基本マザコンですよ。私だってマザコンです。母が大好きでこの店継いだんですもの」
「そうなんだ」
「ええ。ここやる前は私、保育士の仕事してたんです。でも母が店を閉めるって言い始めて。もう歳だし無理なのは分かってたからしょうがないんだけど、母も母の店も失うのかと思うと気が気じゃなくなって……。無理やり継いだんですよ。母が反対してたのに」
「お母さん、嬉しかったんじゃなくて反対だったの?」
「母は店よりも私が好きな仕事を続けてほしかったみたいで。だから緋月さんのお母様は安心してあちらに逝かれたと思いますよ」
優香は顔を天井に向け和紙でできた丸い照明を虚ろに見つめた。
「そうなんだね。僕たち逆みたいだけど気持ちは同じなんだろうね」
母の最期の言葉を思い出す。『あなたらしく生きてね』――母は自分らしく生きたのだろうか……。
占い師としての自分のスキルを母に対しては活かしていなかった。母は永遠に自分の母で自分を包む存在なのだと当たり前のように甘えてきてしまい、細く小さくなった彼女は思い出の中の母とは違っていた。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
懐いてた年下の女の子が三年空けると口が悪くなってた話
六剣
恋愛
社会人の鳳健吾(おおとりけんご)と高校生の鮫島凛香(さめじまりんか)はアパートのお隣同士だった。
兄貴気質であるケンゴはシングルマザーで常に働きに出ているリンカの母親に代わってよく彼女の面倒を見ていた。
リンカが中学生になった頃、ケンゴは海外に転勤してしまい、三年の月日が流れる。
三年ぶりに日本のアパートに戻って来たケンゴに対してリンカは、
「なんだ。帰ってきたんだ」
と、嫌悪な様子で接するのだった。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる