東雲に風が消える

園下三雲

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暁を行く鷗

25.

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 戦が始まった。

 この山奥までは戦の足音すら聞こえては来ないが、しかし戦が始まったのだということは松虎を見れば明らかだった。

 戦はなるべく民に影響がないよう海の上で行われるということだったが、隣国の連中は船の上から海岸沿いの防風林に火をつけたらしかった。

「松虎、大丈夫か?」

 山々の静謐を司るだけあって、松虎は毛を逆立てて戦場に向かって吠えたり唸ったりしていたが、一ヶ月も戦が続くとそれすら出来なくなるほどに憔悴してしまった。初めの内、松虎は何度も此処を抜け出して戦場へ駆け出ようとしていた。戦場付近の自然を守るにはきっとそれが良いのだろうと俺も分かっていたが、宥めて宥めて引き留めることしか出来なかった。隣国の人間の前には、決して姿を見せるわけにはいかなかった。松虎が戦場へ行って場を収めてしまえば、今回は良くても隣国はまた同じように戦を仕掛けてくる。それだけは避けなければならなかった。

「気をつけろ、飴狼。あまり歩くな」

 飴狼の黄金の瞳に小さな黒点のような影が差したのはほんの数日前からだったと思う。それが戦の影響なのかどうかは分からないが、視界が狭いせいで色々な所にぶつかってしまう。

 二体ともフラフラしながらも碧龍の傍に集まって眠り、碧龍もまた二体を愛おしむように体を寄せていた。

 菫烏は日を追う毎にどんどんと太っていった。食事の量は変えていないのに不自然な速さで膨れていき、気性も荒く落ち着きなくなっていった。唯一、牡丹が傍にいる間だけは大人しくしていられるので、牡丹はこのところずっと菫烏に体を凭れて動けないでいる。

 歴代の神獣保護掛の人間が残した記録などを片っ端から見てさまざまな薬湯などを試作してみてはいるが、あまり効果があるとは言えない。外に出たがる彼らにせめて空気だけでも吸わせてやりたいとも思うがそれも出来ず、何度も「お前達のためだ」と言いかけて口を噤んだ。

 橘はどうしているだろうか。どうか出来るだけ後方で、安全な場所に居て欲しいと願ってしまうが、きっとあいつはそうしない。神獣達を護るために、果敢に突き進んでしまうのだろう。

 橘や、戦に駆り出された兵達は皆、神獣を護る為に戦ってくれている。それなのに俺は、こんなにも神獣達の傍に居て、何も出来やしない。

 例えばもし、枳殻が生きていてくれたら、此処にいてくれたら何か違うのだろうか。松虎も飴狼も菫烏もこんなに苦しむことなどないのだろうか。

 薬草を煮込みながら思うのはそんな馬鹿な事ばかりで、だけどどうにか助けてほしくて、何か手がかりはないだろうかと枳殻との記憶を思い返した。

 物心着く頃には、もう自分が拾い子だということも、俗に忌み子と呼ばれる存在だということも知っていたように思う。それを枳殻が教えたのか自然と承知していったのかは覚えていないが、碧龍の背を滑って遊んだり松虎と昼寝したりして楽しく過ごしていた記憶の幾つかは、数枚の絵のようにして今もすぐ手繰れる場所にある。

 俺が十歳になるかどうかといった頃、枳殻は飴狼を連れてきた。当時は今よりも随分と痩せ細り、刺々しい雰囲気もあったが、その黄金に輝く瞳の神聖さに暫く囚われていたことを覚えている。千年、数百年この国で生きている碧龍や松虎とは違い、飴狼は短気で怒りっぽく、それが俺には新鮮でよくちょっかいをかけたものだ。追いかけっこも、取っ組み合いの喧嘩もした。恐らくはかなり手加減をしてくれていたが、とにかくいつも楽しくて、友達と呼んでいいのかは分からないが、山奥に籠りきりの俺にとってよい遊び相手だったことは間違いない。

 まだ車も持たない時分から、掛長はよく枳殻を訪ねていた。今になって思えば、日用品や食料を届けてくれていたり仕事の話をしていたりしていたのだろうが、幼い俺は枳殻が俺の知らない顔や声をして掛長と笑い合うのが凄く嫌いで、その頃から掛長に対して悪態をついていた。

 十四歳で官吏になるための試験を受けた。ずっと枳殻の手伝いをしていたから、試験は全く難しくなかったが、試験会場でのあまりの人の多さに気持ち悪くなって休憩時間に何度か吐いた。その時に「大丈夫か」と声を掛けてくれたのが橘だ。それまで枳殻と掛長以外の人間と話したことがなかったし、そもそも気持ちが悪いしで殆ど返事をすることが出来なかった。思い返しても最悪な出会いだ。

 ……ああ、思い出した。帰ってから枳殻にその話をした時に言われた言葉があった。今の今まで、どうしてすっかり忘れていたのだろう。

「結局、人間も神獣も、どんな薬湯よりも人の真心の方が辛い時には力になるものなんだよ」

 当時は多分、あまりピンときていなかったのだと思う。だから忘れてしまっていたのだろう。しかし今は、その言葉だけが俺の無力感を拭い去ってくれる。

 大丈夫。松虎達への真心なら、俺が、この国に生きる誰よりも深いものを持っているから。

 諦めない。戦が終わって、また退屈で平和な日々を送れるように、俺は俺に出来ることをしよう。

 決意を新たにすれば、遠くに希望が見えた気がした。
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