東雲に風が消える

園下三雲

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希望に光る蝶

34.

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 夕方からは雨が降った。しとしとと、冷たくもない雨だった。碧龍が呼んだ雨だろうか。鬱々しく、まるで俺に寄り添うようだった。

 雨は夜の間降り続いたが、朝が来る前に止んでしまった。分厚い雲は空一杯に立ち込めていたが、朝日だけはその隙間から一筋に伸びて、木々の葉に滴る露に囁いている。希望か、愛か、いずれにしろ心を逆撫でていくから鬱陶しい。

 眠れないから起きていた。静かな夜を眺めていたのに、朝が来たら途端に賑やかしくて、逃げるように布団を被った。なんだか酷く疲れているのに、この息苦しさが丁度良かった。

 そういえば、牡丹はもう起きただろうか。普段であれば、そろそろ起きて支度を始める頃合いだろう。

 腹が鳴った。ぐうううと、しかしそれだけだった。別に腹が減ったわけではない。懐には握り飯が潰れている。昨日の朝のものだが、誰にあげるのも捨ててしまうのも嫌だった。このまま一緒に腐っていくのなら、それでも良いかと思っていた。

(起きるか……)

 もぞもぞと布団から抜け出る。眩しさはもう無い。ぼやぼやと視界は暗く体が重たいが、立ち上がって部屋を出れば少しずつ人間の体に戻っていく気がして不愉快だ。いっそ階段を踏み外して落っこちてしまいたいと思ったが、牡丹に惨いものを見せるわけにはいかないからやらなかった。

 階段の下には牡丹が待っていた。最後の一段を下りきったところで牡丹は俺に抱きついて、そしてにっこりと笑ってみせた。

「おはよう」

 出した声はあまりに生気が無く、自分でもこれはまずいと思ったほどだったが、牡丹は柔和に微笑んだまま俺の腕を自分の肩に回すと腰を支えて卓袱台の前まで連れていった。座布団の上に俺を座らせると、牡丹はその細い指で俺の髪を撫で、そして土間へと小走りで向かって行く。生き生きとした後ろ姿だった。しっかりしなくちゃと張り切っているようにも見えて、どうしてか酷く悲しかった。

 いや違う。恐らく寂しかったのだ。護りたいと、漸く思えたその背中が、そう思った途端に遠くなってしまったから。囚われたまま身動きも出来ないと思い込んでいたのは俺だけだった。牡丹はとっくに過去から抜け出でて、一人で立つことだって出来たのに、俺だけがそれに気がついていなかった。

 目を閉じてしまったらまた何か悪い夢を見てしまいそうで、しかしテキパキと土間に立つ割烹着姿の牡丹を見るのはもっと苦しくて、顔を逸らして卓袱台に伏せた。

 もうすっかり着なれたものだ。着物も袴も、橘のくれた帳面が役に立っているのだろう。もしかしたら、着方以外にも諸々書かれているのかもしれない。例えば今作っている朝食だってそうなのかもしれなかった。

 俺は駄目だ。知らないことが多すぎるくせに、橘がくれた帳面だって、結局あの日掛長から知らせを聞いて以来、表紙を目にすることさえ出来てはいなかった。本当は、最初から俺よりも橘に預かられていた方が牡丹にとっては良かったのかもしれない。こんな、無知で、無愛想で、いつまでもうじうじとしているような男よりもずっと――。

 コトン、と卓袱台づてに振動が耳に届いた。そして、ツイツイと袖を引かれる。顔を上げれば、牡丹は俺の髪の乱れをちょいちょいと直して、そして器を目の前に持ってきた。

「牡丹、これ……」

 なみなみと入っていたのは重湯だった。澄んだ白濁のそれはよく煮込まれた色をして、牡丹が器に匙を入れれば、丁寧に濾されてもいるのだとすぐに分かった。

 牡丹が俺の手の外側から手を重ねて、そして。

「あ、あ……」

 気がつけば、バシャンという音と共に器は卓袱台の上を転がっていた。

「違うんだ、ごめ、ごめん俺、俺……」

 手を払ってしまった。感情だとか思考だとかが追いつく前に、手が勝手に動いていた。重湯をぶちまけてしまったのだと理解したら、次に俺を襲ったのは申し訳なさではなくて恐怖心に似た感情だった。

 牡丹は一瞬驚いたように手を引っ込めたが、すぐに、まるで安心させるようにゆっくりと俺の背を撫でた。きっと、夜も明けきらない内からずっと煮込んでくれていたものなのに、粗末にしてしまっても嫌な顔一つしない。背に触れる手が優しく、変わらずに俺を宥めるから苦しい。

 牡丹が離れる。俺を撫でていた手は転がったままの椀を手に取る。俺に背を向けて、布巾で卓袱台を拭く。床を拭く。

「いい!!」

 張り上げた声が壁を揺らした。

 自分でも分からなかった。どうして声を張り上げたのか。どうして牡丹を止めたのか。ただ尋常でなく心が揺れていた。苦しい。苦しい。自分の声が耳に戻ったら今度は、後悔が肺を締めつけて息が吸えない。

「ハッ、ハァッ、ハッ。ぅあ、ごめん、ごめん、ヒッ……」

 荒い息をしながら何度も謝る自分を、俺はその体から少し離れたところから見ている。大きく震える体から意識だけが抜き出てしまっているようで、目の前の俺は「ごめん、ごめん」と喚くのに、その感情はまるで他人のもののようだった。

 凪いでいた。不自然に何の感情もないから、牡丹の姿がよく見えた。

 卓袱台の向こうで椀を手にしたまま、牡丹は固まっている。恐怖ではない。牡丹にあるのは純粋な驚きだった。コ、トン、と牡丹は椀を置く。その音で幾らか牡丹は異様な俺の姿に気がついたようだった。

 牡丹の表情は困惑しているように見えたが、その目にあるのは心配だけだとすぐに分かった。牡丹は卓袱台を回って、取り乱した俺に腕を伸ばす。顔を上げた俺の目に明確にあったのは強い怯えだった。

「たちば、橘がっ、これもっこれもこれも、どうしてっ」

 牡丹の割烹着を、着物を掴む。

(ああ、俺は……)

 自分が何に怯えているのか分かると、途端に感情が手元に戻ってくる。目の前の自分との境が曖昧になっていく。

「俺はっ、何もかも足りないのに、ぉえ……。フゥ、フ、ハッ、ハッ。橘もっ、からっ、枳殻もっ、俺なんかよりずっと、生きてなきゃいけないのに」

 生きることも、泣くことも、えずくことも、悼むこともまともに出来やしない。与えられる優しさにだって目を逸らすことしか出来ない。苦しい、苦しいと嘆くばかりで、俺一人を置いて先へ行ってしまわないでと縋ることすらしないくせに。

「うっ。うぅっ、うおぇぇ……」

 ひしと抱きしめられて、そうしてやっと吐くことが出来た。苦くて、痛くて、苦しいのに、漸く息が出来た気がした。
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