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前編

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 株式会社吉澤コーポレーションは、主にコピー機や複合機のレンタル会社だ。それ以外の機器にも手は広げているが、メインはコピー機や複合機をあらゆる企業からレンタルしてもらうことである。
 その営業部に、徳川とくがわ実乃理みのりはいた。今年四十五歳になる彼は、勤続二十二年のこの会社で、気づけば課長になっていた。
 役職がついてからは以前のように営業で飛び回るようなことはなくなったが、以前の自分のように外回りをする部下たちの成績を把握したり、まとめたり、管理するのが今の仕事だ。外に出るよりも机に向かうことが増え、パソコンの画面を眺めている時間も増えた。
 少し早めに出社したせいか、まだ誰も来ていない部屋でひとり作業することになってしまった。とはいえ、じきに部下たちも出社してきた。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
 それぞれに「おはよう」と返しながら、社員たちをぼんやりと眺める。寝ぼけた顔の者、シャキッとした顔の者、さまざまだ。
 役職がついてからは、部下たちとは少し離れた場所に席がある。向かい合わせに密集している彼らとは違い、誰とも隣接していない独立した席だ。とはいえ、営業職で席につかない時間が多い彼らは、事務職とは違い、その密集地帯に息が詰まることもあまりないのだろう。少なくとも、平社員の頃の徳川はそうだった。
「課長、おはようございます!」
 急に大きな声が迫り、徳川はハッとして顔をあげた。入り口から自分の席へと直進する者ばかりの中で、彼だけは違っていた。
 藤原ふじわら元基もとき。二十五歳になったばかりの新人だ。
 実際は、この会社に入ってから二年は経つので、新人呼ばわりは本人にとって不本意だろう。営業部に配属されたのは一年前のことで、それまでは新人研修やさまざまな部署をたらい回しに渡り歩かされていた。この会社に入社した最初の一年は、誰もが経験する道だ。
 営業部に配属されてからの彼は、成績も悪くない。初めのうちは先輩社員に連れられながらあちこち回っていたが、今はもうひとりで出歩いており、新人特有の不安要素も特になかった。
 背は高い。なので、こうして間近に迫られると、むしろ徳川のほうが威圧感に押されてしまう。それを伝えたことはないが。
「おはよう」
 普段と変わらない落ち着いた声で返せた。
 藤原は背が高いだけではなくスタイルもよく、スーツもおしゃれに着こなしている。他の社員と大差ないデザインなのだが、彼が着るとおしゃれになるのだ。
 もちろんスタイルだけではない。顔立ちも非常に整っている。彼の顔を見るたびに落ち着かない気分になるのは、記憶の底にいるある人物が脳裏に蘇ってしまうからだ。
(似ている)
 初めて見た時からずっと思っていた。
 彼の名字も藤原だった。
 高校時代の片想いの相手。
 片想いのまま終わってしまった相手。
 甘酸っぱく、そして苦い思い出。
 もし彼の結婚が早ければ、これぐらいの年齢の子供がいてもおかしくはないだろう。
 そうかもしれない。でも、違うかもしれない。訊けないまま月日が過ぎている。
 訊いて、そうだったとしても、だからなんだというのだろう。徳川はすぐに自嘲気味になり、内心で自分を責めた。
 もしそうだったとしても、どうにもなりはしない。彼が結婚して子供がいる事実に傷つくだけだ。曖昧でいい。真実など突き止めるな。
 自分に言い聞かせながら、席へと向かう藤原の背中を目で追った。
 そして何事もなかったように、机の上の書類に目を向ける。仕事は山積みだ。余計なことを考えている暇などない。
 仕事というのは都合がいい。頭を切り替えるきっかけになるからだ。仕事に没頭していれば、雑念などには惑わされない。
 気づけば昼になっていた。
 昼食を摂るために徳川が席から立ち上がると、ちょうど外回りから帰って来た藤原と目が合った。
「あ、課長、お昼ですか?」
「ああ」
 新人で、気軽に上司に声をかける奴は珍しい。朝の挨拶もそうだが、藤原はやけに人懐こい。
 それは徳川に対してだけではなく、他の連中に対してもそうだった。だから深く気にも留めてはいなかったのだが、それにしても目が合う率が高い。
「お昼、一緒にどうですか?」
 藤原の屈託のない笑顔が眩しかった。それ以上、近づくな。心の奥で何かがざわめく。苦しくなってしまうから、それ以上は近づくな。
 ざわめきを必死で抑えつけ、平常心を装う。
「ああ、そうだな」
 他意のない笑顔で応じた。内心の苦しさなど微塵も見せなかった。
「藤原くん、お昼こっちで摂るの? たまには一緒に食べない?」
 流れる空気を打ち砕くように、女性の声が割り込んできた。見ると、藤原よりも数年は長く勤務している友枝ともえだ幸枝さちえだった。きっちりメイクをした、スタイルのいい女性社員だ。いつも元気な明るいキャラクターで、営業成績もいい。
 徳川は内心でホッとしている自分を感じた。
「私はいいから、彼女と行ってきなさい」
「えっ?」
 明らかに藤原が戸惑う。
「私はまだ、他にやることがあるから」
「え、でも」
「ほら、行くよ? 聞きたい話があるの。いいからつきあって」
 幸枝に急かされて、迷いながらも藤原がついて行った。その背中を見送った後、徳川は疲れたように深く息をついた。
(……まずいな。意識しすぎだろ)
 藤原は彼に似ているだけなのだ。彼ではない。
 それなのに。
(見れば見るほど似てるから)
 意識するなと言うほうが難しい。
 まずは昼食を摂ろう。外の空気を吸おう。徳川は重くなる足取りにムチを打って、会社の外に出た。
 ひとりきりの昼食を終えて席に戻って来ると、待ち構えていたように藤原が現れた。
「あの、課長、今夜なんですけど、お時間ありますか?」
「どうして?」
「僕、一度でいいから、課長と一緒に飲みたくて。明日は会社休みですし、飲むにはちょうどいい日かなと思いまして」
 予定は何もなかった。仕事も順調に終わる。
 どうして藤原はこんなに執拗なのだろう。不思議に思いながらも逃げ道を見つけられず、徳川は了承した。上司として、わざわざ避けるのもおかしいからだ。
 上司と距離を縮めて点数を稼ぐケースも考えたのだが、藤原はそういうタイプには見えなかった。
 気持ちが落ち着かなくて、午後の仕事にはあまり集中できなかった。藤原とふたりきりになって、どこまで自分は耐えられるだろうか。もうすでに、逃げ出したい気分に駆られている。
 他の連中も誘って大人数にすればよかったのかもしれない。しかし藤原がふたりきりを望んでいるのだとしたら、また誘われることになるだけだろう。
 悶々としながら仕事を終わらせ、やがて定時になった。今日はノー残業デイで、よほど理由のある人間でない限り、むやみに残業はできない。
「課長、行きましょう」
 藤原が眩しい笑顔をこちらに向け、促してきた。一緒に行く以外、逃げ道はなさそうだ。徳川は内心で諦めて、腹をくくった。せめてポーカーフェイスだけでも保ち続けよう。
 ある人の面影を追っている。そんなことを藤原に知られたら、気味悪がられるかもしれない。嫌悪の目。彼によく似た藤原からそんな目で見られたら、今度こそは耐えられないだろう。
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