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しおりを挟む(ん……ここは……!)
ふと浮上した意識に、リンは勢いよくベッドから起き上がった。
震える瞳で見慣れた寝室を認めてようやく、リンは強ばった体をほぐした。
窓の外はとっぷりと日が暮れていて、あれから随分時間が経ったようだ。
(そうだ……私ったら家に着いてすぐ安心して……)
どこか熱を持った目許に触れて思い返す。泣きわめいて眠ってしまうなんて、フィンでもしないのに。
今度は恥ずかしさで頬に熱がのぼった。
(フィンたちが魔法で運んでくれたのかな)
見ると、傷も手当されているし服も着替えてある。
ぐるりと寝室を見たが、フィンの布団は空だった。リビングのほうにいるのだろうと立ち上がったとき、ほんの少し開いたドアの隙間から二人の声が聞こえた。
「どうして止めたんだ?」
フィリの声は、心底理解できないとばかりに苛立ちを現していて、思わずリンの足が止まる。
「だってフィリは殺そうと思ってたでしょ? 荷物も無事に取ってこれたし、あの二人はもう森に入ってこられない……それ以上はやりすぎだと思う」
フィリと向かい合うフィンは、普段よりも大人びた横顔をしていた。
いつもふわふわとした柔らかい笑みを浮かべているのに、今は聡明さを感じさせる落ち着いた目をしている。
「リンをあんな目に合わせたんだ。それぐらい当然だ」
「でも、魔法で傷つければお姉ちゃんが悲しむよ」
あくまでも冷静に言うフィンに、フィリは苛立ったように吠えた。
「お前はどうして平然としてる! 姉をあんな目に合わされて憎くはないのか!?」
「怒ってるに決まってるだろ……!」
リンと揃いの橙の瞳が、カッと怒りで燃える。感情を爆発させた子どもの目には、涙の気配が混じった。
「お姉ちゃんが泣いてるところなんて初めてみたもん……憎いに決まってる……!」
「フィン……」
激情を堪えたフィンを前に、やっとフィリがその心情を推し量ったのか小さく名を呼んだ。長い首を伸ばし、きつく握られた幼い拳を撫でる。
「……さっきの男たちもそうだが、故郷の村の人間たちも、お前は憎いだろう? 復讐してやろうとは思わないのか? お前にはその力があるのに……」
どうしてお前たち姉弟はそうなんだ?
普段はフィリが教え導く立場なのに、今のフィリは寄る辺ない子どものような声で呟いた。
「復讐しないのは、フィリが思ってるようないい子な理由じゃないよ。村の人も嫌いだし、本当はお姉ちゃん以外の人間がみんな嫌いだよ。もやもやした心のままに相手を傷つけてやりたくなる」
「それは当たり前なことだ。自分を守るためなんだから、持てる力を使ってなにが悪い」
いじけたようだったフィンは、フィリの同調した言葉に少し嬉しそうにはにかんで、けれどふと目を伏せた。
「でもさ、それをしたらお姉ちゃんは悲しむ。相手を思ってっていうよりも、僕が誰かを傷つけることに、お姉ちゃんは悲しむ」
僕は、お姉ちゃんの愛してくれた僕のままでいたいんだ。
聞こえた言葉は子どもとは思えないほどに優しい温度で響き渡り、リンは我知らず涙していた。
「そりゃお姉ちゃんは分かってくれると思う。変わらず愛してもくれる……けど、自分の心のままに誰かを傷つけたら、その愛情に真っ直ぐでいられないと思う。僕はお姉ちゃんの愛情を受け止められる自分でいたい」
だから人間の言う「化け物」には絶対にならないのだと、フィンは意志の強さを現した声音で笑う。
「ふふ、こうやって言うと、全部僕のためだね」
全然いい子じゃないねえ、とふわりと笑ったフィンを最後に、リンはくるりと反転してベッドに戻った。
布団を被り、どうにか嗚咽が漏れないように口を強く手のひらで押さえて泣く。
(お母さん、私たちは間違ってなかったよ……フィンはやっぱり優しい子だよ……!)
記憶の中の母に、リンは内心で歓喜を叫んだ。
魔法使いなんて捨ててしまえと。殺してしまえと村人から詰め寄られても、自分の子だと、家族だと突っぱね、リンにも優しく諭した強く美しかった母。
リンも同じ思いだったから、それを不服に思ったことはない。けれど、怖いと思ったことはある。
村を逃げるように飛び出たあの日、傷ついた村人の悲鳴を背に、リンは心底怖いと思っていた。
もしこれから先、大きくなって力の強くなったフィンが、その力を持って人を傷つけ、殺してしまったなら……村人のいうように本当に化け物になってしまったら?
母のいない今、私はどうしたらいいんだろう。
迷って悩んで。それでもやっぱり愛おしくて。だから目一杯愛してきた。
フィリはフィンを幸せ者だと言ったけれど、本人がどう思ってるかなんて直接訊けやしない。
(これが怪我の功名ってやつかな?)
思いがけず聞こえてしまったフィンの本音に、リンは布団にくるまって泣きながら笑った。
そしてひとしきり笑ったところで、遠い昔に囁かれた母の声が蘇った。
――大丈夫よ、リン。愛はね、すっごく強い魔法なのよ。
「本当だね、お母さん……本当に魔法みたいだ」
呟いたリンは、走り続けた疲労と泣いて重くなった瞼のせいでそのまま眠りについた。
リンが一度起きたことを知らない二人は、今もダイニングで向かい合っている。
フィンの言葉を受け、フィリはしみじみと羨望を宿した声でため息をついた。
「リンの愛情に報いるためか……」
「うん。前から思ってはいたけど、やっぱりお姉ちゃんが僕を愛してくれるのは特別なんだなって、フィリを見てて思ったからさ」
「……俺を?」
「うん。だってフィリも魔法使いでしょう?」
なんでかドラゴンの姿をしてるけど、とフィンがつけ加えたところで、フィリはふと目を眇めた。
鋭くなった瞳に、フィンは「お姉ちゃんには言わないよ!」と慌てる。
「知ってたのか」
「だって同じような気配がするもん。なんでずっとドラゴンの姿なの? 戻れなくなっちゃった?」
純粋な眼差しで訊ねるフィンを前に、フィリはそっと顔をそむけた。
「人の形をしていると、面倒なことが多いからな」
「ふーん……お姉ちゃんなら、そんなこと気にしないと思うけどなあ」
――リンならそうだろうな。
反射的にそう思ったフィリだが、口にはせず、ただじっとリンがいる寝室への扉を見つめていた。
その日の晩。
再び部屋の中に男の影が伸びた。
寝入る姉弟を横目に見て、そっとリンの髪を手櫛で梳いて整えた。
他人に触れることなどほとんどなかった男にとって、リンの柔らかな茶髪の感触だけでトクトクと心の臓が静かに高鳴った。
「リン、お前は弟だからフィンを愛するのか?」
それとも、だれにでもそうなのか?
囁きながら思い出すのは、まっすぐ愛情に応えたいと語った幼い子どもの顔だ。
「……俺のことも、そんなふうに愛してくれるか?」
誰かから愛される――そんなことは決して叶わないと知る冷静な赤い瞳の中に、きらりと小さな希望の光が瞬いた。子どもが必死に強請るような切実な男の声は、そのうち夜の静けさに溶け込んで消えてしまった。
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