32 / 39
希望に光る蝶
32.
しおりを挟む「ハッ……!」
おぞましい感覚がして目が覚めた。心臓がバクバクとうるさく、落ち着いて息が出来ない。
(気持ちわりい、夢……)
そのまま天井を見ていればまたあの夢に囚われてしまいそうで、振りきりたくて横向きになる。身動きをして知る。髪にも顔にも背中にも、酷い寝汗をかいていた。
(なんだって、あんな夢見ちまうんだよ)
夢に見たのは、枳殻がまだどうにか生きていた頃の記憶だった。あれから――、あれから数日して枳殻は死んだ。傷口から何か悪いものでも入ったのか、死の間際には血を含んだ咳と嘔吐を繰り返していた。足は腐敗し、頬は痩けていた。異臭に虫が寄った。払っても払ってもキリがなかった。とても、美しいとは言えない最期だった。
思い出す。俺を呼ぶ掠れた声も、骨張った手に感じた弱さも。
「う、おぇ……」
腹の中で押し殺した強烈な吐き気まで呼び起こされる。上ってくる胃液が喉を焼く。そのくせ口を開いても外に出てこようとはせず鼻を鋭く刺すだけだから余計に気分が悪い。
(せめて橘の……)
心臓は未だ喧しく胸を打つ。立ち上がればじわじわと視界が眩んで、目を閉じてしゃがみこんだ。
ふぅー、とゆっくり息をする。悔しいが、掛長に仕込まれた対処法がしみついていた。
目を開ける。落ち着いたのを確認して、壁に手をつきながら立ち上がる。もう一度ゆっくり息を吐いて肩を回す。そして、襖を開けた。
重怠い体を引きずりたい気持ちを奮い立たせて足を動かす。階段を下りていく。いつも通りを心掛ける。体に負けたら、もう、生きることさえ放棄してしまいそうな自分が居た。
「牡丹、おはよう」
居間の卓袱台には二組の碗が伏せられており、少し焦げた目玉焼きが並んでいた。土間に立っていた牡丹は俺の声に振り向いて、割烹着で手を拭ってから駆け寄ってくる。
割烹着は橘がくれた物だ。真新しい白が牡丹色の着物によく合っている。
抱きつこうとする牡丹の肩をそっと止めて、俺は誤魔化すように牡丹の髪を撫でつけた。牡丹は気持ち良さそうに目を閉じて、それから卓袱台の方を指差す。
「ああ、飯か。先に食べてな。俺は……。もう夏だな。寝汗が酷くて。ちょっと水浴びしてくるから」
牡丹の肩を二度ほど叩いて、一人、勝手口から外に出る。夏の始まり。風は無く、ただ若い日差しがやけに明るかった。
井戸で水を汲む。小川も遠くない所に流れてはいるが、そこまで歩くのが面倒だった。
「……はぁ」
しかし水汲みも体力を使う。横着せずに小川に身を投げたほうがいくらかよかったかもしれない。どうせ足首程度しかない浅い川だ。仰向けに寝転がれば、黙っていても全身洗い流されたかもしれない。
ザンブと桶の水を被る。ポタリ、ポタリと髪の先から雫が落ちる。やはり一杯では足りなくて桶を戻した。もう一度水を汲んで、被る。足りなくて桶を落とす。何度繰り返しても、気持ち悪さは消えなかった。
「ああー」
手拭いを忘れた。持ってきていたところで懐に忍ばせたまま一緒に濡らしてしまっていたような気もするが、濡れたままでいるのは苛々する。
髪をかきあげたその勢いのまま後ろに倒れこんでしまおうかとして、ポスッと何かが頭を受け止めた。見上げれば牡丹が泣きそうな顔で立っている。受け止めてくれたのは牡丹の腿だったかと気づいた時には、バサリと頭に手拭いを被せられていた。
回り込んで牡丹は俺を跨ぐように座り、ごしごしと髪を拭ってくれる。小さな手が温かくて思わず涙が浮かんでしまう。
「優しいな、牡丹は」
どうにか微笑んでそう言えば、牡丹は手拭いごと俺を引き寄せて抱きしめた。華奢な肩に頭がスポリと収まってしまう。
「濡れちゃうよ、牡丹」
キュッと強く背に回る腕に、体を離すことも抱きしめ返すことも出来ない。トン、トン、と背中を叩いてくれるのが優しいから苦しくて、
「ありがとう」
と俯いて顔を埋めるのが精一杯だった
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
女神の末裔
Helena
恋愛
近代と古代の意識が交じり合う日本の明治後期に似た架空の国の出来事。
【本編】
惣領娘として育てられる姉にかしずく許婚がうらやましくて奪っちゃった妹の話。
【番外編】
妹に許婚を奪われた姉の新たな婿候補となった高貴な血筋の男の話。本編後日談。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
闇の世界の住人達
おとなのふりかけ紅鮭
ファンタジー
そこは暗闇だった。真っ暗で何もない場所。
そんな場所で生まれた彼のいる場所に人がやってきた。
色々な人と出会い、人以外とも出会い、いつしか彼の世界は広がっていく。
小説家になろうでも投稿しています。
そちらがメインになっていますが、どちらも同じように投稿する予定です。
ただ、闇の世界はすでにかなりの話数を上げていますので、こちらへの掲載は少し時間がかかると思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる