10 / 10
エピローグ
しおりを挟む魔法使いの通う学園は今や大陸のあちこちに点在し、その中でも特別広大な敷地と大勢の生徒や教員が在籍しているのが、王都にほど近い魔法学園である。
大陸に初めて建設された三百年を超える歴史ある建物は趣深く、古くから所属する経験豊富な教職員たちによってより高度な学びを得ることが出来ると噂されるため、魔法使いたちが一度は憧れる学園だ。
実技訓練も行うために学園には広大な敷地が用意されているが、その片隅には高い生け垣で四方を囲うように区切られたスペースがあった。
真っ白な丸テーブルと椅子の用意されたその一角で、一人の男が優雅にティーカップに口をつける。
紅茶を味わうように閉じていた瞳が開くと、特徴的な深い赤が顔を出す。
と、男の向かいの空間がいびつに歪み、もう一人同じ年頃の若い青年が姿を現した。
長い黒髪を後ろでまとめた青年は、紅茶を飲む男を橙の瞳で認めると「またここにいたんだね、ユシウス義兄さん」と、勝手に向かい側に腰掛ける。
「フィン、お前はまた勝手に会議を抜け出してきたな」
「そういう義兄さんだって参加してないじゃないか」
「いつまでも古い人間が居座るのは若い芽を摘むことになる。俺はほとんど引退した身だ」
まだ三十にも届かないような見かけで、ユシウスは赤い瞳を伏せてため息をついた。
「それをいうなら僕だって古い人間でしょ。なんせ第一期生だからね」
ふんと鼻を鳴らすフィンの姿に呆れたユシウスだったが、今日がなんの日であるかを思い出して口うるさく言うことを控えた。
「あ、今日はオレンジのパウンドケーキだ! 一個もらうね」
「おい、勝手に食べるな」
「どうせ僕が来るって分かってたから一本丸々残してたんでしょう?」
「……はあ、俺にも切り分けろよ」
「はいはい。任せておいて」
どこから出したのか皿を並べたフィンは、ご機嫌な様子で輪切りのオレンジを使ったパウンドケーキを切り分けていく。
その間にユシウスが用意したカップに紅茶を淹れていると、慌ただしく一人の青年が駆け込んで来た。
生徒用のローブを羽織った青年は、二人の姿に「見つけた!」と息も荒く突撃した。
「ユシウス理事長、それにフィン教授も! 助けてください、研究室でマシナ教授が暴れてるんです!」
「あいつは一体いくつになれば落ち着きを覚えるんだ?」
「あはは、会ったときからずっとそうだったし……今さら無理じゃない?」
頭を抱えるユシウスと笑い飛ばすフィンに、生徒は「このまま研究棟が消し飛びます!」と青い顔で言う。
「それならオレンジを一つ持って行くといいよ」
「オレンジですか?」
「そう。ちょうど今が旬だから学園内にたくさんあるだろ?」
「たしかにありますけど……」
そんなことであの癇癪が治まるのか? とばかりな訝る生徒の瞳に、フィンはおかしそうに笑った。
マシナは学園の建設当初からいる問題児で、今は教師として在籍している。一度カッとなった彼を止めることができるのはただ一人を除いていないので、フィンたちは基本被害を被らないように避難するのが常だった。
しかし、今の季節は冬だ。ちょうどオレンジの盛りのとき――また、一年に一度の今日であれば話は変わってくる。
さすがに問題児のマシナといえど、慕っていた女性の命日とあらば大人しくなるだろう。
切り分けたパウンドケーキの一つをユシウスに差し出す。
オレンジの橙を目にしたユシウスの目が柔らかくほころぶのを見て、フィンは同じように懐かしい気持ちに襲われた。
「そういえば、なんで学園の中ってこんなにオレンジの木がたくさんあるんですか? 古株の先生たちもみんなオレンジ好きですよね」
もしかしてオレンジを食べると魔力が上がるとか……!?
新たな発見とばかりに目を輝かせた生徒に、フィンは微苦笑して首を振った。
「そんな効果はないよ。ただ……」
「ただ?」
「僕たちみたいな昔からここにいる魔法使いにとって、オレンジは愛を思い出させてくれるものなんだよ」
「愛、ですか?」
途端にうさんくさいものを見るように歪んだ生徒の目に、フィンはニコリと笑み、ユシウスはどこか自慢げに静かに口角を上げた。
「そう、愛だよ。言っておくけど、愛って一番強い魔法だからね」
――私が使えるたった一つの魔法よ。
言ったフィンの脳裏に、遠い昔の姉の声が重なった。それはきっと目の前のユシウスも同じだろう。
懐かしむような温かい眼差しの中に、淋しさを含んだその表情は、きっと今のフィンと同じものだ。
「ほら、早く行かないとそろそろマシナが研究室の一つや二つ壊しちゃうんじゃない?」
「あ! そうでした! 本当にオレンジを持って行きますからね!?」
「大丈夫。オレンジを見ればたちまち子犬みたいにクンクン泣き出すよ」
それはそれで面倒なことになるのだが、最後の台詞は生徒には届かなかったみたいだ。
静かになったので、フィンもようやくパウンドケーキを口に運ぶ。しっとりした生地とオレンジのシロップ煮の甘さがよく合う。
「ふふ、姉さんを思い出すような甘さですね」
「……そうだな」
頷いて紅茶を飲むユシウスを、フィンは気づかれぬように観察した。
ほんの二百年前、妻を失ったばかりのユシウスの憔悴具合はそれはもうひどいものだったが、今は落ち着いて見える。
けれど、どうしたってリンのことを思わずにはいられないのだろう。
意図的に作られたこの狭い生け垣のスペースが、はるか昔に住んでいた小屋と同じ広さだと知るフィンは、ここに入り浸るユシウスの心情を思い、遠いところに行ってしまった姉を思う。
(姉さん。姉さんの愛情が今の僕たちを生かしてくれているけど、それでもやっぱり淋しいよ)
怯えられることも恐れられることもなくなった世界は、とても住みやすいけれど、心にはぽっかり穴が空いたようだ。
不意に虚しさを覚えたフィンやユシウスたちの元に、どこからかオレンジの甘酸っぱい匂いが風に乗って運ばれてきた。反射的に思い出される一人の女性の姿に、心の穴がじんわりとした温かさで埋められていく。
ふと顔を上げれば、計ったようにユシウスもフィンを見ていて、二人はつい笑ってしまった。
こうして今日も、愛情をつめこまれた魔法使いたちは、淋しくも穏やかな日常を過ごしていくのだった。
67
お気に入りに追加
63
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説

