東雲に風が消える

園下三雲

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日暮れに鳴く烏

6.

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 帰路につく前に牡丹の翼は消えてしまい、白く染まった羽衣と長い髪だけが先ほどの神秘は夢でなかったのだと知らせていた。

 松虎は菫烏を見ると一度「ガウ」と躾けたが、菫烏が反省した様子を見せると自身が体当たりした所を気遣うように舐めた。どうもそれがきっかけとなったようで菫烏はすっかり松虎に懐き、信頼しきったような表情でその傍を離れなかった。

 馴染みの山に着くと松虎は牡丹を連れて先に駆け戻ってしまい、菫烏も俺を咥えてそれを追いかけたが、建物を目にすると歩を進めるのを躊躇った。緊張したような表情を浮かべて、俺に縋るような視線を向ける。

「大丈夫だ。怖くない。おいで」

 目を合わせたまま離さずに促せば、菫烏はおずおずと一歩踏み出した。後ろ手で静かに扉を開いてみせる。不安げに、しかしどこか期待するような目で俺を見つめるのが子どものようで可愛らしい。

「ただいまー」

 菫烏が足を踏み入れるのに合わせて言った。ずっと目を離さないで居てやれば、そのうち自分から前を向くようになる。視線が外れても暫くは菫烏だけを見ていながら、その体が全て建物の中へ入ったところでゆっくりと扉を閉めた。

「おかえり」

「……え?」

 背後から聞こえた声に一瞬固まった。橘のものではないそれにゾワゾワと鳥肌が立ち、恐る恐る振り返る。

「な、掛長、どうして此処に」

 そこに見えるのが直属の上司である神獣保護掛の掛長だと認識するのにさして時間はいらなかったが、部屋の隅で橘と二人、優雅に茶を啜る姿は余りにも現実味がなく、混乱で言葉が出てこない。

「君、烏の保護に二体も連れていったでしょう、橘君を残して。彼は特別優秀な官吏ですから心配はありませんが、しかし何かあった時に困りますからね」

 至極落ち着いた口調に腹が立つ。

「うちの碧龍と飴狼が危険だと仰りたいのですか」

 憮然とする俺のことが果たして本当に見えているのか、掛長はのんびりと湯呑みを置く。

「まずはそこの烏の居場所を作ってやりなさい。話はその後です」

 言われて菫烏を見遣れば、きまずそうに身を小さくしているので、慌てて彼を抱きしめた。

「放っておいてごめんな。少し待ってくれ」

 首を数度撫でてやってから、菫烏の為の空間を何処に作ろうかと部屋を見回した。左半分は松虎と飴狼で既に埋まってしまっている。

 パシン! パシン!

 と音が響いてそちらを見れば、碧龍が長い尻尾で何もない床を掃き、叩いていた。

「ん? 碧龍、そこ貸してくれるのか?」

 そうだ、と答えるように碧龍は尻尾を丸める。

「ありがとう、助かるよ。……ああ、そうだ。紹介がまだだったな。菫烏っていうんだ。これからよろしく」

 碧龍は大して挨拶をするでもなく、ただ、まるでその姿を菫烏に見せるように、いつもよりもクテンと寛いでいた。

「菫烏。あっちが碧龍で、こっちが飴狼だ。下手にちょっかいかけたりしなければ優しい奴らだから、安心していて大丈夫だからな」

 紹介は簡単に終わらせて、帰り道にずっと菫烏の肩に乗せていた掛け布団を取った。ゆるく丸めて鼻先に近づけてみせる。

「ほら、嗅いでごらん。お前の匂いの布団だ。一応、枕も置いておくな。少し狭いが後でちゃんと調えてやるから、今だけこれで我慢してくれるか?」

 壁に寄せて布団を敷いて、その上に、頭を置くにも抱いて寝るにも良いように枕を置く。のそのそと近づいてくる菫烏を少し大袈裟に褒めると、やがてチョコンと壁に凭れるように座った。

「お前は本当に偉い子だなあ。此処がお前の場所だからな。誰もお前を襲ったりしない。此処にいれば何の危険もないんだ。安心して眠って大丈夫だからな」

 そう言い聞かせてやっと菫烏は漸く布団に身を委ね目を閉じる。疲れていたのだろう、すぐに寝息を立て始めたのを確認してから、次に

「牡丹」

と松虎に寄り添う彼女に声をかけた。
 名を呼ばれてピクリと眉を上げ、それから牡丹は小走りで駆け寄ってくる。

「牡丹、俺は今からあの人達と話をするから、菫烏達のことを頼めるか?」

 少し乱れた髪を直してやりながら尋ねると、牡丹は嬉しそうに表情を明るくして大きく頷いた。

「ありがとう。今日は疲れただろうに、すぐに休ませてやれなくてごめんな」

 肩に手を置いて謝る俺の顔を持ち上げるように、牡丹はこちらに手を伸ばした。丸い大きな目は、真っ直ぐに俺を映している。

(……えっ?)

 ああ、帰ってきて掛長がいたことなんて、今思えば大して驚くようなことではなかったのだ。少し待てば言葉なんて溢れてきたのに、今はどうして、牡丹の甘い香りばかりが脳を溶かす。

 唇が触れた。小さな手で俺の頬を包んで、背伸びして、まるで労るように触れた唇は柔らかく、薬か毒か、そこから何かが全身へ伝わっていった気がした。

 顔が離れる。手が離れる。体が離れて、素直にはにかむ姿がよく見える。

 此処は任せて。そう言うように牡丹は胸を張って頷くから、

「あ、あぁ。うん」

と、ぎこちなく合わせて笑顔を浮かべることしか出来なかった。

「なんだあ? いつの間にそんな仲になったんだよ」

 惚けたままの俺を現実に引き戻すのは橘の品の無いからかいで、

「違っ――!」

と声を上げてやっと、ぼやけていた物の輪郭が鮮明に映るようになった。

「いや、今はそんな話じゃねえ。碧龍と飴狼が危険だとか言うつもりなら、俺は貴方をそこの崖から突き落としますよ、掛長」

 忘れかけていた怒りを引き戻して睨む。しかし掛長は一向に動じない。

「相変わらず短絡的な思考ですね、桔梗君。私は一言も彼らが危険だなど言ってはおりませんよ」

「しかし何かがあっては、と」

「何かとは別にこの中での話に限ったことではありません。新たな神獣がいつどこに現れるとも知れませんし、最近は隣国がきな臭い動きも見せていますしね」

 ため息の一つも寄越さず、反抗的な俺に怒りも呆れも見せないから、感情的なのは自分ばかりだと余計に苛々する。

「座りなさい、桔梗君」

 掛長は凪いだ目で俺を見、そして自分の向かいの席を示した。

「……嫌です」

 だからこの人が嫌いだ。何もかもがこの人の手の上のようで、まるで自分が親指くらいにちっぽけな存在であるような感覚――。対峙するだけで身体中蜘蛛の糸に絡み取られたように息苦しく、しかしそれが甘美で、人としての誇りと尊厳を全て投げ打ってしまいたくなるのを、どうにか怒りを沸き立たせて堪えるしかない。

「そこへ座りなさい」

 この人はきっと、人間じゃない。でなければどうして、その指示に勝手に従ってしまう。

 椅子に腰かければ橘は黙って俺に茶を淹れた。湯気に溶けて立つ香りに、体の強ばりが解けていく。

「君が留守にしている間、碧龍と飴狼の状態を診ました。肉付きよく、鱗や毛並みの艶も良好、指の間まで丁寧に手入れされていますね。檻がなくとも彼らはよく君の言うことを聞いているようです。此処は彼らが安心して暮らせる環境なのでしょう。素晴らしいですよ」

 嫌味でなく、本心から俺を褒めていると分かるから尚更悔しい。敵わない、と、認めたくないのに。

「君が橘君を置いて松虎と出ていくまでの経緯も聞きました。松虎、牡丹、そして、菫烏といいましたか、彼らを連れてよく帰ってきましたね。簡単なもので構わないので報告を」

「……。吽膝山で菫烏を見た時に、彼は日暮れを見ているのだと感じました。だから松虎の背に乗って西を目指しました。岩壁の先で菫烏と牡丹を見つけたので、松虎が空を駆けて菫烏に体当たりして、俺は運良く菫烏の背に乗りました。牡丹は落ちていく最中に昼の光を吸い込んで、光の色に染まりました。俺は菫烏を説得して、それで四人で帰ってきました。以上」

 素直になれない。ぶっきらぼうにしか言えない自分が子供っぽくて嫌になる。

「まあ、良いでしょう。後で橘君に手伝ってもらってきちんと報告書を提出するように」

「手伝わなきゃならないんですか!?」

 橘は至極嫌そうな顔をした。俺だって嫌だ。橘にチクチクと小言を言われながら仕事をするなんて。

「頼みます、橘君。君と彼の仲でしょう。良い機会ですから、正しい報告書の書き方を教えてあげてください」

 渋々と承諾する橘を愉しそうに見て笑い、それから掛長は息を一つ吐くと、その流れで俺を、ふ、と見据えた。

「さて、桔梗君。覚悟は出来ましたか?」

「何の、覚悟ですか」

「護る覚悟ですよ。神獣達を護る、それが我々神獣保護掛の責務でしょう」

 穏やかで、しかし極めて厳しい空気に背筋が伸びる。

「見なさい。貴方に信頼を寄せる者達の姿を、その両目に確りと映して考えなさい。貴方は護れますか? 彼らを。美しい神獣達を」

 目を向ければ、いつものようにごろごろと、間抜けに眠る彼らの姿がある。

「……守りたい。本当はずっと守りたかった」

 失いたくない。誰のことも、この平凡で退屈な日常も。

「護れますか?」

 掛けられた柔和な声が、迷いを振り切る最後の一押しになる。

「守ります。碧龍も松虎も飴狼も菫烏も、牡丹も。俺が、守ります」

 憂いが無いわけじゃない。自信だって殆ど無い。だけど、もう言い訳をしたくなかった。彼らを護るのは、他の誰でもなく自分でありたかった。

 掛長はうんと深く頷くと、「良い目ですね」と俺を認めた。

「さて、牡丹の話をしましょうか。君に揺るがない覚悟が出来たら、話そうと思っていました」

 掛長が座り直すので、思わずゴクリと唾を飲む。牡丹はといえば、眠る菫烏の傍らに座ってその毛並みを梳かしていた。

「長くなるから、姿勢を楽にしなさい。橘君、お茶のおかわりをお願いできますか? 一口飲んだら、これまでこの国で牡丹がどう生きてきたのか、私の知る限りをお話ししましょう」

 立ち上る湯気に思い出を映すように、掛長は遠い目をした。
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