果たされなかった約束
家紋武範
恋愛
子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。
しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。
このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。
怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。
※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。


この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。
石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。
そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。
新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。
初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、別サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

貧乏男爵家の末っ子が眠り姫になるまでとその後
空月
恋愛
貧乏男爵家の末っ子・アルティアの婚約者は、何故か公爵家嫡男で非の打ち所のない男・キースである。
魔術学院の二年生に進学して少し経った頃、「君と俺とでは釣り合わないと思わないか」と言われる。
そのときは曖昧な笑みで流したアルティアだったが、その数日後、倒れて眠ったままの状態になってしまう。
すると、キースの態度が豹変して……?
片想いの相手と二人、深夜、狭い部屋。何も起きないはずはなく
おりの まるる
恋愛
ユディットは片想いしている室長が、再婚すると言う噂を聞いて、情緒不安定な日々を過ごしていた。
そんなある日、怖い噂話が尽きない古い教会を改装して使っている書庫で、仕事を終えるとすっかり夜になっていた。
夕方からの大雨で研究棟へ帰れなくなり、途方に暮れていた。
そんな彼女を室長が迎えに来てくれたのだが、トラブルに見舞われ、二人っきりで夜を過ごすことになる。
全4話です。

【完結】悪役令嬢の反撃の日々
くも
恋愛
「ロゼリア、お茶会の準備はできていますか?」侍女のクラリスが部屋に入ってくる。
「ええ、ありがとう。今日も大勢の方々がいらっしゃるわね。」ロゼリアは微笑みながら答える。その微笑みは氷のように冷たく見えたが、心の中では別の計画を巡らせていた。
お茶会の席で、ロゼリアはいつものように優雅に振る舞い、貴族たちの陰口に耳を傾けた。その時、一人の男性が現れた。彼は王国の第一王子であり、ロゼリアの婚約者でもあるレオンハルトだった。
「ロゼリア、君の美しさは今日も輝いているね。」レオンハルトは優雅に頭を下げる。

モブ転生とはこんなもの
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
あたしはナナ。貧乏伯爵令嬢で転生者です。
乙女ゲームのプロローグで死んじゃうモブに転生したけど、奇跡的に助かったおかげで現在元気で幸せです。
今ゲームのラスト近くの婚約破棄の現場にいるんだけど、なんだか様子がおかしいの。
いったいどうしたらいいのかしら……。
現在筆者の時間的かつ体力的に感想などを受け付けない設定にしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
他サイトでも公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
とても素敵であったかくなるお話でした。
ありがとうございます!
そう言っていただけてとっても嬉しいです!
私の方こそ素敵なお言葉をありがとうございました!